第10話 盗賊と少女
海辺の町を出てから、二日が経った。
潮の匂いは、もうしない。
代わりに二人を包んでいるのは、湿った土と草木の匂いだった。
左右を深い森に挟まれた細い街道をアティシアとリゼは並んで歩いている。
頭上では木々の枝が重なり、昼間だというのに道には薄暗い影が落ちていた。
ときおり吹き抜ける風が葉を揺らす。
ざわざわとした音に混じって、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
「アティシア様」
「ん?」
「海は、もう見えません」
「二日前から見えてないよ?」
「はい」
「……もしかして、また見たい?」
アティシアの問いにリゼはしばらく黙った。
以前なら、すぐに「分かりません」と答えていただろう。
けれど今は違った。
「……はい。また見たいです」
その答えに、アティシアの口元が緩んだ。
「そっか」
「なぜ笑うのですか?」
「嬉しいから」
「私が海を見たいと答えたことが?」
「うん」
「……そうですか」
リゼはまだ納得していないようだった。
それでも、以前のように理由を問い続けることはなかった。
アティシアはそんなリゼの横顔を見ながら歩く。海辺で過ごした一日は、ほんの短い時間だった。
それでもリゼにとっては、大きな一歩だったのかもしれない。
命令ではなく。必要だからでもなく。
ただ、自分がそうしたいから。
少しずつ。本当に少しずつではあるけれど。
リゼの中に、リゼ自身の気持ちが生まれ始めている。
「また行こうね」
「はい」
「次は泳いでみる?」
「泳ぐ必要性は?」
「あー……まだそこは必要性を聞くんだ」
「……?」
アティシアが笑った、そのときだった。
――ガサッと右側の茂みが揺れた。
その音を聞いたアティシアの表情は変わり、足を止めた。
「リゼ」
「はい」
リゼもすでに気づいていた。
さっきまでの穏やかな空気が、一瞬で消える。
アティシアは腰の剣へ手を添えた。
風が吹く、葉が揺れる。
けれど、それだけではない。誰かがいる。
しかも、一人ではない。
「……出てきなさい」
アティシアが声を上げたが、返事はない。
「そこにいるのは分かってる」
数秒の沈黙が流れる。
やがて――低い男の声がした。
「へえ、気づいてたのか」
木の陰から、一人の男が姿を現した。
汚れた革の防具。手には刃こぼれした剣。
無精髭の生えた顔に、薄い笑みを浮かべている。
続いて、反対側の茂みからも男が現れる。
一人。二人。三人。さらに後ろからも。
気づけば、アティシア達は六人の男に囲まれていた。
「……盗賊」
アティシアが呟く。
「ご名答」
男が笑った。
その視線が、二人の腰にある荷物へ向く。
「悪いな。食い物と金を置いていってもらおうか」
「断るって言ったら?」
「そりゃあ――」
男が剣を肩へ担ぐ。
「痛い目を見ることになるな」
アティシアは周囲を確認した。
六人。正面に二人。左右に一人ずつ。
後ろに二人。逃げ道は塞がれている。
王国の騎士ほど洗練された動きではない。
けれど、この人数を相手にするのは面倒だった。
「リゼ」
「排除しますか?」
「しない」
「ですが――」
「まず話す」
アティシアは男達へ向き直った。
「私達は争うつもりはない。食料なら少し分けるから、それで――」
「駄目だな」
男が遮った。
「全部置いていけ」
「…………」
「それと」
男の視線が、リゼへ向く。
舐めるような目だった。
「そっちの嬢ちゃんも一緒に来てもらおうか」
その瞬間。リゼが一歩前へ出た。
「リゼ」
「敵対行動を確認しました」
「待って」
アティシアが腕を伸ばす。
だが、盗賊の一人が飛び出した。
「捕まえろ!」
「――っ!」
アティシアは剣を抜いた。
こちらに向かって来た相手から振り下ろされた刃を、アティシアは剣で受け止めると腕に重い衝撃が走る。
ギィン――!という金属音が森の中に響いた。
「くっ……!」
「細い腕して、やるじゃねえか!」
「見た目で判断しないことね!」
刃を滑らせるように受け流す。
