第8章 閉架
窓は開かなかった。
鉄格子はなかった。白いカーテンと、木目の家具と、柔らかいベッド。写真に撮れば、療養に適した部屋に見えるだろう。遥は窓の取っ手を1度だけ動かし、それから触らなくなった。
病院は奥多摩の山の中にあった。看板には、ヴェルナー記念病院と書かれていた。廊下から見える湖は、天気が変わるたびに色を変えた。部屋の時計より、その変化を見ている時間のほうが長かった。
入院した日の夕方、遥は紙と筆記具を求めた。担当者は、何に使うのかと聞いた。
「記録です」
「何の?」
「ここで説明されたことを、忘れないために」
担当者は少し黙り、ノートを持ってきた。表紙は青かった。黒いノートも、差異目録も、手元にはない。遥は最初のページに、自分の名前を書いた。
水城遥。36歳。息子、律。7歳。娘、栞。
娘の年齢を書くところで、手が止まった。生きていれば9歳。亡くなったときは1歳。どちらを書くべきなのか。遥は両方を書いた。分からないことを、片方に決める必要はない。
次に、今日の日付を書いた。10月24日。部屋の時計は17時42分を示していた。時刻も書いた。
自分がここにいることを、紙に残したかった。
食事が運ばれた。魚と野菜と、ご飯。遥は担当者の名札を見た。名前を覚え、ノートに書いた。人を役割だけで見ないようにしたかった。看護師、職員、患者。そういう言葉にすると、誰が何をしたかが消える。
「私の入院は、どの手続きですか」
遥は聞いた。
担当者は、主治医から説明すると答えた。遥はその返事を、そのまま書いた。
「主治医は、いつ来ますか」
「明日、確認します」
それも書いた。
担当者は、そんなに書かなくてもと言いかけた。遥は顔を上げた。
「私は、忘れることが怖いんです」
相手は黙った。やがて、分かりましたと言った。理解したのか、話を終わらせたのか。遥には分からなかった。それでも、言った言葉は残った。
夜、律の声を聞きたいと頼んだ。電話は、今は控えたほうがいいと言われた。理由を聞くと、刺激を減らすためだと答えた。
刺激。
息子の声も、娘の名前も、同じ種類の言葉に置き換えられる。遥はノートに、律の声、と書いた。刺激ではない。
窓の外が暗くなった。湖は見えなくなった。部屋の明かりを消すと、窓に自分が映った。1人だった。
遥はベッドに横になり、律の寝顔を思い浮かべた。今度は浮かんだ。額の小さな傷。寝癖。半熟の卵を嫌がる顔。思い出せるものを、順番に数えた。
栞の顔は、写真の形で浮かんだ。まだ、動かなかった。
暗い部屋で、遥は娘の名前を小さく言った。
栞。
声に出すと、部屋の中に名前が残る気がした。何度も言えば、また消されても、どこかに引っかかるかもしれない。そんな考えが正しいとは思わなかった。それでも、言った。
眠りの中で、小さな靴が見えた。白い靴。片方だけ、土がついている。目を覚ますと、涙が出ていた。暗がりでペンが見つからず、明かりをつけるのも怖かった。遥は掌に、指で靴の形を描いた。
翌朝、食堂へ行くと、4人分の席があった。遥のほかに、年配の男と、若い女がいた。2人とも名前を呼ばれず、部屋番号で呼ばれていた。遥は自分の名前を、最初に言った。
「水城遥です」
男が顔を上げた。
「森田です」
若い女は、少し迷ってから、相川、と答えた。遥は2人の名前を覚えた。そのときノートは部屋に置いていたので、心の中で繰り返した。
森田は窓の外を見ていた。食事を終えると、テーブルの上で指を動かした。何かを弾くような動きだった。
「ピアノですか」
遥が聞くと、男は手を止めた。
「分かります?」
「そう見えたので」
森田は笑った。
「弾けるんです。でも、どこで習ったか、分からない」
遥は箸を置いた。男は、事故のあと記憶が曖昧になったと説明されていると言った。家族の話をすると、休んだほうがいいと言われる。だから、最近は話さない。
「ここに、どのくらい?」
「長いと思う。日付を、数えなくなった」
相川は2人の会話を聞いていた。やがて、私は手紙を書いていると言った。誰に出すかは、まだ決めていない。宛先が分からないから。
