第9章 二人の健吾
健吾の後ろの男は、曽根と名乗った。
名前を告げる必要がない場所で名乗る人間は、自分の立場を相手に覚えさせたいのだと、遥は思った。曽根は出口の近くに立ち、腕を組んだ。
「水城さん。手早く」
健吾は振り返らなかった。
「妻と話をさせてください」
「黒須さんからは」
「ここは図書館です。騒ぎにはしたくないでしょう」
曽根はしばらく健吾を見ていた。やがて書庫の外に出た。足音が遠ざかっても、遥はカードを握った手を緩めなかった。
「どうして、ここが分かったの」
「家族支援のアプリに、位置情報の共有があった。会社から、ここだと知らされた」
「知ってたの」
「今夜、教えられた。それでも、君に知らせず来た」
健吾はそう言った。言い訳は続かなかった。
曽根が扉の外へ出ると、菜摘はすぐ、書庫の内線電話を取った。館長へ、会社の人が来たことを知らせた。声を抑えなかった。健吾は止めなかった。
「2人で来たの?」
遥が聞くと、夫は頷いた。
「図書館へ行って、何をするように言われた?」
「資料を見つける。君を帰す」
「どこへ」
健吾の視線が下がった。遥はそれだけで、帰すという言葉の行き先を知った。
夫は鞄から紙を出した。何度も折った跡があった。妻の行動について、確認すべき事項が書かれていた。接触した人物。持ち出した物品。自宅以外の保管場所。いちばん下に、強い刺激を避け、信頼関係を維持すること、とある。
「これを持って、私と話すの?」
健吾は紙を畳まなかった。
「持ってきた」
「何を聞くつもりだった?」
「誰に、何を渡したか」
菜摘が内線を置いた。遥は透明なケースを握り直した。カードの角が、皮膚に食い込んだ。
「私が答えなかったら?」
健吾は答えなかった。遥は夫の手元を見た。あの紙を捨ててくれれば、少しは安心するかもしれない。そう思った。けれど、紙を捨てても、聞こうとしたことは消えない。
「それ、置いて」
夫は机に置いた。
「私の前で、読んで。どこまで、するつもりだったか」
健吾は声に出した。接触した人物、持ち出した物品。3行目で止まった。唇が動いたが、声が出なかった。
「読めない?」
「読める」
「じゃあ、読んで」
夫は最後まで読んだ。書庫の空気が冷たかった。館長が来るまで、遥はケースを手放さなかった。
やがて健吾が、指示書の裏を向けた。白かった。
「ここに、今、君が言ったことを書いていい?」
遥は夫を見た。誰かへ提出するためなのか、自分が忘れないためなのか。その違いが知りたかった。
「何のために」
「あとで、自分が話を変えないように」
遥は頷いた。健吾は、自分が資料を取りに来たこと、遥が渡すことを拒んだことを書いた。自分の名前を添えた。昔の夫と同じ字だった。紙の表と裏で、同じ人間の字が違うことをしていた。
廊下から館長の声がした。事務室を使ってください、と菜摘に伝えている。曽根は、まだ出口に立っていた。館長がその隣で、来訪者の名簿を開いた。
健吾はタブレットを出した。
MIZUKI K 再構築資料。
画面に、自分たちの生活が並んでいた。夕食の会話。旅行の思い出。息子の癖。遥が好きな店。嫌いな匂い。読んだ本。
遥は、自分の家の内側が、誰かの資料になっているのを見た。
「病院で目が覚めたとき、名前も分からなかった」
健吾の声は、書庫の壁に吸われた。
「家族の写真を見せられた。事故で記憶が混乱している、訓練すれば戻ると言われた。毎朝これを読んだ。水城健吾になるために」
遥は画面の1行を見た。長崎の夜景。高所が苦手な妻。床に座った。
「函館の話をしたとき」
「最初は、君に合わせた。途中で、資料にあったと思い出した」
「コーヒーは」
「会社では、ブラックだったらしい。そう書いてあった」
「卵は?」
「なかった」
健吾は笑おうとして、できなかった。
「君が知らない話をするたび、怖かった。俺の中に何もないことが、分かってしまうから」
遥は空港での抱擁を思い出した。あの腕の中にいたのは、妻を迎えた夫ではなかった。妻を抱く手順を思い出そうとする人だったのかもしれない。
「私のことは、何て言われたの」
「以前から病気がある。入れ替わったと言い出したら、症状だから、専門家に任せるようにと」
「信じたの」
「信じたかった」
健吾は目を閉じた。
「君が正しいなら、俺は誰なのか、分からなくなる」
遥はカードを見た。小さな透明のケースの中に、夫よりも確かなものがあるとは思いたくなかった。それでも、開くしかなかった。
