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入れ替わった夫  作者: ぽむぽむ


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第1章 帰国

蛇口は、きちんと閉めたはずだった。

 水城遥は洗濯籠を抱えたまま、廊下の途中で足を止めた。浴室の扉が指2本分ほど開いている。その隙間から、一定の間隔で水音がした。大きな音ではない。耳を澄まさなければ、冷蔵庫の低い唸りに紛れてしまう。それなのに、聞きつけた瞬間、籠の取っ手を握る指が冷たくなった。

「律?」

 返事はなかった。

 息子はリビングにいる。さっきまで、ドイツの国旗を描いていた。黒、赤、黄色。黄色い色鉛筆が短くなっているから削ってほしいと頼まれ、あとでね、と答えたばかりだった。ここにいるはずはない。分かっていても、名前を呼ばずにはいられなかった。

 扉を押した。浴槽は空だった。底に、小さな水の輪ができていた。蛇口をひねると、音が止まった。

 ただ、それだけのことだった。

 遥は取っ手から手を離した。掌に、赤い筋が残っている。浴室が苦手だった。汚れているからでも、狭いからでもない。白い壁と、水と、閉じた扉。その組み合わせが、自分の中の何かに触れる。理由を考えようとすると、考え始める直前に疲れてしまう。

 遥は洗濯籠を洗面所に置き、扉を閉めた。

「ママ、きょうだよ」

 リビングで律が言った。7歳の指が、カレンダーの赤い丸を叩いている。10月1日。3か月前から、この日だけは何度も確認してきた。

「分かってる。学校が終わったら、おばあちゃんと迎えに行こう」

「パパ、ぼくのこと分かるかな」

「どうして?」

「大きくなったから」

 遥は笑って、息子の頭に手を置いた。髪は寝癖で、片側だけ跳ねている。健吾も朝は同じ場所が跳ねた。親子だね、と言うと、律は嫌がりながら嬉しそうにしたものだった。

 夫の水城健吾は40歳。製薬会社の研究者で、7月からミュンヘンの本社に滞在していた。最初の5週間は、日曜の夜に必ずビデオ通話があった。律が学校で作った工作を見せ、遥が今週の出来事を話し、健吾は背景に映る無機質な部屋で頷いていた。

 6週目から、画面に夫が現れなくなった。

 研究が佳境なんだ。時差もあるし、しばらく文字だけでごめん。

 メッセージは来た。家族を気遣う言葉もあった。だから遥は、声を聞かせてほしいという短い願いを、何度も入力しては消した。帰ってきたら話せばいい。あと1か月。あと2週間。あと3日。

 朝の支度を終えると、遥は夫の机に置いた封筒を確かめた。律の運動会の写真が12枚。留守の間に届いた郵便。自治会の回覧板から切り取った、来月の清掃当番の案内。帰宅した健吾に見せたいものを、順番に重ねてあった。

 その順番は、重要なものからではない。楽しいものからだった。最初に運動会の写真を見せ、律の話を聞かせる。請求書は明日でいい。長い出張のあとに家で最初に見るものが支払いの紙では、あんまりだ。

 遥は机の上の写真を1枚裏返した。9月26日。撮影した時刻まで書いてある。何もかも記録したがるのは昔からの癖だった。健吾には、家族の生活まで貸出台帳にするつもりか、と笑われたことがある。

 遥は笑って、写真の裏を伏せた。日付のない写真を、あとから並べ直すのが嫌だった。いつのことか夫に聞けば済む。そう思っていた頃から、書く癖だけは抜けなかった。

 書斎の棚の下に、細長い箱があった。帰国祝いに買ったネクタイだった。店員に、普段は何色をお使いですかと聞かれ、遥はすぐに答えられた。紺、灰色、たまに深緑。夫の好みは知っている。知っているという感覚は、店を出たときの小さな満足になった。

 包装紙の端を撫で、遥は箱を引き出しにしまった。律の土産が落ち着いてから渡そう。健吾は贈り物を受け取るのが下手だった。値段を気にして、いらなかったのに、と先に言う。嬉しいときほどそうなる。今回は、ありがとうを先に言って、と冗談を言うつもりだった。

