第6章 栞
「私に、娘がいたの?」
床に座ったまま、遥は聞いた。
菜摘は、いた、と答えた。目をそらさなかった。
「私は、知ってた」
「名前は?」
友人は唇を噛んだ。
「しおり。どういう漢字だったか、ごめん、今、出てこない」
遥は床を見た。自分の娘が、友人の記憶の中では曖昧な名前になっている。自分の中には、その曖昧ささえなかった。
その夜、遥は菜摘の家に泊まった。健吾には、友人と話していて遅くなったと伝えた。律は静江に預けた。息子の声を電話で聞くと、帰らなければと思った。けれど、帰れば夫に何を聞くか分からなかった。
菜摘は客用の布団を出した。遥は手伝おうとしたが、座っていてと言われた。普段なら、そんな言い方を嫌がったかもしれない。今日は、座る場所を決めてもらえることがありがたかった。
夕食はお粥だった。菜摘は、家にあるもので作ったから、と言った。遥は少し食べた。娘がいたかもしれないという話を聞いた日に、お粥を食べている。そういう現実が、自分を地面につなぎとめた。
菜摘は、空になった茶碗をすぐには下げなかった。遥はお粥に使った匙を、縁に伏せて置いた。金属が触れる小さな音がした。
「忘れたんじゃないでしょう」
遥が言うと、菜摘は顔を上げた。
「菜摘は、娘がいたことを忘れたんじゃない。言わなかったんでしょう」
友人は椅子を引いた。立つのかと思ったが、少し近づけただけだった。
「うん」
その返事を聞くまで、遥はまだ、相手が勘違いしていたという説明を待っていた。親しい友人まで隠していたと思いたくなかった。
「私が入院を覚えてないって言ったとき、どうして聞かなかったの」
「入院のことだけだと思った。あの頃のことが、全部なくなってるなんて、考えなかった」
「でも、変だと思った」
「思った」
「今日まで、どれくらい?」
菜摘は膝の上の手を見た。
「何日か。遥が、辞めた理由が思い出せないって言ってから」
窓の外をバイクが通った。音が遠ざかるまで、遥は何も言えなかった。数日。自分が手帳を探し、眠れず、夫に謝った数日。その間、友人は、自分の知らない子どもを知っていた。
「ごめん」
菜摘の声が聞こえた。
「どうやって聞けばいいか、決められなかった」
「決めなくてよかった。聞いてほしかった」
菜摘は頷いた。遥は匙を取り、茶碗の内側に付いた米粒を集めた。食べるためではなかった。何かをしていなければ、相手を傷つける言葉を探し始めそうだった。
菜摘は寝室から、大きな封筒を持ってきた。口が開いていた。中には写真ではなく、買ったままの小さな絵本があった。表紙の角に、包み紙の色が少し移っていた。
「お祝いに、渡すつもりだった」
絵本の最初の頁に、鉛筆で短い文章が書いてあった。大きくなったら、一緒に読もうね。名前の欄は空いていた。
「名前、聞いてなかったの?」
「聞いた。でも、書くときに漢字を確かめようと思って。そのままになった」
菜摘は当時、母親の入院が続いていたという。出産祝いに行く予定を2度取り消した。遥が職場へ戻ったときは、勤務時間が重ならなかった。娘の死を知ったのは、健吾からの電話だった。
「お葬式にも来なかった?」
「来てほしくないって言われた。遥の希望だって」
遥は絵本を閉じた。自分の希望という言葉が、知らないところで働いていた。
「そのあと、私と何を話してたの」
「律くんのこと。仕事のこと。健吾さんのこと」
「娘の話だけ、避けて」
「うん」
菜摘は泣かなかった。泣かれると、遥が慰める側へ回ることを知っているようだった。
「遥から話す日を待とうって。でも、待ってることまで、いつかやめた」
遥は絵本を膝に置いた。薄い本だった。8年間、渡されなかったものが、こんなに薄い。
「今日は、許せない」
「うん」
「でも、ここにいたい。健吾のいる家へ、まだ帰れない」
「いて」
菜摘は台所へ行き、茶碗を洗った。水を細く出した。遥は背中を見ながら、自分が聞きたかったことを、まだ聞いていないと気づいた。
「菜摘は、あの子を見たこと、ある?」
