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入れ替わった夫  作者: ぽむぽむ


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第2章 差異目録

肩に、柔らかいものが触れた。

 目を開けると、健吾がカーディガンを掛けていた。リビングの椅子に置いてあったものだ。

「冷えるよ」

 遥は襟元をつかんだ。恐怖が消える代わりに、別のものが込み上げた。自分は何をされると思ったのか。

「誰と話してたの」

「研究所。向こうはまだ夜の8時だから」

「ドイツ語、話せた?」

「少しはね。3か月いたんだ」

 健吾はそれ以上説明せず、寝室に戻った。遥は律の布団を直した。息子の頬は温かかった。その温度だけが、何も変わっていなかった。

 翌朝、健吾が朝食を作った。トーストと目玉焼き。律の皿に、半熟の卵が置かれた。

「ぼく、かたいのがいい」

「あ、そうだった。ごめん」

 健吾は自分の皿と取り替えた。何でもないやり取りだった。

 遥は律の皿を見た。夫と替えた目玉焼きは、焦げて端が反っていた。息子はその端から食べ始めた。

 4歳のとき、律は半熟の黄身を口にして激しく吐いた。救急外来に連れて行ったのは健吾だった。病気ではなかったが、帰宅した夫はしばらく卵料理を作れなかった。あれを忘れるだろうか。

 忘れることもある。3年も前だ。疲れている。

 説明は、いくらでもできた。

 健吾が会社へ出かけたあと、遥は寝室の窓を開けた。風がカーテンを押し、夫の枕の上を通った。シーツを洗う日ではなかったが、外して洗濯機に入れた。知らない匂いを消せば、昨夜の感覚も消えるかもしれないと思った。

 洗濯機が動き始めると、台所に戻った。健吾の使ったカップが、伏せて置かれていた。底の欠けは出発前と同じだった。律が3歳のときに落とし、健吾が接着剤で直したものだ。遥は新しいものを買おうと言った。夫は、使えるならいい、と答えた。

 欠けたカップはそのままなのに、使う人だけが変わったように思える。遥は指で底を撫でた。記憶の中の夫は、どこにでもいた。台所、階段、窓際の椅子。今朝、そこを歩いた人の姿が重なると、輪郭が少しずれた。

 ずれを直すために、遥は掃除を始めた。椅子を定位置に戻し、クッションを整え、律の模型を机に置いた。クッションの向きを直してから、さっきも直したことを思い出した。

 夫の顔を、写真で確かめた。出発前の家族写真。去年の誕生日。結婚式。画面を拡大して、耳や眉を比べた。自分が何をしているか分かっていた。夫を疑っているというより、自分の目を疑っていた。

 写真の中の健吾は、いつも同じだった。少し照れた笑顔。カメラを意識すると、左の口角が先に上がる。帰国した夫も同じだった。体の特徴は、1つも変わっていない。

 遥は画面を消した。黒くなったガラスに、自分の顔が映った。夫の顔より、そちらのほうが知らない人に見えた。

 10時過ぎ、健吾から電話があった。報告が長引きそうだから、帰るのは夕方になる。時差がまだ残っている、と声を落とした。遥は、仕事は大丈夫、と聞いた。夫は、資料を整理するだけだから、と答えた。

「遥は?」

「洗濯してる」

「無理しないで」

 通話が終わったあと、遥はしばらく電話を耳に当てていた。優しい言葉を聞いて、安心するより先に、どうしてそんなに優しいのだろうと考えてしまう。疑いは、悪いことだけでなく、よいことまで証拠に変えた。

 それを止めるために、ノートを出した。

 記録するのは、結論ではない。起きたことだけ。そう決めた。健吾は偽物、と書けば、すべてがそこへ向かって並び始める。違う点と、同じ点を分ける。自分の感情は、別の欄に書く。

 遥はページを3つに区切った。事実。説明。私の反応。

 匂いが違う、という言葉は、事実なのか反応なのか。最初から分類できない項目にぶつかった。それでも、線を引く前よりは、少し落ち着いた。

 表紙へ、差異目録、と書いた。最初の文字だけ大きくなり、最後は端へ詰まった。書き直そうとして、やめた。

 1、コーヒー。ブラック。

 2、律の呼び方。

 3、眠る向き。

 4、腕時計の紛失。

 5、匂い。

 6、律の卵。

 最後の項目だけは、詳しく書けなかった。知らない匂い、と書いてみたが、それでは何も記録していないのと同じだった。消しゴムを使うと紙が毛羽立った。

 司書だった頃、同じ本の初版と改訂版を比べる仕事が好きだった。本文は同じでも、句読点が変わる。誤植が直る。奥付の小さな文字が、別の年月を示す。違いには理由があった。調べれば、必ずどこかに辿り着けた。