 そのとき、玄関の郵便受けが鳴った。

 薄い封筒が1通。差出人はヴェルナー製薬日本法人、家族支援室。遥は宛名を見た。水城健吾様、ご家族様。夫の帰国を知らせる書面と、健康相談窓口の案内が入っていた。

 帰国後の環境適応には個人差があります。睡眠、食事、気分の変化について、お気軽にご相談ください。

 相談用のアプリは、出張前に健吾が遥の電話へ入れていた。緊急時に居場所が分かる設定もあると聞き、律と2人きりの日に何かあればと、遥はそのままにした。

 印刷された言葉は親切だった。海外に社員を送り出す会社は、家族にも配慮するのだと遥は思った。紙を封筒に戻し、夫の郵便のいちばん下に入れた。折り目を、爪で押さえた。

 11時に静江から電話があった。持っていくおにぎりの具は何がいいか、と聞かれた。空港にも店はある。けれど、そう言えば義母の準備する楽しみを奪う。遥は梅と鮭をお願いした。

「健吾は昆布ね」

 静江は自分で付け足した。

「はい。ありがとうございます」

 義母は息子の好きなものを覚えている。自分も覚えている。2人で同じ人を知っていることが、遥には心強かった。

 電話を切ったあと、出発の日のことを思い出した。

 7月の朝、健吾は玄関で何度も振り返った。忘れ物はない、と遥が言っても、まだ靴を履かなかった。律は早起きできず、寝室で眠っていた。

「起こしてくればよかったかな」

「泣くよ。帰るときに会えばいいでしょう」

 健吾は頷き、書斎のほうを見た。

「本棚、あまり動かさないで」

「掃除くらいするけど」

「うん。それは、して」

 変なお願い、と笑うと、夫は笑い返さなかった。遥の顔を見ていた。何かを言おうとして、言わなかった。

 その沈黙を、遥は寂しさだと思った。自分も寂しかったからだ。別の意味を考える必要はなかった。

「何かあったら、菜摘さんに」

「連絡する。お義母さんもいる」

「そうだね」

 最後に、夫は律の靴を揃えた。玄関に小さな靴があることを確かめるように、つま先を同じ向きにした。

 遥は律の靴より大きな夫の靴を、夫の出たあとの玄関に置き直した。底の砂が、床に少し落ちた。

 空港へ行くまでに、遥は3度、帰国便の時刻を調べ直した。最初に確認したときから、数字は変わっていなかった。変わらない数字を見ていると、自分の中の落ち着かなさまで、予定の枠に収まる気がした。

 健吾が留守の間、家には細かな変化があった。リビングの時計を買い替えた。律が転んで角を欠かせたローテーブルには、透明な保護材を貼った。ベランダの鉢の1つは枯れ、同じ種類を買って植え直した。3か月は短いと言う人もいる。けれど、毎朝の食事を用意し、宿題を見て、眠った息子の呼吸を確かめる時間を足していくと、決して短くはなかった。

 帰ってきたら、何を最初に話そう。時計のことか、律が初めて1人で図書館まで歩いたことか。学級通信をまとめたファイルを見せるのがいいかもしれない。夫は仕事の報告書を読むときのように、子どもの記録も丁寧に読んだ。写真だけでは分からない小さなことを、遥が横から補足する。その時間が好きだった。

 昼食のあと、菜摘からメッセージが届いた。

 いよいよだね。今日は何も頑張らなくていいよ。

 遥は、迎えに行くだけだから、と返信した。送ってから、菜摘の言葉が迎えのことだけではないと気づいた。久しぶりに会う人に、留守の間の自分を採点されるような気持ちが、少しあった。ちゃんと家を守った。息子も元気だ。部屋もきれいだ。そう示したくて、朝から棚の上まで拭いていた。