事務室で、菜摘がパソコンを用意した。
カードには、研究資料と、遥へ、と名づけられたフォルダがあった。
動画の中の健吾は、少し髪が長かった。車の運転席に座っていた。出張前夜の日付が表示されていた。
遥、と呼んだ。
遥はそれだけで、涙が出た。今の夫も同じ声で呼ぶ。けれど、画面の中の人は、自分の名前の向こうにある年月を知っていた。
動画の健吾は、栞のことを謝った。
救うためだと思った。けれど、本当は、壊れていく君を見ることに自分が耐えられなかったのかもしれない。
レテの研究は、別の用途へ進められていた。同意を得ない対象者への使用。都合の悪い証言を消すための取引。12人の記録。黒須の指示。共同研究者のレナと、外部へ資料を渡す計画。
失敗すれば、自分の記憶も処置されるだろうと、健吾は言った。
遥は画面の顔を見た。帰ってこられないかもしれないと知って、出発した人の顔だった。
どうして1人で決めたの、と言いたかった。8年前も、出張の前も。大切にされることと、置き去りにされることが、同じ形をしていた。
動画の健吾は続けた。
記憶を呼び戻す研究もしている。ムネモシュネ。まだ不完全で、誰にでも使えるものではない。資料は残す。でも、使うかどうかは君が決めてほしい。
遥は涙を拭いた。ようやく、自分に返されたものがあった。
最後に、健吾は少し笑った。
栞の歌を残そうとして、途中で声が出なくなった。撮り直すつもりだった。
動画の健吾は、車の外を見た。
帰ってから、君と一緒に歌いたい。
遥は動画を閉じる前に、夫へ聞いた。
「火事のことを、話してくれたでしょう。煙の匂いとか、レナが戻ったこととか」
健吾は頷いた。
「あれも、ここに?」
「事故の説明として、読んだ。煙は、病院で服に残っていた匂いを覚えてる。でも、どこで嗅いだのかは、分からなかった」
「私には、見たように話した」
夫は目を伏せた。
「話していると、見た気がした。君がプールの写真のことを言ったときも、そこへ繋がった。あとで日付が違うと分かって、怖くなった」
遥は机の端をつかんだ。夫が言葉に詰まったとき、自分は待った。泣いてくれれば本当だと思いたかった。2人で、夫が見たという夜を作っていたのかもしれない。
「助けられなかったって泣いたのも?」
健吾は首を振りかけ、止めた。
「悲しかった。でも、何が悲しいのか、今も分からない」
遥は涙を信じたかった自分まで、責めそうになった。机の上に写真があった。レナが研究室の前で笑っていた。資料のための写真だったが、その人が生きていたことまで、嘘にはならなかった。
菜摘が、水を足した。誰も飲まないまま、表面が揺れて、静まった。
黒くなった画面に、2人の健吾が重なって見えた。今ここにいる夫と、もう触れられない夫。
「この人を、知らない」
隣で健吾が言った。
「知らないのに、羨ましい」
遥は顔を向けた。
「こんなふうに、誰かを知ってる人が」
健吾の頬に涙が流れていた。
「あなたは、私を入院させた」
遥は言った。
「うん」
「怖かった」
「うん」
「記憶がなくても、それはあなたがしたことよ」
健吾は頷いた。許してほしいとは言わなかった。
長い沈黙のあと、健吾はタブレットを伏せた。遥は机に置いていたカードを取った。
「今度は、君が決めて」
遥はケースを握った。
「渡さない。外に出す。律を守る。それから、全部を考える」
「分かった」
事務室へ館長が入ってきた。夜間の入館を認めた理由は、菜摘から聞いていた。だが、詳細は知らなかった。
遥は話した。娘のこと。夫の記憶。研究ノート。自分が入院させられたこと。
館長は、途中で止めなかった。話が終わると、今夜ここで見つかったものを記録に残すと言った。
「図書館は、あなたの私物ではありません」
館長は言った。
「だからこそ、あなたの夫が残したものを、誰かの私物として消させるわけにもいかない」
遥は頭を下げた。昔、働いていた場所が、今の自分を受け止めてくれた。
菜摘はカードの内容を複製し、保存先を確認した。専門的な検証はできない。改変されていないか、誰が作ったものか、外部の人に確かめてもらう必要がある。館長は、その手配を手伝うと言った。
館長が連絡先を控えた。遥は、カードのケースの端を指で押さえた。自分たちには読み切れない資料が、机の上に残っていた。