 遥は家の中を歩いた。誰もいない家なのに、扉を閉める音を小さくした。玄関で鍵を掛け、すぐに開けて、もう1度掛けた。閉まっていることを確かめたかったのではない。自分が閉めたという記憶を、確かなものにしたかった。

 夫の使ったカップが水切り籠にあった。遥は持ち上げ、鼻に近づけた。コーヒーの匂いしかしなかった。昨夜、空港で感じた匂いを、もう思い出せなかった。

 匂いを覚えていないのに、違ったと書いた。

 ノートを開き、5番目の横に、再確認不能、と付け加えた。そう書くと、自分が調査しているように思えた。調査なら間違いも修正できる。確信ではない。まだ、何も決めていない。

 洗面所で夫の歯ブラシを見た。出張前に使っていたものが残っている。帰国した夫は、新しいものをその隣に置いた。買い替えただけだ。3か月前の歯ブラシを使わないことは、むしろ普通だった。

 遥は、違いを探しているのではなく、違いでないものを探している自分に気づいた。安心できるものが1つ見つかれば、ノートを閉じられる気がした。

 食卓に座り、昨夜の写真を見た。律の横に立つ夫。見慣れた顔。知らない顔。写真は、どちらの味方もしなかった。

 菜摘に電話をかけたのは、11時を過ぎてからだった。

「今日、少し会える?」

「12時半なら。何かあった?」

 遥は、夫が帰ったと答えた。

「よかったね」

 その言葉を聞いて、泣きそうになった。よかったと言われる出来事が、よくなかったかもしれない。誰かに話すには、まずその矛盾を認めなければならなかった。

「うん。だから、会いたい」

 菜摘は理由を聞き返さなかった。遥の言葉の順序がおかしいとき、無理に直さない人だった。

 出かける前に、ノートを鞄へ入れた。持っていくことを、誰かに見られている気がした。家の中を振り返った。火災報知器の小さなランプが点いていた。冷蔵庫が唸った。何も変わらない家だった。

 外に出ると、近所の人が庭の落ち葉を掃いていた。

「ご主人、帰られたの?」

「はい。昨日」

「よかったわね。律くん、嬉しいでしょう」

「とても」

 遥は笑った。嘘ではなかった。律は嬉しい。夫は帰った。どちらも事実だった。自分だけが、その事実の中にうまく入れない。

 駅へ向かう道で、パン屋の窓に映った自分を見た。いつもと同じ服。いつもと同じ鞄。36歳の主婦。何も起きていないように見えた。

 昼、遥は図書館へ行った。返却ポストの脇の床に、小さな傷が残っていた。自分が働いていた頃、移動書架をぶつけた跡だ。何年経っても変わらないものを見つけて、ようやく少し落ち着いた。

 戸川菜摘は閲覧室の隅でノートを読んだ。36歳。同い年の元同僚で、遥が仕事を辞めたあとも連絡をくれる、数少ない友人だった。

「1個ずつなら、説明つくね」

「そうなの」

「コーヒーの好みも、寝相も。卵は、うっかりしただけかもしれない」

「全部に説明がつくの。それが怖い」

 菜摘が顔を上げた。

「どういうこと?」

「質問する前から、答えが用意されているみたいなの」

 声にすると、自分の疑いがひどく幼稚に聞こえた。遥はノートを閉じようとした。菜摘がその手を止めた。

「笑わないよ」

「でも、ばかみたいでしょう」

「ばかみたい。でも、遥が言うから、聞いてる」

 慰められるより、その答えのほうがありがたかった。

 菜摘は休憩の終わりに、ノートを返した。

「全部、違いとして残していいと思う。でも、結論は別のページに書こう」

「結論?」

「健吾さんが別人だ、っていうのと、コーヒーが変わった、っていうのは違うでしょう」

 遥は頷いた。

「分けないと、何でも証拠になっちゃう」

 菜摘は指で表紙を叩いた。

「本の破れを見つけたら、誰かが破ったって決める前に、糊が弱かった可能性も見る。そういうこと」

「私が昔、言ったことね」

「そう。受け売り」

 遥は笑った。菜摘は、偉そうに言ってごめん、と肩をすくめた。自分が教えたことを、この人はまだ仕事で使っている。

「あと、律くんを試さないでね」

 菜摘の声が少し硬くなった。

「パパ、変じゃない?って聞いたら、ママを喜ばせる答えをするかもしれない」

「聞いてない」

「なら、よかった」

 遥はノートを鞄に入れた。言われて初めて、息子に聞こうと思っていたことに気づいた。自分が感じた違和感を、子どもにも感じてほしかった。その望みを、正しさだと思いかけていた。

