第4章 被験者07号
図書館の地下は、紙と糊の匂いがした。
菜摘は修復室の鍵を掛け、机の上を片づけた。遥は黒いノートを広げた。2人で覗き込むと、恐怖が少しだけ作業に変わった。
「読める?」
「全部は。でも、分かるところから」
遥は付箋を貼った。読めない単語を飛ばし、日付と固有名詞を拾った。司書の仕事は、知っていることを増やすだけではない。知らないものを、探せる形にすることだった。
LT-07。開発コード、レテ。対象、エピソード記憶。
研究ノートには、特定の記憶を思い出させたあと、その定着を妨げるという仮説が書かれていた。遥には、科学的にどこまで成り立つのか判断できなかった。ただ、健吾がこれを、実際の人間に行われた研究として記録していることは分かった。
「記憶を消す薬ってこと?」
菜摘の声が低くなった。
「そう書いてある」
「そんなものが、本当にあるの」
「分からない」
分からないことを分からないと言える相手がいる。それだけで、遥は息ができた。
表の中に、番号とイニシャルが並んでいた。
01、T・K、2016年3月。
04、S・A、2017年9月。
07、H・M、2018年11月。
遥は最後の行に指を置いた。
菜摘が、違うかもしれないと言った。H・Mなんて、いくらでもいる。遥は頷いた。頷きながら、受付の画面を思い出していた。
2018年11月。
同じ年月が、別の場所から自分を指していた。
菜摘はノートを撮影した。遥が1ページずつ押さえ、友人がシャッターを切った。文字が光って読めなくなると、角度を変えた。単純な作業だった。単純だから、続けられた。
「原本は、どうする?」
「持って帰る」
「全部?」
遥は頷いた。菜摘は反対しかけて、やめた。
「じゃあ、写しは私が持つ。何かあっても、なくならないように」
遥は、何かあっても、という言葉を聞いた。友人も、自分と同じ危険を考えている。嬉しいとは思えなかった。巻き込んだという感覚が、先に来た。
「菜摘は、やめてもいい」
「何を?」
「手伝うの」
菜摘はスマートフォンを置いた。
「やめるかどうかは、私が決める」
遥は目を伏せた。誰もが自分のために決めることを嫌がりながら、自分も友人のために決めようとしていた。
「ごめん」
「怖いから言ったんでしょう。分かる。でも、勝手に1人にならないで」
修復室の外で、台車の音がした。2人とも黙った。誰かが扉を開けるのではないかと、遥は息を止めた。音は遠ざかった。
菜摘が苦笑した。
「普通の仕事の音なのにね」
遥も笑おうとした。笑えなかった。世界の普通が、少しずつ脅威に変わる。それを止めるためにも、何が本当なのか知る必要があった。
ノートの末尾には、研究費の表があった。薬の名前と同じ欄に、心理評価、家族面談、環境調整という項目が並んでいた。
「環境調整って、何?」
菜摘が聞いた。
遥はページを戻した。写真整理。関係者説明。生活史の再確認。言葉は事務的だった。どの項目にも、実施済みの印があった。
「誰かの生活を、変えたんだと思う」
「薬だけじゃないのね」
遥は頷いた。まだ自分のことだとは決めなかった。決めるには、怖すぎた。
家に戻る前に、2人で昼食を取った。遥は食べたくなかったが、菜摘が、律くんの夕食を作る人が倒れたら困る、と言った。
うどんを注文した。湯気を見て、遥は浴室を思い出した。箸が止まった。
「熱い?」
「少し」
菜摘は何も言わず、水を寄せた。遥は1口食べた。味があった。世界には、まだ味がある。そのことを確かめるように、ゆっくり噛んだ。
食後、菜摘が古い端末を出した。昨夜、充電できたという。
2018年12月のメッセージ。
元気になりました。心配をかけてごめんね。しばらく、家で休みます。
遥は画面を見た。
「私の文じゃない」
「どうして?」
「菜摘に、元気になりました、なんて書かない」
それだけでは証拠にならない。入院のあとなら、丁寧な文章になるかもしれない。遥は分かっていた。それでも、文章の中に自分がいないことを感じた。
菜摘は次のメッセージを見せた。