男の身体が前へ崩れた。
その隙にアティシアは身体を回転させ、剣の柄を男の脇腹へ叩き込む。
「ぐっ!」
男が地面へ転がった。
だが、一人倒した程度では終わらない。
「このっ!」
左から別の男。
アティシアは身体を反らして刃を避ける。
頬のすぐ前を剣先が通過し、髪が数本、宙を舞う。
「危なっ……!」
アティシアは踏み込み。相手の懐へ入る。
肘を腹へ。
「がっ……!」
男がよろめいた。
しかし、その背後からさらに一人が迫っている。
「アティシア様!」
「え――」
アティシアが振り向くより早く、リゼが地面を蹴った。
それはほんの一瞬だった。
アティシアの横を風が抜ける。
リゼは迫っていた男の腕を掴むと、その勢いを利用して身体を投げ飛ばした。
「うわっ!?」
男の身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられ、鈍い音がその場に響く。
「……ありがとう」
「問題ありません」
リゼは倒れた男が落とした剣を拾い上げる。
その構えを見た瞬間。
盗賊たちの表情が変わった。
「なんだ、こいつ……」
リゼの姿勢には、一切の無駄がなかった。
呼吸。視線。重心。
すべてが戦うためだけに整えられている。
王国によって作られた兵器。
その意味をアティシアは改めて目の前で見せつけられた。
「リゼ、殺さないでよ!」
「分かっています」
その言葉と同時に、リゼが動く。
「なっ――」
盗賊が剣を振る。
しかし、そこにリゼはいない。
低く身体を沈め、刃の下を潜り抜けていた。
手首を掴む。捻る。
「ぐああっ!」
剣が落ちる。そのまま腹へ蹴り。
男の身体が後方へ吹き飛ぶ。
別の男が背後から襲いかかるが、リゼは振り向かない。
足音だけで位置を判断し、一歩横へ。
空振りした男の腕を掴み、そのまま地面へ投げつけた。
「ぐっ……!」
圧倒的だった。
アティシアが一人を倒す間に、リゼは三人を無力化している。
「ば、化け物……!」
残った男の顔が引きつる。
リゼは何も答えない。
ただ剣を握ったまま、一歩近づく。
「ひっ……!」
男が一歩、後ずさったそのとき。
森の奥から声が聞こえた。
「――助けて!」
「……え?」
アティシアが振り向く。
子供の声が聞こえたような気がした。
「今の……」
「よそ見してんじゃねえ!」
しかし、その一瞬の隙を見て、盗賊の一人がアティシアへ飛びかかった。
「しまっ——」
間に合わない。
そう思った瞬間、リゼが割り込んだ。
剣が閃く。盗賊の武器が弾き飛ばされた。
「なっ……!」
リゼは男の胸ぐらを掴み、地面へ叩きつける。
「がはっ!」
男が苦しそうに息を吐いた。
その首元へ。リゼが持つ剣先が向けられる。
「…………」
冷たい目だった。
アティシアの知っているリゼではない。
地下施設で初めて会ったときの――。
No.017。
命令された敵を排除するためだけの瞳。
「リゼ、もう大丈夫!」
返事がない。男が腰へ手を伸ばした。
短剣。それをリゼは見逃さなかった。
男が短剣を抜くより早く。
リゼの剣が振り上げられる。
殺す。アティシアには分かった。
だめだ。止めなければ。
「――リゼ!」
叫んだ。
森の中に、その名前が響いた。
振り下ろされようとしていた刃が――止まった。
「…………」
剣先が、小さく震えている。
男の首まで、あと僅かであったがリゼは動かない。
アティシアも動けなかった。
数秒の長い沈黙。
やがて、リゼがゆっくりと顔を上げてアティシアを見る。
「……アティシア様」
その瞳から、先ほどまでの冷たさが消えていく。
「もういいよ」
アティシアはそれだけ言った。
命令ではなかった。「殺さないで」とも言わなかった。
ただ、名前を呼んだ。それだけだった。
リゼは剣を見つめる。
そして、ゆっくりと刃を下ろした。
「……はい」
盗賊の男から短剣を奪い、遠くへ投げる。
それから男の胸ぐらを掴んだ。
「仲間はどこですか」
「な、なんのことだ……」
「先程、子供の声がしました」
「知らねえ!」