会社からの資料には、黒須以外の名前もあった。遥は最初、全員が同じことを知っていたと思った。知っていて、同じ指示を出したのだと。
館長室へ来た電話で、その考えが揺れた。佐伯が、外部の相談先と、本社の調査担当者へ別々に話したという。病院の幹部にも、実際の処置を知らない人がいた。入院の目的を、会社から違う形で説明されていたらしい。
「知らなかったから、責任がないってこと?」
遥が聞くと、佐伯は、そうではないと答えた。ただ、黒須が自由に使える部署と、そうでない部署を分けて考える必要があると言った。
健吾は資料の発信元を見た。多くは同じ家族支援室を通っていた。自分が回復したときの説明も、そこから来たという。火事の記録。訓練の日程。遥との会話の例。すべて、同じ封筒に入っていた。
菜摘が、複製したデータの一覧を印刷した。ファイル名は、遥には意味のない数字だった。開くと、1枚ずつ、別の人の生活が出てくる。全員が自分たちと同じ家族ではなかった。仕事の事故について話せなくなった人。特定の職場へ近づけなくなった人。苦しい記憶を減らす研究という説明の中に、誰かに都合のよい空白が混じっていた。
資料の中に、レナの署名があった。承認の欄にはなく、異議を記す欄にあった。日付は火災の前月だった。健吾はその頁を見たまま、動かなかった。
「知ってる?」
遥が尋ねると、夫は首を振った。
「この人が、反対してたことを」
遥は日本語の要約を読んだ。対象者の同意が確かめられない。生活上の変化が、報告に含まれていない。望ましくない結果が、評価から外されている。
実験に失敗した人の欄は、失敗とは書かれていなかった。追跡不能。評価除外。遥は森田と相川を思い出した。誰かが弾く曲の続きを失っても、欄を変えれば結果から消える。
健吾が、黒須の予定表を示した。本社の調査担当者との面談は、翌週になっていた。資料を保全するよう求める文書もあった。日付は2日前。黒須が家へ来た日だった。
遥は、肉を切るナイフを思い出した。歯を治したと言った男。家族の話をしながら、自分たちを病院へ送る準備をした男。
「急いでたんだ」
遥が言うと、健吾は頷いた。
遥は調査の日付を控えた。黒須が見ていた予定表を、今は自分が見ている。
館長は、窓の鍵を確かめてから電話を取った。施設管理の担当者へ、正面の扉を開けておくよう伝えた。警備員にも来てもらうと言った。
「来た人を閉じ込める必要はありません。こちらも、閉じ込められないようにします」
受話器を置く音が、静かな部屋に響いた。遥は初めて、ここが秘密を隠すだけの場所ではないと思った。人が働き、外へ電話を掛けられる場所だった。
館長室で資料を確認するとき、遥は自分の名前のあるページだけを伏せた。菜摘が、隠すの、と聞いた。遥は首を振った。
「今は、読めない」
友人は頷いた。隠すことと、読む時期を選ぶことは違う。遥はその違いを、実際の動作で覚え始めていた。
健吾は自分の資料を読んだ。処置後の評価。家族への適応。業務復帰。感情反応。妻との会話が、項目になっていた。
「君が笑った日が、成功になってる」
夫は言った。
遥は画面を見た。商店街へ行った日。律とパンを食べた日。古本屋へ寄った日。自分が少し安心した時間が、会社の報告に残っていた。
記録の横に、判定の数字があった。遥にはその意味が分からなかった。律が、うさぎは話をよく聞くと言ったことは覚えている。数字の脇へ、そう書き足したくなった。
「成功って、書かれても、あの日は、私の日だった」
遥は言った。
健吾は頷いた。
「律の言ったことが、面白かった」
「うん」
「あなたが、仕事へ戻っていいと言ったことも、嬉しかった」
夫は顔を上げた。
「それは、資料にあった?」
「ない」
健吾は答えた。
遥は、夫の顔と画面を見比べた。その言葉が載っている場所は見つからなかった。
遥は印刷したページを伏せ、そのまま鞄へ入れた。今日は読まない。読む日が来たら、誰かと一緒に読む。自分の生活を、報告書から取り戻す作業は、まだ続く。
館長は、夜間の入館記録を印刷した。時刻、人数、確認した資料。遥は名前を記入した。自分の意思でここへ来たことを、書いた。
健吾も書いた。夫の字は、昔と同じだった。署名だけでは、その人が何を望んだか分からない。遥はその下に、資料の保全を希望する、と加えた。
言葉を、名前の横へ置いた。誰かがあとで読むとき、自分の希望が分かるように。
