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入れ替わった夫  作者: ぽむぽむ


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第10章 ミルクが先

遥は最初に、警察へ連絡した。

 今度こそ、自分たちだけで決めてはいけなかった。佐伯はすでに、研究記録を持って事情を説明していた。担当の村井という刑事が、電話に出た。

 遥は黒須の言葉を繰り返した。場所と時刻。律が連れ出された経緯。静江の連絡先。声が乱れそうになるたび、メモを見た。

「こちらから指示します。単独で動かないでください」

 村井はそう言った。

 遥は頷いた。電話の向こうには見えないと気づき、はい、と答え直した。

 健吾が水を置いた。遥は飲んだ。飲み込めることを確かめるように、少しずつ。

 村井に資料を渡したのは、駅の近くの小さな会議室だった。遥はカードの写しと、黒いノートのコピーを持っていた。原本をどこへ置くかは、相談して決めた。自分だけが持つことも、誰か1人へ全部を渡すことも、今は避けたかった。

 村井は最初に、遥が今話せることを聞いた。すべてを一度に話さなくてもよいと言った。遥は、律のことを先に話した。黒須が連れていった経緯。静江の説明。電話の言葉。

 健吾は隣に座っていた。村井が夫にも質問した。健吾は、覚えていることと、資料で知ったことを分けて答えた。分からないと答える回数が多かった。村井はそのたびに、分からないと書いた。

 遥はその記録を見た。空白を、空白のまま残す人がいる。誰かの都合のよい説明で埋めない。それだけで、少し息がしやすくなった。

 黒須の電話について、村井は正確な言葉を確認した。遥はメモを読んだ。記憶だけで再現しようとすると、怒りや恐怖が混ざる。書いた言葉なら、少なくともそのとき自分が聞いた形が残る。

 村井は、空港へ行く前に連絡を待つように言った。遥は頷いた。律がいる場所へ、今すぐ走りたい。けれど、自分たちだけで動けば、また相手の決めた条件の中へ入る。

 待つ時間は長かった。健吾が水を買ってきた。遥は、夫が戻るまで時計を見た。3分。4分。戻ってきた夫の手には、2本の水があった。

「律の分は?」

 遥は聞いた。

「あとで、買う」

 健吾は答えた。息子が今ここにいないことを、2人とも分かっていた。それでも、3本目がないことが、痛かった。

 菜摘から連絡が来た。館長が資料の保管を確認した。佐伯も外部への説明を続けている。朋美は高槻の容体が落ち着いたと知らせた。家族だけではない場所に、いくつもの人がいた。

 遥はメッセージを読んだ。誰かが全部を解決してくれるわけではない。けれど、自分たちだけで全部を抱える必要もない。そのことを、体が少しずつ理解した。

 村井から折り返しが来たのは、10時を少し過ぎてからだった。遥は椅子から立った。空港で接触する場合の話を、先に聞いた。遥は返事をしながら、律の上着の色を何度も言った。刑事は、その色は聞いていると、静かに答えた。

「カードは、代わりのものでもいいですか」

 遥が聞くと、村井は原本と写しの保管を別に確認した。何かを1つ渡せば、外にある資料まで消えるわけではない。だが、相手が何を受け取ったかも、あとで確かめる必要があるという。

 健吾が、説明を受けた書類を出した。黒須の指示と、病院へ連れていく理由が書いてある。今朝、黒須が求めたのと同じ確認書もあった。

「本社の人が、空港へ来ると言っていました」

 遥は伝えた。村井は、会社へも確認していると答えた。それ以上のことは、まだ聞けなかった。

 空港へ向かう途中、黒須から場所の指定が追加された。到着階の案内カウンターの近く。車へは乗らず、まずそこで会う。遥は内容をそのまま村井へ伝えた。

 電話の向こうで、刑事が短く誰かと話した。遥は車窓を見た。案内標識に空港の文字が出てきた。4週間前には、待っていれば夫が出てきた。今日は、自分が何をすれば息子を抱けるのか分からない。

「人のいるところから、動かないでください」

 村井が言った。

 遥は頷き、返事をした。もう1度、青い上着ですと付け足した。刑事は、分かっていますと答えた。繰り返す自分を、止めなかった。

 ターミナルへ着くと、健吾は車のドアを開けたまま待った。遥は足を下ろした。膝がうまく伸びなかった。夫が手を出したが、遥は車の枠をつかんだ。

 自動扉が開いた。空調の暖かい風が当たった。何人もの人が、同じ扉を何も考えずに通っていく。自分も4週間前までは、その1人だった。

 健吾が、電話を胸のポケットへ入れた。村井と連絡を取れるように、切らずにおいた。遥はカードのケースを確かめた。鞄の中に、娘の写真も入っていた。持ってくる必要はなかった。それでも、家に置けなかった。

