第九話 最後の最後に残ったもの
もうあれから十五年も経つのか……。
俺が最後に言葉を交わしたのは娘が七歳になる誕生日の朝だった。
いつものように仕事に出掛けようと玄関に立つと、「いってらっしゃい」と娘がハイタッチを催促してくる。
ハイタッチで応え「今日は早く帰るからな」、と出て行く俺を娘は笑顔で送り出してくれた。
いつもと変わらない、朝だった。
いつもより早く、仕事を定時で終えた俺は予約していた誕生日ケーキ片手に玄関を開ける。
静かだった。
玄関に灯りは点いていたがリビングは暗い。
灯りを点け、ダイニングテーブルの上に視線を向けたところで理解した。
「なんで今日なんだよ……」
テーブルの上には署名された離婚届。
前々から妻とは離婚に向けた話し合いを続けていたんだが、お互いに折り合いがつかずその日を迎えていた。
そのせいだろう。
しびれを切らした妻は、娘を連れて家を出ていってしまった。
以来、娘には一度も会っていない。
合わせて貰えなかった。
今年に入ってから体調が思わしくなく、精密検査を受けた結果が末期の膵臓癌であった。
手術をしたところで回復は見込めず、むしろ残された時間で何が出来るだろうかと考えた。
一択だった。
別れたあと一度も会っていない娘に、どうしても会いたかった。
会って、パパが悪かったゴメン、とだけ言いたかった。
そうじゃない。
何年も考えていたんだ。
娘は辛い思いをしていないだろうか?
それは妻に出て行くことしか選択肢を与えなかった俺の責任であり、きっと俺を憎んでいるに違いないと。
だから、許して貰えないことは分かってる。
だけど、ただの一度も娘の事を忘れたことはなかった。
たとえ許して貰えなくても、ただただ謝りたかったんだ。
会って、謝りたかった。
もう、病室からは出られないだろう。
口からは何も食べられないし、命を繋いでいるのはこの点滴だけだ。
強い麻薬の痛み止めのせいだろうか、よく幻覚を見るようになった。
あの日、誕生日を迎えた娘に渡す予定だったウサギのヌイグルミを俺は捨てられず、この病室に持ち込んでいた。
これも幻覚なのか?
頭元のキャビネットに置かれたヌイグルミを、両手で抱き上げる女性。
「昔大好きだったウサギ……忘れてなかったんだね、パパ」
最後の最後まで残されていた娘への想いが見せた幻覚ならば、お願いだからまだ消えないでくれ。
たくさん、たくさん娘と話がしたいんだ。
終わり