曽根は館長の机の前で、会社の名刺を出した。社員の家族を迎えに来ただけだと言った。館長が遥へ確認すると、遥は迎えを頼んでいないと答えた。
「ご本人が、そう言っています」
館長は名刺を返した。
曽根の表情が変わった。脅す顔ではなかった。面倒な仕事が増えた人の顔だった。健吾に、少し外へと顎を動かした。夫は立ち上がったが、遥は止めた。
「ここで、話して」
曽根は電話をかけた。少し離れただけで、声は聞こえた。図書館の責任者がいる。ほかにも人がいる。持ち物を確認する権限はない。短い言葉を並べた。
相手が何を言ったのか、曽根は黙って聞いた。分かりましたと答えると、電話を切った。
「今日は、帰って結構です」
許可するような言い方だった。遥は何も答えなかった。
「ただ、資料は会社のものです。持ち出した責任は残ります」
館長が、今ここで見つかったものは、現状を記録して保全すると答えた。所有や返還については、正式な連絡を求めた。曽根は名刺をもう1度置き、今度は返される前に部屋を出た。
扉が閉まったあと、健吾はしばらく立ったままだった。
「俺が持ってこいと言われたのは、カードだけじゃなかった」
鞄から白い封筒を出した。中に、遥の署名欄のある書面があった。研究についての説明は十分に受けた。現在の訴えは、体調の不安定さによる。情報の外部提供を希望しない。
遥は自分の名前を見た。印刷された名前の横が、空いていた。
「これに、書かせるつもりだった?」
「持ってこいと、言われた」
「聞いたことに、答えて」
健吾は、はい、と言った。
菜摘が封筒を机へ置いた。館長が時刻を書いた。遥は紙へ触れなかった。夫の手から出てきたその紙に、触れれば指が汚れるような気がした。
外で車のドアが閉まった。エンジンの音がして、遠ざかった。
曽根が退いたのは、自分たちが正しかったからではない。目撃する人が増え、今ここでは仕事ができなくなったからだった。別の場所で、別のやり方を探すだろう。
遥は静江へ電話した。律の声を聞いた。息子は眠そうで、明日帰ってくるの、と聞いた。帰ると答えた。
「会社の人が来ても、律を渡さないでください」
電話を代わった義母へ言った。静江は驚き、分かったと答えた。遥はもう1度、健吾からだと言われても、自分の電話へ確認してほしいと頼んだ。
受話器を置いたあと、夫を見た。健吾は、自分の名前が信用してはいけない言葉になったことを、黙って受け取った。
遥は菜摘と北側の出口へ向かった。健吾が少し遅れて出てきた。夫は車のドアの前で止まり、一緒に乗っていいかと聞いた。遥は後部座席の奥へ詰めた。
菜摘が車を出した。後部座席に、遥と健吾が並んだ。肩は触れなかった。空港から帰った夜と同じ車内なのに、沈黙の意味が違った。
「栞のこと、話してくれる?」
健吾が小さく聞いた。
「私も、まだ知らないことが多い」
「知ってるところだけ」
遥は、ふみから聞いた話をした。チャイムが好きだったこと。帽子をつかんだこと。休みの日に、健吾が散歩へ連れて行ったこと。
夫は聞いた。自分がしたことを、初めて聞く人の顔で。
「俺、いい父親だったのかな」
遥はすぐには答えなかった。
「いいところも、あったと思う」
健吾は頷いた。全部よかったと言ってもらおうとはしなかった。
家に着くと、玄関の写真が目に入った。律の七五三だった。
健吾は足を止めた。
「このとき、君は栞を知らなかった」
「うん」
「俺は、知ってた」
「そう」
夫は写真を見た。遥は待った。今度は、夫が何を思うかを決めなかった。
リビングで、健吾は天井を指さした。火災報知器。コンセント。テレビの裏。資料に、設置場所があったという。
遥はメモ帳を出した。
外さないで。諦めたと、聞かせる。
健吾は頷いた。
「病院で、もう1度話を聞こう」
声に出して言った。
「分かった」
遥も答えた。
紙の上では、別の言葉が動いた。高槻へ。朋美へ。佐伯へ。外部の専門家へ。データは複数の場所に送った。受け取ったという返事を、菜摘が確認した。
家の中で声に出す言葉と、紙に書く言葉が分かれた。遥はその不自然さに、すぐには慣れなかった。夫に何かを聞こうとして、口を閉じ、ペンを取った。
いつから、聞かれていたの。
健吾は、分からない、と書いた。資料にあった設置日は、出張中だった。だが、8年前の環境調整の記録にも、観察機器という項目があった。
遥は、家の中の過去を思い出した。律が泣いた夜。夫婦が喧嘩した夜。自分が浴室の前で動けなくなった朝。誰かが、その時間を聞いていたのかもしれない。