 健吾は採点などしない。それでも遥は、何も欠けていない家に夫を迎えたかった。

 玄関の鏡の前で、髪を結び直した。首の後ろに細い毛が残る。結婚してから何年も、同じ結び方をしている。健吾は、たまには下ろしたらと言ったことがあった。遥が本の修復作業には邪魔なのだと答えると、じゃあ休みの日に、と笑った。仕事を辞めてからも、その習慣だけが残った。

 律の下校時刻より少し前に、静江が来た。布袋に梨が入っていた。切っておけば帰宅後に食べられる、と義母は台所へ向かった。遥は、今から出かけるのにと言いかけてやめた。静江にも、待つ時間を埋める仕事が必要なのだろう。

「健吾、出張の前に変なこと言わなかった?」

 梨の皮をむきながら、静江が聞いた。

「変なこと?」

「しばらく帰れないかもしれない、とか」

「予定が延びる可能性はあるって。でも、いつものことです」

「そう」

 包丁が、梨の曲面を滑った。長くつながった皮が、まな板の端に落ちた。

「何か言っていたんですか」

「親は、いくつになっても心配なのよ」

 静江は笑って、切った梨を保存容器に並べた。隙間がないように、1切れずつ向きを変える。その手つきに、遥は健吾の几帳面さを見た。

 律が帰宅すると、家の空気が変わった。ランドセルを置くより先に、旗を取りに走った。鉛筆で描いた線がところどころ曲がっている。黄色い部分は、途中で別の色鉛筆に替えたため、濃さが違った。

「それ、パパに見せるの?」

「うん。ドイツの人が分かるように」

「パパは日本の人でしょう」

「でも、ドイツから帰ってくるから」

 律の説明に、静江が笑った。遥も笑った。あと数時間で、こういう会話の中に健吾が戻る。そう思ったときには、疑いなど、どこにもなかった。

 成田空港の到着ロビーは、思っていたより暖かかった。遥はカーディガンを脱いで腕に掛けた。義母の静江が、律の描いた旗を持っている。68歳の静江は、出発前にはしゃいでいた孫よりも落ち着かなかった。

「痩せてるでしょうね、あの子。食べること、すぐ後回しにするから」

「電話では元気そうでした」

 電話では、と言ってから、遥は唇を閉じた。最後に話したのは8月の初めだった。

 自動扉が開くたびに、律が爪先立ちになった。人が出てくる。大きな箱を積んだカート、花束を持つ人、泣きながら駆け寄る家族。自分たちもその中の1組なのだと思うと、遥は少し照れくさくなった。

「あ」

 律が走り出した。

 紺のジャケット。黒いスーツケース。髪が短くなっている。健吾は律に気づくと膝をつき、飛び込んできた体を両腕で受け止めた。

「大きくなったな」

 同じ声だった。何度も留守番電話を聞き直した声だった。

 健吾が立ち上がる。目が合う。目尻の皺も、少し曲がった前歯も、何も変わっていなかった。

「ただいま、遥」

 抱きしめられた。

 その瞬間、遥の体だけが、夫を拒んだ。

 腕の置かれる位置が違う。右手はいつも肩甲骨の少し下に来た。今日は背中の真ん中だった。洗剤とも、空港の空気とも違う、知らない匂いがした。胸に頬を寄せても、長い留守の終わりにあるはずの安堵が来なかった。

 この人は、健吾ではない。

 考えたのではなかった。階段があると思って足を下ろし、そこに段がなかったときのように、体が先に知った。

「遥?」

 腕が緩んだ。

「おかえりなさい」

 自分の声が聞こえた。ちゃんと笑えているかどうか、分からなかった。

 空港のタクシー乗り場へ向かう途中、健吾は何度か歩みを止めた。案内表示を見上げ、遥が先へ進むとついてきた。以前なら、夫のほうが道を決めた。遥は方向を覚えるのが苦手ではなかったが、人の多い場所では周囲の音に疲れ、案内役を任せることが多かった。

「久しぶりだから、分からなくなった」

 健吾は言った。言われる前に何かを察された気がして、遥はすぐに、工事しているみたいね、と答えた。工事をしている場所は見えなかった。

 静江は途中で別のタクシーに乗った。今日は家族だけで過ごしなさい、と言った。健吾が母を抱いたとき、義母の手が息子の肩に長く残った。顔を確かめるように、少し離れて見上げた。

