第7章 同意書
佐伯は、正しかったとは言わなかった。
そのことだけは、遥にも分かった。
「ご主人は、あなたを失うことを恐れていました。私も、目の前の危機をどうにかすることしか考えられなかった」
8年前の経緯が語られた。事故のあと、遥は繰り返し同じ場面に引き戻され、食事も睡眠も保てなくなった。健吾は研究中の薬について相談した。会社の研究部長だった黒須誠一が、臨床研究として行う道を用意した。
「私には、同意できる状態ではないと」
遥は書類の文言を読んだ。
「そう判断しました」
「だから、夫が決めた」
「はい」
「それを、先生が実行した」
佐伯は頷いた。
遥は怒鳴らなかった。怒鳴れば、話が止まると思った。今は、全部聞く必要があった。
「娘の死だけでは、なかったんですね」
「記憶は、書類のページのように切り離せません。事故につながる出来事を避けようとすると、その前後にも影響が及びました」
栞を産んだこと。育てたこと。退職した理由。写真の整理。周囲への説明。薬だけでは足りなかった部分を、家族と会社が埋めた。
遥の8年間は、誰かが編集した本だった。
「今の薬も?」
佐伯は目を伏せた。
「今回お出ししたものには、研究薬が含まれていました。説明した内容と違います」
遥は椅子の背から体を離した。
「眠れる薬だと言いました」
「はい」
「カプグラかもしれないと」
「あなたの訴えを、その枠に収めようとしました」
謝罪の言葉が続いた。遥は止めた。
「謝るのは、あとにしてください」
佐伯は口を閉じた。
「健吾に、何があったんですか」
黒須から連絡があったという。水城が会社を裏切ろうとした。処置は済んだ。妻が騒いだら、症状として扱ってほしい。
佐伯は、その指示に従った。
「私に、何か言おうとはしなかったんですか」
遥が聞くと、佐伯は名刺の裏の番号を見た。
「夜でも連絡をと、お伝えすれば、話す機会を作れると思いました」
「私から電話するまで、待ったんですね」
医師は返事をしなかった。
「告発に関する記憶だけを処置したと聞いていました。栞のことまで失ったとは、知らなかった」
「知らなければ、よかったんですか」
「いいえ」
返事は、今度は早かった。
遥は名刺を机に置いた。夜でも連絡していいと書かれた番号。救いのように受け取ったものだった。
「先生は、どこまで私の味方ですか」
佐伯は答えられなかった。
佐伯は録音機を机に置いた。古い型の、小さなものだった。電池の蓋に、テープが貼ってあった。
「当時の面談です。聞きますか」
遥はすぐには頷かなかった。知らない自分の声を聞く。娘を失い、周囲に危険だと思われた自分。その声を聞いたら、医師の判断に納得してしまうかもしれない。それが怖かった。
「最後まで聞かなくても、いいですか」
「もちろんです」
もちろん、という言葉が、今なら使われる。遥は頷いた。
再生の音がした。衣擦れ。椅子を動かす音。佐伯の声が、今より少し若かった。眠れましたかと聞いている。遥の返事は小さく、機械の音に紛れた。
もう1度、佐伯が尋ねた。薬を使う方法があります、と説明が続いた。苦しさを軽くするという言葉があった。
やがて、自分の声が聞こえた。
あの子は。
遥は両手を膝へ押しつけた。続きを聞くまで、何を尋ねたのか分からなかった。
あの子は、どこに行くんですか。
録音の中で、佐伯は答えなかった。少し間があり、病室の扉が開いた。健吾の声がした。母さんが来てる。遥、少し休もう。録音はそこで途切れた。
「その質問のあと、説明したんですか」
佐伯は首を振った。
「ご主人と、お母様にお話をしました」
「私にじゃなく」
「はい」
遥は録音機を見た。テープで押さえた蓋。機械は8年前の声を残し、人は質問の続きを残さなかった。
「これを、消さないでください」
「写しをお渡しします」
「元のものも」
佐伯は頷き、録音機を止めた。指が、停止のボタンからなかなか離れなかった。
