第5章 ミュンヘン
「図書館。菜摘と」
遥はトーストを皿に置いた。パン屑が指についた。払うと、震えているのが分かりそうだった。
「そう」
健吾はテレビを消した。
「高槻、誰かと会うからって早退したらしい。君じゃなくてよかった」
「どうして?」
「警察に、いろいろ聞かれるだろう。今の君には、負担になる」
夫の手が肩に置かれた。優しい手だった。その優しさの内側に何があるのか、遥には分からなかった。
健吾はその日、会社を休んだ。高槻の家族へ連絡したが、返事がないと言った。遥は、朋美の顔を思い出そうとした。結婚式で会ったはずだった。写真には、花柄の服を着た人がいた。
午後、健吾は律を迎えに行った。遥は留守の間に、ミュンヘンの火事を調べた。日本語では、何も見つからなかった。会社の発表にもなかった。英語の検索結果には、似た事故がいくつも出た。研究棟、火災、負傷者。場所と日付が違った。
遥は検索をやめた。見つからないことは、なかった証拠ではない。けれど、家族に知らせるべき出来事が、こんなに遠くにあることが苦しかった。
健吾が帰宅すると、律は学校の話をした。友達が歯を抜いた。給食の牛乳をこぼした。図工で家を作った。息子の世界には、今日の出来事が順番に並んでいた。遥はその順番を羨ましく思った。
夕食を作りながら、夫に火事の話を聞く言葉を考えた。責めない。問い詰めない。けれど、曖昧にしない。そんな言葉があるのだろうか。
律が寝たあと、遥は食卓を片づけずに、健吾を呼んだ。皿が残っているほうが、逃げずに座っていられる気がした。日常の途中で話す。特別な裁判のようにしない。
健吾は椅子に座った。遥の顔を見て、何を聞かれるか分かったようだった。
「火事のこと、聞いたの」
健吾は皿を見たまま黙った。
「何から、話せばいいかな」
健吾は聞いた。
「起きた順番で」
遥は答えた。
夫は日付を言った。8月12日の夕方。研究棟の3階。遥は、あの日だったのだと思った。律とプールへ行った日。帰りにアイスを買った。夫へ写真を送ったが、返事は翌朝だった。
自分たちがアイスを食べている間、健吾は火事に遭っていたのだと、遥は思った。世界には、同じ時刻に別の出来事がある。その当たり前のことを、遥は今、痛みとして知った。
「私が送った写真、見た?」
健吾は少し考えた。
「見たと思う」
「律が、アイスを持ってる」
「うん」
夫の返事は曖昧だった。遥は写真を出さなかった。火事の話を聞くために座ったのに、また夫を試す会話へ変わりかけていた。
健吾は、煙が先だったと言った。警報より先に、焦げた匂いがした。資料を持って外へ出ようとした。レナが戻った。何を取りに戻ったかは、分からない。
遥は、分からないという言葉を聞いた。夫が知らないことを、知らないまま話している。高槻の説明よりも、少し近くに感じた。
「あなたは、どうして戻ったの」
「彼女が、戻ったから」
健吾は答えた。
「1人に、できなかった」
遥は夫を見た。自分が知っている健吾なら、そうしたかもしれない。けれど、その行動を知ることと、目の前の夫を知ることは、まだつながらなかった。
夫は右肩に手を置いた。火傷の場所だった。遥はその手を見た。触れたいと思ったが、触れなかった。相手が話している間に、自分の安心のために体へ触れることは、違う気がした。
「痛い?」
「今は、少し」
「見せてくれる?」
健吾は頷いた。シャツをずらした。遥は傷を見た。昨夜、眠る夫の服を勝手に持ち上げたときとは、違った。見せてもらった傷だった。
「昨日、見たの」
遥は言った。
「眠ってるときに。ごめん」
健吾は遥を見た。
「言ってくれて、ありがとう」
遥は、その言葉に救われた。けれど、救われたことだけで終わりにしたくなかった。夫も、火事を隠したことを話す必要がある。
「どうして、知らせなかったの」
健吾はシャツを戻した。傷が隠れると、話も隠れそうだった。遥は待った。夫が自分で言葉を選ぶまで、待った。
火事の話を聞いた夜、遥は健吾の隣で眠った。夫の涙が本当なら、抱きしめるべきだった。嘘なら、離れるべきだった。どちらも選べず、同じ布団の中にいた。
健吾はレナの名前を、何度も口にした。共同研究者。仕事の厳しい人。冗談を言うと、先に自分で笑う人。遥はその説明を聞いた。1人の人が亡くなった。夫の変化を説明するための出来事ではなく、誰かの生活が終わったのだ。
