第3章 カプグラ
「生年月日も、同じですか」
遥は受付の前を動かなかった。
佐伯は画面を伏せるように角度を変えた。他の患者の情報は見せられない。その説明は正しかった。正しい説明ほど、遥を黙らせた。
車に戻ると、健吾はエンジンをかけずに待った。
「2018年のこと、覚えてるよね」
「覚えてる。図書館で働いてた。秋に辞めた」
「どうして辞めたんだっけ」
遥は答えようとした。
体調を崩した。疲れがたまった。医者に休むように言われた。
どれも、どこかで聞いた言葉だった。自分で決めた日のことが、思い出せなかった。退職届を出した場所も、最後に挨拶した相手も。図書館の床の傷は覚えているのに、大好きだった仕事を辞めた理由がない。
「細かいことは、忘れるよ」
健吾が言った。
細かいことではない、と遥は思った。けれど、それを説明する言葉が出てこなかった。
家に戻ると、遥は2018年の手帳を探した。毎年、同じ大きさのものを買っていた。使い終わった手帳は、寝室のクローゼットの上段に並べてある。2016年、2017年、2019年。2018年だけがなかった。
別の箱も開けた。学校の書類、保証書、古い年賀状。律が生まれる前の記録は、少なかった。引っ越しのときに処分したのだと、健吾は言った。
「君が、すっきりさせたいって」
「私が?」
「覚えてない?」
その質問に、遥は疲れた。覚えていないと答えれば、自分の不確かさが増える。覚えていると答えれば、嘘になる。
2018年の写真も少なかった。スマートフォンを替えたとき、うまく移せなかったのだと、以前から説明されていた。遥はその説明を疑ったことがない。写真がないことと、出来事がなかったことは、違う。けれど、今の自分には、どちらも同じ空白に見えた。
台所の椅子に座り、薬の袋を開けた。白い錠剤が、透明な包装の中にあった。小さな文字を読んだ。説明書には、睡眠と不安を整えるためだと書かれていた。
薬を飲むことは、負けることではない。遥はそう思った。自分の感じ方が病気なら、治したい。夫を疑わずに、息子の喜びを一緒に喜びたい。健吾の優しさを、そのまま受け取りたい。
水を飲み、錠剤を飲み込んだ。何かが変わる瞬間を待ったが、すぐには何も起こらなかった。律の宿題を見て、夕食を作り、食器を片づけた。いつもの夜だった。
寝室に入ると、健吾が先に横になっていた。遥は隣に座った。
「ごめんね」
「何が?」
「疑って」
健吾は起き上がった。遥の顔を見た。目が少し赤かった。
「謝らなくていい」
その言葉を聞いて、遥は初めて、帰国後の夫に体を預けた。肩に頬を置いた。知らない匂いはまだあった。けれど、今夜はその匂いを追い払わなかった。
夫の腕が背中に回った。位置は、空港と同じだった。遥は、同じではないことを、いちいち数えないようにした。
眠りは、突然来た。深い水に沈むようだった。夢を見たかどうかも覚えていない。目を開けたとき、朝だった。8時間が、記録されないまま過ぎていた。
その空白を、遥は救いだと思った。
処方された薬を飲むと、よく眠れた。
翌朝、カーテンの向こうが明るかった。夜中に目が覚めなかったのは、何週間ぶりだろう。台所から律の笑い声が聞こえた。
「固ゆで職人と呼んでくれ」
健吾がふざけている。律が卵を持ち上げ、遥に見せた。黄身はしっかり固まっていた。
「パパ、前より優しい」
律はそう言った。
遥は笑った。前より、という言葉の意味を考えないようにした。昔の健吾は仕事で疲れていた。帰宅しても書斎にこもり、律が遊んでほしがると、あとで、と答えた。今の夫は違った。皿を洗い、息子の宿題を見て、遥がソファで眠れば毛布を掛けた。