 正午前、遥と健吾は到着ロビーへ入った。

 4週間前と同じ場所だった。到着便の表示。自動扉。荷物を押す人たち。誰かを待つ顔。

 遥は、その中に自分を置いた。夫を迎えた日、何が違うのか分からなかった。今日は分かっている。隣の人は、昔の健吾と同じではない。自分も、4週間前の遥ではない。

「何かあったら、律を」

 健吾が言いかけた。

「勝手に残るとか、言わないで」

 遥は前を向いたまま言った。

「誰か1人で決めるのは、もうやめよう」

 健吾は黙り、それから頷いた。

 黒須は、律の手を引いて現れた。

 息子の青い袖口が、男のコートに半分隠れていた。反対の手に、小さな紙袋を持っている。遥を見つけると、紙袋を持った腕を上げた。

「ママ」

 走ろうとした体が止まった。黒須が手を離さなかった。律は一瞬、男を見上げ、それから遥へ顔を戻した。何がいけなかったのか、教えてもらうのを待つ目だった。

 遥は足を止めた。近づけば、息子を抱ける距離だった。近づいたあと、何を言われるかが分からなかった。

「カードを」

 黒須が言った。

 ケースを出した。曽根が受け取り、透明な蓋を開けた。カードを端でつまみ、黒須に頷いた。

「律を、離してください」

 黒須の手が緩んだ。律が走ってきた。遥は膝をつき、息子を抱いた。髪の匂いがした。青い上着は、車の暖房で温まっていた。

「ママ、苦しい」

「ごめん」

 腕を緩めると、律は離れなかった。遥の肩越しに、健吾を見た。夫がしゃがみ、息子の紙袋を受け取った。

 黒須は曽根の持つ鞄を示した。確認書が出てきた。昨夜と同じものだった。署名の欄に、細い付箋が貼ってある。

「本社の者が来る前に、済ませましょう」

 背後の表示板に、到着便の時刻が並んでいた。黒須はそこを見た。家へ来た夜と同じように、誰かを待つ時間を気にしていた。

「どこで、書くんですか」

「車で。落ち着いて話せる」

 黒須は健吾へ向き直った。

「ご家族の問題です。できるだけ、静かに」

 遥は立ち上がった。律の手を、健吾へ渡す前に、息子の顔を見た。

「パパと、ここにいて」

 律は頷いた。遥の指を、1本ずつ放した。

 黒須の持つ紙へ手を伸ばした。男はペンも渡そうとした。遥は紙だけ受け取った。

 研究について十分な説明を受けた。現在の訴えは、体調による誤解だった。自分の意思で、外部への情報提供を希望しない。

 自分の意思で。

 遥は、その言葉の下へ親指を置いた。8年前の同意書には、夫の名前があった。今度は自分の名前があれば、同じことをできるのだ。

「名前だけ、書けばいいんですね」

「そうです」

 黒須はペンを差し出したまま答えた。

 遥は鞄から、自分のペンを取った。差異目録を書くために使ったものだった。紙の裏に、立ったまま、今日の日付を書いた。

 説明を受けていない。署名を求められている。私は同意しない。

 黒須が紙を見た。遥の書いた字は、端へ向かって少し下がっていた。

「何を書いているんです」

「私の返事です」

 紙を、男の手へは戻さなかった。律の声が、後ろで小さく聞こえた。健吾が何か答えた。言葉は聞き取れなかったが、息子をここから動かさずにいる。

「奥さん、場所を変えましょう」

「ここで、話します」

 曽根が近づいた。その間に、人混みから村井が出た。もう1人が、健吾と律の横へ立った。

 黒須は周りを見た。ようやく、その場にいる人を数え始めたようだった。

「ご家族の依頼で、送迎を」

「お話を伺います」

 村井が言った。遥は書いた紙を差し出した。刑事は受け取り、折らずに持った。

 黒須の電話が鳴った。画面を見た顔が変わった。本社の調査担当からだと、小さく言った。

「先方には、こちらからも連絡しています」

 村井の声を聞き、黒須は電話を伏せた。後ろの表示板が切り替わった。到着便が、1つ増えた。

 健吾が、息子の横から言った。

「資料は、もう外にあります」

 黒須は夫を見た。

「君には、確かめようがないはずだ」

「覚えていません。でも、この人が嫌だと言ったことは、今、聞きました」

 健吾は律の手を握っていた。遥の代わりに答えたのではない。その場で聞いたことを、自分の言葉で話していた。

 黒須は何か言いかけた。村井がもう1度、声を掛けた。曽根も、別の刑事と離れた場所へ向かった。誰かが振り返り、それから自分の荷物を引いて歩き始めた。

 律が戻ってきた。遥は手を取った。自分の指は冷たく、息子の指が温かかった。

「おじさん、悪い人?」

 律が聞いた。

「したことを、ちゃんと話してもらうの」

 遥は答えた。

 律は分かったような、分からないような顔をした。それから健吾を見た。

「パパ、ぼく、りっちゃんでいい」

 健吾が瞬きをした。

「どうして?」

「前のほうが、よかったから」

 健吾はしゃがんだ。何かを言おうとして、1度唇を閉じた。

「りっちゃん」

 律が頷いた。

 遥は2人を見ていた。元に戻ったのではなかった。新しく、1つ決まったのだと思った。

 空港の小さな部屋で、律は紙袋を膝に置いた。中の模型を出そうとして、遥の顔を見た。

「出していい?」

「いいよ」

 律は箱を開けた。翼が1枚、外れていた。健吾が直そうとすると、息子は自分でやると言った。父親は手を引いた。

 遥は律の膝から箱が落ちないよう、手の端だけを添えた。息子は模型から目を上げなかった。

 模型の翼は、うまく入らなかった。律は顔をしかめた。健吾が、手伝ってもいい、と聞いた。息子は頷いた。夫は翼の向きを変え、差し込んだ。

「ありがとう」

 律が言った。

 村井は律へ、今日は怖いことがあったかと聞いた。息子は少し考えた。ママのところへ行こうとしたら、止められたこと。大人が知らない声で話したこと。パパが黙っていたこと。