「ちゃんと帰ってきたのね」

「帰ってきたよ」

 2人の声は穏やかだった。遥は律の上着を直しながら聞いた。帰ってきた、という言葉が、その日、何度も繰り返されていた。

 タクシーの運転手が、海外からですか、と尋ねた。健吾はドイツからだと答えた。寒かったでしょうと言われ、ええ、と笑った。遥は、出発前に送られてきた写真を思い出した。研究所の庭の木々はまだ緑で、健吾は半袖だった。3か月の間に、季節も変わったのだ。

 律は最初の10分、土産の質問を続けた。サッカーのボールはあるか。飛行機の模型はあるか。ドイツのパンは持ってきたか。健吾は順に答えた。パンはない。ボールもない。模型はある。

「ぼく、ボールがいいって言った」

「そうだった?」

「電話で」

「ごめん。飛行機も、きっと気に入るよ」

 律は少し黙り、やがて健吾の腕に頭を預けた。遥は、頼まれた土産を忘れることくらい、誰にでもあると思った。模型が悪いわけではない。夫は疲れている。そう考えるたびに、空港での感覚が、理由のない失礼に変わっていく。

 窓の外に高速道路の灯りが流れた。健吾の顔に、明るさと影が交互に落ちた。遥は夫の左手を見た。結婚指輪はあった。指輪の下に、白い跡が残っている。ずっと着けていた証拠のように思えた。

「時差、大丈夫?」

「少し変な感じがする」

「今日は早く寝よう」

「うん」

 会話が短く終わった。遥は続きを探した。研究のことを聞くと、話せない部分が多いと言われるだろう。土産のことは律が聞いた。食事のことなら、と考えたが、空港で静江がすでに聞いていた。

 3か月間、話したいことをためていたはずなのに、隣にいると、どれも小さすぎる気がした。

 健吾が眠る律の頭を支え直した。左手を下に入れ、右手で髪を撫でた。その動作を、遥は最後まで見てしまった。夫の手つきを観察することなど、以前はなかった。見ることと、疑うことが、いつの間にか同じになっていた。

 帰りのタクシーで律は眠った。健吾は息子の頭を支え、窓の外を見ていた。ガラスに映る横顔を、遥は盗み見た。見慣れた顔だった。耳の形も、顎の線も。違うと思った自分のほうが、どうかしている。

「髪、切ったのね」

「向こうで。言葉が通じなくて、短くなりすぎた」

「似合ってる」

「嘘が下手だな」

 健吾が笑った。その笑い方に、遥は一瞬救われた。

 家に着いてから、夫は何も間違えなかった。靴は玄関の右端に揃えた。律の上着を階段の手すりに掛け、土産のチョコレートを冷蔵庫の上段に入れた。書斎のドアを開けると、懐かしいな、と言った。

