第12話 帰る場所
森を抜けた先に、その村はあった。
山々に囲まれた、小さな村だった。
緩やかな斜面に沿って木造の家々が並び、その周囲には畑が広がっている。
風が吹くたび、黄金色に染まり始めた麦の穂が波のように揺れた。
遠くでは牛がのんびりと草を食み、村の中央を流れる細い水路からは、絶えず水の音が聞こえてくる。
「……綺麗なところ」
アティシアは思わず足を止めた。
王都のような立派な建物はない。
高い城壁もない。石畳さえなく、土の道には荷車の轍が残っている。
それでもどこか温かい。そんな場所だった。
「今日は、ここで食料を分けてもらおうか」
「はい」
「できれば今夜泊まれる場所も探したいな」
「野営ではないのですか?」
「たまには屋根のあるところで寝たい」
「なぜですか?」
リゼが首を傾げながらそう問いかけると、アティシアは苦笑する。
「……リゼは雨の中で寝ても平気だもんね」
「行動に支障はありません」
「私はあるの」
二人は村へ入った。
畑仕事をしていた人々が、見慣れない二人に視線を向ける。
アティシアは少し緊張した。
これまで訪れた村では、王国を恐れている人々もいた。
自分達が旅人ではなく逃亡者だと知られれば、どうなるかも分からない。
「こんにちは」
なるべく普通に声をかける。
すると、畑にいた老女が顔を上げた。
「あら。旅の人?」
「はい」
「珍しいねえ。こんな山奥まで」
「道に迷ってしまって」
半分くらいは嘘ではない。
「まあまあ。それは大変だったねえ」
老女は二人を見比べる。
「姉妹かい?」
「え?」
アティシアは思わずリゼを見る。
リゼもこちらを見ている。
「違います」
「そうなの?」
「はい。私たちは……」
「友達です!」
アティシアが慌てて割り込んだ。
リゼが首を傾げる。
「友達?」
「そう。友達」
「私たちは友達なのですか?」
「今それ聞く!?」
老女が楽しそうに笑った。
「仲がいいんだねえ」
「……たぶん」
「そうは見えないかい?」
「見える見える」
老女は笑いながら、畑の向こうを指さした。
「泊まる場所を探してるなら、村長に聞いてみな。空いてる家があったはずだから」
「本当ですか?」
「しばらく誰も使ってないけどね」
アティシアの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「いいってことさ」
あまりにも普通に返された言葉に、アティシアは少しだけ驚いた。
何者なのか、どこの生まれなのか。
そんなことも聞かずにただ困っている旅人だから助ける。
城にいた頃には知らなかった種類の優しさだった。
✴︎
二人が借りることになったのは、村外れにある小さな家だった。
長い間使われていなかったらしく、扉を開けた瞬間、埃が舞った。
「げほっ、げほっ……!」
アティシアが慌てて口元を押さえる。
「換気が必要です」
「そうね……」
窓を開けると差し込んだ夕日が、室内を照らした。
小さな机、二脚の椅子、古い暖炉。
そして、寝台が二つ。
「……すごい」
「何がですか?」
「家だよ」
「家ですね」
「そうじゃなくて」
アティシアは部屋の中央まで歩く。
広くはない。王城にあった自分の部屋と比べれば、十分の一にも満たないだろう。
けれど——
「今日から、ここで寝られるんだよ」
「はい」
「雨が降っても濡れない」
「そうですね」
「暖炉もある!」
「ありますね」
「最高!」
アティシアは嬉しそうに両腕を広げた。
「……嬉しそうですね」
「今なら城の寝台より、こっちのほうが嬉しいかも」
「理解できません」
「ずっと野宿してたら分かるよ」
「私もずっと野宿しています」
「……そうだった」
アティシアは笑った。
その日、二人は久しぶりに屋根のある場所で眠った。
✴︎
一泊だけのつもりだった。
けれど、翌朝。
「お姉ちゃんたち、暇?」
村の子供たちがやってきた。
「どうしたの?」
「畑、手伝って!」
「畑?」
「父ちゃんが腰痛いって!」