 遥は、最後の言葉に胸が痛くなった。子どもは、何が起きたか分からなくても、誰が黙ったかを覚える。

 健吾は息子の隣に座った。

「パパも、分からないことがあった。でも、りっちゃんが怖かったことは、分かった」

 律は頷いた。

「次は、言って」

「うん」

 約束は短かった。遥はその短さを、今は信じたかった。

 帰り道、律は眠った。帰国した日のタクシーと同じように、健吾の腕に頭を預けた。遥は夫の手つきを見た。以前なら、また違いを探しただろう。今日は、息子の頭が落ちないよう支えていることだけを見た。

 健吾の指が眠る律の耳に触れた。息子が顔をしかめると、すぐに離れた。

 空港から戻った夜、律は静江の家に泊まった。遥は息子を手放したくなかった。けれど、律は、おばあちゃんの家の布団がいい、と言った。今日あったことを、家に持ち帰りたくなかったのかもしれない。

 遥は理由を決めつけず、いいよ、と答えた。

 家に戻ると、玄関に小さな靴がなかった。健吾は靴箱の前で止まった。遥も止まった。2人とも、何も言わなかった。

 監視機器は、外部の人が確認した。遥は作業を見ていた。火災報知器の形をしたものが外され、別の袋に入った。自分たちの声を聞いていたものは、思っていたより小さかった。

 袋の口が閉じられるまで、遥は作業する人の手を見ていた。

 作業が終わると、家は静かになった。前から静かだったはずなのに、違う静けさだった。誰かが聞いていないと分かっても、遥はすぐに声を出せなかった。

「何か、言ってみようか」

 健吾が言った。

「何を?」

「何でも」

 遥は考えた。怒り。悲しみ。夫への言葉。娘への言葉。どれも、最初の1言には重すぎた。

「お腹、すいた」

 言ってから、自分で笑った。

 健吾も笑った。

「俺も」

 2人で冷蔵庫を開けた。卵と、残った野菜。健吾は、固ゆでにするかと聞いた。

「律は、いないよ」

「そうだった」

 夫は少し黙り、卵を戻した。

「でも、固ゆでにしよう」

 遥は頷いた。息子がいない夜にも、息子の好きなものを作る。それは、資料に従うことではなかった。

 食卓で、遥は健吾に言った。

「しばらく、別の部屋で寝たい」

 夫は頷いた。

「分かった」

「あなたを罰したいからじゃない。隣にいると、眠れない日がある」

「説明しなくても、いい」

 遥は首を振った。

「説明したいの。私が決めたことだから」

 健吾は聞いた。昔の夫なら、寂しいと冗談を言ったかもしれない。今の夫は、冗談にしなかった。

 その夜、遥は寝室で1人になった。隣が空いている。帰国した夫を疑った夜とは違う。空いている理由を、自分が決めた。

 眠れなかった。けれど、眠れないことまで誰かに奪われる気はしなかった。

 翌日、律を迎えに行った。息子は木製の列車を持っていた。

「おばあちゃんの家にも駅を作った」

「どんな駅?」

「家に帰る駅」

 遥は膝をついた。

「帰ろう」

 律は頷いた。健吾が荷物を持った。静江は玄関で見送った。義母の目が、遥の顔を確かめるように動いた。

「今度は、勝手に大丈夫って決めないでください」

 遥は言った。

 静江は頷いた。

「聞くわ」

 遥は律の鞄を受け取った。外へ出ると、息子が先に手を伸ばした。

 律が学校へ戻った日の夕方、遥はランドセルから、飛行機の模型を見つけた。空港で受け取ったものだった。持っていかないでと、朝、言ったはずだった。

「学校で出したの?」

「出してない」

「どうして入れたの」

 律は玄関の段に座り、靴下を脱いだ。返事をしなかった。

 模型には、また翼がなかった。健吾が直したのと同じ場所だった。遥は鞄の底を探した。教科書の隙間から小さな部品が出てきた。

「壊れるから、持っていかないでって」

「ぼくのだから」

 息子の声が強くなった。

「でも、学校でなくしたら」

「おじさんが、くれたんだよ」

 遥は手を止めた。律は顔を上げず、丸めた靴下を強く握っていた。

「悪い人がくれたら、持ってちゃ駄目なの?」

 遥は床へ座った。息子と同じ高さになったつもりだったが、律は少し身を引いた。

「駄目じゃない」

「じゃあ、返して」

 模型を渡した。翼も渡した。息子は部品を差し込もうとしたが、うまくいかず、強く押した。遥が止める前に、薄い接続部分が折れた。

 律が模型を床へ投げた。

 大きな音がした。健吾が台所から来た。遥が何か言う前に、律は階段を駆け上がった。部屋の扉が閉まった。

 夫は床の模型を拾った。遥は、触らないで、と言った。声がきつくなった。健吾はその場に置いた。

「直せると思う」

「直せばいいのか、分からない」

 遥は模型を見た。贈り物をもらって嬉しかった息子の気持ちまで、取り上げるところだった。けれど、今日、自分が息子を叱ったのは、ただ学校へ持っていったからだった。そこへ黒須の顔が入り込んだ。