もしこれが偽物なら、本物よりも優しい。
その考えが浮かんだことを、遥は誰にも言えなかった。
土曜日、3人で近くの商店街へ行った。健吾は律の手を握り、遥は少し後ろを歩いた。パン屋の前で、律が立ち止まった。甘い匂いがした。
「パパ、これ」
律が指したのは、動物の形をしたパンだった。健吾は、好きなものを選びなさい、と言った。律は2つ選び、1つを遥に渡した。
「ママは、うさぎ」
「どうして?」
「耳が長いから、話をよく聞く」
遥は笑った。健吾も笑った。疑いがなければ、こんなに簡単に笑えるのだと思った。
公園のベンチでパンを食べた。健吾は律の口元を拭いた。遥は木の葉を見上げた。光が透け、緑の濃さが違って見えた。以前は、そんなことを見る余裕がなかった。
「図書館、また働きたい?」
健吾が聞いた。
遥は夫を見た。出発前、同じ話をしたときには、律がもう少し大きくなってからと言われた。夫が仕事を続けるために、遥が家を守る。その役割は、話し合うまでもなく決まっていた。
「少しだけ、考えてる」
「いいと思う」
「あなた、前は」
言いかけて、やめた。
「前は?」
「忙しかったから」
健吾は頷いた。
「今は、少し変えたい」
変わることは、悪いことだけではない。遥はそう思った。夫の変化を、帰国という区切りのせいにすれば、何もおかしくなかった。
帰りに、古本屋へ寄った。健吾は入口で立ち止まり、遥に先に入るよう促した。昔の夫は本を探すのが好きで、店に入るとしばらく出てこなかった。今日は、遥が棚を見ている間、律と外で待った。
遥は文庫本を1冊買った。読みたい本というより、読む自分に戻るための本だった。店主が紙のカバーを掛ける手つきを見て、図書館の修復室を思い出した。糊の匂い、乾くまで待つ時間、背を押さえる重し。
帰宅して本を開いたが、文章が頭に残らなかった。同じ段落を3度読んだ。眠れるようになったのに、考える力が薄くなった気がした。
薬のせいなのか、疲れなのか。遥は説明書を読み直した。健吾が、気になるなら先生に聞こうと言った。遥は頷いた。疑いが消える代わりに、自分の中の輪郭も少し柔らかくなっていた。
夜、律が寝たあと、遥は夫とテレビを見た。内容は覚えていない。隣に座っていることだけが大切だった。健吾が笑うと、遥も笑った。笑う理由を確かめなくてもよい時間は、久しぶりだった。
その時間を失いたくなかった。だから、菜摘の連絡に返事をするのが遅れた。友人と話せば、また疑いの場所へ戻る気がした。
3日目の夜、菜摘から短いメッセージが来た。
元気なら、元気とだけ送って。
遥は、元気、と送った。すぐに、よかった、と返ってきた。友人は何も尋ねなかった。その何も尋ねないことが、遥を図書館へ向かわせた。
薬を飲み始めて3日目、遥は律の図書の本を返しに行った。学校の図書室から借りた本ではなく、図書館の本だった。返却期限が過ぎていた。以前なら、期限を忘れることなどなかった。
カウンターで本を渡すと、若い職員がバーコードを読み取った。返却は1冊ですね、と聞いた。遥は頷いた。職員は画面を見て、もう1冊ありますと言った。
遥は貸出票を探した。鞄にはなかった。家に置いたのかもしれない。律が借りた本の題名を、思い出そうとした。電車の図鑑と、何かの絵本。表紙は黄色だった気がする。
職員が題名を教えた。遥は知っている本だった。ただ昔からある絵本だった。けれど、題名を聞いたとき、胸が小さく動いた。
家に帰り、本を探した。律の机、ベッドの下、リビングの棚。健吾が、何を探しているの、と聞いた。遥は題名を言った。夫は、昨日読んだものだと答えた。
「どこに?」
「律の枕の横」