遥はその言葉を聞いて、自分の2018年の手帳を思い出した。記録があれば、どこかへつながると思っていた。けれど、宛先のない手紙も、ここにはある。
食後、3人は談話室へ移った。古い電子ピアノがあった。森田は椅子に座り、鍵盤に手を置いた。短い曲を弾いた。遥は題名を知らなかった。けれど、指が迷わず動くことだけは分かった。
男は途中で止まった。
「ここから、分からない」
もう1度、最初から弾いた。同じ場所で止まった。遥はその繰り返しを見ていた。自分が2018年の秋へ近づくと止まるのと、同じように見えた。
「続きを、誰かに聞いたことは?」
「聞いたら、知っている曲になるでしょう。でも、自分が知っていた曲とは、違う気がして」
遥は頷いた。栞について教わることと、栞を思い出すこと。その違いを、ここにも持つ人がいた。
相川は窓際で手紙を書いた。紙は病院からもらったものだった。遥にも1枚渡した。遥はペンを借り、日付を書いた。10月25日。自分の名前。ここへ来た経緯。
書いていると、担当者が来た。紙は預かると言った。遥は理由を聞いた。安全のためだと答えられた。紙に何の危険があるのか、説明はなかった。
遥は書いた内容を読み上げた。相川が聞き、森田が聞いた。預かられても、誰かが聞いたことは残る。担当者は困った顔をした。遥はその顔を見て、初めて少し力が戻った。
部屋へ戻ると、窓はやはり開かなかった。けれど、自分の名前を呼んだ人が、同じ建物にいる。そのことが、昨日とは違った。
談話室から戻ると、食堂の窓際で、相川がパンの袋を畳んでいた。小さく、何度も折った。遥が隣に座ると、1つ渡した。紙の端を広げると、油が染みていた。
「裏なら書ける」
相川が言った。
遥は部屋に青いノートがあると答えた。相川は、持っていかれる日もあるから、と手を引かなかった。
名札のある女が近づいてきた。昨日、家へ迎えに来た人だった。遥は立ち上がった。
「鞄を、返してください」
「必要なものをお渡しします」
「予約票が入っています」
女は少し考え、薄い袋を持ってきた。財布、ハンカチ、家の鍵。電話はなかった。予約票は、財布の内側に挟まっていた。昨日の11時と書いてある。
「ここへ、電話したいんです」
「主治医へお伝えします」
「私が行かなかったから、待ってるかもしれません」
待っていたのは、もう昨日だった。そう気づくと、急に力が抜けた。予約を取った人が来なくても、診療所は次の人を呼ぶ。自分が姿を消したことは、そこでは約束を守らない人が1人いたというだけのことになる。
遥は紙の裏に、自分のいる病院の名前を書いた。入院を望んでいないことも書いた。女に、その診療所へ渡してほしいと頼んだ。
「先生に、確認します」
遥は紙を戻してほしいと言った。女はすでに、自分の書類の間に挟んでいた。
「返してください」
声が強くなった。食堂で森田が振り向いた。相川が立った。女は笑顔を消し、今は休みましょうと言った。
遥は、何かを叩きたくなった。皿でも、机でも。叩けば、何かが起きる気がした。何も起きないよりは、そのほうがよいと思いかけた。
相川が、遥の前にパンの袋を置いた。
「まだ、書けるよ」
遥は椅子に座った。袋を開いた。破かないように、貼り合わせたところから剥がした。思ったより大きな紙になった。
名前、日付、昨日の予約の時刻。紙を持っていった職員の名前。書いているうち、机を叩きたい気持ちは少し遠ざかった。
森田が近づいてきた。
「その先生の名前、僕にも教えてください」
遥は医師の名前を言った。男は何度か繰り返した。途中で忘れ、聞き返した。遥はもう1度言った。
誰も、それで助かるとは言わなかった。男が覚えようとする間、遥はペンを置き、待っていた。
2日目、廊下の予定表に自分の名前を見つけた。
10月28日。処置。本社研究部。
あと3日だった。
「よく眠れていますか」
黒須が背後にいた。
遥は予定表から目を離した。
「何をするんですか」
「つらい時間を、整理するだけです」