アティシアはリゼを見る。
「……やってみる?」
「農作業の経験はありません」
「私もない」
「では、非効率では?」
「だから覚えるの」
二人は畑へ向かった。
だが、しかし——
「アティシア様」
「何?」
「曲がっています」
「分かってる!」
「こちらもです」
「分かってるって!」
アティシアが耕した畝は見事に曲がっていた。
一方。
「リゼ、上手……」
リゼの畝は恐ろしいほど真っ直ぐだった。
「指定された感覚で土を掘り返しています」
「なんで農作業まで正確なの……」
「同じ動作を繰り返すだけです」
「それを私ができてないんだけど」
そんなリゼとアティシアの会話を聞いていた近くにいた村人たちが笑う。
最初は恥ずかしかった。
けれど、気づけばアティシアも笑っていた。
✴︎
次の日、二人は川で村人たちの洗濯を手伝った。
「おや、前より上手じゃないか」
以前出会った老女がアティシアの手元を見る。
「練習しました!」
「洗濯を?」
「はい」
「変なところで自信満々だねえ」
老女が笑い、アティシアも笑った。
隣ではリゼが黙々と服を洗っている。
「リゼ」
「はい」
「力入れすぎないでね」
「一割です」
「うん。それなら大丈夫」
老女が二人を見比べる。
「あんたたち、本当に仲がいいね」
「そう見えます?」
「ああ」
アティシアは少し嬉しくなった。
リゼは相変わらず、何が嬉しいのか分かっていないようだった。
✴︎
また次の日。
夕食を作っていると、近所の子供達がやってきた。
部屋の窓を開けて外を見ると、子供達がにこにこしながらリゼを見る。
「リゼ姉ちゃん!」
「……私ですか?」
「他にリゼいないよ!」
「そうですよね」
アティシアから「一緒に行こうか」と言われ、リゼがアティシアと共に外へ出ると、子供達は待っていましたとばかりにリゼを遊びに誘う。
「遊ぼ!」
「遊ぶ?」
「鬼ごっこ!」
「鬼を討伐するのですか?」
「違う違う!」
アティシアは慌てて止める。
「捕まえるだけ!」
「理解しました」
十分後——
「リゼ姉ちゃん速すぎる!」
「捕まえられない!」
「ずるい!」
「全力で逃走する遊びではないのですか?」
「子供だから、加減してあげて!」
アティシアは腹を抱えて笑ったが、リゼは不思議そうにしている。
けれど子供たちに手を引かれるまま、リゼはもう一度走り出した。
✴︎
気づけば、一週間が過ぎていた。
夕暮れ。アティシアとリゼは家の前に並んで座っていた。
今日も一日、畑仕事を手伝った。
手には土が残っており、服も少し汚れている。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
目の前では、村人たちが一日の仕事を終え、家へ戻っていく。
「また明日な!」
畑仕事をしていた男が手を振る。
「はい!」
アティシアも手を振り返す。
「リゼ姉ちゃん、明日も遊ぼうね!」
子供達からそう声を掛けられ、リゼは少し迷ってから手を上げた。
「……はい」
子供たちは満足そうに走っていった。
アティシアはその様子を眺める。
「慣れたね」
「何がですか?」
「村の人たちに」
「……そうでしょうか」
「最初は話しかけられるたび、困ってたじゃない」
「今も困ることはあります」
「でも、前よりずっと自然」
リゼは自分の手を見る。
「ここでは、誰も私を兵器と呼びません」
「うん」
「No.017とも」
「うん」
「皆、リゼと呼びます」
「それがあなたの名前だから」
リゼは黙った。
夕日が、村を赤く染めている。
どこかの家から、夕食を作る匂いが漂ってきた。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
風に揺れる麦。家々の煙突から上がる煙。
アティシアは膝を抱えた。
「……ねえ、リゼ」
「はい」
「ここで暮らしてもいいのかもしれないね」
口にしてから、自分でも驚いた。
旅を続けて、逃げ続ける。