 20分ほどして、律が階段の上から呼んだ。

「捨てた?」

「ここにある」

「捨てないで」

「うん」

 息子は下りてこなかった。遥は模型を靴箱の上へ置き、折れた部品を小皿に入れた。その夜、律は父親と風呂に入らなかった。遥にも、手伝ってと言わなかった。

 夕食の途中で、息子は模型を自分の机へ運んだ。翼のないまま置き、戻ってきた。誰も、その置き方を直さなかった。

 数日後、事件についての報道が出た。遥の名前は出なかった。会社の名前と、研究の概要。違法な処置の疑い。複数の被験者。記事の中に、自分の人生が短い言葉でまとめられていた。

 遥は途中で読むのをやめた。全部を読む義務はない。自分のことが書かれていても、自分が読める日を選んでいい。

 菜摘が、新聞を取っておくかと聞いた。遥は、お願い、と答えた。

 今は読めないものを、誰かが残してくれる。そのことが、ありがたかった。

 数日後、遥は相川から手紙を受け取った。病院の外の住所が書かれていた。家族と会い、別の医師の説明を受けているという。母親は生きていた。なぜ説明が違っていたのかは、調べている。

 手紙の最後に、名前を覚えてくれてありがとう、とあった。遥はその行を何度も読んだ。自分がしたことは、名前を聞き、外へ伝えただけだった。けれど、それが誰かの出口の一部になった。

 森田については、菜摘が連絡を受けた。別の施設へ移り、家族と話す時間を持っている。ピアノの続きを、まだ思い出せないという。遥は、続きを思い出せなくても弾いてよいと言ったことを、もう1度手紙に書いた。

 調査に協力するための面談は、1度では終わらなかった。遥は同じ日付を何度も答えた。分かることが増えるたび、前に答えた内容へ、付け加える必要があった。

 担当者に、前回と違いますねと言われたとき、遥は息が詰まった。紙を持つ指が震えた。健吾が何かを言おうとしたが、遥は首を振った。

「前回、そう考えていました。今は、この記録が見つかったので」

 声が途中で細くなった。それでも最後まで言った。担当者は、資料を見せてくださいと答えた。責めたつもりではなかったのかもしれない。遥の体は、そのことをすぐには受け取れなかった。

 家へ帰ると、玄関で座り込んだ。靴を片方だけ脱いだ。律はまだ学校だった。健吾が鞄を置く場所を聞いたが、返事ができなかった。

「そこ」

 ようやく言うと、夫は鞄を床へ置いた。隣には座らず、台所へ行った。湯を沸かす音が聞こえた。遥は残った靴を脱いだ。

 その夜、差異目録を開かなかった。何があったかを残さなければ、また失う気がした。それでも、書くために今日をもう1度生きることができなかった。

 翌朝、空白の頁を見た。昨日の日付だけを書こうとして、ペンを置いた。自分が記録しなかった日にも、律は学校へ行き、健吾はコーヒーを淹れた。何も消えてはいなかった。

 菜摘から、昼に会えるかと連絡が来た。遥は断った。疲れていると書いたあと、送る前に消しかけた。友人を心配させたくなかった。

 そのまま送った。

 返事は、了解、と短かった。菜摘は夕方、図書館で外した栞の絵本の包み紙を持ってきた。封筒に入れ、玄関で渡した。

「本は?」

「持ってきた。今日は渡していい?」

 遥は頷いた。菜摘は鞄から絵本を出した。名前の欄は、まだ空いていた。遥は机へ置き、鉛筆を探した。

 栞へ。

 それだけ書くのに、何度も手を止めた。娘の字は、自分の名前の字より複雑だった。書き終えると、頁を閉じた。

 菜摘は表紙を見て、よかった、と言いかけた。唇を閉じ、別のことを聞いた。

「お茶、いる?」

 遥は頷いた。友人が湯を沸かす間、絵本を棚へ入れた。題名の順でも、大きさの順でもない。娘の写真の隣に、立てた。

 会社から届いた最初の文書には、お詫びという言葉があった。けれど、何をしたかは曖昧だった。ご心配、ご迷惑、関係者。遥は赤いペンで線を引いた。

 心配したのではない。記憶を失った。迷惑を受けたのではない。自分の意思を無視された。関係者ではない。本人だ。

 健吾は隣で、その線を見た。遥は文書を夫に渡した。

「あなたの分も、書いて」

 健吾はペンを持った。自分が何を失ったか、すぐには書けなかった。やがて、家族と過ごした時間、と書いた。研究者としての時間。自分がしたことを知る機会。

 最後の行の前で、健吾のペンが止まった。遥は次の言葉を教えなかった。

 文書を封筒に戻すと、健吾が糊を取った。遥はまだ閉じないでと言った。封筒は翌朝も、食卓の端に置いてあった。

 会社から、また別の封筒が来た。

 事情を聞かれ、資料を確認し、同じ話を何度もした。会社から届く文書を開けるだけで、遥は動悸がした。健吾は仕事を休んだ。律には、学校と相談しながら、少しずつ説明した。