医師は、当時の手順書を出した。記憶を語らせ、関連する写真を見せ、薬を投与したあと、時間を置いて面談する。その繰り返しが、何日にもわたり記録されていた。
「1錠飲めば、1つの思い出だけ消えるんですか」
「そういうものではありません」
佐伯の返事は、今までより低かった。
「結果が揃わない。狙ったものだけが消える保証もない。数字にできた部分だけを、成果としてまとめました」
うまくいかなかった人の記録は、別の綴りにあるという。遥は、それも机へ出してほしいと頼んだ。自分の紙だけを取り戻せば終わるとは、もう思えなかった。
「私の生活が戻ったのは、薬が成功したからだと、報告したんですね」
「はい」
「健吾が写真を片づけて、みんなが黙ったことも、薬の成功にした?」
佐伯は手順書を閉じなかった。端の紙が折れていた。医師はそれを指で戻し、戻らないと分かると手を離した。
「区別しませんでした」
遥は目を閉じた。自分が笑った8年間は、誰かが結果をよく見せるための数字でもあった。
白い錠剤を入れた包みを、机に置いた。別の診療所で確かめられなかったものだと説明した。佐伯は触れようとしたが、遥は手をかぶせた。
「これは、私が持っていきます」
医師は両手を膝へ戻した。
遥は謝金の頁を開き、3万円を受け取った記憶もないと伝えた。佐伯は、実際の受領を確認していないと言った。夫への連絡で済ませ、そのあと報告書に署名したのだという。遥は受領の欄を指した。
「ここは、空欄だったんですね」
医師は頷いた。遥はその頁も、写しを求める束へ入れた。
遥は薬を包み直した。包み紙の折り目が増えていた。何も知らずに飲み込んだ夜のことを、体が覚えている。佐伯の前では涙が出なかった。紙を折る指だけが、うまく動かなかった。
佐伯は、8年前の記録を机に並べた。遥は紙を1枚ずつ読んだ。知らない言葉があれば、説明を求めた。医師が説明すると、その言葉も書いた。
対象記憶。関連刺激。再評価。維持。
どれも、娘の名前の代わりに使われていた。
「ここには、栞のことが、対象記憶と書いてあります」
遥は言った。
「はい」
「先生は、名前を呼びましたか」
佐伯は黙った。
「処置の前、私の娘を、栞と呼びましたか」
「ご主人から、名前は聞いていました」
「聞いたことではなくて、呼んだことを聞いています」
医師は、いいえ、と答えた。
遥は紙を置いた。名前を呼ばなければ、人ではなくなる。書類の中の項目になる。そうすれば、消すことを治療と呼べるのかもしれない。
「栞です」
遥は言った。
「私の娘は、栞です」
佐伯は頷いた。
「栞さんです」
その声を聞いても、怒りは消えなかった。今さら名前を呼ばれても、8年間は戻らない。
書類の中に、遥の言葉を記録したページがあった。もう眠りたい。考えたくない。楽になりたい。
「これは、私が言ったんですね」
「はい」
「忘れたいとは、書いていません」
佐伯は目を伏せた。
「そうです」
遥は、その違いを指でなぞった。楽になりたいと願うことが、娘をいなかったことにする同意へ変えられた。誰かが、言葉の間に橋を架けた。遥はその橋を渡った覚えがない。
「夫が署名したから、私が望んだことになるんですか」
「なりません」
「でも、先生は、そう扱った」
「はい」
佐伯は言い訳をしなかった。言い訳をしないことが、責任を取ることと同じではない。遥はそのことも、忘れないように書いた。
医師は、研究に関わるようになった経緯を話した。つらい記憶を抱えた人を支えたいと思った。薬で苦痛を減らせるなら、救える人がいると思った。最初は、同意と安全を守る条件があった。
「条件が崩れたとき、離れませんでした」
佐伯は言った。
「自分が残れば、まだ守れると思って」
「守れたんですか」
「いいえ」
遥は、まだ守れる、という言葉を見た。家族も、医師も、会社も、守ると言った。守られた自分は、何も知らなかった。
「私が知ることは、危険だと思ったんですね」
「思いました」
「先生にとっても」
佐伯は頷いた。
「私にとっても、です」