リゼの手に力が入る。
「リゼ」
「…………」
アティシアがリゼの名前を呼ぶと、今度はすぐに力を緩めた。
アティシアはその変化を見て、僅かに目を見開いた。
「私が聞くよ」
男の前へしゃがむ。
「子供たちをどこに隠してるの?」
「…………」
「言わないなら、近くを探す」
アティシアは立ち上がる。
「どのみち見つけるから」
男は悔しそうに顔を歪めた。
そして、静かに口を開いた。
「……この先だ。古い小屋がある」
森の奥を指さし、そう答えた男の言葉にアティシアとリゼは顔を見合わせた。
✴︎
森の奥へ進むと、本当に小屋があった。
木々に隠れるように建てられた、古びた小屋。
扉には大きな錠がかけられている。
「中に人の気配があります」
「開けられる?」
「はい」
リゼが剣を差し込み、錠を壊す。
扉を開けた瞬間。
「……!」
アティシアは息を呑んだ。
薄暗い小屋の中に数人の子供たちが、身を寄せ合うように座っていた。
幼い子は五、六歳。
一番年上でも十二歳ほどだろう。
服は汚れ、頬は痩せている。
突然現れた二人に怯え、さらに身体を寄せ合った。
「大丈夫」
アティシアはすぐに剣を鞘へ収めた。
ゆっくり膝をつく。
「怖がらなくていいよ」
「……誰?」
「旅をしてるだけの人」
王女だとは言わない。
今の自分は、それでいい。
「さっきの人たちは?」
一人の少女が恐る恐る尋ねる。
「もう大丈夫」
「……本当?」
「うん、あなたたちを助けに来たの」
子供達の表情が僅かに緩む。
その中の小さな男の子が、アティシアの後ろを見る。
「……そのお姉ちゃんは?」
「え?」
アティシアが振り返るとリゼが立っていた。
剣を持ったまま無表情で。どう見ても怖い。
「リゼ」
「はい」
「剣、しまって」
「……はい」
リゼが剣を鞘へ収める。
それでも子供はリゼを見ていた。
「お姉ちゃん、強いの?」
「はい」
「悪い人たち、やっつけた?」
「無力化しました」
「むりょく……?」
「やっつけたってことでいいよ」
アリシアが苦笑する。
「すごい!」
男の子の顔が明るくなった。
「…………すごいですか」
「うん、すごいよ! ありがとう、お姉ちゃん!」
「……」
「リゼ?」
「どう返答すればいいですか」
小声で尋ねられ、アティシアは笑いそうになる。
「どういたしましてでいいんじゃない?」
「……どういたしまして」
「うん!」
男の子が笑う。
その笑顔を見たリゼは、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、その瞳が揺れた。
✴︎
子供達は近くの村から連れ去られていた。
アティシアたちは日が沈む前に、彼らを村まで送り届けることにした。
森の中、子供達が前を歩いている。
アティシアとリゼは、その少し後ろを並んで歩いていた。
「アティシア様」
「ん?」
「先ほどの戦闘について、質問があります」
「なに?」
「私は、命令を受けていません」
「うん」
「ですが、停止しました」
「……うん」
「なぜでしょうか」
リゼは自分の手に視線を落とした。
つい先ほどまで剣を握っていた手だ。
命令されたわけでも、力を奪われたわけでもない。それなのに、あの瞬間――確かに自分の意思で動きを止めた。
「あなたは殺すなと命令していません。ただ、私の名前を呼びました」
「そうだね」
「それなのに、身体が止まりました」
リゼは確かめるように、ゆっくりと指を握る。
「…………理由が分かりません」
その声には、わずかな困惑が滲んでいた。
アティシアにも、正確な理由は分からなかった。
ただ、あのときのリゼは命令を待つ兵器には見えなかった。
自分の名前を呼ぶ声に気づいて、振り返った。
ほんの一瞬だけ迷って――そして、剣を止めたのだ。
「私の声が聞こえたからじゃない?」
リゼが顔を上げる。
「声?」
「うん」
「命令ではなく?」
「命令じゃなくても、人の声を聞くことはできるでしょう?」
「……」
リゼは何も答えなかった。