「健吾が帰ってきてからのことを、消すんですね」
黒須は否定しなかった。
「8年間、幸せだったでしょう。戻ればいいんです」
遥は湖を見た。風が吹き、水面の一部だけが白くなった。
「私が何を幸せと思うか、あなたが決めるんですか」
「ご家族のためでもあります」
遥は笑いそうになった。また、家族のため。
黒須が去ったあと、遥は予定表の前に立った。自分の名前の隣にある処置という文字を、もう1度見た。
自分が同意していないことが、予定になっている。
担当者に聞くと、まだ決定ではないと言われた。遥は、では消してくださいと頼んだ。相手は、確認しますと答えた。
確認する人は、いつも別の場所にいる。自分の人生を決める人に、自分は会えない。
部屋へ戻ると、ノートを開いた。10月28日、処置予定。本人は拒否。拒否した時刻も書いた。
そのあと、律への手紙を書いた。
ママは、律が悪いことをしたからここにいるのではありません。
書いてから、消した。7歳の息子に、こんな書き出しの手紙を渡したくなかった。けれど、伝えたいことはそれだった。
律へ。ママは、ちゃんと帰りたいと思っています。
今度は消さなかった。
遥は、帰ると断言できなかった。断言できないことが、母親として失格のように感じた。だが、守れない約束を残すより、今の望みを残したかった。
手紙の続きに、駅の絵のことを書いた。入口と出口を分けたこと。いい考えだと思ったこと。帰ったら、列車を走らせたいこと。
自分が帰りたい家を、言葉で作った。
午後、担当者がノートを見た。読んでいいかと聞いた。遥は、手紙は読まないでくださいと答えた。相手は頷いた。
その小さな同意が、今日初めて自分に返された境界だった。
午後、食堂へ行くと、森田の席は空いていた。相川が、今日は部屋で休んでいると言った。誰がそう決めたのか、分からなかった。
遥は自分の予定表を思い出した。処置。本社研究部。3日後。ここで行われることは、療養という言葉の中に隠されていた。
相川は、手紙を返してもらえなかったと言った。書いた内容が本人の不安を強めるから、保管するという説明だった。
「私が書いたものなのに」
彼女は言った。
遥は、同じことを佐伯の診察室で感じた。自分の言葉が、自分を判断する材料になり、その判断によって、自分の言葉を持てなくなる。
「出したい相手は、分かった?」
「母かもしれない。でも、母がいるのか、いないのか、話す人によって違う」
遥は相川の顔を見た。病気による混乱なのか、誰かの説明による混乱なのか。自分には判断できなかった。だから、母はいるとも、いないとも言わなかった。
「あなたが、確かめたいと思ってることは、分かる」
遥は言った。
相川は頷いた。それだけで、少し表情が変わった。
夕方、佐伯が来た。
扉が閉まると、医師は初めて周囲を見回した。診察室で見た落ち着きはなかった。
「時間がありません」
「先生が、ここに送ったんですか」
「紹介状を書きました。あなたが拒否していると書いた箇所は、病院の書類には移されていませんでした」
「それでも、私がここにいるまで、待った?」
「はい」
遥は椅子を勧めなかった。佐伯も座らなかった。
「28日の処置を、止めたい」
「止められるんですか」
「1人では、止められません」
正直な答えだった。遥はその正直さを、今さらだと思った。
「栞のことが、少し戻ってきます」
遥は言った。そこから先が、続かなかった。佐伯の後ろでカーテンが揺れた。窓は開かない。空調の風だった。
「今朝、目が覚めたとき、知らないままにしておけばよかったと思いました」
佐伯は動かなかった。
遥は医師が否定してくれるのを待った。娘を知ろうとしたのは間違っていないと、いつもの落ち着いた声で言ってほしかった。けれど、言われれば、その声にも腹が立つだろうと思った。
「律に会いたい。あの子のことだけ考えていた頃に、1日でいいから、戻りたい」
机の上に、処置までの予定表の写しがあった。28日。待っていれば、望まなくても、何も知らない人へ戻されるのかもしれない。