 健吾が出張へ行く前の春、水曜日だけ、遥は図書館の短い講座に通おうとした。修復の材料が変わり、職を離れている間に知らない接着剤が増えていた。講師は昔の同僚の先輩で、仕事の紹介を頼むつもりではなかった。ただ、机の向こうで誰かが紙を広げるのを、もう1度見たかった。

 講座の申込書を食卓へ置くと、健吾は律の迎えの時刻を聞いた。講座が終わるのは午後4時。学校から帰った律を、その日だけ静江に見てもらうつもりだった。

「母さん、膝が痛いって言ってなかった?」

「座っていてもらえばいいから」

「律は、座ってないだろ」

 夫は笑った。遥も笑った。正しかった。律はじっとしていない。けれど、その正しさの前で、自分が図書館へ行きたいという希望が、少しずつ勝手なものになっていった。

「僕が早く帰れる週なら」

「毎週、水曜日なの」

「そっか」

 話はそこで終わった。申込書の締切は、次の月曜だった。遥は金曜日まで食卓の端へ置き、土曜日に、律の学校の紙と一緒の箱へ入れた。

 締切を過ぎた水曜日、健吾はいつもより早く帰った。紙袋を持っていた。遥の好きなパン屋の、焼き色の濃い小さなパンだった。今日は寄れたから、と言った。

 遥は袋を受け取った。パンはまだ温かかった。好きなものを覚えていてくれたことは嬉しかった。なのに、1つちぎって食べると、喉が詰まった。

「どうした?」

「熱くて」

 健吾は水を持ってきた。

 あの日、食べずに返せばよかったのだろうか。講座に行きたかったと、もう1度言えばよかった。夫が聞かなかったことと、自分が言わなくなったことが、同じ食卓に積もっていた。

 昨夜、帰国した夫は、水曜なら買って帰れると言った。遥は何も頼まなかった。同じ返事をする自分が、ここにもいた。

 買ってほしいものではなかった。帰ってきて、してほしいことがあった。

 図書館を出る前に、文学の棚へ寄った。健吾が延滞した本と同じ題名の新しい版があった。表紙は変わっていた。紙も白い。昔の版には、本文の途中に小さな染みがあった。夫が返したとき、コーヒーをこぼしたのではないかと疑った。本人は違うと言った。

 遥は本を抜き、最初のページを開いた。見慣れた文章があった。装丁が違っても、同じ本だと思える。人はどうだろう。顔も声も同じなのに、同じ人だと思えない。比較すること自体が、間違っているのかもしれない。

 貸出機に本を置きかけて、やめた。夫に見せれば、また試すことになる。今日は、まだ普通の妻でいたかった。

 静江の家へ向かう途中、スーパーでみかんを買った。義母の好きなものだった。手ぶらで行くと、何かを聞きに来たことが目立つ気がした。

 袋の重さを持ち直し、遥は義母の家へ向かった。

 静江の家へ向かう道には、古いパン屋があった。健吾が学生の頃から通っていた店だ。義母に会う前に、夫の好きだったパンを買おうと思った。店主は、息子さん帰ってきたんですね、と言った。静江が朝、嬉しそうに話していたという。

「奥さんも、ほっとしたでしょう」

「はい」

 遥は答えた。嘘は短いほど簡単だった。店主は袋を渡し、温かいうちに、と言った。袋の底から、焼きたての温度が伝わった。

 静江は玄関でパンを見て、懐かしいわねと言った。健吾が部活の帰りに買ってきて、夕食前に全部食べてしまった話をした。遥はその話を知っていた。結婚した頃、義母が何度も話してくれた。