 高槻に会うと、彼は廊下を半分歩いただけで、椅子へ座った。朋美が持ってきた水の蓋を、うまく開けられなかった。妻は手を出しかけ、頼まれてから受け取った。

「ずいぶん、静かになったな」

 高槻が健吾へ言った。

「前を、知らないので」

 健吾の返事に、高槻の笑いが止まった。

 事故については、後ろから車が近づいたことまで覚えているという。警察に話したが、相手や原因はまだ調べている。遥は、電話で聞いた衝撃音を思い出した。あの音から先を、自分の話として埋めることはできなかった。

「カフェで、あんなことを言って」

 高槻は遥へ頭を下げた。

「捨てろと言いましたね」

「自分のしたことが、出るのが怖かった」

 水の蓋が開いた。朋美が夫へ返した。高槻は飲まずに、両手で持った。

「健吾が告発すると言ったときも、家族がいるだろうと止めた。自分の家族のことを考えてたんだ」

 朋美は椅子を少し引いた。何も言わなかった。その沈黙へ、高槻は言葉を足さなかった。

 健吾が、自分のしたことを教えてほしいと頼んだ。高槻は顔を上げた。

「つらい話もある」

「聞きます」

 夫の声は揺れなかった。遥は机に、自分のノートを置いた。

 その日、全部は聞けなかった。高槻が疲れ、夫も途中で水を飲んだ。次に来る日を決め、帰った。駅までの道で、健吾は何度も歩く速さを落とした。遥も歩調を緩めたが、理由は聞かなかった。

 佐伯は自分の関与を認め、診療から離れた。遥に面会を求めたが、返事を急がないと書いてきた。遥はしばらく返事をしなかった。

 記憶を呼び戻す研究については、外部の医師と専門家が資料を検討した。健吾の残したものを、そのまま使うことはしなかった。説明を受け、分からないことを聞き、できないことも聞いた。思い出せる保証はなかった。戻ってきた記憶が正確だと、すべて確かめられるわけでもなかった。

 資料を持ち帰った夜も、すぐには読み終えられなかった。

 静江から、栞の写真と記録を受け取った。母子手帳。保育園の連絡帳。小さな靴。箱を開ける日は、菜摘に来てもらった。健吾もいた。誰も、1人で向き合えとは言わなかった。

 写真の中の栞は、少しずつ知らない子ではなくなった。

 新しい医師との面談で、遥は栞の誕生日を思い出したいと話した。紙には8月19日とある。その数字の中に、自分がいない。

 火事の日のことも話した。夫の話を聞くうち、自分の間違った日付がそこへ入り込んだこと。筋道を作ろうとすると、記憶まで形を変える気がして怖い。医師は、その怖さも記録へ残した。

