第27話 名前を持つ少女達
王城の地下にある研究施設の扉がゆっくりと開いていく。
重い金属が擦れる音が、長い廊下の奥まで響いた。
——ゴォォ……と白い蒸気が、扉の隙間から流れ出す。
その向こうにあったのは、長い間、閉ざされていた部屋だった。
壁には無数の傷。床には古い拘束具。
使われなくなった医療器具。
そして、何列にも並んだ小さな部屋。アティシアはその光景を黙って見つめていた。
リゼも隣に立っている。
以前ならここは、リゼが『No.017』と呼ばれていた場所だった。
命令され、訓練され、戦場へ送られ、役に立たなくなれば処分される。そんな場所。
けれど今、その扉は開かれている。
「全区画の封鎖を解除します! 収容されている者をすべて外へ!」
兵士の声がその場に響き渡る。
しばらくして奥から、小さな足音が聞こえた。カツ。カツ。という音が近づいてくる。
最初に姿を現したのは、十歳にも満たない少女だった。
薄い服。細い腕。
首元には識別用の金属板が掛けられている。
そこには——003という数字が刻まれていた。
——003という数字が刻まれたその少女は明るい場所に出ると、目を細めた。
地下施設にはなかった光。
王城の窓から差し込む昼の光が、少女の顔を照らす。少女は片手で目を覆った。
「……まぶしい」
その言葉にアティシアの胸が締めつけられる。
「外は……こんなに明るいんですか?」
「うん」
アティシアはしゃがみ込んで、少女と目線を合わせた。
「ここから出ていいんだよ」
少女はしばらくアティシアを見つめた。
信じていいのか分からない。
そんな顔だった。
やがて少女は一歩、外へ踏み出した。
その後ろから、また一人、さらに一人。
少女たちが続いて出てくる。
「011、024、031、042」
兵士が確認するたび、番号が読み上げられる。少女達は、それに反応する。
名前を呼ばれていると思っているわけではない。自分が何者なのか、それを示す唯一の言葉だからだ。
「003」
「はい」
「011」
「はい……」
「024」
「……はい」
誰も、自分の名前を知らない。
アティシアは唇を噛んだそのとき隣から声がした。リゼが、少女達を見ていた。
その瞳には、悲しみが浮かんでいる。
けれど、以前のような無力感はなかった。
リゼは、一人の少女へ近づいた。
その少女はリゼを見て少しだけ後ずさる。
「……怖くないです。私はあなたを傷つけません」
少女は黙ってリゼを見ている。
リゼは無理に近づかなかった。
ただ、少し離れたところで立ち止まる。
「あなたは……何番ですか?」
リゼが尋ねるとリゼの前にいる少女は静かに答えた。
「私は003です」
「そうですか」
リゼは頷いた。
少女は、しばらくリゼを見つめる。
「あなたは、何番ですか?」
その質問にリゼの身体が、一瞬だけ固まった。胸の奥に遠い記憶が蘇る。
冷たい床。白い壁。拘束具。研究員の声。
『No.017』
何度も呼ばれて、何度も答えた。
それが自分だった。
それ以外には、何もなかった。
リゼは自分の胸元へ手を当てる。
少しだけ目を閉じた。
そして顔を上げる。
「私は——」
少女がリゼの言葉を待っている。
リゼは、ゆっくりと言った。
「リゼです」
「……リゼ?」
「はい。番号ではありません。私の名前です。実は私にも、昔は番号しかありませんでした。No.017。それが昔、私が呼ばれていた識別番号です」
リゼはその数字を口にしてももう、怖くなかった。
「でも、ある人が私に名前をくれました」
リゼはアティシアを見る。
アティシアは何も言わずに微笑んでいた。
「リゼという名前を」
「名前って……何ですか?」
「自分を呼ぶための言葉です」
「番号とは違うんですか?」
「違いますを番号は、誰かが私達を区別するためのものです」
「名前は……自分が自分でいるためのものです」
その言葉を聞いて、少女達の表情が少しずつ変わった。『003』と呼ばれていた少女が、自分の識別番号を見つめる。
「じゃあ……私も、名前がほしいです」
「そうですね」