 同じ話をする人がいる。聞く自分も覚えている。その連続の中に、夫だけがうまく入らない。

 義母はお茶を淹れながら、3か月も1人で頑張ったのだから疲れたのだと言った。

「健吾さん、まるで別人みたいで」

 湯呑みが倒れた。

 お茶が畳に染みた。静江は慌てて布巾を取りに行った。戻ってきた手が、細かく震えていた。

「最近、指が利かないの。年ね」

 遥は布巾を受け取った。義母の視線は、畳から上がらなかった。

「お義母さん、何か知ってますか」

「何を」

「健吾さんのこと」

 静江は長い間黙った。仏壇の線香が、細い煙を上げている。その脇に、小さな写真立てが伏せられていた。

「昔のことは、いいのよ」

「昔?」

「帰ってきたでしょう。それで十分じゃない」

 何の昔なのか、遥は聞けなかった。静江の声が、質問を拒んでいたからではない。泣くのをこらえる人の声に似ていたからだった。

 お茶を拭き終えると、静江はパンを切り始めた。包丁の音が、会話の隙間を埋めた。遥は、伏せられた写真立てを見た。小さな木の枠。以前からあったのか、分からなかった。

「その写真、倒れてますよ」

 静江の手が止まった。

「掃除のときにね」

 遥が起こそうとすると、義母は、あとでいい、と言った。声は穏やかだったが、パンを切る手が再び動くまで、少し間があった。

 帰り際、静江は遥に梨を持たせた。昨日もらったものが、まだ冷蔵庫にある。そう言うと、律が好きだから、と答えた。食べ物を渡すことで、言えないことを埋めようとしているように見えた。

 遥は袋を受け取った。義母の手は温かかった。健吾を産み、育てた手。その手が、夫についての質問を避けている。

「何か思い出したら、教えてください」

「何を?」

「分かりません。私が知らないことを」

 静江は玄関の柱を見た。健吾の身長を記した傷が、薄く残っていた。

「知らないほうがいいことも、あるのよ」

 遥は、その言葉を聞かなかったふりをして、靴を履いた。

 家に戻ると、律が宿題をしていた。健吾はまだ帰っていなかった。息子の書いた文字を見ながら、遥は丸をつけた。

「ママ、ここ、合ってる?」

「合ってる」

「見てないじゃん」

 遥は顔を上げた。律の鉛筆が止まっていた。

「ごめん。もう1度見る」

 息子は黙ってノートを寄せた。足し算の答えが1つ違っていた。遥は丸を消し、式を指した。

「ここだけ、一緒にやろう」

 律は、さっき合ってるって言った、と呟いた。遥は謝った。自分の記憶を守ろうとして、目の前の子どもの時間を見失っていた。

 夕食の支度をしながら、夫を試すことを考えた。嘘をつくのは苦手だった。夫を試すために嘘をつくことは、もっと苦手だった。けれど、何かを確かめなければ、普通に戻れない気がした。

 健吾が帰ると、ネクタイを着けていた。遥が贈ったもの。少し結び目が緩んでいる。

「どう?」

「似合う」

「ありがとう」

 遥は結び目を直した。指が夫の襟に触れた。健吾は動かなかった。いつもの夫なら、苦しいと冗談を言っただろう。今の夫は、遥の手が離れるのを待った。

 待つことができる人になった。いいことのはずだった。

 翌日、健吾と律は公園へ行った。遥も誘われたが、洗濯物があると答えた。窓から、2人が並んで歩くのを見た。律が跳ねるように進み、健吾が少し後ろをついていく。以前は、夫が先に歩き、息子が追いかけた。

 家が空になると、遥は書斎の引き出しを開けた。探すものは決まっていなかった。何かを見つけたいというより、何もないことを確かめたかった。

 文房具、古い領収書、研究会の名札。健吾の生活は、紙の断片になって残っていた。名札の顔写真は、今の夫と同じだった。社員番号も、住所も、電話番号も。

 引き出しの奥に、結婚前の手紙があった。遥が渡したものだ。便箋の角が柔らかくなっていた。何度も読んだのだろう。開くと、昔の自分の字があった。図書館の仕事が楽しいこと。健吾の研究を全部理解できなくても、話してくれる時間が好きなこと。

 遥は手紙を閉じた。夫が偽物なら、この手紙を読むのだろうか。本物なら、なぜ今、目の前の自分が分からないのだろうか。どちらを考えても、答えは自分の側に戻ってきた。

 公園から帰った律は、靴下を泥で汚していた。健吾が洗面所で洗った。遥はその背中を見ながら、今日は何をしたの、と聞いた。

「鉄棒。パパ、逆上がりできなかった」

 律が笑った。

「年だからな」

 健吾も笑った。遥は、以前の夫ができたかどうか思い出せなかった。覚えていないことを、疑いの根拠にしてはいけない。ノートに書くのをやめた。

 夕方、律が眠る前に、健吾は絵本を読んだ。声を変えて登場人物を演じた。律は喜んだ。以前の夫は、淡々と読む人だった。遥が、もう少し面白く読んであげたら、と言うと、文章は文章のままがいい、と答えたことがある。