そこにあった。遥は本を持ち上げた。自分も、昨夜、息子の部屋へ行った。布団を掛け直し、枕の横に手を置いた。見えていたはずなのに、覚えていない。
健吾は、疲れてるんだよと言った。遥は頷いた。疲れで説明できることは多い。説明できるからといって、全部を同じ箱へ入れてよいのか、分からなかった。
律は帰宅すると、絵本を返すのは明日にしてと言った。もう1度読みたい。遥は期限が過ぎていると説明した。息子は、じゃあ今日読んで、と答えた。
遥はソファに座り、本を開いた。文字は読めた。声も出た。律が膝に頭を置いた。髪の匂いがした。紙をめくるたび、同じ絵が違う大きさで現れた。小さな家、大きな木、遠くへ行く道。
途中で、遥は読むのを止めた。文章の続きが分からなくなったのではない。次のページの絵を、開く前に知っている気がした。自分が子どもの頃に読んだからだろう。そう考えた。
「ママ?」
律が顔を上げた。
「ごめん。続きね」
遥はページをめくった。思っていた絵があった。記憶は残っている。絵本の順番を覚えている。夫のことを知らないと感じる自分も、全部が壊れたわけではない。
読み終えると、律は同じページをもう1度見たがった。家へ戻る場面だった。遥はその絵を指で押さえた。帰るということは、場所へ戻ることだけではない。待っている人が、帰ってきた人を知っていることでもある。
健吾が台所から、よい本だね、と言った。遥は顔を上げた。夫はカップを持って立っていた。読んだことがあるかと聞くと、子どもの頃に、と答えた。
同じ本を知っている。2人の中に、同じ絵がある。そのことに、遥は少し安心した。けれど、同じ本を知っている人は、ほかにも何千人もいる。夫だと分かる理由にはならない。
その夜、遥は差異目録を開かなかった。代わりに、返却期限を書いた。明日、絵本を返す。誰かが次に読むために。
記録は、疑うためだけにあるのではない。自分が日常を続けるためにもある。その使い方を、少し思い出した。
5日目には、差異目録を開かなくなった。違和感は薄い霧になった。夫は夫なのだと思うと、胸の奥が緩んだ。疑うことは、愛することよりずっと疲れる。
菜摘にも、そう伝えた。
「疲れてただけみたい」
「そっか」
友人は笑ったが、すぐに視線を落とした。
「何?」
「1つだけ、聞いていい?」
菜摘は、8年前の話をした。遥が急に辞めたあと、見舞いに行こうとしたこと。健吾に、今は誰にも会わせられないと断られたこと。
「入院してたでしょう」
遥はカップを持ったまま、動けなくなった。
「入院?」
「覚えてないの?」
窓の外で、子どもが走った。靴底が舗道を叩く音が、妙に遠く聞こえた。
菜摘は、遥が入院を覚えていないと分かると、それ以上の話を止めた。
「今、無理に思い出さなくていい」
「でも、知ってるんでしょう」
「知ってるのは、入院したって聞いたことだけ。病院も、理由も、私は知らない」
遥は友人の顔を見た。知っていることと、知らないことを分けて話す。その態度が、今の遥には何よりありがたかった。
「健吾さんから、何て言われたの」
「疲れがひどくて、しばらく人に会えないって。連絡は自分にしてほしいって」
「私は、連絡しなかった?」
「1か月くらい、返事がなかった。そのあと、元気になったって、短いメッセージが来た」
菜摘は古い端末をまだ持っていると言った。電源が入るか分からないが、確認してみる、と。
「私のメッセージが、残ってるの?」
「たぶん」
遥は、記録がどこかに残ることを初めて救いだと思った。家にないものが、世界から消えたわけではない。
菜摘は、退職した日のことを覚えていた。
