第29話 あなたの隣で
潮の匂いがした。
海から吹いてくる風が、二人の髪を静かに揺らしている。
アルヴェリア王国を離れてから、いくつもの町を越えた。王都から遠ざかり、戦争の傷跡が残る土地を抜け、かつて兵士たちが行き交った街道を歩いた。
それでも、二人は急がなかった。
追手が来ることもなかった。
アティシアは隣を歩く少女を見た。
リゼは、以前よりも少しだけ表情が増えた。
笑うこともあるし、困ったような顔をすることもある。食べ物を見て、ほんの少し目を輝かせることもある。
けれど、こうして海を見つめている横顔だけは、どこか静かだった。
「……覚えてる?」
「何をですか?」
「ここ」
アティシアが指差した方を見るためにリゼが顔を上げる。視線の先には、どこまでも続く青い海があった。
波が砂浜へ寄せては、白い泡を残して引いていく。かつて二人が訪れた場所。
あの頃は、今よりもずっと遠く感じた海だった。
「……はい、覚えています。前にも、ここへ来ました」
「うん」
二人は砂浜へ降りていく。
靴が砂に沈む。波打ち際まで歩くと、海水が足元へ近づいてきた。
アティシアは立ち止まってから、ふと昔のことを思い出す。
あの日、リゼは海を見ながら不思議そうに尋ねた。「これも、兵器に必要な知識ですか?」と。あまりにも真剣な顔だったからアティシアは笑ってしまった。
海を見ることに、兵器としての意味があるのか。波の音を聞くことに、敵を倒すための知識があるのか。
リゼにとって世界はずっと『必要か』と『必要ではないか』で分けられていた。
食事も、睡眠も、会話も。
生きることさえ、命令されたからする。
必要だからする。
そういう世界しか知らなかった。
アティシアは、隣に立つ少女を見る。
今のリゼは、海を見ている。
けれど何も尋ねない。
「……どうしたの?」
アティシアは何も喋らないリゼに対して、そう問い掛けるが、リゼはすぐには答えなかった。海を見つめたまま、少しだけ考える。
「見たかったので」
「……リゼ」
アティシアは目を丸くした。
そして、ゆっくり笑った。
「そっか」
たったそれだけだった。
けれど、それで十分だった。
リゼは海を見ている。
必要だからではない。命令されたからでもない。誰かに教えられたからでもない。
ただ、自分が見たかったから見ているのだ。
アティシアはそれが嬉しかった。
波の音が、そんな二人の間を流れていく。
「アティシア様、綺麗ですね」
「うん」
「以前は、そう思いませんでした」
「そうなの?」
「はい」
リゼは海を見つめたまま答えた。
「以前は、綺麗という意味も、よく分かっていませんでした」
「今は?」
「……少しだけ分かります」
「どんな意味?」
リゼは考えるが、すぐには答えが出なかった。昔なら、答えられなかっただろう。
けれど今は自分の中にあるものを探すように言葉を選んでいる。
「見ていると、ここにいてもいいような気がするもの……でしょうか」
「そっか」
二人の肩が、ほんの少し触れた。
それだけでリゼは安心したように目を細める。
「ねえ、リゼ」
「はい」
「これから、どうする?」
「……どうする、とは?」
「これからのこと」
リゼがアティシアを見る。
「どこへ行くのかとか、まだ決めてない」
「目的地が、ないのですか?」
「うん」
「行きたいところができたら、そこへ行けばいいかなって。だから今は決めてない」
リゼは黙っていた。
以前の彼女なら、その答えを理解できなかっただろう。
目的地がない。命令もない。任務もない。
帰還する場所もない。
兵器にとって、それは意味のないことだった。
何かをするなら、目的が必要だった。
誰かに命じられなければ動けなかった。
けれど今は違う。リゼは海を見た。
そして、自分の足元を見る。
砂浜には、二人分の足跡が残っていた。
波が来れば消えてしまう。
けれど、また歩けば新しい足跡が残る。
「……では」
「うん?」
「私が決めてもいいですか?」
「え?」
「行き先を」
リゼは少しだけ不安そうな顔をしていた。
まるで、本当に自分が決めてもいいのか確かめるように。アティシアはそんなリゼを見て笑った。
「もちろん」
「……本当に?」
「うん」
「命令ではなく?」
「命令じゃないよ」
「私が決めても大丈夫なのですか?」
「うん、リゼが決めていい」
その言葉を聞いて、リゼは小さく頷いた。
「……分かりました」
二人は砂浜を離れ、近くの道端に置いていた荷物の所まで戻った。