 変わったことが、よい変化なら、受け入れるべきなのか。

 遥は廊下で足を止めた。息子の笑い声を聞いていると、自分だけが家族の幸せを壊そうとしているように思えた。

 帰国して3日目の夜、遥は夫が出張前に買っておいたワインを出した。帰ったら飲もう、と言って、棚の奥にしまったものだった。遥はその瓶を出した。健吾は、いいものがあるね、と言った。

「あなたが買ったのよ」

「そうだった。忘れてた」

 夫は栓を抜いた。遥は、忘れてたという言葉が、こんなに簡単に使われることに驚いた。自分は忘れないように、毎日、書いている。夫は忘れたことを、笑って通り過ぎる。

 新婚旅行の話を始めるまで、遥は何度もやめようと思った。試すことは、相手の答えを待つことではない。間違いを待つことだ。そんな会話をしたあと、2人は元に戻れるのだろうか。

 それでも、グラスを持った夫の指を見て、聞いた。確かめなければ、明日も同じ夜が続く。

「函館の夜景、覚えてる? ロープウェイが混んでて、1本見送ったの」

「覚えてる。ちょうど日が落ちて、きれいだった」

 遥はグラスを置いた。

 2人が行ったのは長崎だった。ロープウェイは空いていた。遥は高い場所が苦手で、ゴンドラの床に座り込んだ。

「きれいだったな、函館」

 健吾は穏やかに続けた。遥は笑顔を保った。喉の奥が、急に乾いた。

 夫がグラスを傾け、こちらを見た。

「なんてね。長崎だろ」

 遥は瞬きをした。

「試したんだよね」

 声は優しかった。優しいままで、逃げ道がなくなった。

「コーヒーも、卵も。ずっと見てる。ノート、つけてるだろ」

 遥は膝の上で指を組んだ。引き出しの奥にしまったはずだった。

「責めてない。心配なんだ」

 健吾はスマートフォンを差し出した。遥のアカウントから届いたメッセージが並んでいる。同じ質問が3回。運動会の日付も違っていた。

「私、送ってない」

「そう思うのも、分かるよ」

 その言い方に、遥は何も返せなくなった。否定しても、それが症状の証拠になる。目の前の画面は、自分の記憶よりも確かに見えた。

「専門の先生に会おう。会社から紹介してもらえる」

 遥は頷いた。拒めば、ますます自分がおかしいように見える気がした。

 翌朝、遥は昨夜のメッセージを自分の画面でも探した。同じ質問が3回。健吾の画面にあった通り、送信済みになっていた。削除された形跡も、送信を取り消した表示もなかった。

 1つ目の時刻は前日の午後4時12分。その時間、遥は律の鉛筆を買っていた。レシートには4時9分とあった。店から家までは歩いて12分。買い物中に送ったのかもしれない。数字を並べても、自分が送っていない証拠にはならなかった。

 端末の説明を読み、接続中の機器を表示した。自分の電話のほかに、家庭用のパソコンが1台あった。数か月前、写真のバックアップをするため、健吾に設定してもらったものだった。

 覚えがあった。勝手に繋がれたのではない。面倒な操作を頼んで、任せた。健吾は律の写真を失くさないようにと言い、遥は助かったと答えた。

 接続を切るためのボタンに指を置いた。切れば、次に夫が使うとき、気づくかもしれない。何かを疑っていると知らせることになる。遥は画面を閉じた。

 台所へ行き、冷めたコーヒーを飲んだ。接続は残っている。ボタンはいつでも押せる。それなのに、押す前に夫の顔を考える。自分の電話なのに。

 夕方、律が音読をした。遥は教科書を見ながら聞いた。同じ行を2度読むと、息子は気づかず先へ進んだ。

「そこ、さっきも読んだよ」

「うそ」

「ここから、ここまで」

 律は戻り、照れて笑った。遥は音読カードに署名した。間違えたことを書き残す欄はなかった。聞いた人の名前と、聞いた日付だけだった。

 その夜、健吾が風呂に入っている間に、遥はもう1度、接続機器の画面を開いた。指先が冷えた。息子は隣で工作をしていた。

「ママ、ハサミ」

 渡した。刃を閉じ、持ち手を息子の側へ向けた。そのままの手で、接続を切った。

 何も鳴らなかった。洗面所から、水音が続いていた。

 ノートに、切った時刻を書いた。自分を信じられるようになったわけではない。けれど、次に同じことが起きたら、確かめる範囲が少し狭くなる。

 健吾が戻ると、律の工作を見て、何を作っているのと聞いた。駅だと答える息子の横で、遥は電話を伏せた。何でもない動作をしたつもりだったが、画面の角が机に当たり、硬い音がした。

