第9話 海を知らない少女
それから数日。
アティシアとリゼは、人目を避けながら南へと進んでいた。
大きな街道は使わない。
町に立ち寄るのも、食料や水が必要なときだけ。
夜になれば森や岩陰で眠り、朝になればまた歩く。
追手の姿は、あれから見ていない。
けれど、安心はできなかった。
「アティシア様」
「ん?」
「潮の匂いがします」
「潮?」
「はい」
リゼが足を止める。
アティシアも鼻を動かしてみた。
風に混じって、これまで嗅いだことのない匂いがする。
「……これが潮の匂い?」
「おそらく」
「ってことは……」
アティシアは顔を上げる。
街道の先に緩やかな丘が続いている。
その向こう側は見えない。
「もしかして、海?」
「地図上では、この先に海岸があります」
「海……!」
アティシアの表情が明るくなる。
「行ってみよう!」
「目的地を変更するのですか?」
「ちょっと見るだけ」
「見る?」
「そう。せっかく近くまで来たんだから」
「海を見る必要性は?」
「必要性?」
アティシアは少し考えて――。
「ない!」
満面の笑みを浮かべてそう答えた。
「…………」
「何、その顔」
「理解できません」
「いいから行こう!」
アティシアはリゼの手を掴んで走り出す。
「アティシア様」
「なに?」
「走る必要はありません」
「あるの!」
「なぜですか?」
「早く見たいから!」
リゼはまた、不思議そうな顔をした。
二人は丘へ向かって駆け出した。
✴︎
丘を登り切るその瞬間。
視界が一気に開け、アティシアは足を止めた。
その隣で、リゼも立ち止まる。
二人の目の前に広がっていたのは海だった。
どこまでも続く青。
空と海の境目が、遥か遠くまで伸びている。
太陽の光を反射して、水面がきらきらと輝いていた。
遠くでは、小さな船がゆっくりと進んでいる。
「……すごい」
アティシアの口から、自然と言葉が漏れた。
王城から海を見たことはあった。
地図でも知っているし、本でも読んだ。
けれど、こんなにも近くで見るのは初めてだった。
「こんなに大きいんだ……」
アティシアは呟くがリゼからの返事がない。
「リゼ?」
隣を見るとリゼは立ち尽くしていた。
瞬きすら忘れたように、海を見つめている。
「……リゼ?」
「はい」
「大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、どうしたの?」
「…………」
少しの沈黙の後、リゼは口を開いた。
「大きいです」
「うん」
「視界の範囲内に、終端が確認できません」
「もっと普通に言えない?」
「とても大きいです」
「ふふっ。そうだね」
アティシアは笑った。
リゼはまだ海から目を離さない。
「海、見たことなかった?」
「ありません」
「私も。こんな近くで見るのは初めて」
「ですが、知識としては知っています」
「私もだよ」
「塩分を含む大量の水によって構成され――」
「そういう説明はいらないって」
「そうですか」
リゼは小さく呟いた。
その後、二人は丘を下り海辺の町へ向かったのであった。
✴︎
町には多くの人が行き交っていた。
漁から戻ってきた船。魚を運ぶ人々。
商品を並べる店。
潮風に混じって、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
「お腹空いた」
「先ほど食事を摂取しました」
「匂いを嗅いだらまた食べたくなったの」
「非効率です」
「リゼも食べる?」
「食べます」
「食べるんだ」
「美味しいものは、食べたいです」
リゼの言葉を聞いたアティシアの足が止まった。
「……今、なんて言った?」
「美味しいものは、食べたいです」
「もう一回」
「なぜですか?」
「いいから!」
「美味しいものは――」
「よし!」
「……?」
アティシアは満足そうに頷いた。
リゼはそんなアティシアを不思議そうに見ていた。
「成長してる」
「何がでしょうか」
「なんでもない」
市場で焼き魚を二つ買い、二人は海岸へ向かった。砂浜に座り、波の音を聞きながら食事をする。
アティシアは、焼きたてのパンを半分に割ってリゼに渡した。
まだ温かいパンから、白い湯気が細く立ちのぼる。
リゼは両手で受け取ると、アティシアが食べるのを見てから、小さくひと口かじった。噛むたびに、ぱり、と薄い皮が音を立てる。
「美味しい?」
「はい」
リゼはもうひと口かじり、少しだけ目を見開いた。
アティシアは自分のパンを食べるのも忘れて、頬杖をついた。リゼが食べ終わるのを、ただ見ていたかった。
「アティシア様」
「ん?」
「また笑っています」
指摘されて、アティシアは頬に手を当てた。
確かに口元が緩んでいる。
「美味しいって言うから」
「以前も同じ理由で笑っていました」
リゼの視線が、手の中のパンに落ちる。
いつかの食卓を思い出しているようだった。
「覚えてたんだ」
「記憶しています」
「そういう言い方すると、また兵器っぽいよ」
リゼはパンを持ったまま、黙り込んだ。
怒られたと思ったのかもしれない。
アティシアが言い直そうとしたとき、リゼがゆっくり口を開く。
「……覚えていました」