遥は館長室に呼ばれ、そのあと修復室へ戻った。机の上を片づけ、使っていた刷毛を洗った。菜摘が手伝おうとすると、自分でやると言った。最後まで、いつもの仕事をしているようだったという。
「泣いてた?」
「泣いてなかった」
「何か、言った?」
「本は、私がいなくても戻る場所があるからって」
遥はその言葉を知らなかった。自分が言いそうな言葉だとは思った。けれど、言った場面がない。
「私は、どこへ戻るつもりだったの」
菜摘は答えられなかった。
帰り道、健吾から連絡が来た。夕食は外で済ませるという。研究所で会議がある。遥は、分かった、と返した。
そのあとで、どこの研究所、と入力した。送らずに消した。夫の仕事を知らない妻になった気がした。以前も全部知っていたわけではない。研究の専門用語は分からず、夫が話すと、もう少し簡単にと言った。それでも、分からないことは2人の間に置いておけた。
今は、分からないことが壁になった。
帰り道、遥は自分の記憶を、年表にしようとした。2010年、健吾と出会う。2011年、結婚。2019年、律が生まれる。その間の8年は、旅行や仕事の断片で埋まっていた。けれど、2018年の秋に近づくと、紙の上に書ける出来事が急に減った。
何もなかった年など、ないはずだった。1年には365日ある。朝食、通勤、返却本、雨、買い物。細かなことをよく覚える自分が、退職という大きな出来事を、説明だけで持っている。
翌日、遥はもう1度図書館へ行った。菜摘は修復室の棚から、古い作業記録を出した。遥が担当した本の一覧だった。破損の状態、使った材料、返却予定。最後の欄に、作業者の名前がある。
遥は自分の名前を指で追った。2018年9月。10月。復帰したあと、短時間だけ働いていた記録だった。自分が書いた字なのに、その日の机を思い出せなかった。
「この本、覚えてる?」
菜摘が聞いた。
背が外れた地図帳だった。大きな本で、修復台に載せると、ほかのものを置けなくなった。遥は覚えていた。ページの端が薄く、糊を入れすぎると波打つ。作業を急がず、1日ずつ乾かした。
「覚えてる」
遥は答えた。
「でも、いつだったかは、分からない」
菜摘は頷いた。記録の日付と、遥の記憶は、まだつながらなかった。作業の感覚は残っている。家へ帰ったあとのことはない。
遥は記録の余白を見た。自分が小さく書いた言葉があった。今日はここまで。明日、背を確認。
文字の最後が少し薄かった。刷毛を洗う前、ペンを取り上げ、続きを明日に送った。そういう1日を働いた自分が、紙の向こうにいた。
菜摘は、遥が復帰したとき、手が荒れていたと言った。以前は作業のあとにクリームを塗った。復帰後は、忘れることが増えた。昼休みに眠そうだった。
「忙しかったんだと思う」
友人は言った。
遥は頷いた。何で忙しかったのか、菜摘は言わなかった。手元の記録を、もう1枚めくった。
「私が、聞いたら、答えて」
遥は言った。
「言いにくいことでも」
菜摘は作業記録を閉じた。
「答える。間違って覚えてるかもしれないけど」
遥は頷いた。その約束が、今は必要だった。
棚の奥に、修復の終わった地図帳があった。菜摘が持ってきた。遥は表紙を開いた。自分が直した背は、まだ使える状態だった。8年の間に、何人もが開き、閉じたはずだった。
仕事は、自分が忘れても残る。自分がいなくても、誰かの役に立つ。そのことを、以前の遥は誇りに思っただろう。今は、少し寂しかった。自分のしたことが残るのに、自分のした時間がない。
菜摘は、作業記録の写しを渡した。遥は受け取った。夫の記憶を確かめるために図書館へ来た。今日は、自分が働いた証拠を持ち帰る。
帰り道、遥は紙を鞄から出し、もう1度読んだ。今日はここまで。明日、背を確認。