佐伯は眼鏡を机に置いた。右のつるに、細い亀裂があった。遥はそれを見ながら、医師が次に何を差し出すか待った。
遥は記録の写しを求めた。佐伯は用意すると答えた。
「会社に、連絡しないでください」
遥は言った。
「私が来たことも、話したことも」
佐伯は頷いた。遥は、その頷きを信用できるか分からなかった。だから、約束した時刻をノートに書いた。
窓に、向かいの看板の白い光が映っていた。
遥は立ち上がった。椅子の脚が床を擦った。自分が立ち上がる音を、確かに聞いた。
佐伯の診察室を出たとき、待合室には誰もいなかった。受付の明かりは消え、傘立てだけが廊下の照明を受けていた。遥はコートの袖を通した。右と左を間違え、1度脱いだ。
佐伯が、駅まで送ると言った。遥は断った。建物の外へ出ると、まだ夜だった。空が明るくなりかけていたのは、診察室の窓に向かいの看板が反射していたためだった。時計は午前2時を過ぎていた。
始発までは、まだ時間があった。遥は大通りまで歩き、タクシーを拾った。運転手に住所を告げると、自分の家の名前が普通に口から出た。そのことに、少し驚いた。
助手席の背に、忘れ物にご注意くださいと書いてあった。
遥は鞄を両腕で抱いた。紙と、薬と、娘の写真。何を忘れたらいちばん困るのか、もう順番がつけられなかった。
車が信号で止まった。自転車に乗った人が、交差点を渡っていった。荷台に大きな箱を載せていた。どこかの店へ、朝のものを届けるのだろう。自分にも、明日の夕食を作る仕事がある。律を起こし、学校へ送り出す。その生活の中へ、娘の名前を入れなければならない。
窓に映る顔を見た。娘を知らなかった昨日と、顔は変わらない。健吾が遥を見るときも、こういうことだったのだろうか。同じ顔の人が、昨日まで知っていたことを知らない。
夫のことを理解したと思うのは、まだ早かった。理解すれば、怒る場所を失う気がした。遥は窓から目を離し、膝の上の鞄を見た。
家の前で降りると、2階の窓に明かりがあった。健吾は起きていた。鍵を差し込む前に、遥は深く息を吸った。夫を問い詰めるために帰ったのではない。自分が帰る家だから、帰ったのだと言い聞かせた。
扉が開き、健吾が立っていた。遥が鍵を回す前だった。
「寒かった?」
その質問に、遥は急に泣きたくなった。何も知らない夫が、自分の手の冷たさだけを気にしている。
「寒かった」
答えると、夫は廊下の暖房をつけた。遥は靴を脱ぎ、揃えずに上がった。夫も、直さなかった。
リビングの明かりの下で、健吾は栞の写真を見た。
「母さんに聞いた。俺が、君の治療を決めたって」
遥はコートを脱いだ。
「覚えてる?」
「何も」
健吾は写真を置いた。
「覚えてないと言うたび、嘘をついてる気がする。でも、本当に何もないんだ」
遥は向かいに座った。2人の間に、知らない娘の写真があった。片方は少しずつ思い出し始め、片方は思い出せない。その差を、どう呼べばいいのか分からなかった。
翌朝、遥は健吾と同じ机に座り、2018年の書類を読んだ。佐伯から受け取った写しだった。夫は自分の署名を見て、何度も指を止めた。
「俺の字だ」
「そう」
「書いたことが、分からない」
遥は、分からないと言う夫を責めなかった。責める言葉は、書類の中に十分あった。対象記憶。環境調整。家族指導。栞という名前は、最初のページにしかなかった。
健吾は環境調整の欄を読んだ。写真の撤去、関連物品の保管、周囲への説明。家族が行ったことが、手順として書かれていた。
「俺が、家の中を変えたんだ」
夫は言った。
遥は頷いた。今の家には、栞のものがない。自分が娘を忘れたあと、家も娘を忘れた。薬の作用だけではなく、毎日の暮らしが、忘れることを支えた。
「律が生まれたときも、知ってたんだよね」
遥は聞いた。
健吾は答えられなかった。書類には、2019年の定期確認があった。遥の生活は安定している。家族関係良好。対象記憶の再出現なし。
律が生まれた年が、研究の成功を示す年になっていた。