 懐かしい。自分の家を、そう言うだろうか。

 遥はその疑問を飲み込んだ。3か月も離れていれば、そう思うこともある。

「コーヒー、飲む?」

「もらうよ。どうせ眠れない」

 遥は冷蔵庫から牛乳を出した。健吾は先にカップを取り、コーヒーを注いだ。そのまま口をつけた。

 牛乳パックを持つ手が止まった。

 ミルクが先。そのほうが混ざりがいい。

 夫は、いつもそう言った。先に牛乳を入れ、その上からコーヒーを注ぐ。出会った頃から変わらない、説明するまでもない習慣だった。

「ミルクは?」

「ああ。向こうでブラックに慣れた。研究所に牛乳がなくて」

「そう」

「変かな」

「3か月あれば、好みも変わるよね」

 遥は自分のカップに牛乳を入れた。白い液体が底を覆った。健吾は何も言わなかった。

 食後、遥は引き出しからネクタイの箱を出した。

 健吾は包装紙を見て、少し驚いた顔をした。

「俺に?」

「帰国祝い。たいしたものじゃないけど」

 箱を開けた。紺色に、細い銀の線。健吾は指で生地を撫でた。

「ありがとう。明日、着けていく」

 遥は笑った。ありがとうを先に言って、と用意していた冗談が、行き場をなくした。

「明日から出勤なの?」

「午前だけ。報告があるから」

「休めないのね」

「大丈夫」

 健吾はネクタイを箱に戻した。遥は、その箱を受け取ろうとして手を伸ばした。夫も同時に伸ばした。指が触れた。

 健吾の手は温かかった。知らない人の手だと思った自分を、遥は心の中で叱った。贈り物を喜んでくれた夫に、こんなことを考えるべきではない。

「遥、何かあった?」

「どうして?」

「帰ってから、ずっと考えごとしてる」

 遥は目を伏せた。ここで話せば、何かが変わるのかもしれない。匂いが違う。抱き方が違う。あなたがあなたではない気がする。

 言葉にしてみれば、ひどいことだった。3か月働いて帰った人に、最初の夜に告げる言葉ではない。

「留守の間のこと、どこから話そうかと思って」

「ゆっくりでいいよ」

 健吾はそう言った。

 ゆっくりでいい。いつもの夫も、そう言っただろう。遥は箱を棚に置き、運動会の写真を持ってきた。

 律が走っている。ゴールの手前で顔を歪め、腕を振っている。健吾は写真を近づけて見た。

「何番だった?」

「3番。去年より速かった」

「すごいな」

 律がソファの上で胸を張った。健吾は息子の肩を抱いた。

 写真の裏を見て、夫は日付を読んだ。

「9月26日」

「そう」

「この日は、雨じゃなかった?」

「前の日。延期になるかと思ったけど、朝は晴れたの」

 健吾は頷いた。遥は、夫が天気を覚えていることに少し安心した。離れていても、日本のことを気にしていたのだろう。

 けれど、運動会の写真は当日に送っていた。晴れたことも、3番だったことも。夫はメッセージで、頑張ったなと返していた。

 忘れたのだ。仕事で忙しかった。3か月分の話を、全部覚えていられるはずがない。

 遥は写真を重ねた。健吾が1枚を残した。

「これは、飾ろう」

 3人で写っている写真ではない。律だけの写真だった。留守の間に家族から欠けていた人が、その欠けていた時間を飾ろうと言う。その優しさに、遥は少し救われた。

 夫の隣に座り直した。肩が触れた。離れなかった。そうすれば、体も思い出すかもしれない。

 健吾は写真を置いた。

 夕食は、健吾が好きだった肉じゃがにした。じゃがいもは少し煮崩れたほうがいいと、昔の夫は言った。遥は出発前と同じように、最後に鍋を軽く揺すった。帰国祝いに特別な料理を作るより、いつもの味がいいと思っていた。

 健吾は、おいしい、と言った。律の皿に人参を取り分け、食べられるようになったんだね、と褒めた。律は、前から食べてるよ、と答えた。遥は食卓の下で足を組み替えた。1つ1つを気にし始めたら、きりがない。

「向こうでは、何を食べてた?」

「研究所の食堂が多かった」

「写真、送ってくれたよね。大きな皿の」

「ああ」

「魚みたいなの、何だったの?」

 健吾は箸を止めた。

「何だろう。名前は、覚えてない」

 遥は写真を探すためにスマートフォンを取った。健吾が、今はいいよ、と言った。律が模型を見たがっているから、と。

 模型の箱には、ドイツ語の説明があった。健吾は読まずに組み立てた。翼を差し込み、台座に載せた。律が飛ばそうとすると、壊れるから、と止めた。

「飛行機なのに、飛ばないの?」

「飾るためのものだよ」

 律はしばらく考え、勉強机に置くと言った。健吾はほっとしたように笑った。遥はその笑顔を見て、胸が痛くなった。子どもに喜んでもらいたくて選んだ土産を、母親が疑いの材料にしている。そんな自分になりたくなかった。

