第11話 王女ではない私
昼になる頃には、二人ともすっかり疲れ果てていた。
森の中に開けた小さな草地を見つけると、アティシアはそこへ倒れ込むように腰を下ろした。
「疲れた……」
両手を後ろについて、空を仰ぐ。
額には薄く汗が滲んでいた。
服の裾には草がつき、肘には土までついている。
王城にいた頃の自分が見たら、きっと悲鳴を上げていただろう。王女の衣服を汚すなんて、と。
けれど今のアティシアには、それを気にする余裕すらなかった。
「昨日の薪拾いよりですか?」
隣に腰を下ろしたリゼがアティシアに尋ねる。
「比べものにならない」
「そうですか」
「そうですか、じゃないよ。誰のせいだと思ってるの」
「私です」
「……素直だね」
「事実ですから」
悪びれる様子すらない。
アティシアは恨めしそうにリゼを見たあと、小さく息を吐いた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
身体は痛いし、疲れている。
それでも、何か一つ新しいことができるようになる。
その感覚が、少し楽しかった。
アティシアは腰につけていた水筒を外した。
蓋を開け、一口飲むと冷たい水が喉を通っていく。
「はい」
そのまま隣へ差し出す。
「ありがとうございます」
リゼが受け取った。
何気ないやり取りだった。
けれど、アティシアはふとその光景を見る。
一つの水筒を二人で使う。
城ではあり得なかったことだ。
食器も、衣服も、部屋も。
王女のために用意されたものは、すべてアティシアだけのものだった。
誰かと分け合う必要などなかった。
必要なものは、欲しいと言うより先に用意された。
それが普通だと思っていた。
けれど今は一つしかないものを、二人で使う。
食料が少なければ分ける。
寒ければ焚き火のそばへ二人で寄る。
片方が疲れていれば、もう片方が荷物を持つ。
そんな生活が、いつの間にか当たり前になっていた。リゼから返された水筒を受け取る。
「なんか、不思議だね」
「何がですか?」
「最初は、私がリゼを助けたと思ってた」
「事実です」
「うん。でも」
アティシアはふと自分の手を見つめる。
土で少し汚れている。
指先には、小さな擦り傷もできていた。
「今は私も、リゼに助けてもらってる」
戦い方、危険の察知、野営の方法。
森の歩き方や安全な水の見分け方。
夜、どこに火を置けば獣が近づきにくいのか。
城では誰も教えてくれなかったことをリゼは知っている。
逆にリゼは文字を知らないし、料理も知らない。
人とどう話せばいいのかも、まだ分からないことが多い。
昨日までのアティシアなら、それを教えてあげなければと思ったかもしれない。
けれど今は少し違った。
「私が文字を教えて」
「はい」
「リゼが戦い方を教えてくれる」
「はい」
「私が料理を作って」
「はい」
「リゼが薪を集めてくれる」
「はい」
アティシアはそこで少し考えた。
「……洗濯は二人とも下手だけど」
「改善が必要です」
「そこは一緒に覚えよう」
「はい」
思わず笑ってしまう。
朝には乾いた服を着ることが当たり前だった王女と。
戦うことだけを教えられてきた兵器。
そんな二人が川辺にしゃがみ込み、服一枚を前に悪戦苦闘していた。
思い返せば、なんとも奇妙な光景だ。
でも。アティシアはこの時間が嫌いではなかった。
「こういうの、いいね」
「こういうの?」
「どっちかが一方的に守るんじゃなくて、お互いにできないことを助けるの」
言葉にしてみて、初めて気づく。
自分はずっと、誰かに守られる側だった。
王女だから兵士が守る。
侍女が世話をする。臣下が頭を下げる。
そしてリゼはその反対だった。
守る側。命令される側。
誰かのために戦う側。
二人の間には、本来なら決して越えられないほど大きな隔たりがあったはずだ。
けれど今、土の上に座っている二人の間に、それはない。
同じように服を汚し、同じ水を飲み。
同じ夜空の下で眠る。
「対等、という意味ですか?」
リゼが尋ねた。
アティシアは少し目を見開いた。
「……そうかも」
「対等」
リゼはその言葉を確かめるように繰り返した。
初めて覚えた文字を読むときと、よく似た声だった。意味を知っているはずなのに。
自分に当てはめる方法だけが分からない。
そんな声であった。
「私は兵器で、あなたは王女でした」
「うん」
「それでも、対等になれますか?」
アティシアは答えようとして――やめた。
すぐになれると言うことは簡単だった。
けれど、それでは何か違う気がした。
しばらく考えてから、アティシアは首を横に振る。
「違うよ」
「違う?」
アティシアは身体ごとリゼへ向き直った。
「今は、リゼとアティシア」
「…………」
「それでいいんじゃない?」
リゼは答えなかった。