「先生」
呼ぶと、佐伯が顔を上げた。
「本当に忘れたら、苦しくなくなるんですか」
医師の口が開き、閉じた。遥はその間を見た。8年前にも、同じ間があったのだろうか。そのあと、夫のほうへ顔を向けたのだろうか。
「あなたが何を失うかを、私は説明しませんでした」
「今も、聞いたことには答えてない」
佐伯は目を伏せた。
遥は両手を膝の下へ入れた。手が冷たく、腿の温かさに触れると、急に自分の体が重く感じられた。自分は、この医師に、もう1度救ってほしくなっていた。消されたことに怒る自分が、消してくれる人を探している。
「私がまた、忘れたいって言ったら?」
佐伯はゆっくり息を吐いた。
「そのときは、何が苦しいか、聞きます。今ここで、処置へ進めることはしません」
「信用できません」
「はい」
短い返事だった。遥は医師を見た。信用できないまま、今はこの人の手を借りるしかなかった。
ノートを引き寄せた。処置を拒む、と書いた下へ、今日も、と加えた。3日先の自分が、同じことを言えるかは分からない。今夜、また苦しくなれば、この字を破り捨てたくなるかもしれない。
それでも、ペンは置かなかった。
「今日は、消さないでください」
遥は言った。
「栞のことも、今、私が言ったことも」
佐伯はその文字をしばらく見てから、鞄の留め金を外した。
折った紙が1枚、出てきた。
「出張前、ご主人が来ました。もしものことがあったら、あなたに伝えてほしいと」
「何を?」
「閉架」
遥は顔を上げた。
図書館の、閉架書庫。利用者が直接入れない、本の保管場所。
「どうして、今まで」
「怖かったからです」
佐伯は言った。
「自分がしたことを、失いたくないものの陰に隠していました」
遥は壁の時計を見た。針が動いていた。
佐伯の電話が震えた。菜摘からだった。高槻が意識を取り戻したという。
家は聞かれている。健吾が言っていた。全部、外に隠した。2人の最初の本。
遥は何度も読んだ。
家は聞かれている。
ノートを隠していた引き出しの位置は、誰にも話していない。けれど菜摘と電話したとき、記録をつけていることは言った。自分が1人で話したはずの声を、別の誰かも聞いていた。
「図書館の本です」
遥は言った。
「私たちが出会った本。古くなって、閉架に移された」
佐伯は深く息を吸った。
「外部の医師と、病院の管理責任者へ連絡します。ここにいる理由を、私たちの説明だけで済ませないようにします」
遥は医師を見た。
「私が、出たいと言っています」
「分かりました」
外部の医師へ連絡がつくと、病院の様子が変わった。廊下に立つ職員が増えた。黒須の姿は見えなくなった。遥は部屋で、返された家の鍵を握っていた。
佐伯は1度だけ戻り、院長が判断を保留していると言った。
「黒須さんは?」
「ここには、いません」
「また、誰かを連れてきますか」
佐伯は答えなかった。分からないのだと、遥は受け取った。
来たのは、駅の診療所で会った医師だった。遥が名前を告げ、佐伯に連絡を頼んだ。病院の事情を知り、診療を終えてから来たという。見覚えのある鞄を椅子へ置き、男は遥に挨拶した。予約日に来なかったことを責めなかった。
遥は話した。車に乗せられたこと。予診票の欄。電話を返してもらえないこと。28日に予定されている処置。男はときどき確認を挟んだが、すぐに紙を閉じなかった。
「ご主人と、今、話したいですか」
「今は、話したくない」
声が、喉の奥で引っかかった。医師は頷いた。
佐伯が入ってきた。病院の管理を担当する人が、別の部屋で待っているという。黒須の指示と、病院として承認したことの範囲を確認している。医師は立ち上がらず、遥へ、今の話を伝えてよいかと聞いた。
伝えてほしいと答えた。自分が言ったことが、部屋の外へ出る。それだけなのに、ペンを握る指の力が緩んだ。
夜になって、管理を担当する男が部屋へ来た。遥に頭を下げた。手続き上の問題があったという言い方だった。遥は、その問題という言葉の中に、自分が窓を開けられずに過ごした時間を入れようとしたが、入らなかった。