その言葉の意味を理解しようとしているのか、わずかに眉を寄せている。
「リゼが自分で止まったんだよ」
「私が?」
信じられないものを見るような目が、アティシアへ向けられる。
「私は名前を呼んだだけ」
アティシアはそう言って、柔らかく微笑んだ。
「最後に剣を止めるって決めたのは、リゼでしょ?」
リゼは再び、自分の手を見つめた。
命令されて動くための手。
敵を倒すために鍛えられた手。
けれど今、その手は誰にも命令されず、自ら剣を止めていた。
「……私が、決めた」
小さくこぼれたその言葉は、まるで初めて覚えた言葉を確かめているようだった。
リゼは黙る。長い沈黙だった。
やがて、前を歩いていた子供たちの笑い声が聞こえた。リゼはその背中を見る。
「私は以前、人を殺すために作られたと言いました」
「うん」
「ですが今日は、人を助けました」
アティシアは隣を見る。
「そうだね」
「……不思議です」
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあ、よかった」
「はい」
そして、ほんの一瞬だけ。
リゼの口元が僅かに緩んだように見えた。
「……え?」
「どうしました?」
「今、笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
「笑っていません」
少し前を歩いていた子供たちが振り返る。
「お姉ちゃんたち、仲良しだね!」
「えっ?」
アティシアが声を上げ、リゼは首を傾げる。
「仲良しとは、どのような状態ですか?」
「そこから!?」
子供たちの笑い声が、森に響いた。
アティシアもつられて笑う。
リゼだけが、まだ不思議そうにしていた。
けれど、アティシアにはそれでいいと思えた。
命令しなくても、名前を呼べば声を聞いてくれる。
兵器としてではなく。
リゼとして、自分で選んでくれる。
ほんの少しずつ、二人の間にあるものが、変わり始めていた。
それが何という名前の関係なのか。
今の二人は、まだ知らなかった。
海辺の町を出てから、二日が経った。
潮の匂いは、もうしない。
代わりに二人を包んでいるのは、湿った土と草木の匂いだった。
左右を深い森に挟まれた細い街道を、アティシアとリゼは並んで歩いている。
頭上では木々の枝が重なり、昼間だというのに道には薄暗い影が落ちていた。
ときおり吹き抜ける風が葉を揺らす。
ざわざわとした音に混じって、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
「アティシア様」
「ん?」
「海は、もう見えません」
「二日前から見えてないよ?」
「はい」
「……もしかして、また見たい?」
アティシアの問いにリゼはしばらく黙った。
以前なら、すぐに「分かりません」と答えていただろう。
けれど今は違った。
「……はい。また見たいです」
その答えに、アティシアの口元が緩んだ。
「そっか」
「なぜ笑うのですか?」
「嬉しいから」
「私が海を見たいと答えたことが?」
「うん」
「……そうですか」
リゼはまだ納得していないようだった。
それでも、以前のように理由を問い続けることはなかった。
アティシアはそんなリゼの横顔を見ながら歩く。海辺で過ごした一日は、ほんの短い時間だった。
それでもリゼにとっては、大きな一歩だったのかもしれない。
命令ではなく。必要だからでもなく。
ただ、自分がそうしたいから。
少しずつ。本当に少しずつではあるけれど。
リゼの中に、リゼ自身の気持ちが生まれ始めている。
「また行こうね」
「はい」
「次は泳いでみる?」
「泳ぐ必要性は?」
「あー……まだそこは必要性を聞くんだ」
「……?」
アティシアが笑った、そのときだった。
――ガサッと右側の茂みが揺れた。
その音を聞いたアティシアの表情は変わり、足を止めた。
「リゼ」
「はい」
リゼもすでに気づいていた。
さっきまでの穏やかな空気が、一瞬で消える。
アティシアは腰の剣へ手を添えた。
風が吹く、葉が揺れる。