怖さより先に、恥ずかしさが来た。家族だけのものだと思っていた言葉が、誰かの資料になっていた。そのあとで、怒りが来た。
健吾が紙を寄せた。
設置場所を知ったのは今夜だった。資料の非表示になっていた付録を、図書館で開けた。帰国前には、家族支援の確認があるとだけ言われた。
遥は、帰国の日に届いた封筒を思い出した。家族支援室。環境適応。相談窓口。
支援という言葉の中に、監視が隠れていた。
封筒を出し、菜摘に写真を送った。友人は、受け取ったと返した。1つずつ、家の外へ記録が出ていく。
佐伯から連絡が来た。外部に説明を始めたこと。病院での記録を確保したこと。遥に、直接話を聞きたい人がいること。
遥は、会う、と返した。
健吾も、自分の記録を出すと言った。会社の端末には触れず、手元にある資料を整理した。何を知らなかったか。何を教えられたか。何を自分で決めたか。
その最後の項目に、遥の入院、と書いた。
遥は見ていた。夫は、その文字を消さなかった。
翌朝早く、2人で台所に立った。コーヒーを淹れた。遥は牛乳を先に入れ、健吾はブラックのまま飲んだ。
違いは、まだあった。
けれど、今日はその違いを隠す必要がなかった。
2人とも、ほとんど眠っていなかった。健吾は何度か空のカップへ手を伸ばし、そのたびに戻した。
朝、静江から電話が来た。
律が、会社の人の車に乗った。
パパが呼んでいると言われて、喜んで。
遥は椅子から立ち上がった。健吾の顔から血の気が引いた。
別の着信が入った。
「おはようございます、奥さん」
黒須の声だった。
「カードを持ってきてください。あなたも一緒に」
「律を返して」
「もちろん。成田空港、第1ターミナル。正午に」
通話が切れた。
黒須からの電話が切れると、遥は静江へかけ直した。義母は泣いていた。会社の身分証を見せられ、言われた通り、確認しようと電話を取りに戻った。その間に、律が門の外へ出たという。
「止めなかったんですか」
「男の人が、パパが待ってるって。律が走って、私も追ったけど」
義母の息が乱れた。門の前には、小さな飛行機の箱を持った男がいた。女が道をふさぎ、確認はあとでよいと言った。律を乗せると、車はすぐに出た。
遥は電話を切りそうになった。責めている間にも、車はどこかへ進んでいる。
「何時ですか。車の色は。何人いましたか」
静江は答えた。時刻は正確には分からなかった。朝の番組が始まったばかりだった。白い車。運転する男のほかに、女が1人いた。家へ迎えに来た女かもしれない。
律は学校へ行く支度を済ませていた。青い上着を着た。寒いかもしれないからと、静江が着せた。
遥はその上着を思い浮かべた。最後に洗ったとき、袖口の汚れが落ちず、少し残った。見つけるときの目印になる。そんなことのために、息子の服を覚えていたのではない。
健吾が紙を差し出した。聞いたことを、横で書いていた。遥は紙を取り、時刻の横に番組の名前を加えた。
別の着信が入った。黒須だった。遥は電話を持ち替えた。
「律と、話をさせて」
しばらく物音がし、息子の声がした。
「ママ、空港だって」
「うん。今、どこ?」
「車。これ、パパの会社の車?」
遥は健吾を見た。夫は首を振った。分からないという意味なのか、違うという意味なのか、確認する時間がなかった。
「律、シートベルト、してる?」
「してる」
「そのまましてて。ママ、迎えに行くから」
「パパも?」
「一緒に行く」
黒須の声に戻った。正午ですと繰り返した。
「複製があることくらい、分かっています。カードだけで済むとは思っていませんよ」
遥は電話を握り直した。
「研究について、誤解があったと確認していただきたい。ご主人にも説明した書面です」
「子どもを連れていかないと、話ができないんですか」
「お祖母様には、ご了解いただきました」
了解していないと、義母は言った。その説明を、黒須はもう書き替えていた。
「空港に、誰が来るんですか」
「本社の者です。話を大きくする前に、ご家族の意思を確認したい」
電話はそこで切れた。遥は画面を見た。録音を始めることさえ思いつかなかった。律の声がまだ耳にあった。シートベルトをしている。そのことだけを、何度も確かめた。
遥は電話を握ったまま、窓を見た。朝の光が、いつもと同じ角度で床に落ちていた。
世界は何も変わっていない顔で、息子を奪っていた。




