016_別れ(美しい過去)平民と貴族、記憶喪失→記憶回復、1083字
ガタゴトと規則正しく揺れる一等客車の窓辺で、俺は借り物の主役のような心地で座っていた。
かつて薬草売りの少女・リサと共に、汗にまみれて土を耕していた男──「フレッド」の面影は、今の俺にはない。記憶を取り戻した俺は、隣国の伯爵としての義務を背負い、きらびやかで息の詰まる王都の生活へと引き戻されていた。
「アルフレッド様、次の街の夜会ですが……」
隣に座る、親が決めた婚約者の令嬢が美しい微笑みを向けてくる。俺は「あぁ、楽しみだね」と、仕込まれた通りの完璧な貴族の笑みを返した。
胸の奥が、冷たく凪いでいた。
リサに「必ず迎えにいく」と約束したあの言葉は、嘘じゃなかった。
けれど、王都へ戻った俺を待っていたのは、平民との婚姻など許されない、がんじがらめの現実だった。俺が我が儘を通せば、リサの身にどんな危険が及ぶか分からない。
俺はリサを守るためという言い訳を盾に、戦うことから逃げたのだ。
魔導列車が駅に滑り込み、そしてゆっくりと動き出したその時だった。
雑踏の中に、見間違うはずのない、焦茶色の髪と見慣れた薬箱が見えた。
「──っ」
心臓が跳ね上がり、声が出そうになった。
リサだ。彼女は群衆の中で、まっすぐに俺を見つめていた。
その瞬間、俺の胸を支配したのは歓喜ではなく、猛烈な罪悪感と情けなさだった。隣にいる婚約者、そして俺の指で鈍く光る魔石の指輪。今の俺のすべてが、彼女への裏切りそのものだった。
リサにこれ以上、残酷な期待を抱かせてはいけない。
俺は彼女から視線を逸らし、隣の令嬢へとわざとらしく微笑みかけた。
視界の端で、リサの姿が遠ざかっていく。
追いかけたい。すべてを捨てて飛び降りたい。そんな衝動を、血がにじむほど手を強く握りしめることで圧し殺した。
遠ざかる宿場町の景色を眺めながら、俺は心の中で、二度と届かない謝罪を繰り返していた。
もし、あのまま俺が記憶を失った平民のフレッドとして生きていられたなら、どれほど幸せだっただろう。けれど、もう俺は戻れない。
きっとそこにあるものは、ただ美しい過去だけ
あの小さな村で、貧しくとも笑い合っていた日々。あれは、俺の人生に許された、最初で最後の奇跡のような幻だったのだ。あのみすぼらしくも愛おしかった時間を、自分の身勝手な未練で汚してはいけない。
「さようなら、リサ」
車窓に映る俺の顔は、すっかり冷徹な貴族のそれになっていた。
俺はそっと目を閉じ、胸の奥の最も深い場所に、世界で一番愛した少女の記憶を封印した。