 写真は3枚だけ出した。生まれた日、初めて外へ出た日、1歳の誕生日。健吾を呼ぶかと聞かれ、遥は頼んだ。

「今日は、隣にいて」

「何をすればいい?」

「説明しないで」

 夫は椅子を寄せた。

 生まれた日の写真では、遥の腕に白い布が掛かり、その上に栞がいた。健吾の耳が、端に少しだけ写っていた。

 遥はそこを見た。最初に、暑さが来た。外から戻った夫のシャツが熱く、洗ったばかりの腕は冷たかった。健吾が娘を抱こうとしている。窓の向こうには、細長い雲がある。

 暑い、と夫が笑った。誰かが、赤ちゃんよりお父さんのほうが赤い、と言った。

 遥は顔を上げた。自分の手が、抱くときの形になっていた。医師は、今、何が浮かびましたかと聞いた。遥は話した。記録で知ったこととは、別の欄に書いてもらった。

 健吾が手を差し出した。握っていいかと聞かれ、遥は指を重ねた。

「8月19日」

「栞の?」

 遥は頷いた。病室の雲が遠のき、今いる診察室の窓が見えた。涙が頬を伝った。生まれた日があった。そこから、死んだ日まで、娘の毎日があった。

 医師が紙箱を寄せた。遥は自分でティッシュを取り、泣いた。夫は手を離さなかった。

 健吾は、自分にも同じことができるか尋ねた。

 医師は、消された範囲が広く、同じ経過は期待できないと説明した。今の生活を支えながら、時間をかけて考える方法もあると言った。

 健吾は、すぐには決めなかった。

 遥も、決めるよう求めなかった。

 栞の箱を開けた日、遥は小さな靴を手に取った。白い靴だった。底に土がついていた。静江は、洗おうと思ったけれど洗えなかったと言った。

「そのままで、よかったです」

 遥は答えた。娘が歩いた土まで、きれいにする必要はない。

 靴の中に、名前が書いてあった。しおり。遥の字だった。

 自分が書いた名前を、初めて読む。そんな時間が、何度も来た。

 保育園の連絡帳には、短い記録があった。今日はよく食べました。午睡は短めでした。積み木を並べていました。

 遥が書いた欄には、家での様子があった。朝、靴下を自分で脱ぎました。玄関の音に反応します。夜、少し熱がありました。

 最後のページは、途中で終わっていた。

 遥は閉じた。続きを書けない人がいた。その人は自分だった。

 菜摘が、今日はここまでにしようかと聞いた。遥は頷き、箱へ蓋を戻した。靴の紐だけが端から出ていた。指でそっと内側へ入れた。

 健吾は、箱を棚へ戻す前に聞いた。

「ここでいい?」

 遥は場所を選んだ。リビングの棚の下段。律が触れる場所だった。

「律にも、見せたい」

 夫は頷いた。

 息子に栞のことを話したのは、日曜の午後だった。3人で食卓に座った。遥は写真を出した。

「律には、お姉ちゃんがいたの」

 律は写真を見た。

「どこにいるの?」

 遥は息を吸った。きれいな言葉で包むと、また何かを隠すことになる。けれど、怖がらせるために話すのでもない。

「小さいときに、亡くなったの。今は、会えない」

 律は長く黙った。

「ママ、知ってたの?」

「前は、知ってた。でも、長い間、思い出せなくなってた」

「パパは?」

 健吾が答えた。

「パパも、今は思い出せない。でも、栞がいたことは分かった」

 律は2人を見た。

「ぼくのことも、忘れる?」

 遥は胸が痛くなった。息子がいちばん怖がることを、避けて話すことはできなかった。

「律のことを大切に思ってる。今も、これからも。忘れないために、写真も、話も、残す」

 健吾も頷いた。

「1人で困ったら、誰かに助けてもらう。今度は、そうする」

 律は写真を持った。

「お姉ちゃん、ぼくに似てる」

「少しね」

「ぼくのほうが、もう大きい?」

 遥は頷いた。

 律は考え、写真を机に置いた。

「じゃあ、ぼくが電車、教える」

 遥は涙を拭いた。息子は、会えない人に何かを教える方法を、まだ知らない。知らないまま、姉を家族に入れようとしていた。

 栞の箱が家へ来た日のことを、遥は何度も思い返した。玄関で、静江に上がってもらわなかった。玄関で受け取り、今日はここまでにしたいと伝えた。義母は頷いたが、靴を揃えたまま、少し立っていた。

「梨、むこうかと思って」

 袋の中に、2つあった。帰国の日にも、梨をむいてくれた。その手つきは覚えている。写真を隠したのも、同じ手だった。

「今日は、自分でむきます」

 静江は袋を渡した。指が触れた。遥は手を引かなかったが、握り返さなかった。

 数日後、義母の家を訪ねた。栞の服をどこへやったか、聞きたいことがあった。静江は台所で、古い鍋を洗っていた。底が焦げていた。

「火、消すのを忘れちゃって」

 笑おうとした義母の顔が、途中で固くなった。忘れるという言葉を使ったことを、気にしたようだった。

 遥は流しの前へ行った。鍋に水を張り、置いておけばよいと言った。静江は素直に手を離した。

 畳の部屋には、写真立てが起こしてあった。栞だけの写真だった。遥が覗き込むと、義母は、これは健吾が撮ったと教えた。娘の顔が少し斜めで、手前に夫の指が写り込んでいた。

「下手ね」

 遥が言うと、静江は小さく笑った。

「撮るより、抱きたかったのよ」

 遥は写真を見た。そんな人が、娘の写真を片づけた。どちらかだけが本当なら、もっと簡単だった。

 義母は服の行き先を話した。小さな肌着は処分した。上着と、誕生日に着せた服は残した。どれを残すか、遥には聞かなかった。

「私が決めました」

 静江は言った。息子に言われたとは、言わなかった。

 遥は膝の上の手を見た。指先に、紙で切った傷があった。栞の書類を整理したときの傷だった。娘を失ったあと、何を残し、何を捨てるか。自分が選びたかったことが、今は残っていない。

「捨てたもののことも、書いてほしいです」

 義母は顔を上げた。

「覚えているものだけで、いいから」

 静江は引き出しから便箋を出した。買い物のためのメモ用紙ではなかった。白い便箋を机へ置き、眼鏡を掛けた。

 小さな肌着。黄色い前掛け。欠けたプラスチックの匙。

 1つ書くたびに、手が止まった。遥は急がせなかった。匙の色を聞くと、静江は思い出せないと答えた。そこは空いたままになった。

 台所の鍋が、柔らかい音を立てた。水につけた焦げが、底から剥がれたのかもしれなかった。遥は立たず、義母が次の言葉を書くのを見ていた。

 霊園へ行く前に、律は小さな紙を描いた。駅と、列車と、4人。遥は、人数を数えた。息子は、1人増やしただけだった。誰かを消さずに。

 紙を持って、家族で出かけた。

 霊園へ行ったのは、秋の終わりだった。

 静江が花を持ち、律が水桶を運んだ。遥は墓石の前に座った。水城栞。文字を指でなぞらず、ただ見た。ここに来たことがあるのか、まだ分からなかった。分からないまま、来た。