会いたいと送った友人に、遥のアカウントは、まだ人に会うのがつらい、と返していた。
「私、会いに行けばよかった」
菜摘が言った。
「何も知らなかったんでしょう」
「知らないことを、理由にした」
遥は友人の手を見た。紙を修復する人の指だった。傷んだところを見つけ、少しずつ支える。人にも同じことができるとは限らない。それでも、今ここでしてくれている。
「今、来てくれてる」
遥は言った。
菜摘は端末を閉じた。
「今は、行く」
2人は席を立った。遥は黒いノートを鞄に入れた。写しが残っている。それだけで、鞄の重さが少し変わった気がした。
菜摘は、表の番号を別の紙に書き写した。遥は日付だけを並べた。番号が進むほど、年月も進んでいた。01から12まで。すべてが同じ処置を受けたのか、途中で方法が変わったのか、ノートだけでは分からなかった。
「この丸は、何だろう」
菜摘が指したのは、07の横の小さな印だった。他の行には三角や横線があった。凡例はない。遥は、健吾が家の買い物メモで使う印を思い出した。済んだものには丸。確認が必要なものには三角。
もし同じなら、自分の記憶は、済んだ仕事として丸をつけられている。
遥は紙を伏せた。菜摘が何も言わず、窓を開けた。地下の小さな窓から、舗道を歩く人の足が見えた。外には、普通の時間が流れていた。
ノートの後半には、数字だけのページがあった。反応時間、再認率、情動指標。専門用語の意味を、2人は1つずつ調べた。読める言葉が増えるほど、分からないことも増えた。研究者が測った数字と、本人が生きた時間の間に、どれほどの距離があるのか。
遥は自分の行を見た。処置前、処置後。間に、細い線が引かれていた。その線を越えたあと、自分は何を知らない人間になったのだろう。細い罫線のこちら側には、確かに自分がいた。ただ、誰かが自分を測ったことだけが分かった。
菜摘は、研究内容を断定しないほうがいいと言った。ノートは途中の記録かもしれない。仮説と結果が混ざっているかもしれない。遥は頷いた。怖いからといって、読めない部分を想像で埋めれば、健吾のしていることと同じになる。
昼休みが終わる前に、菜摘はコピーを取り、原本を遥に返した。
「これは、1つしかないから」
「コピーは?」
「私が持つ。いい?」
遥は頷いた。家の外に、同じものが残る。初めて、失くしても全部は消えないものを作った。
ノートを読み始めて40分ほど経ったとき、菜摘が付箋を貼る手を止めた。
「これ、住所じゃない?」
研究費の表の欄外に、郵便番号らしい数字があった。その下に、短い地名。遥は自分の住んでいた区の名前だと思ったが、続く文字は違った。住所の隣には、交通費と書かれていた。
2人は番号を検索した。東京都内の住宅地だった。建物の名前までは分からない。診療施設や研究所の記載もなかった。
「人が住むところよね」
菜摘が言った。
遥はノートを戻った。01から12までの表に、訪問という欄があった。実施日だけが並び、訪ねた先は書かれていない。通院できない人を診たのかもしれない。研究者が生活の様子を確かめに行ったのかもしれない。
住所を訪ねようかと、遥は言いかけた。知らない人の家に、知らない研究の記録を持っていく。もし自分と同じように何も知らない人が住んでいたら、その人の今日を壊すことになる。
「ここは、あとにしよう」
遥が言うと、菜摘は住所の下に小さく、未確認、と書いた。
その字を見て、遥はノートにある12という数字を初めて人数として考えた。自分が07なら、前に6人いる。あとに5人いる。全員が何かを失ったとすれば、それぞれの家には、その人の記録を見ていない誰かがいる。
窓の外で自転車のベルが鳴った。遥は顔を上げた。自分も昨日までは、研究ノートの外にいた。
菜摘が別の頁を示した。謝金という見出しがあった。署名欄の一部に、遥によく似た筆跡が残っていた。複写紙に写ったように薄い字だった。
H・Mというイニシャルより、その横の数字が怖かった。3万円。自分の過去に、金額がついていた。
「私、受け取ったのかな」
「この紙だけでは、分からない」
「うん」