 食後、健吾が食器を洗った。出発前は、遥が洗い、夫が拭いた。今日は夫が蛇口をひねり、遥が横に立った。台所の配置は変わっていないのに、2人の場所が逆になっただけで、よその家のように見えた。

「手伝う?」

「座ってて。ずっと1人でやってたんだろ」

 遥は頷いた。感謝している言葉だった。自分が欲しかった言葉でもあった。なのに、受け取るまでに少し時間がかかった。

 リビングの時計が、21時を示した。新しい時計を、健吾は見なかった。遥は買い替えたことを言おうとした。けれど、夫が気づいていないものを指摘するのは、また試すことになる気がした。

 代わりに、学級通信のファイルを出した。律の写真に付箋を貼ってある。健吾はページをめくり、よくまとめたね、と言った。

「この日、走る練習をしたの。3位だった」

「すごいな」

「去年は最後だったから」

 健吾が写真を長く見た。遥は、去年の運動会を思い出した。健吾がゴールの先で腕を広げ、最後に走ってきた律を迎えた。順位など関係ないという顔で、抱き上げた。

「来年の運動会は、見たいな」

 夫は言った。

 その言葉は本当だと思った。本当だと思えるものを、遥は1つずつ探していた。

 ソファに座ると、健吾はファイルを閉じた。遥は、3か月の報告が終わったことに、少し寂しさを感じた。紙にまとめれば、あれほど長かった日々も、数分で読めてしまう。

 律の模型を机に置きにいくと、算数のプリントが1枚、床に落ちていた。健吾が拾った。裏面には家族の顔が描かれている。父親だけ、四角い枠に入っていた。

「これ、テレビ電話?」

 遥が尋ねると、律は頷いた。

「ずっと四角の中にいたから」

 健吾は紙を置き直した。律が鉛筆を取り、父親の周りの線を消し始めた。消しゴムの屑が、机の上にたまった。

「消さなくてもいいよ」

「でも、帰ってきた」

 鉛筆の線は消えたが、強く描いた跡が紙に残った。律は紙を裏返し、新しい絵を描くと言った。健吾は屑を集め、掌で受けた。遥は窓を閉めた。風で飛ばないようにと思ったのだった。

 息子が歯を磨く間、健吾と2人で机を拭いた。濡れた布巾が指に触れた。

「大変だった?」

 健吾が聞いた。

「何が」

「留守の間」

 遥は答えを選んだ。大変だったと言えば、長い出張を責めることになる気がした。楽だったと言えば、夫がいなくてもよかったことになる。

「水曜日が、長かった」

「水曜日?」

「学校が早く終わるから。帰ってくるまでに買い物を済ませないといけなくて、でも朝は掃除もしたくて。毎週、同じことで間に合わなかった」

 健吾は布巾を洗った。蛇口の水が、律の歯磨きの音に重なった。

「水曜は、俺が買って帰ろうか」

「もう帰ってきたんだから、いいの」

「うん。だから、買って帰れる」

 遥は夫の顔を見た。その通りだった。帰ってきたということは、そういうことだ。大きな荷物を運ぶためではなく、牛乳を1本買って帰る人が戻ったのだ。

 買ってほしいものはあるかと聞かれ、遥は、今はない、と答えた。言ってから、何か頼めばよかったと思った。いつもの自分なら、忘れずに頼めただろう。夫が変わったと感じた途端、自分まで、夫の前で振る舞いを選んでいる。