それしか考えていなかった。
けれど、ここなら朝起きて、畑を手伝って。
川で洗濯をして、夜になったら二人で食事を作る。
そんな毎日を送れるのではないか。
「ずっと?」
リゼが尋ねる。
「……うん」
「旅をやめるのですか?」
「それもいいのかなって」
アティシアは村を見る。
「私、王女じゃなくても生きられるかもしれない」
剣を持たなくても、命令を出さなくても。
国を背負わなくても、ただのアティシアとして。
「ここで普通に暮らして……」
隣を見る。
「リゼと一緒に」
リゼの瞳が僅かに揺れた。
「私も?」
「当たり前でしょう?」
「…………」
「どうしたの?」
リゼはしばらく何も言わなかった。
やがて——
「私は、ここにいてもいいのでしょうか」
とても小さな声だった。
アティシアは一瞬、意味が分からなかった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「私は兵器として作られました」
「またそれ?」
「多くの人を殺しました」
リゼは自分の手を見る。
「この村の人たちは、それを知りません」
「…………」
「知れば、私に出ていってほしいと思うかもしれません」
アティシアは答えられなかった。
絶対にそんなことはないと言い切ることはできない。
村人達がリゼの過去を知ったとき、どう思うか。それはアティシアには決められない。
「それでも」
アティシアはリゼの手へ、自分の手を重ねた。
土で汚れた手。戦うためだけではなく、薪を拾い、洗濯をして、料理をして、子供たちと遊んだ手。
「私は、リゼにここにいてほしいよ」
「……なぜですか?」
「一緒にいたいから」
リゼがアティシアを見る。
「だから、リゼがここにいたいなら――」
アティシアは微笑んだ。
「もちろん、いていいよ」
「…………」
リゼは重ねられた手を見る。
そして、ほんの少しだけ指を動かした。
アティシアの手を握り返す。
「……ここにいたいです」
アティシアの目が大きくなる。
「リゼ……」
「私は、この村にいたい」
命令ではない。必要だからでもない。
リゼ自身の意思だった。
「そっか」
アティシアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いよう」
「はい」
「明日、村長さんに相談してみようか」
「はい」
二人は並んで夕日を眺めた。
もしかしたら、逃げなくてもいい日が来るのかもしれない。
ここが、自分たちの帰る場所になるのかもしれない。そんなことをアティシアは思っていた。
✴︎
——その夜。
アティシアは物音で目を覚ました。
「…………?」
暗い部屋の中、隣の寝台を見たがリゼがいない。
「リゼ?」
身体を起こした、その瞬間。
扉が開いた。
「アティシア様」
リゼだった。
「どうしたの?」
「外へ」
声が低い。いつものリゼではない。
アティシアはすぐに剣を手に取った。
外へ出るが夜なこともあり、家々の明かりはほとんど消えている。
空には月が浮かんでいた。
「何が――」
聞こうとして気づいた。
遠く村へ続く道の向こうに、いくつもの光が見える。
松明だ。そして微かに聞こえてくる。
馬の蹄、金属が擦れる音。
「……まさか」
「兵士です、十二……いえ、十五人以上」
アティシアの身体が強張る。
月明かりの下、近づいてくる兵士達の鎧に、見覚えのある紋章が見えた。
アルヴェリア王国。
「どうして……」
胸が冷たくなる。
この村にいることが見つかってしまった。
「何だ、あいつらは!?」
隣の家から飛び出してきた村長は兵士達の姿を遠目に見るなり声を上げる。
「……王国軍です」
「王国軍?」
他の家々にも明かりが灯り始める。
村人達が何事かと外へ出てくる。
「旅人二人を捜索している!」
村の入口から声が響いた。
「この村に、若い女二人が滞在しているとの情報を得た!」
アティシアは拳を握る。
誰かが密告したのか、それとも、旅の途中で見つかったのか。分からない。