木々の間を風が通り抜けて、ざあ、と葉が揺れた。
色づき始めた一枚の葉が枝を離れ、くるくると回りながら落ちてくる。
それはちょうど、二人の間へ落ちた。
リゼはそれを見つめていた。
長い沈黙がその場に流れた。
けれどアティシアは急かさなかった。
リゼが何かを考えているとき、以前は数秒で答えが返ってきた。
命令を理解する。状況を分析する。
最適な行動を選ぶ。それだけだったから。
けれど最近は違う。答えるまでに時間がかかるようになった。
それはきっと、命令ではなく、自分がどう思うのかを探しているからだ。
「アティシア様」
「なに?」
「私は、あなたに教えられることがありますか?」
「いっぱいあるよ」
「そうですか」
「うん」
リゼは自分の手を見た。
人を傷つけるために使ってきた手。
銃を握り、刃物を握り。
命令された敵を排除してきた手。
その手が昨日は服を洗った。
今朝はアティシアの手を取って、身を守る方法を教えた。
同じ手なのに使い方が違う。
「……嬉しいです」
本当に小さな声だった。
リゼの言葉にアティシアの目が大きくなる。
「今なんて?」
「嬉しいです」
「もう一回言って」
「なぜですか?」
「いいから!」
「嫌です」
「えっ」
アティシアが固まる。
リゼは何事もなかったかのように立ち上がった。
服についた草を払い、荷物へ手を伸ばす。
「そろそろ移動します」
「ちょっと待って!」
アティシアも慌てて立ち上がる。
「今、嫌って言った!?」
「はい」
「自分から!?」
「はい」
「すごい!」
「何がですか?」
「嫌って言えるようになった!」
アティシアが何に対して褒めているのかわからず、リゼは首を傾げる。
「……?」
「成長だよ、成長!」
「よく分かりません」
「いいの!」
アティシアは笑いながら、先に歩き始めたリゼを追いかけた。
数歩遅れて、その隣へ並ぶ。
リゼは相変わらず前を見ている。
表情だって、ほとんど変わらない。
けれど、アティシアら分かるようになってきた。
ほんの少しだけ声が柔らかくなるとき。
答えるまでに妙な間が空くとき。
視線を逸らすとき、それが、リゼの感情なのだ。
王女と兵器。
城にいた頃なら、それ以外の関係など考えられなかった。
命令する者と、命令される者。
守る者と、守られる者。けれど今は違う。
アティシアにはできないことがある。
リゼにもできないことがある。
だから教えるし、教えてもらう。
失敗すれば笑って、できるようになれば喜ぶ。
時には喧嘩して、嫌なら、嫌だと言う。
それでいい。
歩きながら、アティシアは自分の手を見た。
洗濯で少し荒れた指。
薪を拾ったときについた小さな傷。
剣を握り続けてできた硬い部分。
爪の間には、まだ少し土が残っている。
王城にいた頃にはなかった手だった。
あの頃の自分なら、こんな手を見れば汚れていると思っただろう。
今は違う。
これは、自分で生きようとしてできた手だ。
誰かに服を着せてもらうのではなく。
誰かに食事を運んでもらうのではなく。
誰かに行き先を決めてもらうのでもない。
自分で選んで、失敗して、覚えて、今日を生きる。
「……私、王女じゃなくても生きられるのかな」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
それはずっと心の奥にあった疑問だった。
王女ではない自分に、何が残るのだろう。
城も、ドレスも、臣下も。
王族という名前すら失ったら。
自分はいったい何者なのだろう。
「何か言いましたか?」
リゼが振り向く。
「ううん」
アティシアは首を横に振った。
そして前を見る。
森の先へ、細い道が続いていた。
どこへ辿り着くのかは分からない。
明日どうなるのかも分からない。
それでも、以前ほどそのことが怖くなくなっていた。
「今日の夕飯、私が作るね」
「昨日もアティシア様が作りました」
「今日はもっと上手くできるから」
「保証は?」
「ないです」
「…………」
「何その顔!」
「何もしていません」
リゼは眉間に眉を寄せながら、アティシアを見る。
「絶対、大丈夫かなって思ったでしょ!」
「否定はしません」
「ひどい!」
「では、私も手伝います」
「料理できないでしょ?」
「アティシア様も上手ではありません」
「……言うようになったね、リゼ」
「事実です」
「はいはい」
アティシアは肩をすくめる。
「じゃあ、一緒に作ろう」
「はい」
二人の足音が重なる。
同じ方向へ、同じ速さで。
どちらかが前を歩くのではなく。
どちらかが後ろからついていくのでもない。
二人は並んで歩いていく。
王女ではなく、兵器でもなく、ただ、アティシアとリゼとして。
そんな時間が少しずつ、二人にとっての普通になり始めていた。