「家族は?」
遥が聞くと、健吾は黙った。
「知らない」
その答えは、少し不自然だった。共同研究者なら、家族の話もしたのではないか。けれど、仕事の関係だけなら知らないこともある。遥は疑いを、そこで止めた。
その夜、公開された短い火災記事を見つけた。上端に、8月13日とあった。健吾が言ったのは12日だった。夜の火事が翌朝の記事になったのだから、違いはなかった。
けれど、遥が律とプールへ行ったのは、14日だった。
電話の写真を並べると、アイスを持つ律の顔の横に日付が出た。14日。健吾へ送ったメッセージも、その下の返信も、同じ日付を示していた。
遥は画面を閉じ、もう1度開いた。時差で2日ずれることはない。そのことくらいは、自分にも分かった。
夫は、律の写真を見たと言った。見たと思う、と言った。火事の日の話に、遥がプールの写真を持ち込んだ。夫が間違えたのか。自分が間違えた話に、夫が合わせたのか。
翌朝、食器を洗う健吾へ、写真を見せた。
「これ、14日だった」
夫は水を止めた。濡れた指を布巾で拭き、画面を見た。
「そうか」
「火事は12日よね」
「うん」
「そのあとのこと、覚えてる?」
健吾は電話から目を上げた。
「病院にいた」
「写真の返事、あなたがした?」
律が台所へ入ってきた。水筒を出し、今日は体育があると言った。健吾は水筒を受け取り、洗い始めた。話は、そこまでになった。
遥は差異目録に、日付、と書いた。しばらく見て、何の日付かを加えた。火災12日。写真14日。自分が夫の話に付け足した情報も、その横に書いた。
夕方、健吾は何も言わず、水筒を乾かす場所を変えた。遥がいつも置く場所ではなかった。1度、元へ戻しかけ、やめた。水が切れるなら、そこでもよかった。
日付は、そのようには動かせなかった。2日分の隙間が、夫の言葉の中に残った。
翌朝、律に聞いた。
「パパ、前は何て呼んでた?」
「りっちゃん」
「今は、律だね」
「ぼくが言ったの。赤ちゃんみたいだから、やめてって」
「いつ?」
「ドイツにいたとき。テレビ電話で」
律はランドセルの留め金を閉めた。答えはそれだけだった。遥が夜通し考えたことを、息子は靴を履きながら片づけた。
差異目録の2番目にも、理由があった。
午後の再診で、佐伯にその話をした。
「説明がつくと、安心しますか」
「安心したい自分が、怖いです」
佐伯はペンを置いた。
「お薬は、飲めていますか」
「はい」
嘘をついた。医師は遥の顔を長く見た。
「もし、飲めていないなら」
遥は目を上げた。
「眠れなくなったり、何かを思い出しそうになって苦しくなったら、連絡してください。夜でも構いません」
名刺の裏に番号が書かれた。
「思い出しそうに?」
「不安が強くなったら、という意味です」
佐伯は言い直した。遥は名刺をしまった。言い直す前の言葉だけが、残った。
高槻の事故について、警察から電話があった。遥は最後の通話相手として、話を聞かれた。どこで会ったか。何を話したか。電話でどんな音が聞こえたか。
遥は、火事のことまで話した。ノートのことは、すぐには言えなかった。夫が別人だと思っていると伝えれば、話の全部が違う意味に取られるかもしれない。そんな恐れが、口を閉じさせた。
「何か、言いかけていましたか」
担当者が聞いた。
「病院から出た資料に、と」
「何の資料ですか」
「分かりません。そこで切れました」
それは本当だった。分からないことが、今は嘘をつかずに済む場所になった。
電話を切ると、健吾が台所にいた。
「警察?」
「事故の前、高槻さんから電話があったの」
遥は言った。これ以上隠すことはできないと思った。
「どうして君に」
「火事のことを、聞いたから」
健吾は冷蔵庫の扉を閉めた。
「会ったんだね」
遥は頷いた。
「あの日、図書館だって」
「菜摘にも会った」
「それだけじゃなかった」
夫の声に、初めて怒りが混じった。遥は、その怒りを怖いと思いながら、どこかで懐かしいとも思った。何でも許す人ではない。自分に嘘をつかれれば、怒る。その当たり前の反応が、夫を少し人間に戻した。
「言えなかった」
「俺には?」
「あなたが何も言わないから」
健吾は黙った。
遥は、勝ったとは思わなかった。夫婦の会話が勝ち負けになると、どちらも傷つく。昔から知っていたことだった。