けれど、それだけではない。誰かがいる。
しかも、一人ではない。
「……出てきなさい」
アティシアが声を上げたが、返事はない。
「そこにいるのは分かってる」
数秒の沈黙が流れる。
やがて――低い男の声がした。
「へえ、気づいてたのか」
木の陰から、一人の男が姿を現した。
汚れた革の防具。手には刃こぼれした剣。
無精髭の生えた顔に、薄い笑みを浮かべている。
続いて、反対側の茂みからも男が現れる。
一人。二人。三人。さらに後ろからも。
気づけば、アティシア達は六人の男に囲まれていた。
「……盗賊」
アティシアが呟く。
「ご名答」
男が笑った。
その視線が、二人の腰にある荷物へ向く。
「悪いな。食い物と金を置いていってもらおうか」
「断るって言ったら?」
「そりゃあ――」
男が剣を肩へ担ぐ。
「痛い目を見ることになるな」
アティシアは周囲を確認した。
六人。正面に二人。左右に一人ずつ。
後ろに二人。逃げ道は塞がれている。
王国の騎士ほど洗練された動きではない。
けれど、この人数を相手にするのは面倒だった。
「リゼ」
「排除しますか?」
「しない」
「ですが――」
「まず話す」
アティシアは男達へ向き直った。
「私達は争うつもりはない。食料なら少し分けるから、それで――」
「駄目だな」
男が遮った。
「全部置いていけ」
「…………」
「それと」
男の視線が、リゼへ向く。
舐めるような目だった。
「そっちの嬢ちゃんも一緒に来てもらおうか」
その瞬間。リゼが一歩前へ出た。
「リゼ」
「敵対行動を確認しました」
「待って」
アティシアが腕を伸ばす。
だが、盗賊の一人が飛び出した。
「捕まえろ!」
「――っ!」
アティシアは剣を抜いた。
こちらに向かって来た相手から振り下ろされた刃を、アティシアは剣で受け止めると腕に重い衝撃が走る。
ギィン――!という金属音が森の中に響いた。
「くっ……!」
「細い腕して、やるじゃねえか!」
「見た目で判断しないことね!」
刃を滑らせるように受け流す。
男の身体が前へ崩れた。
その隙にアティシアは身体を回転させ、剣の柄を男の脇腹へ叩き込む。
「ぐっ!」
男が地面へ転がった。
だが、一人倒した程度では終わらない。
「このっ!」
左から別の男。
アティシアは身体を反らして刃を避ける。
頬のすぐ前を剣先が通過し、髪が数本、宙を舞う。
「危なっ……!」
アティシアは踏み込み。相手の懐へ入る。
肘を腹へ。
「がっ……!」
男がよろめいた。
しかし、その背後からさらに一人が迫っている。
「アティシア様!」
「え……」
アティシアが振り向くより早く、リゼが地面を蹴った。
それはほんの一瞬だった。
アティシアの横を風が抜ける。
リゼは迫っていた男の腕を掴むと、その勢いを利用して身体を投げ飛ばした。
「うわっ!?」
男の身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられ、鈍い音がその場に響く。
「……ありがとう」
「問題ありません」
リゼは倒れた男が落とした剣を拾い上げる。
その構えを見た瞬間。
盗賊たちの表情が変わった。
「なんだ、こいつ……」
リゼの姿勢には、一切の無駄がなかった。
呼吸。視線。重心。
すべてが戦うためだけに整えられている。
王国によって作られた兵器。
その意味をアティシアは改めて目の前で見せつけられた。
「リゼ、殺さないでよ!」
「分かっています」
その言葉と同時に、リゼが動く。
「なっ――」
盗賊が剣を振る。
しかし、そこにリゼはいない。
低く身体を沈め、刃の下を潜り抜けていた。
手首を掴む。捻る。
「ぐああっ!」
剣が落ちる。そのまま腹へ蹴り。
男の身体が後方へ吹き飛ぶ。
別の男が背後から襲いかかるが、リゼは振り向かない。
足音だけで位置を判断し、一歩横へ。
空振りした男の腕を掴み、そのまま地面へ投げつけた。
「ぐっ……!」
圧倒的だった。
アティシアが一人を倒す間に、リゼは三人を無力化している。
「ば、化け物……!」
残った男の顔が引きつる。
