第28話 王女ではない私
事件から数ヶ月後。
王国はゆっくりと変わり始めていた。
兵器人間計画は正式に停止され、地下施設は閉鎖された。
番号だけを与えられていた少女達は、それぞれに名前を選び、王国の保護のもとで新しい生活を始めている。
軍部では計画に関わった者達への調査が続き、王宮でも大きな改革が進められていた。
その中でアティシアもまた、自分のこれからを決めようとしていた。
王位継承権を完全に捨てたわけではない。
けれど、すぐに王宮へ戻るつもりもなかった。王女として育てられた自分がこの国をどう見ているのか。
王宮の中だけで考えていても、きっと答えは見つからない。だからアティシアはもう一度、旅に出ることにした。今度は逃げるためではない。自分の目で、この国を見るために。
そして、自分がこれからこの国とどう関わっていくのかを決めるために。
✴︎
「……熱い」
野営地に小さな鍋を置き、アティシアは木べらを握った。
鍋の中では、野菜と豆を煮込んだスープがぐつぐつと音を立てている。
焚き火の向こうには、夕暮れに染まった森が広がっていた。
数ヶ月前までなら、こんな場所で料理をしている自分など想像すらできなかった。
王宮にいた頃は、食事が出てくるのが当たり前だった。
皿を洗ったこともほとんどない。
薪を拾ったこともない。
洗濯だって、使用人がすべてやってくれていた。
けれど今は違う。
旅を続けるには、自分でやるしかない。
アティシアは鍋を覗き込み、少しだけ顔をしかめた。その隣でリゼが薪を並べている。以前よりも髪は伸び、表情も柔らかくなった。
地下施設にいた頃の何を言われても動じない無表情はもうほとんど見られない。
最近では、ほんの小さなことで笑うようにもなった。
「アティシア様」
「ん?」
「それは焦げています」
「……分かってる」
「昨日も同じことを言っていました」
「うるさいな」
リゼの口元が、ふっと緩んだ。
「ふふっ」
「……わ、笑わないでよ」
「すみません」
そう言いながら、リゼは明らかに笑っている。アティシアは頬を膨らませた。
以前のリゼなら、こんなやり取りそのものが存在しなかっただろう。
料理が焦げていると言われれば、ただ事実として受け入れていた。笑うこともなかった。
ましてや、からかうことなど。
アティシアはそんなリゼを見ながら自然と頬が緩み、笑っていた。
「……変わったよね」
「何がですか?」
「リゼが」
アティシアから変わったと言われたリゼは少し考えるように首を傾げた。
「そうでしょうか」
「うん。昔だったら、私が料理を失敗しても何も言わなかったでしょ」
「以前の私は、アティシア様の料理について意見を言う必要がないと判断していました」
「それ、今は必要だと思ってるの?」
「はい」
「どうして?」
リゼは少しだけ考えた。
そして、穏やかな声で答えた。
「アティシア様が、嫌な顔をするからです」
「……それだけ?」
「それだけではありません。アティシア様が美味しいものを食べていると、私も嬉しいです」
「そっかぁ、じゃあ、次は焦がさないようにする」
「お願いします」
リゼがペコリと頭を下げてそう言うと、アティシアは再び頬を膨らませた。
「でも、薪を入れすぎたのはリゼだからね」
「それは……私の判断ミスです」
「珍しい。ちゃんと認めるなんて……」
「……笑いましたね」
「うん、笑った」
「私も笑っていいですか?」
「もちろん」
✴︎
翌朝。
二人は川辺で洗濯をしていた。
水は冷たく、アティシアは布を握りながら肩を震わせる。
「冷たっ……!」
「もう少し水に慣らしてから入れたほうがいいです」
「分かってるよ」
「昨日も同じことを言っていました」
「あー、そういえばそうだったねぇ」
リゼが笑ったのを見て、アティシアもつられて思わず笑った。
洗濯物を絞り、木の枝にかけていく。
風が吹くたび、白い布が揺れた。
その光景を見ていると、不思議な気持ちになる。王女だった頃には、こんな時間を過ごすことなど考えもしなかった。
剣を握る。弓を引く。馬に乗る。
国のために戦う。
それが自分の役目だと思っていた。
けれど今は剣を握らない時間のほうが長い。
洗濯をして、料理をして、薪を拾って。
時には道端の草花を眺める。
そんな何でもない日々の中で、アティシアは少しずつ、自分が何を望んでいるのかを考えるようになっていた。
「アティシア様」
「なに?」
「王宮に戻らなくていいのですか?」
風に揺れる洗濯物を見ながらリゼが尋ねた。
アティシアはすぐには答えなかった。
王宮には、自分の部屋がある。父がいる。
かつて自分が信じていた場所がある。
そして自分には王位継承権が残されている。
王国は変わろうとしている。
だからこそ、自分にも責任がある。
でも——
「……まだ、分からない。王女に戻るのが嫌ってわけじゃない。でも、王女だからって理由だけで戻るのも違う気がする」
「……はい」
「私、ずっと王女だからって言われてきたんだ」
剣を教えられたときも戦場へ送られたときも国を守れと言われたときも。
いつだって、王女という言葉が先にあった。
「でも今は、自分で決めたい」
アティシアは川面を見る。
透明な水の向こうを小さな魚が泳いでいく。
「この国を守るのか」
「王女に戻るのか」
「別の形で国と関わるのか」
一つずつ、自分で選びたい。
リゼはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「アティシア様なら、大丈夫です」
「……根拠は?」
「ありません」
「え、ないの?」
「はい」
「でも、アティシア様はいつも自分で決めてきました」
リゼのその言葉にアティシアは目を瞬かせる。
「地下施設から私を連れ出したときも、私と一緒に生きると言ってくれたときも、全部アティシア様自身が決めたことです」
「……そっか。じゃあ、もう少し旅をしようかな。いろんな町を見て、いろんな人の話を聞いて、それでいつか答えが見つかったら……」
アティシアは空を見上げた。
雲の切れ間から、青い空が覗いている。
「そのとき、自分で決める」
「私は、どこへでもついていきます」
「……それ、ずるいよ」
「何がですか?」
「そんなこと言われたら、どこまでも一緒に行きたくなるじゃん」
リゼは少しだけ目を細めた。
「では、そうしましょう」
「……うん」
二人の間を、春の風が吹き抜ける。
かつてアティシアは、王女だった。
リゼは、兵器だった。けれど今は違う。
肩書きでも、番号でも、命令でもない。
ただ、自分達で選んだ道を歩いている。
アティシアは洗濯物を抱え、歩き出した。
「リゼ、薪拾ってきて」
「分かりました」
「あと、今日は私が料理するから」
「アティシア様、昨日も焦げましたよね」
「今日は大丈夫!」
「本当ですか?」
「……たぶん」
アティシアの不安そうな顔を見てリゼが笑う。
アティシアもつられて笑った。
二人の旅は、まだ終わらない。
王女ではない私。兵器ではないあなた。
そして——名前を持った二人の少女として。
これから先の未来を自分達の手で選んでいくために。