遥は紙を閉じた。息子の誕生まで、誰かの評価の中にあることが耐えがたかった。律は研究結果ではない。自分たちの子どもだ。
健吾は、これを外に見せようと言った。遥は顔を上げた。
「会社に?」
「会社以外に」
その言葉を、夫が初めて口にした。遥は駅の診療所の医師を思い浮かべた。だが、夫の会社の記録まで持ち込めば、診療の相談だけでは済まなくなる。その怖さを伝えた。
「渡すんじゃなくて、聞く」
健吾は言った。
「決めるのは、君」
遥は夫を見た。今の健吾が言うその言葉を、信じたいと思った。けれど、信じることと、確認することを、今度は分けたかった。
菜摘に連絡した。友人は、相談の前に、何を望むかを書いておこうと言った。遥は紙を出した。
自分の記録を知りたい。娘のことを取り戻したい。夫に何が起きたか知りたい。律の生活を守りたい。勝手に処置されたくない。
最後の1行を書いたとき、手が止まった。そんな望みを、改めて書かなければならない生活になったのだ。
昼、静江が来た。栞の写真を数枚持っていた。箱を全部持ってくるのは、まだ早いと思ったという。遥は、早いかどうかは私が決めますと言った。義母は頷いた。
その頷きは、以前より小さかった。静江は自分の判断を、初めて途中で止めた。
写真には、健吾が栞を抱く姿があった。父親の腕の中で、娘は眠っていた。夫は写真を長く見た。自分の腕を見て、写真を見た。
「この重さを、知らない」
健吾は言った。
遥も知らなかった。2人で同じ写真を見ながら、同じものを失っているわけではない。夫は父親だった自分を失い、遥は娘と過ごした自分を失った。
静江は、2人に謝った。謝る言葉は何度も出た。遥は、今は話してほしいと言った。謝罪は、出来事の代わりにはならない。
義母は、栞が眠るときの癖を話した。片手を開き、もう片方を握る。健吾が歌うと、握った手が緩む。遥はその説明を、ノートに書いた。自分の娘を、聞き取り調査のように知っていく。その悲しさを、今は避けられなかった。
静江が持ってきた写真の中に、栞のいない写真が1枚あった。小さな公園のベンチ。健吾が座り、遥が隣に立っている。娘は写っていない。
「栞は、どこに?」
遥が聞くと、静江はベビーカーの中だと答えた。撮ったとき、眠っていた。写真の外にいたのだという。
遥は写真を見た。娘が写っていなくても、娘のいる日だった。今まで自分が見てきた風景の写真にも、写真の外に栞がいたかもしれない。人を消すことは、顔を消すことだけではない。写真の外にいた人を、誰も語らなくなることでもある。
静江は、健吾が栞のために作ったものを話した。棚の角に貼った保護材。窓に付けた留め具。引っ越すときに持ってきた小さな踏み台。律が生まれたとき、そのまま使ったという。
遥は家の中を見た。自分が律のためだと思っていたものに、娘の時間が残っている。物は、説明を変えられても、形を残した。
「私が、これは何、と聞いたことは?」
「あるわ」
「何て、答えたんですか」
静江は目を伏せた。
「律のために、準備したって」
遥は息を吐いた。1つの嘘は、次の嘘を必要とした。棚の角、窓の鍵、踏み台。家の中の物が、質問されるたびに別の由来を与えられた。
静江が帰ったあと、遥は窓の留め具を触った。金属が冷たかった。娘のために付けたものを、娘を忘れた自分が使っていた。8年間、何も知らずに開け閉めした。
遥は留め具を外さなかった。栞のためだったと、ノートに書いた。物の由来を、元の名前へ戻した。
数日間、遥の眠りは浅かった。
小さな手が髪をつかむ。ベランダで誰かが笑う。スプーンが床に落ちる。断片は、順番を持たずに現れた。自分の記憶なのか、聞いた話から作った映像なのか、確かめられなかった。
それでも、朝、枕が濡れていた。
律には、まだ詳しい話をしなかった。隠すためではなく、何をどこまで話すか、遥自身が考える時間を必要としていた。息子の生活まで、真実を知った日の混乱に巻き込みたくなかった。