「律のお姉ちゃん」

 遥が言うと、律は小さく頷いた。

「はじめまして。律です」

 静江がハンカチを出した。

 健吾は墓の前に膝をついた。

「はじめまして、栞」

 声が震えた。

「お父さんなのに、ごめん」

 遥はその背中に手を置いた。昔の健吾を連れ戻すためではなかった。今ここにいる人が、1人で立っていなくていいように。

 帰り道、健吾は言った。

「思い出せないなら、教わりたい」

「何を?」

「栞のこと。君のこと。俺がしたことも」

 遥はすぐには答えなかった。話すのが苦しい日もある。話したくない日もある。そのことも伝えた。

「その日は、待って」

「分かった」

 待つという約束は、忘れさせるという約束より、ずっと小さかった。けれど遥には、その小ささが必要だった。

 霊園から帰った夜、律は自分の絵を描き直した。最初の絵では、栞がいちばん大きかった。姉だからだという。墓で、栞は小さいままだと知り、描き直すことにした。

 遥は、前の絵も残そうと言った。律は、間違ってるのに、と聞いた。

「そのとき、りっちゃんが考えたことだから」

 息子は少し考え、2枚を重ねた。前の絵を下に、新しい絵を上にした。どちらも捨てなかった。

 健吾が写真を撮ろうとすると、律は2枚並べてと頼んだ。夫は重なった紙を、横へ並べ直した。栞の大きさだけが違う2枚の絵が、電話の画面に入った。

 夕食のあと、律は栞の箱を見たがった。遥は今日は少しだけ、と答えた。息子は靴を手に取り、自分の足の横へ置いた。大きさが違った。

「お姉ちゃん、これで歩いたの?」

「そうだと思う」

「ママ、覚えてない?」

「少しずつ、思い出してる。でも、全部は分からない」

 律は頷いた。

「じゃあ、分かったら教えて」

 遥は約束した。知らないことを、知らないと言える家にしたかった。

 健吾は箱を閉じる前に、靴の土を見た。娘が歩いた場所の一部。自分の記憶にはない土。夫はそれを拭かなかった。

 その夜、遥は差異目録を開いた。

 1、コーヒー。ブラック。

 2、律の呼び方。

 3、眠る向き。

 何も知らなかった自分が、必死に書いた文字だった。遥は最後のページに、差異なし、と書いた。

 しばらく見てから、線を引いた。

 違いはある。なくなってはいない。なくさなくても、隣にいることはできるのかもしれない。

 ノートは捨てなかった。栞の記録と一緒に、本棚へ置いた。

 冬、健吾は会社を離れた。仕事のことを話すとき、以前より言葉が少なかった。研究の知識は残っている部分もあった。だが、研究者として過ごした時間の記憶は、穴だらけだった。

「知ってることと、したことが、つながらない」

 夫は言った。

 遥は、図書館の分類番号を覚えているのに、退職した日のことを思い出せなかった自分を思い出した。

「全部を、すぐつなげなくていいと思う」

 言ってから、それは自分にも向けた言葉だと気づいた。

 健吾は短い仕事から始めた。研究の中心に戻るのではなく、資料を整理する仕事。自分が何をできるか、確かめながら働いた。

 遥も、図書館へ戻る準備をした。面接で、空白の期間について聞かれた。昔なら、体調を崩していたとだけ答えた。今回は、家庭の事情と療養があり、今は短時間から働きたいと伝えた。全部を説明する必要はない。けれど、自分で選んだ言葉だった。

 図書館へ戻る前の週、遥は紺のエプロンを買った。以前のものは見つからなかった。ポケットに律が電車の絵を入れた。ママの仕事の駅、と書いてあった。

 初出勤の朝、家を10分早く出た。健吾が律を迎えに行く。水筒は流しの横。決めたことを紙へ書いたあと、もう1度口でも伝えた。

 駅までの道は、通勤に使ったことがなかった。歩きながら鞄の内側へ手を入れ、移しておいた絵の端に触れた。

 職員用の入口を開けたのは、菜摘だった。おはよう、と言った。それから、昼休みの時間はあとで教えるね、と、ごく普通の顔で続けた。

 遥は修復室へ行った。机の高さが変わっていた。椅子を調整し、足の裏を床へつけた。引き出しの中には、見たことのない道具があった。使い方を聞くと、菜摘は隣で自分の手を動かして見せた。

 すぐに同じようにはできなかった。遥はもう1度頼んだ。菜摘は刷毛を取り直した。

 最初の本は、背の緩んだ児童書だった。全部を直す必要はない。広がりそうな傷を支え、使えるところを残す。遥は作業計画を書いた。

 今日はここまで。明日、乾きを確認。

 書いてから、少し笑った。8年前の自分と同じ言葉だった。思い出したのではない。今の自分が、同じように考えた。

 昼休み、健吾から連絡が来た。律を迎えた。夕食は作る。遥は、ありがとう、と返した。仕事の感想を、すぐには送らなかった。帰ってから話したかった。

 帰宅すると、律が玄関へ来た。仕事の駅、どうだった、と聞いた。遥は、戻る本がたくさんあったと答えた。息子は、自分の本も直してほしいと言った。

「図書館の本を先にする」

 遥は笑った。

 健吾が台所から顔を出した。夫は、今日はどうだったと聞いた。遥は鞄を置き、椅子に座った。

「聞いてほしいことが、ある」

 夫は火を弱めた。律も椅子に座った。遥は、今日の仕事を話した。自分の1日を、自分の言葉で、家族へ渡した。

 春、佐伯から手紙が来た。面会を求めるものではなかった。自分が関与した事実を、正式な場で説明したこと。遥の記録を返す準備があること。返事は不要だということ。

 遥は手紙を読んだ。怒りは残っていた。佐伯が今していることを、なかったことにはしない。だが、それで過去を帳消しにもしたくなかった。

 返事を書いた。

 記録は受け取ります。今は、お会いしません。

 短い文章だった。自分の境界を、説明しすぎずに伝えられた。

 夏、健吾が別の部屋で寝る夜は減った。戻ると決めた日があったわけではない。眠れそうな日に、遥が声を掛けた。今日は隣にいてほしい。夫は、分かった、と答えた。

 怖い日は、別々に眠った。そのことを失敗と呼ばなかった。

 家族は、元の形に戻らなかった。新しい形を、毎日少しずつ決めた。

 栞の誕生日には、花を買った。10歳になるはずだった娘に、何色の花が好きかは聞けない。遥は白と黄色を選んだ。好きだったと決めるのではなく、今日は自分が贈りたい色を選んだ。