けれど、もうここにはいられない。
「リゼ」
「はい」
「荷物を持ってきて」
「戦闘は?」
「しない」
アティシアは首を横に振る。
「ここで戦ったら、村の人たちが巻き込まれる」
「しかし――」
「お願い」
リゼは数秒黙った。
「……分かりました」
「待て!」
村長がアティシアの腕を掴んだ。
「何がどうなってる?」
「……ごめんなさい」
「何を謝ってる」
「私達、本当はただの旅人じゃないんです」
村長が黙る。
「追われてるんです。あの人たちは、私たちを探しに来た」
「…………」
「だから、行きます」
「今から?」
「はい」
村の入口を見る。
松明はもうすぐそこまで迫っていた。
「私たちがここにいたら、この村まで危険になる」
「しかし……」
「大丈夫です」
アティシアは笑った。
「こういうの、慣れてますから」
自分でも、ひどい言葉だと思った。
逃げることに慣れてしまった。
リゼが荷物を持って戻ってくる。
「準備できました」
「ありがとう」
二人は村の裏手へ向かう。
「お姉ちゃん!」
背後から声がして、振り返ると子供たちがいた。
「どこ行くの?」
「……ちょっと、旅の続き」
「明日遊ぶって言ったじゃん!」
リゼの足が止まった。
「…………」
「リゼ姉ちゃん!」
子供が駆け寄ろうとする。
母親が慌てて抱き止めた。
「ごめんね」
アティシアが代わりに答える。
「また、いつか」
「いつ?」
「…………」
答えられなかった。
リゼは子供達を見つめていた。
「リゼ」
アティシアが名前を呼ぶ。
「……はい」
リゼはゆっくりと背を向けて、二人は歩き出した。
✴︎
月明かりに照らされた村の裏にある細い山道を二人は進んでいた。
背後から、兵士達の声が聞こえてくる。
「家を確認しろ!」
「二人を捜せ!」
アティシアは振り返らなかった。
振り返れば、戻りたくなってしまう気がした。
「アティシア様」
「……なに?」
「ここにいると言いました」
リゼの言葉に胸が痛んだ。
「うん」
「私も、ここにいたいと言いました」
「……うん」
「ですが、行くのですね」
「ごめん」
「なぜ謝るのですか?」
「分からない」
アティシアは俯く。
「……ごめん」
もう一度、同じ言葉が出たがリゼは何も言わなかった。
しばらく二人の足音だけが続く。
やがてリゼが言った。
「私は、帰る場所というものを知りませんでした。地下施設では、帰るという言葉を使いません。任務が終われば、収容区画へ戻るだけでした」
「……リゼ」
「ですが」
リゼは少しだけ振り返ったがもう村は見えない。
「先ほどの場所には、帰りたいと思いました。これが、帰る場所ですか?」
「……たぶん」
「そうですか。では、私は今日、帰る場所を失ったのですね」
「…………」
リゼの言葉に胸が締めつけられ、アティシアは足を止める。
「違う」
リゼも足を止めて、背後にいるアティシアの方へと顔を向けて振り返った。
「違う、なくなったわけじゃないよ」
「しかし、戻ることはできません」
「今はね、けど、いつか戻れるかもしれない」
「いつかですか……?」
「うん」
それがいつなのかは分からない。
王国に追われなくなる日が来るのかさえ分からない。それでも。
「だから……帰る場所がなくなったなんて言わないで」
リゼは静かにアティシアを見つめる。
「分かりました」
二人は再び夜の山道を歩き出した。
村の明かりはもう見えない。
また野宿の日々が始まる。
また追われる旅が始まる。
それでも、ほんの一週間だけ。
二人には、帰りたいと思える場所があった。
そしてアティシアは思う。
いつか、逃げなくてもいい場所を見つけたい。
誰かに追われることもなく。
誰かを巻き込むこともなく。
リゼと二人で「ただいま」と言える場所を。
それがどこにあるのかは、まだ分からない。
けれど、今度こそ自分たちの意思で見つけるのだ。
二人は夜の向こうへ歩き続けた。
再び、自分達の帰る場所を探すために。