紙を折り、鞄へ戻した。手を離しても、文字は消えなかった。
帰宅してから、遥は健吾の書斎に入った。
壁いっぱいの本棚。結婚したとき、夫が日本十進分類法に合わせて並べてくれたものだった。遥の職場と同じ順序にすれば喜ぶと思ったのだ。実際、遥は嬉しかった。分類番号を覚えるのに苦労したと、夫は何度も言った。
その棚に、1冊だけ場違いな本があった。
医学書の列に、薄い物語の本。2人が出会ったきっかけと同じ題名だった。
953。
フランス文学の番号を、遥は心の中で唱えた。ここは491。間違っている。
本を抜くと、紙片が落ちた。健吾の字で、953と書かれていた。
遥は文学の棚へ移動した。手前の本を抜き、奥を探る。背板に、薄い黒いノートが貼りつけられていた。
出張前夜の日付。
遥へ。
もし僕が帰ってきて様子がおかしかったら、それは僕じゃない。
誰にも言うな。佐伯先生にも。母さんにも。
薬は飲むな。
遥は文字を指でなぞった。筆圧の強い、右上がりの字。何年も、買い物メモや学校への連絡帳で見てきた字だった。
薬は飲むな。
昨夜、飲んだばかりだった。深く眠れたことを喜んだ自分の体が、急に知らないものになった。
玄関の鍵が回った。
「ただいま。早く上がれた」
遥はノートを抱え、廊下に出た。逃げ場所を探した。寝室にも書斎にも鍵はない。トイレは狭すぎる。気づくと、浴室に入っていた。
内鍵を掛けた。白い壁。水の匂い。膝が震えた。
ノートを開いた。化学式、表、ドイツ語。読めない文字の中に、何度も同じ言葉があった。
レテ。
その名だけは知っていた。忘却の川。昔、神話の棚を整理したときに読んだ。水を飲めば、記憶を失う。
最後のページに、短い1行があった。
君の記憶も、君のものじゃない。
扉が鳴った。
「遥、大丈夫?」
遥は口を押さえた。
「珍しいね。君がお風呂場にいるなんて」
ドアノブが動いた。止まった。
浴槽の底に、水滴が落ちた。さっきまで乾いていたはずなのに、音がした気がした。
「書斎の本、出しっぱなしだったよ」
遥はノートをブラウスの内側に入れた。鏡の中に、36歳の自分がいた。顔だけが、自分より先に老けて見えた。
「気分が悪くて」
「薬のせいかな。先生に電話しようか」
「大丈夫。すぐ出る」
鍵を開けると、健吾が立っていた。手には、あの本があった。
「懐かしいな」
夫は本を差し出した。
「戻しておいてくれる? どこに置くか、俺には分からないから」
遥は受け取った。
分類したはずの人が、分からないと言っている。遥は本を受け取り、夫から目をそらした。
浴室から出たあと、遥は律の部屋へ行った。息子は机に向かい、木製の列車を紙に描いていた。
「何してるの?」
「駅。電車だけじゃ、どこにも行けないから」
遥は椅子の背に手を置いた。律の描いた駅には、入口と出口が別々にあった。
「どうして分けたの」
「ぶつかるから」
遥は頷いた。入る人と出る人が同じ場所を使うと、ぶつかる。息子は単純な理由で、世界を少しよくしようとしていた。
「パパにも見せる?」
「うん。あとで」
律は紙の隅に、家を描いた。窓が3つ。玄関の前に、3人。
遥は、その3人のうちの1人を、どう受け止めればいいのか考えた。子どもの絵は、疑わない。家族を家族として描く。自分はその絵を壊していいのだろうか。
健吾が廊下から声を掛けた。
「夕食、食べていい?」
遥は返事をした。律が紙を持って走った。夫はしゃがみ、絵を見た。
「いい駅だね」
「入口と出口が違うの」
「なるほど。混まない」
律は嬉しそうに笑った。遥は、その笑顔を見ていた。夫が偽物でも、息子を喜ばせることはできる。そんな考えを持つ自分のほうが、家族を壊す人間なのかもしれない。