今度は、アティシアの顔を見て言った。
「うん。そっちのほうがいい」
リゼは返事をせず、残りのパンに目を戻した。
それからほんの少しだけ、アティシアのほうへ体を寄せて、続きを食べた。
リゼは焼き魚を一口食べる。
アリシアも海を見る。
波が寄せては返している。
何度も、何度も。ただ、それだけだった。
戦争もない。騎士もいない。命令もない。
今だけは、自分たちが追われていることさえ忘れられそうだった。
✴︎
食事を終えた二人は、波打ち際を歩いていた。
波が近づくたび、リゼがその動きを目で追っている。
「触ってみる?」
「海に?」
「うん」
「危険性は?」
「ここなら大丈夫だよ」
リゼは恐る恐る海へ近づいた。
波が足元へやってくる。
「……!」
リゼが一歩下がったのを見てアティシアが吹き出す。
「何?」
「いや、リゼでもびっくりするんだなって」
「予想より速く接近しました」
「波だからね」
再び波が来るが今度は逃げない。
水が靴の先に触れて、リゼはじっと足元を見る。
「冷たいです」
「でしょ?」
「これが海」
「うん」
リゼはしゃがみ込み、水へ手を伸ばした。
指先に海水が触れる。
「しょっぱいよ」
「知っています」
「舐めてみる?」
「知識として知っています」
「経験は?」
「ありません」
「じゃあ舐めてみたら?」
リゼは指についた水を舐める。
「…………」
「どう?」
「しょっぱいです」
「知ってたでしょう?」
「はい」
二人は顔を見合わせる。
アティシアは堪えきれず笑った。
「何してるんだろ、私たち」
「海水の味を確認しました」
「そうじゃなくて」
アティシアは砂浜へ座った。
リゼも隣に座る。
互いにしばらく、何も話さず海を眺めた。
やがてリゼが口を開く。
「アティシア様」
「なに?」
「これも、兵器に必要な知識ですか?」
アティシアはリゼを見る。
「海を見ること?」
「はい。覚える必要がありますか?」
「覚える必要はないよ」
「……必要がない?」
「うん」
リゼは海を見る。
「では、なぜ見るのですか?」
その問いに、アティシアは少し考えた。
海を見ることで、何かが手に入るわけではない。戦いが有利になるわけでもない。
生きるために必要なわけでもない。
理由なんて――。
「……見たいから」
リゼはアティシアを見る。
「見たい?」
「うん。私が海を見たかったから、ここに来たの」
「それだけですか?」
「それだけ」
「命令でもなく?」
「うん」
「……見たいから」
リゼはその言葉を繰り返した。
「そういう理由で、行動してもいいのですか?」
「いいんじゃない? 食べたいから食べる。見たいから見る。行きたいから行く。そういうのも、生きるってことだと思う」
「生きる……」
リゼは自分の手を見る。
これまでの自分には、すべてに理由があった。
戦うのは、命令されたから。
食べるのは、身体を維持するため。
眠るのは、戦闘能力を回復するため。
移動するのは、任務を遂行するため。
必要だから。命令だから。
それ以外の理由を、知らなかった。
「……アティシア様」
「ん?」
「もう少し、ここにいてもいいですか? 海を見ていたいです」
小さな言葉だった。
けれど、それは誰かから与えられた命令ではなかった。
アティシアはゆっくりと微笑む。
「もちろん」
二人は並んで海を見る。
青い海。白い雲。遠くを飛ぶ海鳥。
寄せては返す波。
それだけの景色を、リゼはずっと見つめていた。
✴︎
夕方。
海が茜色に染まり始める。
「そろそろ行こうか」
アティシアが立ち上がった。
「はい」
リゼも立ち上がる。
しかし数歩進んだところで、リゼが振り返った。
「どうしたの?」
「……もう一度、見ました」
「海を?」
「はい」
「どうして?」
リゼは少し考える。
以前ならきっと、「周囲を確認するため」と答えていた。
けれど今は——
「……見たかったから」
アティシアは目を丸くする。
やがて嬉しそうに笑った。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、また来よう」
「また?」
「いつになるか分からないけど。今度は追われてないときに」
「はい、そうですね」
リゼはもう一度だけ海を見てから、アティシアと共に海を背にして歩き出した。
次の町へ。次の景色へ。まだ知らない世界へ。
リゼには、知らないものがたくさんある。
美味しいもの。綺麗な景色。楽しいこと。
そして、自分が何を好きになるのか。
それを一つずつ見つけていけばいい。
アティシアはそう思った。
「アティシア様」
「なに?」
「次は、何を見ますか?」
アティシアは少し考えて、笑った。
「さあ?」
「決まっていないのですか?」
「うん」
「……そうですか」
「でも、それも楽しいでしょう?」
リゼはまだ、その意味を完全には理解できなかった。それでも。
「……はい」
そう答えた。
少しずつだけれど、リゼは変わりつつある。
アティシアはその変化に嬉しさを感じながら
隣を歩くリゼを見て柔らかい笑みを浮かべた。
そして、そんな二人の背後では波の音がいつまでも響いていたのであった。