リゼは鞄の中から地図を取り出す。
アティシアが横からリゼが取り出した地図を覗き込んだ。
「どこに行く?」
「まだ分かりません」
「じゃあ、探してみよう」
「はい」
地図を広げる。王都、国境、小さな町。
森、山、港。その先には、まだ二人が知らない土地がいくつも続いている。
リゼは指を動かした。
これまでなら、命令された場所を探していた。任務の目的地を確認していた。
敵の位置を探していた。帰還地点を確認していた。けれど今は違う。
自分が行きたい場所を探している。
「……ここ」
リゼの指が地図上にある場所に止まった。
「海の向こう?」
「はい」
「行ったことないね」
「そうですね」
「何があるかも分からない」
「はい。だから行ってみたいです」
「じゃあ、行こう」
「はい」
リゼはアティシアに頷き返してか、地図を畳む。二人は再び歩き始める。
海沿いの道だった。
右手には青い海。左手には緑の丘。
風が吹くたび、草木が揺れる。
遠くでは海鳥が鳴いていた。
アティシアは歩きながら、ふと思った。
自分たちは、これから何者になるのだろう。
少なくとも、アティシアは以前のような王女ではない。リゼも兵器ではない。
誰かに作られた存在でも、命令を実行するためだけの存在でもない。
ならば、自分達は何なのだろう。
答えはまだ分からなかった。
きっと、これから見つけていくのだ。
何度も迷って。何度も間違えて。
それでも、自分で選びながら。
「アティシア様」
不意にリゼが自分の名を呼んだ。
「なに?」
アティシアが振り返るとリゼは歩みを止めていた。
穏やかな風によってリゼの紫色の髪が揺れている。その顔には、以前のような無表情はなかった。何かを伝えようとしている顔だった。
「私は——」
リゼが言葉を止めて少しだけ俯く。
「どうしたの?」
「……いえ」
だが、数分の沈黙の後、顔を上げた。
「少し、考えていました」
「何を?」
「私が、何を言いたいのか」
アティシアは黙ってリゼの言葉を待った。
急かさない。答えを教えない。
リゼ自身が言葉を見つけるのを待つ。
リゼは何度も言葉を探した。そして——
「私はこれからもあなたの隣にいたいです」
アティシアは目を見開いた。
リゼは言葉を続けなかった。
それ以上、何かを説明することもしなかった。ただ、アティシアを見ていた。
その言葉が何を意味するのか。
恋なのか。友情なのか。
居場所への想いなのか。
リゼ自身にも、まだはっきりとは分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
この人の隣にいたいという気持ち。
それだけだった。
アティシアは少しだけ笑った。
「……私もリゼの隣にいたい」
「同じですか?」
「うん、そうだよ」
「……そうですか」
「うん」
リゼが小さく笑った。
それは、以前なら見ることのできなかった笑顔だった。
二人は再び歩き出す。
しばらくして、アティシアの手がリゼの手に触れた。偶然だったのかもしれない。
けれど、どちらも離さなかった。
もう一度、指先が触れる。
そして、どちらからともなくその手を握った。
温かかった。人の手だった。
兵器の手ではない。王女の手でもない。
ただ、一人の少女の手。
リゼは握られた手を見つめた。
そして、少しだけ力を込めて握り返した。
海は、いつまでも続いている。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
新しい町があるのかもしれない。
また傷つくこともあるだろう。
失うこともあるかもしれない。
それでも二人には、もう誰かが決めた道しか残されているわけではない。
どこへ行くのか。何をするのか。
誰と生きるのか。
自分達で決めることができる。
だから二人は歩く。王女としてではなく。
兵器としてでもなく。
命令する者と、命令される者としてでもなく。
ただの二人の少女として自分たちが選んだ道を。海沿いの道を二人の足跡が並んで伸びていく。
寄せてくる波が、その足跡を一つずつ消していく。それでも二人は歩き続けた。
また新しい足跡を残すために。
まだ見たことのない場所へ。
まだ知らない明日へ。
そして、その先もずっと二人は一緒に歩いていく。
これにて【完結】となります!
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では、また次の作品でお会いしましょう