リゼが微笑むと少女が顔を上げる。
「どんな名前がいいですか?」
「分かりません」
「そうですか」
リゼは少し考えた。
以前の自分も同じだった。
好きなものが何かも分からなかった。
どんな名前が好きなのかも分からなかった。
だからアティシアが教えてくれた。
好きなものを、一緒に探そうと言ってくれた。リゼは少女の前にしゃがむ。
「急がなくても大丈夫だと思います」
「……え?」
「あなたの名前です。あなたはなんと呼ばれたいですか?」
少女は黙り込んだ。
初めて自分自身について考えている。
何と呼ばれたいか、どんな名前がいいか。
それは命令ではない。
誰かに決められるものでもない。
「……考えても、いいんですか?」
「もちろんです。あなたが決めていいんです」
リゼは頷き返す。
少女は胸元の金属板を握った。
『003』これまで何度も自分を示してきた数字。けれど今はそれを外そうとしている。
「……取っても、いいの?」
「いいよ」
アティシアがそう答えると目の前の少女は震える手で金属板を外した。
小さな音を立てて金属板が床へと落ちる。
リゼがそれを見つめる。
かつて、自分も同じものを持っていた。
その数字がなくなったからといって、すぐに自分が誰なのか分かるわけではない。
でも、それでいい。これから探せばいい。
自分が何者なのか、何が好きなのか。
どこへ行きたいのか、誰と生きたいのか。
「名前…………私、花が好き」
少女の言葉を聞いてリゼの表情が柔らかくなる。
「花ですか?」
「施設の外にあるって、昔聞きました。だから……花の名前がいい……サクラ」
小さな声だった。
「サクラがいい」
「素敵な名前ですね」
「……本当に?」
「はい」
少女——いや、サクラは初めて笑った。
その笑顔を見てリゼは胸の奥が温かくなるのを感じた。
かつて自分も同じだった。
アティシアから名前をもらった夜。
何度も心の中で、その名前を呼んだ。
リゼ。リゼ。自分を呼ぶ声がある。
それだけで世界が少しだけ、自分のものになった気がした。
「リゼ」
「はい。なんですか? アティシア様」
リゼが振り返るとアティシアは笑っていた。
「……よかったね」
「はい、でも私が名前をもらったときより、もっと嬉しいです」
「どうして?」
「今度は、私が決めたわけではないからです。この子が、自分で選んだから」
リゼはサクラを見る。
「私がもらったものを、今度は別の誰かが自分で選べたことが……嬉しいです」
アティシアは静かに頷き返す。
「うん」
その後も少女たちは次々と施設の外へ出てきた。『011』そう呼ばれていた少女は空を見上げていた。
「空って……こんなに広いんですね」
「私も、最初は同じでした」
「そうなの?」
「はい」
少女たちの間に少しずつ笑い声が生まれていく。それは兵器を作るための施設では、決して聞くことのできなかった音だった。
泣き声でも、命令への返事でも。
戦闘訓練の掛け声でもない。ただの少女達の声だった。
アティシアはその光景を見ながら、リゼの隣に立つ。
「……ねえ、リゼ」
「はい」
「これから、どうなるんだろうね」
リゼは空を見上げた。
雲の向こうから、太陽の光が差している。
「分かりません」
「そっか」
「でも、きっと、これから決められます」
「自分で?」
「はい。私たちはもう兵器ではありませんから」
「うん、そうだね」
風が吹くたびに少女達の髪が揺れる。
誰かが自分の名前を探している。
誰かが、初めて空を見ている。
誰かが、初めて笑っている。
かつて番号だった少女達はこれから一人ずつ、自分の人生を選んでいく。
そしてその始まりに一人の少女がいた。
『No.017』そう呼ばれていた少女。
今はリゼという自分の名前を持つ、一人の少女。そしてリゼは自分に名前をくれたアティシアから受け取ったものを今度は、自分の手で次の少女へ渡していく。
名前は命令ではない。
誰かに決められるものでもない。
自分が、自分として生きるために選ぶもの。
少女達の未来はまだ、何も決まっていないのだから。