蛇口が閉まった。
「写真でだけ」
「かわいかった?」
菜摘は振り返り、頷いた。
「でも、その写真を持ってない」
「うん」
遥は絵本を開いた。まだ名前のない見返しを撫でた。娘のための本に、娘の名前を書けない夜だった。
眠る前、封筒を友人に返した。娘の顔を見てから、受け取りたいと言った。菜摘は本を出した場所へ戻した。封筒の口は閉じなかった。
布団に入っても、眠れなかった。菜摘は隣の部屋にいた。扉は開けてあった。人のいる気配が、今夜は必要だった。
遥はスマートフォンで、古い住所を見た。地図の上の点。そこに、自分の知らない人生がある。
娘の顔を想像しようとした。律に似ているのか。健吾に似ているのか。自分に似ているのか。想像すると、誰かの子どもの顔を借りてしまいそうだった。遥は目を閉じた。
何も浮かばなかった。
浮かばないことが、こんなに痛いとは知らなかった。
明け方、短い夢を見た。自分が洗濯物を干している。小さな靴下が2枚。風で片方が飛び、下のベランダに落ちた。誰かが笑った。
目を覚ますと、涙が出ていた。
夢なのか、記憶なのか、分からなかった。遥は枕元の紙に書いた。小さな靴下。ベランダ。笑い声。
証拠にはならない。けれど、自分が見たものとして残したかった。
朝、菜摘がコーヒーを淹れた。牛乳を先に入れるかと聞いた。遥は頷いた。
「今日は、1人で行きたい」
友人は少し考え、分かったと言った。
「終わったら、連絡して」
遥は約束した。1人で行くことと、1人になることは違う。昨日より、その違いが分かる気がした。
その日、阿佐谷北へ行った。
マンションは5階建てで、外壁の一部が塗り直されていた。見覚えはあった。住んでいたという知識もあった。けれど、そこで暮らす自分の体温がなかった。
エントランスから老婦人が出てきた。ゴミ袋を持った手が止まった。
「水城さん?」
遥は会釈した。
「302の。まあ、お元気そうになって」
松本ふみ、と名乗った。75歳。隣の部屋に住んでいた人だった。遥は名前を聞いても、顔と結びつかなかった。
「栞ちゃんのことは、本当に」
菜摘から聞いた音が、隣人の声になった。しおり。自分の中だけの勘違いには、もう戻せなかった。
「ベランダで、よく手を振ってくれたでしょう。あんなに小さな手でね」
遥は自分の掌を見た。何も浮かばなかった。
「私、覚えていないんです」
ふみの表情が変わった。気遣いの言葉を探しているのが分かった。
「ご主人が、ずいぶん守ってらしたから」
「何からですか」
老婦人は答えず、遥の手を包んだ。その手は乾いていて、温かかった。
ふみは、遥を部屋へ招いた。玄関に花の鉢が並んでいた。遥は、昔もここに花があったかと聞いた。
「ありましたよ。栞ちゃん、葉っぱを触りたがって」
名前が、もう1度聞こえた。しおり。娘の名前なのに、まだ耳に慣れない。
ふみはお茶を出し、古い写真を探した。町内の清掃の日に撮ったものだという。何人もの人が並び、端に若い遥がいた。胸に子どもを抱いていた。
写真の中の自分は、疲れた顔をしていた。けれど、笑っていた。誰かに見せるための笑顔ではない。腕の中の子どもが、隣の人の帽子をつかんでいたからだった。
「これ、私ですか」
聞いてから、遥は自分の質問を恥じた。顔は分かる。分からないのは、その顔の中にいた自分だった。
ふみは、はい、とだけ答えた。
「この子、よく笑いましたか」
「よく。泣くときは、大きな声でしたけど」
「何が好きでしたか」
「玄関のチャイム。鳴ると、先に笑うの」
遥は写真を見た。チャイムを聞いて笑う子。そんな小さな事実を、母親ではない人が覚えている。
「健吾さんは?」
「帰りが遅かったですね。でも、休みの日は抱っこして散歩して。栞ちゃんが眠っても、すぐ帰らないの。もう少し歩きたいからって」
遥は、出張前に律の靴を揃えた夫を思い出した。娘の靴も、揃えたのだろうか。
ふみは事故のことを話そうとして、止めた。
「聞きたいです」
遥は言った。
「でも、見たことだけを」