声が平たくなった。貧しかったわけではない。それでも、当時の3万円がどれだけの重みだったかは覚えていた。夫の誕生日に買おうとして、値段を見て戻した革の鞄。2人で相談して替えた炊飯器。そういうものと同じ単位で、自分の知らない何かが精算されている。
帰宅してから、遥は銀行の古い通帳を探した。記帳が途切れた頁を開き、2018年の入金を指で追った。会社名はなかった。健吾からの振り込みが1件あった。30万円。生活費をまとめて移したのかもしれない。夫婦の間では、何度もそうした。
ノートの3万円と、通帳の30万円は違う。似た数字だからといって結びつけてはいけない。遥は通帳を閉じた。
机の上に置いたまま、夕食を作った。健吾が帰り、通帳を見た。
「お金、足りない?」
「昔のこと、調べてた」
夫は近づいてきたが、通帳には触れなかった。
「家計のこと、任せきりだったね」
「そうでもない」
昔は遥が家の支払いをまとめ、夫は研究費や出張費の精算をした。どちらも、相手の口座を詳しくは見なかった。信頼するということは、見ない場所を持つことだったのかもしれない。今は、その見ない場所から、何が出てくるか分からない。
律が、あした集金だと言った。学校の封筒を出した。教材費、860円。遥は小銭を数え、夫は不足した10円を財布から出した。律は封筒の口を折り、ランドセルへ入れた。
誰が何のために払うか、そこには書かれていた。遥はその封筒が羨ましかった。
高槻修の名刺は、古い箱に残っていた。結婚式でもらったものだった。健吾と同じ会社の研究者。ミュンヘンに同行したと、出発前に聞いていた。
連絡すると、42歳の高槻は長く黙り、会社の近くではないカフェを指定した。
夕方、窓際に座った男は、名刺の印象よりずっと疲れていた。コーヒーに手をつけず、遥の話を聞いた。
「6週目から、連絡が取れなくなりました」
高槻の指がカップの取っ手をなぞった。
「火事がありました」
その言葉は、思いがけないほど小さかった。
ミュンヘン本社の第3研究棟。夜間の火災。研究者が1人亡くなった。レナ・ホフマン。健吾と共同研究をしていた人だった。
「健吾も現場にいました。火傷を負って、提携病院に運ばれた。2週間、会わせてもらえなかった」
「何も聞いていません」
「会社から、話さないようにと」
遥は机の木目を見た。自分が牛乳の順番を疑っていた頃、夫は火事に遭っていた。背中を向けて眠る姿を思い出し、胸が痛んだ。
「退院したあとは?」
「普通でした」
高槻はようやくカップを持った。
「普通すぎた。火事の3日前、僕らは喧嘩したんです。健吾が、会社を告発すると言った。レテのデータを持ち出すと。僕は止めた。家族がいるだろうって」
カップが、音を立てて戻された。
「退院してから、その話をしたら、何のことだって。喧嘩したことまで、忘れていた」
遥はノートの表を見せた。
「07号。これは私ですか」
高槻の顔が変わった。
「どこで、これを」
「夫の書斎です」
高槻は周囲を見た。店内には、学生と年配の夫婦がいるだけだった。
「僕には言えません」
「知っているんですね」
「奥さん、そのノートは」
言いかけて、やめた。立ち上がると、伝票をつかんだ。
「捨ててください。あなたのためです」
誰もが、遥のためだと言った。遥自身の望みを聞かずに。
高槻が去ったあと、遥はしばらく席に残った。捨ててください、あなたのためです。言葉を何度も思い返した。
高槻は、自分を怖がっていたのではない。ノートを怖がっていた。遥がそれを持っていることを、怖がっていた。
店員が水を足した。遥は礼を言った。普通の声が出た。こんな話を聞いたあとでも、礼を言う声は普通に出る。そのことが不思議だった。
カフェを出ると、雨が降り始めていた。遥は傘を持っていなかった。駅まで走るつもりで歩き出し、すぐに止まった。後ろから、車がゆっくりついてきた気がした。
振り返ると、黒い車が信号で止まっていた。自分についてきたのか、ただ同じ道を走っているのか。分からなかった。