「ここへ来たときの書類を、ください」
「確認のうえ」
「今、見たいです」
男は部屋を出た。30分後、写しが届いた。暴力あり、という欄には、家族への威嚇、物損と記されていた。遥はその下に、自分の覚えていることを書いた。紙を直してほしいと頼んだ。男はすぐには承諾しなかった。
「では、私が違うと言ったことを、一緒に残してください」
紙は別々になった。病院の説明と、遥の言葉。どちらも同じ封筒に入れられた。遥は封筒の口を、自分で折った。
退院が決まると、男は、北側の扉から出られますと言った。正面に会社の車があるかもしれないという。佐伯が菜摘へ連絡した。遥は返された鞄に、予約票があるか確かめた。
佐伯と北側の扉へ向かう途中、遥は森田と相川のことを話した。自分の記憶について説明を受けられていないように見える。記録を取り上げられている。確かめてほしい。
佐伯はメモを取った。
「私が出たら、2人は残ります」
遥は言った。
「私だけが出られれば、終わりではありません」
医師は頷いた。自分の関与した範囲と、確認できていない範囲を分けて、外部へ伝えると答えた。すべてを救うという大きな約束はしなかった。そのことを、遥は少し信用した。
廊下で相川に会った。彼女は、返されたばかりの遥の鞄を見た。
「帰るんですね」
「出たいと、伝えたから」
「私も、伝えていい?」
「いいと思う。でも、私にはここで何が決まるか分からない。佐伯先生に、あなたが確かめたいことを伝えた」
相川は頷いた。遥は、助けると約束しなかった。約束できないことを、安心のために言いたくなかった。
森田は談話室にいた。鍵盤に手を置いていたが、弾いていなかった。遥が挨拶すると、男は顔を上げた。
「水城さん」
名前を呼ばれた。
遥は頷いた。最初に言った名前が、誰かの中に残っていた。
「続きが分かったら、聞かせてください」
遥は言った。
森田は、分からなくても弾いていいかな、と聞いた。遥は、もちろん、と答えた。続きがなくても、今ある音は、男のものだった。
北側の扉で靴を履いた。紐を結ぶのに、2度やり直した。扉が開くと、雨上がりの土の匂いがした。手すりに止まった蛾の横を、羽に触れないように通った。
菜摘の車のドアを開けると、友人は何も聞かなかった。温かい飲み物を渡した。遥は両手で持った。紙コップの熱が、指に戻った。
「名前を、覚えてて」
遥は言った。
「森田さんと、相川さん。ここにいる人」
菜摘はメモを取った。遥はその文字を見た。病院の外に、2人の名前が出た。
病院の明かりが、木々の向こうへ遠ざかった。
佐伯は扉の内側に残った。遥は何か言おうとして、やめた。礼も、次に会う約束も、今は言えなかった。
車は山道を下りた。窓に映る自分の顔を見ながら、遥は言った。
「娘の誕生日を、思い出せないの」
菜摘は前を向いたまま、頷いた。
「終わったら、聞こう」
「自分で、思い出したい」
「うん」
それ以上の慰めはなかった。遥はそれがありがたかった。
図書館では、菜摘が館長に事情を伝え、夜間の入館を認めてもらっていた。誰にも言わずに忍び込むことはできないと、彼女は言った。遥はその言葉に、昔の職場の空気を感じた。規則は、人を閉じ込めるためだけにあるのではない。
閉架書庫は、非常灯の下で眠っていた。
953。フランス文学。
遥は迷わず歩いた。体が道順を覚えていた。忘れていない自分も、まだいた。
同じ題名の本が4冊あった。1番古い版。角が欠けている。健吾が鞄に入れたままにして、傷めた本。
裏表紙を開いた。古い返却期限票が残っていた。
2010年6月18日。
健吾が返しに来た日だった。
背の内側に、透明なケースがあった。小さなカードと、折り畳まれた便箋。
延滞した本で説教されて惚れた男より。
遥は便箋を胸に当てた。初めて、会いたいと思った。隣にいたはずの夫に、会いたかった。
足音がした。
菜摘が振り向いた。書架の間に、健吾が立っていた。
その後ろに、黒い服の男がいた。
「それを、渡してくれ」
健吾の手が、遥に向けて伸びた。