けれど、律は変化に気づいていた。
「ママ、パパと喧嘩してる?」
夕方、ランドセルを下ろしながら聞いた。
「話してるの。難しい話」
「ぼくのこと?」
「律が悪いことをした話じゃない」
遥は先に言った。子どもは、大人が黙ると自分のせいだと思うことがある。菜摘に言われたことを思い出した。
律は少し考え、頷いた。
「じゃあ、終わったら教えて」
「分かった」
遥は約束した。今度は、いつか話すという言葉を、隠すために使いたくなかった。
健吾は、栞の写真を毎晩見た。最初は、遥のいないときに。やがて、同じ部屋でも見るようになった。
「似てるね」
ある夜、夫が言った。
「誰に?」
「律に」
遥は写真を見た。似ていると思った。けれど、似ていることが、2人を同じ子どもにするわけではない。
「律は、栞の代わりじゃない」
言ってから、夫を責める言葉になったと気づいた。
健吾は首を振った。
「代わりだとは、思ってない」
「昔のあなたは、どう思ったのかな」
夫は答えられなかった。
遥も、答えを持っていなかった。娘を忘れた自分が、息子をどんな気持ちで迎えたのか。その時間まで、誰かの説明で埋めたくなかった。
静江から、律が生まれた日の写真が届いた。遥は泣いていた。健吾も泣いていた。写真の裏に、2019年9月2日、とあった。
栞が亡くなってから、10か月足らず。
遥は写真を閉じた。数字だけで、人の気持ちは測れない。それでも、時間の短さに息が詰まった。
健吾が、見てもいいかと聞いた。遥は渡した。
「俺、嬉しそうだ」
夫は言った。
「うん」
「このとき、栞を覚えてたんだよね」
遥は頷いた。
健吾は写真を長く見た。喜びの中に、失った娘の記憶があった人。今の夫には、その両方が分からない。
「君だけ、知らなかった」
声が小さくなった。
「そう」
遥は答えた。
夫は謝らなかった。謝る前に、事実を受け取ろうとしていた。その時間を、遥は待った。
翌日、健吾は会社へ行った。帰宅する前に、客を連れてくると連絡があった。上司だという。
遥は夕食の量を増やした。まだ、断る理由をうまく言えなかった。夫の仕事の人に、家の混乱を見せたくない。その古い習慣が、先に体を動かした。
玄関のチャイムが鳴った。
栞が好きだった音だと、遥は思った。
客が来ると聞いたとき、遥は断ろうとした。健吾は、短い挨拶だけだと言った。会社へ行けていない自分を心配している。帰国後の仕事の調整について、家族にも説明したいらしい。
家族にも説明する。その言葉に、遥は少し期待した。今まで、夫の仕事は家の外にあった。研究が自分の記憶に関わるなら、説明を受ける機会が必要だった。
遥は食卓の上を片づけた。栞の写真は棚に置いたままにした。隠す理由はない。健吾は写真を見たが、何も言わなかった。
律は来客用のコップを並べた。いつも使わないものだから、慎重に置いた。1つの底に、小さな傷があった。遥はその傷を見て、使えるからいいと言った。息子は安心したように、最後のコップを置いた。
扉を開けると、黒須が立っていた。
黒須誠一。55歳。現在は日本法人の執行役員だと紹介された。洋菓子の箱を差し出す手は、よく手入れされていた。
「はじめまして、奥さん」
遥はその声を聞いた瞬間、白い病室を見た。
窓の外の銀杏。ベッドの脇の男。
全部、忘れられますからね。
お盆の上でグラスが鳴った。黒須の目が、ほんの少し細くなった。
「お疲れのようですね」
「少し」
黒須は玄関で靴を揃えた。遥へ頭を下げ、律の名前を呼んだ。初対面ではないような親しさだった。律は、会ったことある、と聞いた。
「お父さんから、よく聞いているよ」
黒須は答えた。遥はその答えを聞いた。会ったことがあるかどうかには、答えていない。
黒須はリビングの時計を見た。新しくなったんですね、と言った。健吾が気づかなかった時計に、上司が気づいた。
「前の時計を、知っているんですか」
遥は聞いた。
「以前、伺ったときに」
「いつですか」
黒須は笑った。