「高槻さんの奥さんに、会いたい」
「俺も行く」
「最初は、1人で」
健吾の目が動いた。
「どうして」
「昨夜、何があったか、私が話すから」
夫は長く黙り、頷いた。遥は、その頷きが同意なのか、諦めなのか、まだ分からなかった。
病院へ向かう電車で、遥は高槻の名刺を見た。研究開発部。主任研究員。肩書きは、事故の前もあとも変わらない。名刺の紙は、持ち主が話せなくなったことを知らない。
朋美に何を言えばいいのか、考えた。自分が会わなければ、事故は起きなかったのかもしれない。そんな言葉は、相手に慰めを求めることになる。謝ることさえ、自分を楽にするためになりかねない。
病院の入口で、花を買おうとしてやめた。集中治療室に持ち込めるか分からなかった。代わりに、何も持たずに行った。言葉も、きれいに整えずに話すことにした。
高槻の妻、朋美は、集中治療室の前にいた。39歳。両手で紙コップを包んでいたが、中の飲み物は冷めていた。
「主人、事故の日は変だったんです」
朋美はガラスの向こうを見た。
「今度こそ逃げないって。誰に言ってるのか分からなくて」
「何か、残していませんか。メモとか」
「手帳があったはずです。でも、戻ってきた荷物にはなくて」
遥は自分が事故直前の通話相手だったことを伝えた。朋美は責めなかった。そのことが、かえって苦しかった。
「あなたに、何か言おうとしてたんですね」
「はい」
「だったら、聞いてあげてください。目が覚めたら」
遥は頷いた。ガラスの向こうの高槻は、何も答えなかった。
朋美は、遥の話を聞いたあと、長く黙っていた。紙コップの縁が、指の力で少し潰れた。
「主人は、怖がってたんですね」
遥は頷いた。
「そう見えました」
「家では、普通でした。普通にしようとしてたのかもしれない」
朋美はガラスの向こうを見た。
「研究者って、分からないことがあると、嬉しそうにするでしょう。うちの人もそうだった。でも、最近は分からないことを、隠すようになってた」
遥は健吾を思い出した。分からないことを、2人の間に置いておけた頃。今は、分からないことが怖い。
「ドイツから戻って、変わりましたか」
遥は聞いた。
「眠りが浅くなりました。夜中に起きて、台所で水を飲んで。聞くと、時差だって」
「健吾も、そうです」
朋美は遥を見た。
「健吾さんは、覚えてるんでしょうか。向こうであったこと」
遥は答えられなかった。
朋美は鞄から小さな紙を出した。夫の机に残っていた、買い物メモだった。電池、封筒、切手。その下に、忘れることと許されることは違う、と書いてあった。
「意味が分からなくて」
遥は文字を見た。高槻の字は、健吾の字より丸かった。
「写真を撮ってもいいですか」
朋美は頷いた。
遥は、これは証拠だと思った。何の証拠かは分からない。けれど、高槻が自分の言葉を残したことの証拠だった。
帰る前に、朋美は言った。
「あなたが来てくれて、よかった」
「でも、私が会ったから」
「事故の原因は、まだ分かりません」
声は静かだったが、強かった。
「分からないことまで、あなたが背負わないで。私も、背負わないようにします」
病院を出ると、夕方の風が冷たかった。遥はストールを巻いた。夫がくれたものだった。怖いと思う人からの贈り物が、体を温めている。その矛盾を、今日は捨てずに持って帰った。
帰る前に朋美と連絡先を交換した。
火事の記事を探すのに、菜摘は2晩使った。最初の検索では、ミュンヘンという都市名しか手がかりがなかった。高槻から聞いた研究棟の番号を加えると、企業の古い採用資料が見つかった。施設の正式な名称が載っていた。
菜摘は検索語を紙に書いた。都市、研究所名、火災。辞書で単語を確かめ、地方紙の見出しと照らした。遥も家のパソコンを使おうとしたが、まだ履歴を残すのが怖かった。夜、律が眠ってから、自分の電話だけで調べた。
外国語の記事の中では、夫の名前の綴りさえ揃っていなかった。Kengoとだけ書かれたもの、日本人としか書かれないもの。健吾を探すために、健吾の名前を捨てなければならなかった。
ようやく施設を示す地図が見つかった。建物の側面に小さな庭があり、黄色いベンチが写っていた。ビデオ通話の背景に、1度だけ同じベンチが映ったことがある。律が、バナナみたいだと言った。健吾は聞こえず、何、と聞き返した。遥が代わりに説明し、3人で笑った。