 洗面所から律が呼んだ。

「パパ、歯、見て」

 下の前歯が、少し揺れていた。息子は指で押そうとした。健吾が手を止めさせると、律は、前はもっと揺らせって言った、と抗議した。

「そうだっけ」

「大人の歯が待ってるからって」

 健吾はしゃがみ、息子の口を覗いた。

「今は、もう少し待たせておこう」

 律は口を閉じた。鏡の前で、歯を出して笑った。健吾も同じ顔をした。2人の前歯の形が似ていた。遥はタオルを畳みながら、こういうものまで疑うのかと自分に聞いた。

 歯の形は疑わなかった。息子の笑顔も疑わなかった。夫がしゃがんだとき、背中を少しかばったことだけが、あとになって残った。

 寝室へ行く前、健吾は玄関の鍵を確かめた。右へ回し、引いて、もう1度触れた。出発前と同じだった。

「閉まってるよ」

 遥が言うと、健吾は鍵から手を離した。

「うん。分かってる」

 振り返った顔は、少し困っていた。遥はそれ以上、何も聞かなかった。

 夜、ソファで夫が言った。

「最初に会った日、覚えてる?」

 遥は顔を上げた。

「図書館で、俺が本を延滞して。3週間だっけ」

「そうね」

「君、言ったんだよ。待っている人がいるんです、って。あれで惚れた」

 細部まで同じだった。遥が何年も前から大切にしてきた、2人の始まり。その本を受け取ったときの、健吾の申し訳なさそうな顔まで浮かんだ。

「延滞料を払おうとしたのよ」

「図書館に延滞料はないって、君が教えてくれた」

 正解だった。間違えてくれればいいと、一瞬でも思ったことを、遥は恥じた。

 健吾は律を寝かせに行った。廊下から声が聞こえた。

「おやすみ、律」

 遥は食器を洗う手を止めた。

 りっちゃん。

 生まれた日から、夫はそう呼んでいた。叱るときも、眠るときも。律、と呼ぶ声は、写真の中の人物が突然こちらを向いたように、よそよそしかった。

 寝室で健吾は窓のほうを向いて横になった。遥に背中を向けている。右肩を下にしないと眠れない、と言っていた人だった。遥は隣の暗い背中を見ながら、眠ったふりをした。

 寝室の天井には、街灯の光が薄く映っていた。遥はその四角を見つめた。眠れないとき、健吾は呼吸を合わせてくれた。ゆっくり吸って、吐く。眠るための方法というより、隣に誰かがいることを確かめるための儀式だった。

 今夜は、夫の背中に話しかけられなかった。

 自分の感じ方を、言葉にするべきだろうか。帰ってきたあなたが、知らない人のように思える。そんなことを言われて、傷つかない人がいるだろうか。健吾は疲れている。仕事を終え、長い飛行機に乗り、ようやく家に戻った。その最初の夜に、妻から存在を疑われる。

 遥は目を閉じた。明日になれば、元に戻るかもしれない。朝の光の中なら、暗い場所で大きくなった考えも、普通の大きさになる。

 けれど、牛乳パックを持った手の感覚が消えなかった。カップの底に白い液体を注ぐ順番。律を呼ぶ声。空港での腕。思い出すたび、体のどこかが小さく縮んだ。

 眠れない理由を数えるのはやめよう、と遥は思った。数え始めると、増える。図書館の蔵書点検と違い、疑いには上限がない。

 廊下に出ると、家は静かだった。冷蔵庫の音、外を通る車、律の部屋の空気清浄機。夫が留守だった間と同じ音なのに、同じ静けさではなかった。

 玄関には、2人分の靴の間に、健吾の靴が戻っていた。遥はその形を見て、少し安心した。見慣れた革の皺。左足の先に、小さな傷。出張前に、靴墨を塗ったところだ。

 体が同じなら、人も同じなのだろうか。

 その問いが浮かび、遥は自分で驚いた。そんなことを考える必要のない生活を、ずっとしてきた。夫は夫だった。名前を呼べば振り返る。それだけで十分だった。

 スーツケースの取っ手には、航空会社のタグが残っていた。印字された名前は、KENGO MIZUKI。文字は、疑いなく夫を示していた。遥はタグを指で押さえた。紙の上の確かさが、体の中まで届かない。

 衣類の間に、小さな封筒があった。ホテルのロゴが入っていた。開けるつもりはなかったが、口が折られているだけだった。中には領収書と、病院の予約票のような紙があった。ドイツ語は読めない。日付だけが分かった。8月の末。

 遥は元の位置に戻した。勝手に荷物を見ることが、夫婦の間にどんな傷を作るか分かっていた。けれど、もう見てしまった。疑いは、感じるだけでなく、行動に変わっていた。

 玄関の鏡に自分が映った。カーディガンの前を合わせ、裸足で立っている。夫を迎えに行く前の自分と、服も髪も同じだった。それなのに、鏡の中の人は、家の中で迷子になったように見えた。