「ずいぶん前です。お子さんが小さい頃」
遥はその訪問を覚えていなかった。健吾を見ると、夫も困ったように笑った。黒須はすぐに、仕事の話へ移った。
帰国後の健吾には負担を掛けない。研究の中心から外し、資料の整理を任せる。必要な休暇も取れる。言葉だけなら、配慮のある会社だった。
遥は、夫の記憶について、会社がどこまで知っているかを聞いた。黒須は、医療のことは専門家へ任せていると答えた。会社は生活を支えるだけだという。
「生活を支えるために、何をしていますか」
遥は聞いた。
黒須は給与、休暇、相談窓口を挙げた。遥は、研究記録のことを聞きたいと言った。黒須の視線が、健吾へ動いた。
「今、詳しい資料を読むことが、負担になる可能性があります」
「誰の負担ですか」
「ご本人と、ご家族の」
遥はコップを持った。水を飲み、置いた。声を荒らげれば、負担の証拠にされる気がした。
「私は、説明を受けたいと言っています」
黒須は頷いた。
「そのご希望は、受け止めます」
受け止めるという言葉のあとに、予定はなかった。誰が、いつ、何を説明するか。遥が尋ねると、確認して連絡すると答えた。
律が菓子の箱を開けた。会話が止まった。黒須は息子に、どれが好きかと聞いた。律は黄色いものを選んだ。遥はその色を見て、栞の洗濯ばさみを思い出した。まだ自分の記憶ではなく、ふみから聞いた話だった。
黒須は棚の写真を見た。栞の写真だった。何も言わなかった。見たあと、視線を戻すまでの時間が短すぎた。
遥は、その短さを覚えた。知らない子の写真なら、誰かと聞く。知っている子の写真なら、名前を呼ぶ。黒須はどちらもしなかった。
この人は、写真がここにある理由を知っている。遥はそう思った。けれど、思ったことと証拠は違う。ノートには、写真を見た、何も言わなかった、とだけ書くことにした。
黒須は取り分けられた肉を、小さく切ってから食べた。律がその皿を見て、噛むのが痛いの、と聞いた。
「少し前に、歯を治したんだ」
「ぼくは、抜ける」
律が前歯を見せると、黒須は笑った。その笑顔には、子どもの扱いに慣れた人の柔らかさがあった。遥は腹が立った。露骨に恐ろしい人であれば、もっと簡単に玄関を閉められた。
健吾が汁物を置いた。黒須は礼を言い、急に、彼の父親の話をした。
「私の父は、晩年、私の名前が分からなくなりました」
健吾が顔を上げた。
「それでも、私が帰ると機嫌がよくなった。家族というのは、不思議なものですね」
遥は箸を置いた。黒須は遥を見ず、律の食べ終えた皿を脇へ寄せた。
「全部を覚えていなくても、家族ではいられる」
「お父様は、忘れたくて忘れたんですか」
遥が聞くと、黒須は視線を上げた。
「病気です」
「だったら、私たちの話と、一緒にしないでください」
律が顔を上げた。遥は言葉を止めたが、黒須は穏やかに、水城さんの奥さんは厳しいな、と健吾へ笑いかけた。夫は笑わなかった。
律が菓子を取りに台所へ行ったとき、黒須は声を落とした。
「本社から、調査の担当者が来ます。火災後の対応について、確認するためです」
「健吾にも会いますか」
「必要があれば」
「私にも、会わせてください」
黒須のナイフが皿の上で止まった。
「まずはご主人の体調です。今、複雑な話をすれば、混乱が強くなる」
「私が話すのも、駄目ですか」
律が箱を持って戻ってきた。黒須は箱を受け取り、包みを開けるのを手伝った。返事はなかった。
そのあと、健吾が飲み物を作りに席を立った。黒須は鞄から、会議の日程表らしい紙を少しだけ出した。電話が鳴ると、慌ててしまった。最上段に英語の会社名があり、日付の横に太い線が引かれていた。
「いつまでに、私たちは元気になればいいんですか」
遥が言うと、黒須は初めて、聞き返さなかった。
すぐに笑顔へ戻ったが、あの沈黙は残った。遥は客の皿を下げた。小さく切られた肉が、1切れだけ残っていた。
食事の間、黒須はよく笑った。律の宿題を褒め、健吾の仕事を讃えた。遥は料理を取り分けながら、この人が自分の娘の名前を知っていることを考えた。知っていて、初対面の顔をしている。