リゼは何も答えない。
ただ剣を握ったまま、一歩近づく。
「ひっ……!」
男が一歩、後ずさったそのとき。
森の奥から声が聞こえた。
「――助けて!」
「……え?」
アティシアが振り向く。
子供の声が聞こえたような気がした。
「今の……」
「よそ見してんじゃねえ!」
しかし、その一瞬の隙を見て、盗賊の一人がアティシアへ飛びかかった。
「しまっ――」
間に合わない。
そう思った瞬間、リゼが割り込んだ。
剣が閃く。盗賊の武器が弾き飛ばされた。
「なっ……!」
リゼは男の胸ぐらを掴み、地面へ叩きつける。
「がはっ!」
男が苦しそうに息を吐いた。
その首元へ。リゼが持つ剣先が向けられる。
「…………」
冷たい目だった。
アティシアの知っているリゼではない。
地下施設で初めて会ったときの――。
No.017。
命令された敵を排除するためだけの瞳。
「リゼ、もう大丈夫!」
返事がない。男が腰へ手を伸ばした。
短剣。それをリゼは見逃さなかった。
男が短剣を抜くより早く。
リゼの剣が振り上げられる。
殺す。アティシアには分かった。
だめだ。止めなければ。
「――リゼ!」
叫んだ。
森の中に、その名前が響いた。
振り下ろされようとしていた刃が――止まった。
「…………」
剣先が、小さく震えている。
男の首まで、あと僅かであったがリゼは動かない。
アティシアも動けなかった。
数秒の長い沈黙。
やがて、リゼがゆっくりと顔を上げてアティシアを見る。
「……アティシア様」
その瞳から、先ほどまでの冷たさが消えていく。
「もういいよ」
アティシアはそれだけ言った。
命令ではなかった。「殺さないで」とも言わなかった。
ただ、名前を呼んだ。それだけだった。
リゼは剣を見つめる。
そして、ゆっくりと刃を下ろした。
「……はい」
盗賊の男から短剣を奪い、遠くへ投げる。
それから男の胸ぐらを掴んだ。
「仲間はどこですか」
「な、なんのことだ……」
「先程、子供の声がしました」
「知らねえ!」
リゼの手に力が入る。
「リゼ」
「…………」
アティシアがリゼの名前を呼ぶと、今度はすぐに力を緩めた。
アティシアはその変化を見て、僅かに目を見開いた。
「私が聞くよ」
男の前へしゃがむ。
「子供たちをどこに隠してるの?」
「…………」
「言わないなら、近くを探す」
アティシアは立ち上がる。
「どのみち見つけるから」
男は悔しそうに顔を歪めた。
そして、静かに口を開いた。
「……この先だ。古い小屋がある」
森の奥を指さし、そう答えた男の言葉にアティシアとリゼは顔を見合わせた。
✴︎
森の奥へ進むと、本当に小屋があった。
木々に隠れるように建てられた、古びた小屋。
扉には大きな錠がかけられている。
「中に人の気配があります」
「開けられる?」
「はい」
リゼが剣を差し込み、錠を壊す。
扉を開けた瞬間。
「……!」
アティシアは息を呑んだ。
薄暗い小屋の中に数人の子供たちが、身を寄せ合うように座っていた。
幼い子は五、六歳。
一番年上でも十二歳ほどだろう。
服は汚れ、頬は痩せている。
突然現れた二人に怯え、さらに身体を寄せ合った。
「大丈夫」
アティシアはすぐに剣を鞘へ収めた。
ゆっくり膝をつく。
「怖がらなくていいよ」
「……誰?」
「旅をしてるだけの人」
王女だとは言わない。
今の自分は、それでいい。
「さっきの人たちは?」
一人の少女が恐る恐る尋ねる。
「もう大丈夫」
「……本当?」
「うん、あなたたちを助けに来たの」
子供達の表情が僅かに緩む。
その中の小さな男の子が、アティシアの後ろを見る。
「……そのお姉ちゃんは?」
「え?」
アティシアが振り返るとリゼが立っていた。
剣を持ったまま無表情で。どう見ても怖い。
「リゼ」
「はい」
「剣、しまって」
「……はい」
リゼが剣を鞘へ収める。
それでも子供はリゼを見ていた。
「お姉ちゃん、強いの?」
「はい」
「悪い人たち、やっつけた?」
「無力化しました」
「むりょく……?」
「やっつけたってことでいいよ」