 律は、来年はぼくが選ぶ、と言った。遥は頷いた。

 夏の終わり、遥と健吾は家の本棚を整理した。以前の分類へ戻すのではなく、今使うものを取りやすくする。律の本は下段。栞の記録は、遥が手を伸ばせる高さ。研究の資料は、別の箱にした。

 健吾は、昔の専門書を捨てるか迷った。知識は残っている。けれど、ページを開くと、自分が何をしたか分からないまま、責任だけが戻ってくる。

 遥は、今決めなくてよいと言った。捨てないことが、研究へ戻る約束になるわけではない。残すことと、使うことは違う。

 夫は箱に入れ、日付を書いた。保留。自分で選んだ保留だった。病院で質問を保留にされたときとは、違った。

 遥は差異目録を棚から出した。最初の字は、少し強く紙へ食い込んでいた。夫を疑った自分を、今は恥じるだけではなかった。あの感覚がなければ、栞の名前へ戻れなかった。

 けれど、疑いがいつも正しかったわけではない。律の呼び方は、息子が頼んだものだった。眠る向きには、火傷の理由があった。遥は訂正したページを見た。

 間違いを残していることが、今は大切だった。正しかった自分だけを残せば、また誰かの声を聞けなくなる。

 健吾が、ノートを見てもいいかと聞いた。遥は頷いた。夫は最初から読んだ。帰国した自分が、妻にどう見えたかを知った。

「怖かったんだね」

 夫は言った。

 遥は頷いた。怖かったという言葉を、症状ではなく経験として受け取ってもらえた。

 健吾はノートを返した。最後のページに何かを書こうとはしなかった。妻の記録を、自分の言葉で終わらせなかった。

 遥は棚へ戻した。隣に、栞の写真を置いた。差異目録は夫を調べた記録であり、自分が娘へ戻った記録でもあった。1つの分類に収まらないものを、そのまま置ける棚になった。

 9月、律が8歳になった。誕生日の写真を撮った。遥は裏に日付を書いた。健吾が、それはまだ続けるんだね、と言った。

「続ける」

「俺も、書いていい?」

 遥はペンを渡した。

 夫は日付の下に、律がケーキの苺を最後まで残したことを書いた。最後に食べたかったからだという。そんな小さなことを、夫は残した。

 遥はその字を見た。昔の健吾と同じ字だった。書いている内容は、新しい。

 帰国から、1年が過ぎた。

 すべてがよくなったわけではなかった。浴室の前で足が止まる朝もあった。健吾の言葉に、理由もなく身構える夜もあった。そのたび、2人は話した。話せないときは、そう言った。

 遥は図書館で短時間の仕事を続けていた。返却された本を受け取り、傷みを確かめ、棚に戻した。戻す場所が分からない本は、調べた。急いで決めなくてもいいのだと、以前より思えるようになった。

 ある朝、目を覚ますと、隣は空だった。

 キッチンから音がした。コーヒーの匂いがした。遥はカーディガンを羽織り、廊下を歩いた。

 健吾が背中を向けて立っていた。寝癖が、片側だけ跳ねていた。

 鼻歌を歌っていた。

 短い旋律。3つ下がって、最後に1つ上がる。

 遥は足を止めた。

 栞の歌だった。

 静江から聞いたことはあった。記憶の断片の中でも、何度か聞いた。けれど、健吾の前で歌ったことはなかった。動画にも残っていなかった。

 夫は途中で歌うのをやめた。

「何の歌だっけ」

 独り言のように言って、振り返った。

「おはよう。どうした?」

 遥は口元を押さえた。思い出したのか、と聞きたかった。戻ったのか、と。けれど、その言葉で今ここにいる健吾を、また別の誰かと比べたくなかった。

「明日もいい日」

 遥は言った。

「その歌の名前」

 健吾は少し首をかしげ、それから笑った。

「いい名前だね」

 冷蔵庫を開け、牛乳を出した。空のカップに、先に注いだ。

 遥はその手を見た。

「最近、こっちのほうが混ざる気がして」

 健吾は言った。

 覚えていたのか。新しく身についたのか。遥が何度もするのを見て、真似ただけなのか。

 分からなかった。

 分からないことを、そのままにしてもいい朝だった。

 遥は隣に立ち、自分のカップを出した。健吾がコーヒーを注いだ。白いミルクの上に黒い液体が落ち、ゆっくり渦を巻いた。

 2つの色が、同じ温度になっていく。

 律を起こすまで、まだ少し時間があった。

 遥はカップを両手で包んだ。

「おはよう、健吾」

 夫が、こちらを向いた。


 了


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― 新着の感想 ―
めっちゃよかった。 というか、ミステリ作家さんともあろうものが、よくぞ映画の番宣の「もう既に本編じゃん」 っていう導入をやってくださりました!ちがうんだ!最後まで読んでくれーと 途中涙が止まらなくなり…
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