「静かな場所で、休まれては」
黒須は食後に言った。
「提携病院があります。ご家族も安心できる」
「佐伯先生に診ていただいています」
「彼女も、疲れているようだ」
その言葉は、遥に向けられたものなのに、別の誰かの首に手を掛けるように聞こえた。
黒須が帰るまで、律は学校の話をした。黒須はときどき聞き返した。黄色い菓子の包みを丁寧に伸ばしながら、律は同じところから説明し直した。
遥はその上手さが怖かった。人の話を聞くことが、相手を知るためではなく、相手を扱うためにも使える。佐伯の診察室で感じた安心が、黒須の笑顔の中で別の意味になった。
健吾は、上司に礼を言った。帰国後の仕事を調整してもらっているらしかった。遥は夫の横顔を見た。会社が自分を助けていると、まだ思っているのか。そう思わなければ、失った記憶の上に立てないのか。
黒須が帰ったあと、遥は夫に言った。
「あの人を、家に入れないで」
健吾は驚いた。
「どうして?」
「私の記憶に関わった人だから」
「証拠は?」
その言葉に、遥は息を止めた。証拠を集めているのは自分だった。けれど、家に誰を入れるかという希望まで、証拠がなければ言えないのか。
「私が、嫌なの」
遥は言った。
健吾は黙った。しばらくして、分かったと答えた。けれど、その夜、書斎で電話をしていた。遥には内容が聞こえなかった。
黒須が帰ったあと、健吾は書斎のパソコンを開いた。遥は廊下から声を掛けた。扉は開いていた。
「明日、駅の近くの先生に会う。会社とは関係のない人」
健吾は画面から目を離した。
「佐伯先生以外に、もう行ったの?」
「うん」
「何て言われた?」
「私の話を、別に聞けるって」
夫の顔から、表情が少しずつ抜けた。怒りではなかった。自分の知らないところで妻について話が進んだことに、怯えているようだった。
「俺のことも、話した?」
「話した」
健吾は頷いた。画面を閉じようとして、途中で手を止めた。遥はその隙間に、自分の名前を見た。家族相談。経過報告。読めたのはそれだけだった。
「何、それ」
「会社へ、状況を」
「私がどこへ行ったか、伝えるの?」
健吾は答えなかった。
「明日の先生のことは、書かないで」
遥は言った。健吾はパソコンを閉じた。
寝室へ戻ると、律が扉のところに座っていた。手に、学校へ出す紙を持っていた。保護者の署名を忘れていたのだ。
「どっちでもいいの?」
遥が聞くと、律は、先生がそう言ったと答えた。遥が名前を書き始めると、息子は、パパじゃないんだ、と呟いた。
「パパがよかった?」
「ドイツから帰ったから、パパの字がいいと思った」
遥はペンを止めた。自分の名前を半分まで書いていた。律はその字を見て、いいよ、ママで、と笑った。
書き直せる紙ならよかった。もう1枚もらってくればよかった。そんな些細な後悔が、息子を寝かせたあとも残った。
夜中、書斎から電話の声がした。遥は廊下の途中まで行き、止まった。健吾は、自分だけでは判断できないと言っていた。助けてください、という言葉が聞こえた。
夫が助けを求める声を、遥はほとんど聞いたことがなかった。会社の人に向けたその声が、自分に向けられなかったことが、怖さより先に悲しかった。
寝室へ戻った。電話を手に取り、駅の診療所の予約を確かめた。明日の11時。あと半日で、自分の話を聞く人に会える。
その予定を、差異目録の端に書いた。律の署名用紙と同じペンを使った。インクはまだ十分に出た。
翌朝、律の靴がなかった。ランドセルはあった。学校へ行ったのではない。遥は階段を上がり、息子の部屋を見た。布団は畳まれていた。静江の家へ行くときの小さな鞄もなかった。
健吾は台所にいた。入院の書類が、机に置かれていた。遥はその紙を見た瞬間、昨日の夜の会話が、何の効力も持たなかったと知った。
「話し合う前に、律を預けたの」
「落ち着いて話すために」
「私が、落ち着かないと思ったから」