 診察の予約を取ったのは健吾だった。会社の福利厚生の窓口を通したと言った。遥は自分で調べたいと答えたが、評判のよい先生だから、と夫は勧めた。断る理由が見つからなかった。

 前夜、遥はノートを鞄に入れた。持っていけば、疑いの強さを示す資料になる。持っていかなければ、うまく説明できない。どちらを選んでも、自分に不利になる気がした。

 朝、健吾が車を出した。律は静江に預けた。息子には、ママが少し疲れているから病院へ行くと説明した。律は、注射するの、と聞いた。遥は、話をするだけ、と答えた。

「じゃあ、ぼくの話もして」

「何を?」

「パパが帰ってきて、うれしいって」

 遥は頷いた。息子の喜びは、疑う必要のないものだった。それを医師に伝えようと思った。

 クリニックの待合室には、観葉植物があった。葉の先が1枚だけ茶色くなっていた。遥はそこを見つめた。受付の職員が名前を呼ぶまで、夫と話さなかった。

 健吾は、最初は1人で話したほうがいいと言った。医師からそう勧められたのだという。遥はその配慮に、少し安心した。夫の前では言えないことがあった。

 診察室へ入る前に、健吾が鞄を持とうとした。遥は断った。中にノートがあることを、夫は知っている。手放したくなかった。

 佐伯は、座る位置を選んでよいと言った。遥は扉に近い椅子を選んだ。医師は何も指摘しなかった。そのことが、かえって気になった。専門家は、椅子の選び方からも何かを読み取るのだろうか。

 最初の質問は、いつから眠れていないか、だった。遥は出張の6週目からだと答えた。夫の連絡が減り、理由を尋ねても短い返事しか来なくなった。時差があるから仕方ないと思ったが、夜、電話の通知を待つようになった。

「帰国したら、眠れると思っていました」

「眠れませんでしたか」

「もっと、眠れなくなりました」

 佐伯は頷き、遥の言葉を急がせなかった。遥はノートを出した。医師は、見てもよいですか、と聞いた。許可を求められたことに、遥は少し驚いた。夫はノートを見たことを、事後に知らせた。

 佐伯は1ページずつ読んだ。途中で眉を寄せたり、笑ったりしなかった。遥はその顔を見て、判断されているのか、ただ聞かれているのか、分からなかった。

「同じだと思う点も、書いているんですね」

「違う点だけだと、偏るから」

「それは、よい記録の仕方だと思います」

 褒められた途端、遥は泣きそうになった。自分が正しいと言われたわけではない。自分の努力が、無駄ではないと言われただけだった。

 佐伯真理子は50歳だと、待合室の紹介にあった。机の上には花も写真もなく、時計の秒針だけが動いていた。

「ご主人だけが、別人のように感じられるんですね」

「顔も、声も同じです。でも、何かが違う」

 佐伯はすぐには否定しなかった。それだけで、遥は泣きそうになった。

「カプグラという言葉を、聞いたことはありますか」

 遥は首を振った。

 佐伯は、身近な人を偽物だと感じる症状について説明した。顔を知っていることと、その人を懐かしく思うことが、うまく結びつかなくなる場合がある、と。まだ診断はできないとも言った。

「感じている怖さは、本物です。そのことまで否定する必要はありません」

 遥はその言葉を、しばらく握りしめていた。

 会計を待つ間、健吾は席を外した。受付の職員が画面を見て言った。

「再診ですね。お久しぶりです」

「初めてです」

「でも、前回が……8年前」

 奥から佐伯が来た。画面に手を伸ばし、何かを操作した。

「別の方の記録が混ざっていますね。申し訳ありません」

 笑顔は変わらなかった。

 遥は、切り替わる直前の画面を見ていた。

 初診日、2018年11月。

 紹介元、ヴェルナー製薬研究本部。

 待合室に戻っていた健吾が、遥に微笑んだ。いつ戻ったのか、分からなかった。


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