老婦人は頷いた。救急車が来た。遥が濡れた服のまま廊下に立っていた。健吾が戻ってきた。何度も頭を下げていた。ふみが知っているのは、そこまでだった。
遥は、知らない自分の姿を聞いた。濡れた服。廊下。救急車。記憶は戻らなかった。ただ、体が冷えた。
「そのあと、会いましたか」
「少しして、ご主人が挨拶に。引っ越すと。奥さんは療養中だって」
「私のこと、何か言ってましたか」
「そっとしておいてほしいと」
同じ言葉だった。菜摘にも、静江にも、隣人にも。そっとしておく。その言葉が、自分を世界から切り離した。
ふみは写真を差し出した。
「持っていって」
「大事な写真でしょう」
「あなたが写ってる。栞ちゃんも」
遥は受け取った。写真の角が、指に触れた。紙の感触があった。夢ではない。
帰り際、ふみは玄関まで来た。
「思い出せなくても、お母さんだったことは変わりません」
遥は頭を下げた。その言葉をすぐには受け取れなかった。母親だったなら、どうして忘れたのか。その問いが、まだ自分を責めていた。
けれど、写真は鞄に入れた。受け取れない言葉も、いつか読める日が来るかもしれない。
靴を履いていると、ふみが小さな袋を出した。栞に渡そうと思っていた布の人形だった。渡す前に、事故が起きた。捨てられずに残していたという。
「持っていく?」
遥は袋を受け取った。人形は柔らかかった。娘が触れたものではない。それでも、娘のために用意されたものだった。
駅前で、菜摘から電話が来た。修復室にいるという。遥は隣人に会ったことだけを伝え、静江の家へ向かった。電車の中で写真を何度も見た。娘の顔を覚えようとした。
義母の家へ行く前に、遥は区役所に寄った。窓口で何を請求すればよいのか、書類の見本を見ても分からなかった。自分の家族を確かめたい。その言葉だけを伝えた。
担当者は必要なことを順に聞いた。本人確認のためのカードを出し、住所を書いた。子どもの欄で、遥のペンが止まった。
「亡くなった子も、載っていますか」
担当者の表情は、大きく変わらなかった。記録の種類によるので確認する、と答えた。遥はその返事を聞き、椅子に座った。
番号が呼ばれるまで、隣の夫婦が婚姻の書類を見せ合っていた。女性が何かを書き直し、男が笑った。遥にも同じ日があった。健吾が本籍を書く欄を間違え、遥が呆れた。記憶はある。区役所の椅子に座って笑ったことは覚えているのに、そのあとに生まれた娘がいない。
受け取った紙には、名前と日付があった。
栞。長女。2017年8月19日。2018年11月7日。
指で押さえなければ、次の行へ目が滑った。栞。しおり。音と字を、ゆっくり重ねた。長女という文字があった。自分が役所へ届け、残したはずの記録だった。
紙の上では、娘は消えていなかった。
遥は窓口の脇で立ち止まった。担当者が、何か不備がありましたか、と聞いた。首を振ると、それ以上尋ねられなかった。薄い袋に入れた書類を鞄へしまった。
外へ出ると、小さな子どもが歩道の白い線の上を歩いていた。母親が手を差し出し、子どもはその指を握らず、袖をつかんだ。遥は見続けそうになって、視線を外した。
駅の売店で水を買った。栓を回す手に力が入らず、店員に頼んだ。開けてもらった瓶を受け取り、礼を言った。自分の娘がいたと分かった日に、瓶の栓さえ開けられない。それでも、電車に乗ることはできた。
車内で、菜摘へ短いメッセージを送った。記録に載っていた、と。返事はすぐに来なかった。仕事中なのだろう。遥は画面を閉じた。返事がなくても、娘の名前は変わらなかった。
静江の家へ向かう道で、花屋の前を通った。何の花を買えばよいか分からない。仏壇に供える花なのか、初めて名前を知った娘へ贈る花なのか。白い小さな花を見ていたが、結局、何も買わなかった。
買わないまま、義母の家のベルを押した。鞄の中で、戸籍の紙と娘の写真が、別々の面を向いていた。
静江の家で、遥は仏壇の脇の写真立てを起こした。
女の子が写っていた。髪が柔らかく、頬が丸い。抱いているのは若い遥だった。笑っていた。写真の中の自分は、その子の重さを知っていた。