遥はコンビニに入った。傘を買い、雑誌の棚の前に立った。窓の外を見た。車はもうなかった。
安心する理由も、怖がる理由も、確かではない。そういう時間が続くと、体が先に疲れる。
菜摘に電話した。
「火事があったって」
友人は黙って聞いた。
「健吾が火傷をした。何も言わなかった」
「言えなかったのかもしれない」
「うん」
遥は傘の柄を握った。
「私、夫を疑ってた。つらいことがあった人を」
「それと、ノートは別だよ」
菜摘の声は静かだった。
「火傷が本当でも、書かれていることが嘘になるわけじゃない」
遥は頷いた。自分が信じたい説明に飛びつこうとしていることを、友人は止めた。
帰宅すると、健吾が夕食を作っていた。律はソファで本を読んでいる。
「雨、大丈夫だった?」
「傘を買った」
「迎えに行けばよかった」
夫はそう言った。遥は、どこへ、と聞きそうになった。自分がどこにいたか、夫は知らないはずだった。迎えに行けばよかったという言葉は、場所を知らなくても言える。そこまで疑うのは、疲れのせいかもしれない。
食卓に、野菜のスープが置かれた。健吾は、味が薄かったら塩を、と言った。律はパンを浸し、遥にも勧めた。
遥は食べた。温かかった。夫が作った食事を、怖がらずに食べることができた。そのことに、少し安堵した。
健吾は袖をまくっていた。手首に時計がない。代わりに、皮膚の色が少し違う部分があった。長く時計を着けていた跡なのか、火傷の痕なのか。遥には分からなかった。
「向こうで、何かあった?」
遥は聞いた。
健吾のスプーンが止まった。
「仕事では、いろいろ」
「仕事じゃなくて」
律が顔を上げた。遥は言葉を止めた。息子の前で、夫の傷を開きたくなかった。
「疲れたでしょう、って」
「うん。でも、帰ってきたから」
健吾は笑った。律も笑った。遥はスープを飲んだ。
カフェを出ると、雨が降っていた。遥は傘を持っていなかった。駅まで走る人たちを見ながら、店の軒下に立った。高槻はもういなかった。話を途中で切り、伝票を持って出ていった。
捨ててください。あなたのためです。
その言葉が、雨音の中でも消えなかった。高槻は自分を脅したのか、守ろうとしたのか。どちらにしても、何かを知っていた。
遥はコンビニで傘を買った。透明なビニールの向こうに、街の灯りがにじんだ。家に帰れば、健吾がいる。火事に遭った夫。何も知らせず、傷を隠して帰ってきた夫。
疑うことが、急に残酷な行為に思えた。遥は帰国後の言葉を思い返した。髪が短い。眠る向きが違う。時計がない。全部、火事で説明できるかもしれない。自分は夫の傷を、偽物の証拠として数えていた。
駅のホームで、健吾から連絡が来た。律を迎えた、夕食は買ってある。遥は、ありがとう、と送った。続けて、火事のことを知ったと書きかけたが、消した。文字で伝えることではない。
家に着くと、律が玄関まで来た。雨に濡れた靴を見て、ママ、走ったの、と聞いた。遥は、少しだけ、と答えた。息子はタオルを持ってきた。健吾が後ろから、髪も拭いたほうがいいと言った。
遥は夫の顔を見た。火事に遭った人の顔を、どう見ればいいのか分からなかった。健吾は普通に笑った。その普通さが、今度は痛ましかった。
夕食の袋には、律の好きなものと、遥の好きなものが入っていた。健吾の分だけ、別の弁当だった。出発前なら、夫は同じものを3つ買った。好みを聞く時間がないときは、そうした。
優しくなったのではなく、何かを失った人が、家族を大切にしようとしているのかもしれない。遥はその説明を、初めて自分から選んだ。
食後、健吾がシャツの襟を引いた。右肩を動かすと、顔がわずかに歪んだ。遥は今まで気づかなかった。気づいていて、別の意味を与えていたのかもしれない。
「肩、痛い?」
「少し。飛行機で固まったかな」
嘘だった。けれど、嘘をつく理由がある。夫を責める言葉は出なかった。
律が眠ったあと、遥は火事の話を切り出そうとした。健吾が先に、今日は疲れたから、と寝室へ向かった。背中を見送り、遥はそのまま座っていた。
話せないことを持つ人を、無理に話させてよいのだろうか。自分の空白を埋めたいからといって、夫の傷を開くことになるのではないか。