その庭が地図の上にあった。
遥は画面を保存した。夫が自分たちと話していた場所。画面の向こうにも地面があり、扉があり、帰るための道があった。研究者が1人死んだという言葉の重さが、地図を見たとき初めて変わった。
翌日、菜摘は写真の掲載元へ問い合わせるための文面を作った。個人の情報を教えてほしいのではない。記事の日付と撮影場所を確認したい。遥は文面を読み、最後に自分の名前を入れた。
「私の名前、出していい」
「返事が来るとは限らないよ」
「うん」
送信したあとの画面は、いつもと同じだった。菜摘は返事を待つ間に、2018年の研究発表を調べ始めた。遥は隣で、律の下校時刻を確かめた。
国内の発表要旨には、匿名の事例が短く紹介されていた。家庭内事故、重い喪失、28歳の女性。遥は最初、その文章を自分のことだと思わなかった。数字に一致があるだけだった。
菜摘が、昔の住所は何丁目だったかと聞いた。
「どうして」
「事故の記事を、調べたい」
「何の事故?」
菜摘は答えるまでに時間を置いた。遥は、その長さを覚えた。文字を探しているのではない。言うかどうかを決めている。
「私のことを探してるのに、私に隠してる?」
「隠したくない。だから、確認したい」
菜摘は紙を1枚出した。古い住所の印刷された職員連絡網だった。遥は自分の名前の横を読んだ。阿佐谷北3丁目。その下の部屋番号も、自分の字で訂正してあった。
「私、そこに住んでた」
菜摘は頷き、端末へ戻った。電話が鳴り、カウンターから呼ばれた。あとで続きを見せるからと言って立ち上がった。
遥は1人、画面の前に残った。表示された住所を読んだ。何年も使った住所なのに、知らない人の家のようだった。
閲覧室で子どもが泣いた。母親が抱き上げ、扉の向こうへ連れていった。声が途切れたあと、遥は自分の爪を掌に押し当てた。理由は分からなかった。
菜摘が戻ると、片手に印刷した紙を持っていた。自分で見つけたものなのに、渡したくない顔をしていた。
遥は椅子を引いた。
「ここに座って」
向かいの椅子を指した。隣に来られたら、画面を閉じられるかもしれない。今日は、友人の顔を見ながら聞きたかった。
夕方、菜摘から連絡が来た。
図書館の契約データベースで、ミュンヘンの地方紙が見つかったという。遥は閲覧用の端末の前に座った。記事は短かった。研究施設の火災。1人死亡、日本人研究者1人重傷。原因は調査中。
写真には、担架で運ばれる男が写っていた。顔はマスクに隠れている。左腕が毛布から出ていた。
「拡大して」
遥は画面に近づいた。
金色の縁。紺のベルト。
自分が贈った時計だった。
「火事のとき、着けてる」
声が、ひどく小さくなった。
夫は本当に火事に遭った。時計も、そのあとで失くしたのかもしれない。すべてが、少しずつ説明されていく。自分の疑いだけが、取り残される。
「もう1つ、あるの」
菜摘は、国内の記事を見せる前に、遥に聞いた。
「今日は、ここでやめる?」
「どうして?」
「次に見せるものは、健吾さんだけの話じゃない」
遥は友人の顔を見た。いつもの菜摘ではなかった。図書館で困った利用者に説明するときの、言葉を選ぶ顔だった。
「私のこと?」
「そうかもしれない。まだ、断定できない」
「見せて」
菜摘は頷いた。画面を開く手が、少し遅かった。
菜摘は記事を印刷し、遥の前に置いた。遥は手を伸ばした。紙の端が温かかった。機械から出たばかりの温度。そこに書かれた出来事は、8年前のものだった。
国内の地方紙だった。2018年11月8日。前日の出来事を伝える、小さな記事。
杉並区のマンションで、1歳の女児が浴槽で見つかり、搬送先で死亡が確認された。警察は事故とみて、母親28歳から事情を聞いている。
遥は番地を読んだ。
阿佐谷北3丁目。
律が生まれる前に住んでいた場所だった。
画面の文字が、1文字ずつ遠ざかった。
水音がした。
ここは図書館だ。地下の端末室に、水道はない。分かっているのに、蛇口から落ちる音が聞こえた。
白い壁。湯気。小さな指。
「知らない」
遥は椅子から立ち上がろうとした。足に力が入らなかった。
「遥」
菜摘が腕をつかんだ。
母親、28歳。
2018年、遥は28歳だった。
自分の年齢を確かめるだけで、こんなに恐ろしいことがあるのだと、初めて知った。