台所から戻った静江が、敷居のところで止まった。
「名前を、呼んでください」
遥は写真を持ったまま言った。
「栞。水城栞」
静江は畳に座り込んだ。
「1歳と2か月だった」
「私が、溺れさせたんですか」
「違う」
義母の声が、初めて強くなった。
「あなたは、何日も看病してた。熱が下がって、お風呂に入れて。ほんの少し、意識が落ちただけなの」
「それで、死んだんですね」
静江は泣いた。遥には、まだ涙が出なかった。知らない子の死を、自分の娘の死として受け取る方法が分からなかった。
事故のあと、遥は食べなくなった。眠らなくなった。生きることを諦めかけた。静江は、そこまでを途切れ途切れに話した。
「健吾が言ったの。このままじゃ遥まで失う、俺が何とかするって」
「それから?」
「退院したあなたは、栞を覚えていなかった」
静江は写真を見た。
「健吾に頼まれたの。名前を出さないでくれ。写真も、しまってくれって」
「従ったんですね」
「あなたが、笑うようになったから」
その言葉に、遥はようやく怒りを感じた。自分の笑顔が、娘を隠す理由になった。
「私が笑っていたら、あの子はいなかったことにしていいんですか」
静江は顔を伏せた。遥はそれ以上言わなかった。義母もまた、孫を失っていた。その悲しみまで、自分の怒りで踏みつけたくなかった。
静江は、仏壇の下の引き出しを開けた。小さな封筒がいくつもあった。写真、領収書、病院の書類。遥は手を伸ばしかけて、止めた。
「全部、残ってるんですか」
「全部ではないわ。健吾が持っていったものもある」
「捨てたものは?」
静江は目を伏せた。
「ある」
遥は頷いた。嘘をつかれなかったことだけを、今は確かめた。
義母は、栞の服をしまった箱の話をした。健吾に、見える場所に置かないでほしいと頼まれた。遥が退院する前に、家の中から娘のものを片づけた。自分の手で。
「私も、怖かったの」
静江は言った。
「あなたがまた、あんなふうになったらと思って」
「私は、どんなふうだったんですか」
義母は答えに詰まった。遥は待った。自分の過去を、誰かが言葉にするのを待つ。今まで避けられてきた時間を、今度は急がせたくなかった。
「名前を呼び続けてた。栞、栞って。眠っても、目を覚ますと探した」
静江の涙が畳に落ちた。
「私も、探したかった。あの子がいないことを、毎朝思い知らされた。でも、あなたはもっと」
遥は、もっと、という言葉を止めた。
「比べないでください」
静江は顔を上げた。
「お義母さんも、つらかった。それでいいです」
怒りは消えなかった。それでも、義母が失ったものまで奪いたくなかった。
「私は、健吾を信じた」
静江は言った。
「息子だから、信じたかった。あの子が、何とかできると言ったから」
「お義母さんは、何とかしたかったんですね」
「はい」
義母が敬語で答えた。家族ではなく、責任を問われる人の声だった。
写真の中の栞は、遥の襟を握っていた。指が写っている。小さな爪まで見えた。遥は、襟を引かれる強さを想像した。義母は、まだ泣いていた。
「この写真、借ります」
「持っていって。返さなくていい」
遥は首を振った。
「お義母さんの写真です。私のものも、探します」
静江は写真の裏に、貸した日の日付を入れた。数字の最後が、少し震えていた。
静江は写真を片づけながら、娘の名前を書いた紙が残っていると言った。小さな便箋だった。いくつかの名前に線が引かれ、栞だけが丸で囲まれていた。
「あなたが、選んだの」
遥は自分の字を見た。丸の形に覚えがあった。最後を少し重ね、線を閉じる。
「どうして、栞にしたんですか」
「本の続きを読むための印だって、あなたが」
義母は便箋を裏返した。健吾の字で、小さく、しおり、と書いてあった。漢字にするか、平仮名にするか。そんなことまで相談したのだという。
遥は写真と便箋を並べた。まだ知らない娘のために、名前を考えている自分がいた。生まれる前の娘にも、時間があった。