 遥はスーツケースを閉じなかった。閉じてしまえば、何かを確定したことになる気がした。夫の荷物に触れた手を洗い、寝室へ戻った。

 遥が健吾に初めて腹を立てたのは、延滞のせいではなかった。

 返ってきた本の角が、濡れてふくらんでいた。健吾は謝りながら、新しい本を買って返すと言った。遥は、本を作業台へ置き、頁を開いた。折れたところと、紙が波打ったところがあった。

「同じ版が、もう売っていないんです」

「でも、改訂版なら」

「この本を使いたい人が、いるかもしれません」

 健吾は口を閉じた。怒られることには慣れていても、新しいものを買えば済むわけではないと言われることには、慣れていない顔だった。

 その翌週、男は菓子折りを持ってきた。遥は受け取れないと答えた。代わりに本を大切にしてくださいと言うと、何も借りずに帰った。

 3週間後、また来た。今度は返却日より2日早かった。遥が本を確かめていると、男は、直りましたか、と聞いた。

「前の本ですか。まだです」

「難しいんですね」

「乾かすのに、時間がかかるので」

「待つだけ?」

 遥は男の顔を見た。見下されたのだと思った。健吾は慌てて、待つことが難しいんですね、と言い直した。

 そのとき初めて、遥は笑った。

 結婚してから、その会話を何度もした。健吾は、説教されて惚れたと言った。遥は、惚れる前に本を濡らさないでほしかったと答えた。夫が人前で話すときには、いつも延滞の話になった。菓子折りのことや、待つだけと言って怒らせたことは、途中から抜け落ちた。

 2人の馴れ初めが、話すたびに短くなっていくことを、遥は寂しいとは思わなかった。人に聞かせる話とは、そういうものだ。

 今夜、夫が正確に語ったのも、その短くなったほうの話だった。

 遥は寝室の闇の中で、菓子折りの包装紙を思い出した。深い緑に、小さな金の印刷。贈り物を受け取れないと説明した自分の声。夫は、そちらも覚えているだろうか。

 聞くことはできた。答えを待つことができなかった。覚えていないと言われたら、今夜は眠れない。覚えていると言われても、やはり眠れない気がした。

 隣で健吾が動いた。息を止めた遥に、暗がりから声がした。

「何か、聞きたい?」

「ないよ」

 自分の嘘は、夫の嘘より見つけやすいはずなのに、健吾はそれ以上尋ねなかった。

 日付が変わってから、そっと玄関へ行った。スーツケースは閉じられていなかった。衣類は新しかった。シャツも、下着も、折り目が硬い。洗濯して持たせた青いシャツがなかった。時計も。

 結婚5年目に贈った時計。裏に、K&H 2016と刻んだ。出張の朝、夫が左手首に着けていたのを覚えている。バックルがうまく留まらず、遥が手伝ったから。

 寝室に戻り、囁いた。

「時計は?」

「失くした。ごめん」

 返事はすぐだった。眠っていなかった。

「どこで」

「研究所で。明日、話すよ」

 背中は動かなかった。

 3時過ぎ、隣が空になっていた。廊下に細い光が漏れている。遥は裸足で歩いた。律の部屋の扉が開いていた。

 健吾が、眠る息子を見下ろしていた。スマートフォンを耳に当てている。低い声で、知らない言葉を話していた。ドイツ語だと分かったのは、聞き慣れた短い返事が混じったからだった。

 何を言っているかは分からない。

 けれど、家族に向ける声ではなかった。

 電話が切れた。健吾が振り返った。暗がりで目が合った。

「起きてたの」

 遥は頷いた。

「律の顔を見てた。3か月分」

 夫が近づいてくる。逃げてはいけない、と遥は思った。ここは自分の家で、この人は夫なのだから。

 健吾は手を伸ばした。

 遥は、思わず目を閉じた。


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設定がすごく素敵なので読みます。
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