夕食の片づけを終えると、遥は会社の公開資料を見た。健吾の名前は研究発表の欄にあった。記憶、学習、認知。以前は難しい言葉として読み飛ばしたものが、今は自分の生活に近づいていた。
夫は家で、研究の話をあまりしなかった。遥が聞くと、まだ途中だからと言った。途中のものを話すと、正しくない形で理解される。そう説明したことがある。
遥はその説明を尊重してきた。仕事には守るべき情報がある。夫が話せないことを、無理に聞く必要はない。けれど、話せない仕事の中に、自分の記憶が含まれているなら、同じようには考えられない。
資料の最後に、共同研究者の名前が並んでいた。高槻、佐伯、それから亡くなったレナ。その名前が、1つのページにあった。
遥はそのページを保存した。人のつながりを、初めて外から見た。自分が病院へ行ったことも、夫が火事に遭ったことも、孤立した出来事ではない。
図書館の分類では、1冊の本に複数の主題があることがある。どこへ置くかを決めるとき、題名だけでは足りない。内容を読む。関連する本を見る。利用者がどこから探すかを考える。
自分の生活も、1つの名前では分類できなかった。夫婦の問題。病気。研究。事故。どの棚へ置くかによって、見えるものが変わる。
遥はスマートフォンを閉じた。分類を決めるのは、まだ早い。今は、関連するものを並べる。その作業だけを続けようと思った。
律が眠り、健吾の呼吸が深くなってから、遥は夫のシャツを少しだけ持ち上げた。右肩から背中へ、赤く引きつれた皮膚が続いていた。指を近づけ、触れずに戻した。
火傷の痕を見たあと、遥は眠れなかった。夫の呼吸を聞いていた。痛い場所を避けるために、寝る向きが変わった。新しい服は、火事で失ったからかもしれない。時計も、同じ理由かもしれない。
違いの多くが、1つの出来事で説明できる。
それでも、ノートの警告は残った。自分の過去の空白と、夫の変化をつなぐものがあるのか、まだ分からなかった。
遥は差異目録を開いた。眠る向きの横に、火傷、と書いた。線を引いて消すのではなく、理由を付け加えた。記録は間違いを隠すためではない。間違いも含めて残すためにある。
夫の顔を見た。眠っていると、違いはほとんどなかった。目を閉じた人からは、記憶が見えない。
遥は、昔の健吾と喧嘩した夜を思い出した。律が熱を出したとき、夫は仕事から戻れなかった。遥は電話で怒った。帰宅した健吾は、仕事も大事だと言った。2人は台所で言い争い、律が泣いて、やめた。
翌朝、夫は何も言わずに洗濯物を干した。遥も何も言わず、コーヒーを淹れた。謝罪の言葉は、夕方まで出なかった。
今の健吾なら、すぐ謝るだろう。遥が怒れば、分かったと言うだろう。その違いを、いい変化だと思いたい。けれど、ぶつかる相手がいなくなったようにも感じる。
遥はノートを閉じた。
夫を取り戻したいのか、昔の喧嘩まで取り戻したいのか。自分の望みが分からなくなった。
深夜、電話が鳴った。
高槻だった。背景に車の音がした。
「昼間は、すみません。帰ってから、ずっと考えてました」
「今、どこですか」
「家に戻るところです。あなたには、知る権利がある。健吾が受けたのは、火傷の治療だけじゃない」
遥は立ち上がった。
「レテの処置ですか」
「僕も、全部は。ただ、病院から出た資料に」
音がした。短い警笛。高槻が息をのむ気配。
「待っ」
激しい衝撃音がして、通話が切れた。
遥は何度も名前を呼んだ。呼び返しても、つながらなかった。警察に連絡し、聞こえたことを伝えた。自分の声が震えていて、住所を2度言い直した。
翌朝のニュースで、名前が読まれた。
首都高速。単独事故。意識不明の重体。
健吾がコーヒーを持ってきた。画面を見て、足を止めた。
「高槻」
その声に、驚きはあった。悲しみも、あるように聞こえた。遥は、あるように、という自分の考え方が嫌になった。
健吾がこちらを向いた。
「昨日の夕方、どこにいた?」
遥はテレビから目を離した。
夫のカップには、黒いコーヒーが入っていた。