黒いノートは、寝室のクローゼットの奥に入れた。衣類の下ではなく、古い鞄の内ポケットに。自分が隠した場所を忘れないように、頭の中で3回繰り返した。
夕食の間、健吾は研究所の話をした。人が増えたこと。席が変わったこと。帰国報告に時間がかかったこと。遥は聞いた。夫が何を話しているかより、どんな順番で話すかを見ていた。
「疲れた?」
健吾が聞いた。
「少し」
「今日は早く寝よう」
夫はそう言った。早く眠ることが、今は恐ろしかった。眠っている間、自分は何も確かめられない。起きていても確かめられないことばかりなのに、眠るともっと遠くなる気がした。
律を寝かせたあと、遥は台所で水を飲んだ。蛇口を閉める。音が止まる。自分が閉めた。覚えている。
健吾が後ろに立った。
「薬、忘れないでね」
遥は振り返った。夫の手に、処方袋があった。
飲まない理由を、まだ用意していなかった。
自分の記憶を守るために、夫の前で嘘をつく。その決断は、薬を飲むよりも苦かった。
夜、健吾が薬と水を持ってきた。遥は錠剤を口に入れた。水を飲み、笑った。健吾が明かりを消すまで待った。
闇の中で、薬を取り出した。ティッシュに包む指が、かすかに震えた。
翌朝、遥は薬の袋を鞄に入れた。ノートは家に置かなかった。律の古い絵を入れていた封筒に挟み、持って出た。隠すことが増えるほど、自分が悪いことをしているように感じた。
菜摘は修復室で、黒いノートを見た。最初のページを読み、顔を上げた。
「これ、健吾さんの字?」
「そう」
「いつ書いたか、分かる?」
「出張の前夜の日付」
菜摘は紙を光に透かした。特別なものが見えるわけではない。けれど、手に持って確かめることで、2人とも少し落ち着いた。
「薬は、どうした?」
「昨夜は、飲まなかった」
菜摘はすぐには何も言わなかった。
「私には、飲むべきか分からない。勝手にやめていいとも言えない。でも、このノートがあることは、別の専門家にも相談したほうがいい」
遥は頷いた。佐伯以外の医師を探すことが、裏切りのように思えた。そう感じること自体が、おかしかった。自分の体について、別の人に意見を求めるだけなのに。
菜摘は、相談先を調べるためのメモを作った。ノートの写真を撮る前に、遥に許可を求めた。遥は頷いた。誰かが自分に確認する。その小さな動作が、今は大きかった。
2人は読める部分を拾った。レテという名前。日付。番号。化学式。菜摘は、神話の名前を使う研究者って、少し格好つけてるね、と言った。遥は思わず笑った。怖いものに、別の見方があることを思い出した。
昼、律を迎えに行った。校門の前で、他の母親が健吾の帰国を喜んでくれた。お土産は何だったの、と聞かれ、飛行機の模型だと答えた。話している間、鞄の中のノートが重かった。
律は、今日はパパが宿題を見ると言った。遥は、そうね、と答えた。息子の世界では、父親は帰ってきた。それ以上の説明は必要なかった。
帰宅すると、健吾が早く戻っていた。書斎の扉が開いていた。遥は鞄を握り直した。
「何か、探してた?」
夫が聞いた。
「昔の手帳」
「見つかった?」
「なかった」
健吾は頷いた。遥の鞄を見た。視線が長く残ったわけではない。それでも、遥には見られたと分かった。
夕食のあと、健吾は薬を持ってきた。遥は、別の先生にも相談したいと言った。夫は少し黙った。
「佐伯先生が嫌だった?」
「嫌ではない。確認したいだけ」
「君が安心するなら」
答えは、また同じ形だった。遥が安心するなら。遥の不安が、すべての理由になる。
その夜、薬を飲むふりはしなかった。相談するまで待ちたい、と言った。健吾は困った顔をしたが、強くは勧めなかった。遥はその反応を、ノートに書かなかった。