健吾は答えなかった。
遥は静江に電話した。義母は、律は元気だと言った。遥は息子の声を聞きたいと頼んだ。律が出た。おばあちゃんの家で朝ごはんを食べている、と言った。
「ママ、病院に行くの?」
遥は健吾を見た。
「まだ、決めてない」
「パパは、行くって」
息子の声は普通だった。大人の決めた予定を、そのまま受け取っていた。
遥は、あとで話すと伝えた。電話を切り、夫の前に座った。
「律にまで、私が決めたことにしたの」
「君のために」
「その言葉を、やめて」
健吾は口を閉じた。
インターホンが鳴るまで、遥は書類を読んだ。読めば拒めると思った。けれど、紙の上には、家族の意向、主治医の判断、療養の必要性が並んでいた。本人の希望を書く欄は、空いていた。
遥はそこに、入院を望まない、と書いた。ペンを置いた。健吾がその文字を見た。
「それでも、行かせるの?」
夫は目を伏せた。玄関の音が、もう1度鳴った。
「君を守りたい」
健吾は言った。
遥は書類を見た。書式も日付も違う。けれど、8年前の紙と同じものに見えた。
「また、私の代わりに決めるの」
「専門の先生が必要だと言ってる」
「あなたは、栞を忘れてる。私が言っていることが本当かどうか、分からないでしょう」
健吾の顔が苦しそうに歪んだ。
「分からないから、医者に」
「その医者が、私の記憶を消したの」
インターホンが鳴った。
遥はモニターを見た。車と、迎えに来た人たち。自分の家の玄関が、急に出口ではなくなった。
健吾がペンを持った。
「ごめん」
署名が書かれた。
遥はその手を見ていた。知らない人の手ではなかった。だからこそ、痛かった。
迎えの人は、病院の職員だと名乗った。若い男と、紺色の上着を着た女だった。女は遥の靴を揃え、上着を着るよう勧めた。
「私は、行かないと伝えました」
遥は女の名札を見た。名前の下には、家族支援室とあった。病院の名前はなかった。
「先生がお待ちですから」
「先生が待っているから、私が行くんですか」
女は健吾を見た。遥ではなく、夫へ確認する。その視線の動きを、遥ははっきり見た。
「まず、お話を聞くだけだって」
健吾が言った。
「帰る時間は?」
「それは、診ていただいてから」
遥は携帯電話を取った。菜摘へ電話しようとすると、女が手を差し出した。
「お荷物はまとめて、お預かりします」
渡さなかった。遥は夫を見た。夫は助けを求めるように、女を見ていた。誰も自分を見ていないと思った瞬間、遥は玄関から離れ、洗面所へ向かった。
扉を閉めようとしたが、男の手が入った。大きな手だった。声は優しいままだった。
「危ないことは、なさらないでください」
何が危ないのか分からない。遥が手を伸ばしたのは、タオルの横に置いた電話だった。女が何かを言い、健吾が後ろから遥の肩に触れた。
「遥、頼む」
頼まれたのは、何をすることだったのか。そのときには考えられなかった。怖くて体が固まり、女に腕を支えられた。歩いたというより、歩く形にされた。
車に乗せられる前、遥は道路の向こうを見た。いつも落ち葉を掃いている人の家は、雨戸が開いていた。誰かが見ていてくれるかもしれない。そう思い、声を出そうとした。
「助けて」
小さすぎた。自分の声なのに、どこへも届かなかった。
女が上着を掛けた。窓が閉まり、ドアの鍵が鳴った。健吾は家の前に残った。遥は窓を叩いた。夫が近づいたが、車は動き始めた。
電話は鞄の中にあった。男が、院内では使えないのでと言って、鞄ごと足元へ置いた。まだ院内ではなかった。遥はそのことを言おうとして、息が続かなかった。
男の膝の上に予診票があった。暴力、あり。自傷のおそれ、あり。どちらも、健吾が机で読んでいた紙にはなかった欄だった。
「私、誰に暴力を」
男は紙を裏返した。
「先生にお話しください」
山へ向かう道で、雨が降り始めた。遥は流れる窓の水を目で追った。真っ直ぐ落ちた滴が、途中から斜めになった。どこを走っているのか、もう分からなかった。