「この字、健吾さんが?」
「書いては呼んで、練習していたわ」
遥は便箋を持ち上げた。声は戻らなかった。けれど、その人が初めて娘を呼ぼうとしたことは、紙に残っていた。
「これも、借りていいですか」
静江は頷いた。遥は折り目に沿って畳もうとして、やめた。名前の真ん中に、折り目が通っていた。平らなまま、写真と一緒の封筒へ入れた。
封筒を膝に置き、娘の名前を何度も胸の中で呼んだ。静江は何も言わず、隣に座っていた。まだ返事のない呼び方だった。
義母はコートを取った。
「一緒に行ってもいい?」
遥は少し考え、はい、と答えた。健吾に写真を見せるとき、娘を覚えている人がいてほしかった。
写真を借りて帰った。静江もついてきた。律が眠るまで写真を鞄にしまい、健吾の帰宅を待った。
玄関の鍵が回ると、遥の背筋が伸びた。
健吾が帰宅すると、テーブルの上の写真に気づいた。
「遥? 若いな」
写真を手に取った。
「この子は?」
静江が息を止めた。
「栞よ」
遥は言った。
「私たちの娘」
健吾は写真を見た。眉を寄せた。思い出そうとする顔だった。演技なのか、本当なのか。遥は見分けようとしたが、途中でやめた。
「俺たちに、娘なんて」
静江が立ち上がった。健吾の胸元をつかんだ。
「毎晩、寝かせてたでしょう。下手な子守唄を作って。お葬式で、棺から離れなかったでしょう」
健吾は母の手を振り払わなかった。ただ、困り果てた顔で見下ろしていた。
「母さん、分からないんだ」
静江の手が落ちた。
長い沈黙のあと、義母は言った。
「あなた、誰?」
遥は目を閉じた。
自分が1人で抱えていた問いを、この人の母親が口にした。そのことが、正しかった証拠になるとは思わなかった。ただ、孤独が少しだけ形を変えた。
健吾が遥を見た。
「俺、おかしいのか」
その声には、恐怖があった。遥を怖がらせる声ではなく、自分自身を怖がっている人の声だった。
健吾は写真を見たまま、しばらく動かなかった。静江が泣き、遥が黙っている。自分だけが、その理由を知らない。夫の顔に、困惑が広がった。
「俺が、何かしたの?」
健吾は聞いた。
遥は、した、と答えたかった。けれど、何をしたのか、まだ全部知らなかった。娘を忘れた。妻を忘れさせた。自分も忘れた。その3つが、どんな順番でつながっているのか。
静江は、息子の手を取った。栞を抱いた手だと、言った。健吾はその手を見た。掌を開き、閉じた。体の中に、何かを探しているようだった。
「何も、出てこない」
夫の声は小さかった。
遥は初めて、健吾も空白の中にいるのだと思った。今までは、夫が何かを隠していると考えていた。隠すものが、本人にもないのかもしれない。
静江が帰ったあと、2人は別々に座った。写真はテーブルに残った。健吾は触れなかった。遥も触れなかった。
「君は、覚えてる?」
「まだ、ほとんど」
「俺だけじゃないんだ」
健吾は言った。その言葉に、遥は少し腹が立った。同じではない。自分は8年間、娘を知らずに生きた。夫は、その8年間を知っていたはずだ。
けれど、今の健吾に、過去の健吾の記憶はない。怒りを向ける相手が、目の前にいるのに、いない。
深夜、佐伯に電話した。
クリニックの診察室には、1つだけ明かりがついていた。佐伯は私服だった。遥の前に温かいお茶を置いたが、遥は手をつけなかった。
「栞のことを、知っていますね」
佐伯は長く黙った。
「知っています」
「健吾も、忘れていました」
医師の顔が変わった。初めて、用意されていない表情を見た気がした。
「ご主人も?」
「私は、被験者07号ですか」
佐伯は眼鏡を外した。引き出しの鍵を開け、古いファイルを出した。
同意書だった。
被験者氏名、水城遥、28歳。
対象記憶、長女・栞に関するエピソード記憶。
代諾者署名、水城健吾。
遥は署名を見た。右上がりの、見慣れた字。
「あなたの記憶に処置をしたのは、私です」
佐伯は言った。
遥は紙から目を離せなかった。娘の名前を知らずに生きた理由が、こんなに薄い紙の上にあった。