夫を疑う記録と、自分を守る記録は、同じではない。少しずつ、その違いを考え始めていた。
薬を飲まないことが正しいのか、遥には分からなかった。自分を診た医師より、隠されたノートを信じる。そんな選択をする日が来るとは思わなかった。
隣の健吾が、寝返りを打った。
遥は目を閉じた。眠れない夜が、戻ってきた。
菜摘が調べた相談先には、昼休みの時間に電話をした。会社の名前は言わなかった。自分が飲んでいる薬を確かめたい、眠れない、夫のことをうまく話せない。受付の人は、まず予約を取りましょうと言った。翌日の朝に、取り消しが出ていた。
駅の反対側にある、小さな診療所だった。待合室には使い込まれた雑誌が並び、子どもの咳がした。遥は処方袋と説明書を鞄から出した。黒いノートは出さなかった。
医師は白髪の男で、遥の説明を途中で止めた。
「お薬そのものは、持っていますか」
白い錠剤を包んだものを渡すと、医師は袋の表示と見比べた。手元で何かを調べ、首をかしげた。
「この包装だけでは、こちらで内容を保証できません。元の医療機関へ確認する必要があります」
「確認しないでほしいんです」
思ったより大きな声が出た。隣の診察室の音が、急に止まったように感じた。
医師は袋を机に置いた。
「連絡されると困る事情があるんですね」
遥は頷いた。事情を説明しなければ、薬を調べてもらえない。事情を話せば、薬のことより先に自分を調べられる。椅子の端で、膝を揃え直した。
「夫が、私の記憶を信用しないんです」
「どういうときに?」
「送っていないメッセージを、送ったことになっていて」
医師は、夫の画面を見たのかと聞いた。自分の画面にもあったと答えた。家庭のパソコンの接続を切ったことも話した。男は頷き、パソコンについては自分には判断できないと言った。
「でも、あなたの話を、ご主人の話と別に聞くことはできます」
遥は顔を上げた。医師はカルテに目を落としていた。特別なことを言ったつもりはないようだった。
眠れていない期間、食べられているか、律を迎えに行けているか。質問に答えるうち、遥は今朝、パンを食べたかどうか分からなくなった。食べたと思う。息子の皿にはパン屑があった。自分の皿は洗った。その先が曖昧だった。
「ほら、私も、おかしいんです」
遥が言うと、医師は書く手を止めた。
「今朝の食事を思い出せないことだけでは、何も決められません」
自分の不確かさを見つけるたび、自分を有罪にしようとしていたのだと、そのとき少し分かった。
男は、ここで分かることには限りがあると言った。今の状態を見ながら、必要な検査や相談先を考える。ただ、遥が内容を疑っている薬については、現物を含めて正式に確認する方法を探したい。そのために誰へ何を伝えるかは、先に相談するという。
「今日は、夫へ連絡しませんか」
「あなたが望んでいないことは、聞きました」
答えは、いつでもどんな場合でも連絡しないという約束ではなかった。遥はそれでも、少し呼吸を戻した。
診察室を出る前に、黒いノートの表紙だけを見せた。
「こういうものが、あるんです」
医師は手を伸ばさなかった。
「次に話せそうなら、聞かせてください」
次の予約を取った。3日後だった。たった3日が、長く感じた。受付で受け取った予約票を、遥は鞄の内ポケットへ入れた。夫に見せる必要のない予定を、自分で作った。
帰り道、菜摘へ電話した。
「その先生、何て?」
「分からないって」
「そっか」
「でも、また行く」
駅の階段を下りながら、遥は初めて、確かな答えをくれない人のところへ、自分の足で戻ろうとしていた。