アリシアが苦笑する。
「すごい!」
男の子の顔が明るくなった。
「…………すごいですか」
「うん、すごいよ! ありがとう、お姉ちゃん!」
「……」
「リゼ?」
「どう返答すればいいですか」
小声で尋ねられ、アティシアは笑いそうになる。
「どういたしましてでいいんじゃない?」
「……どういたしまして」
「うん!」
男の子が笑う。
その笑顔を見たリゼは、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、その瞳が揺れた。
✴︎
子供達は近くの村から連れ去られていた。
アティシアたちは日が沈む前に、彼らを村まで送り届けることにした。
森の中、子供達が前を歩いている。
アティシアとリゼは、その少し後ろを並んで歩いていた。
「アティシア様」
「ん?」
「先ほどの戦闘について、質問があります」
「なに?」
「私は、命令を受けていません」
「うん」
「ですが、停止しました」
「……うん」
「なぜでしょうか」
リゼは自分の手に視線を落とした。
つい先ほどまで剣を握っていた手だ。
命令されたわけでも、力を奪われたわけでもない。それなのに、あの瞬間――確かに自分の意思で動きを止めた。
「あなたは殺すなと命令していません。ただ、私の名前を呼びました」
「そうだね」
「それなのに、身体が止まりました」
リゼは確かめるように、ゆっくりと指を握る。
「…………理由が分かりません」
その声には、わずかな困惑が滲んでいた。
アティシアにも、正確な理由は分からなかった。
ただ、あのときのリゼは命令を待つ兵器には見えなかった。
自分の名前を呼ぶ声に気づいて、振り返った。
ほんの一瞬だけ迷って――そして、剣を止めたのだ。
「私の声が聞こえたからじゃない?」
リゼが顔を上げる。
「声?」
「うん」
「命令ではなく?」
「命令じゃなくても、人の声を聞くことはできるでしょう?」
「……」
リゼは何も答えなかった。
その言葉の意味を理解しようとしているのか、わずかに眉を寄せている。
「リゼが自分で止まったんだよ」
「私が?」
信じられないものを見るような目が、アティシアへ向けられる。
「私は名前を呼んだだけ」
アティシアはそう言って、柔らかく微笑んだ。
「最後に剣を止めるって決めたのは、リゼでしょ?」
リゼは再び、自分の手を見つめた。
命令されて動くための手。
敵を倒すために鍛えられた手。
けれど今、その手は誰にも命令されず、自ら剣を止めていた。
「……私が、決めた」
小さくこぼれたその言葉は、まるで初めて覚えた言葉を確かめているようだった。
リゼは黙る。長い沈黙だった。
やがて、前を歩いていた子供たちの笑い声が聞こえた。リゼはその背中を見る。
「私は以前、人を殺すために作られたと言いました」
「うん」
「ですが今日は、人を助けました」
アティシアは隣を見る。
「そうだね」
「……不思議です」
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあ、よかった」
「はい」
そして、ほんの一瞬だけ。
リゼの口元が僅かに緩んだように見えた。
「……え?」
「どうしました?」
「今、笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
「笑っていません」
少し前を歩いていた子供たちが振り返る。
「お姉ちゃんたち、仲良しだね!」
「えっ?」
アティシアが声を上げ、リゼは首を傾げる。
「仲良しとは、どのような状態ですか?」
「そこから!?」
子供たちの笑い声が、森に響いた。
アティシアもつられて笑う。
リゼだけが、まだ不思議そうにしていた。
けれど、アティシアにはそれでいいと思えた。
命令しなくても、名前を呼べば声を聞いてくれる。
兵器としてではなく。
リゼとして、自分で選んでくれる。
ほんの少しずつ、二人の間にあるものが、変わり始めていた。
それが何という名前の関係なのか。
今の二人は、まだ知らなかった。




