第23話 父と娘
王国軍事研究機関・深層第一区画を後にした二人は地下通路から王城の城内に入り込み、兵士の目を掻い潜り、王城の最上階。かつてアティシア暮らしていた場所へ続く長い廊下を、二人は歩いていた。
足音が、石造りの壁に反響する。
カツ、カツ、と聞き慣れた音だった。
幼い頃、父に呼ばれて何度も歩いた廊下。
剣の稽古を終えたあと、汗を拭いながら通った道。
誕生日に侍女たちから祝われ、少しだけ浮かれた気分で歩いたこともあった。
今は、そのどれもが遠い記憶のように感じられる。歩きながら廊下の窓をチラリと見ると変以前と変わらない王都の風景がアティシアの青色の瞳に映る。
赤い屋根。白い石壁。
大通りを行き交う人々。王国の旗。
けれど、アティシアにはそれらが以前とは違って見えた。旅の途中で見た村の焼け跡。
崩れた家。畑に残っていた焦げた土。
父親を失った少年。そして、地下施設の白い部屋で番号だけを与えられていた少女達。
同じ国の景色なのに。
もう、同じ世界には見えなかった。
「……アティシア様」
隣を歩くリゼが、小さく名前を呼んだ。
アティシアはリゼから名前を呼ばれて振り向き、首を傾げる。
「どうしたの?」
「手が、冷たいです」
リゼからそう言われて、アティシアは自分の手を見る。確かに指先が震えていた。
怖いと思った。王城に戻ってきたことが怖いのではない。これから会う人が怖かった。
自分が幼い頃からずっと憧れ、尊敬し、そして今も完全には憎むことのできない父親。
アティシアは一度だけ息を吸った。
「……大丈夫」
「本当ですか?」
「うん。今度は一人じゃないから」
リゼは何も言わなかった。
ただ、アティシアの手をそっと握った。
強くはない。けれど、離さないという意思だけは伝わってきた。アティシアもその手を握り返す。
やがて、二人は大扉の前へ辿り着いた。
その向こうに父親であるこのアルヴィリア王国の国王がいる。
アティシアを見た兵士は少し驚いた顔をしたがアティシアが「開けてちょうだい」と一言告げると頷き、何も言うことなく兵士は扉を開けた。
扉は重い音とともにゆっくりと開き、巨大な謁見の間が姿を現す。
赤い絨毯に高い天井。
左右には並ぶ騎士達。そして、その奥には玉座に座る男。アルヴェリア王国の現国王であるアティシアの父親がいた。
国王であるラルドは立ち上がらなかった。
ただ、静かに娘であるアティシアを見つめていた。アティシアとリゼはそんなラルドが座る玉座の席の前へと歩み寄るなり足を止める。
「……久しぶりだな、アティシア」
その声は、アティシアがリゼと共に城から逃亡する前と変わらなかった。
幼い頃、剣の持ち方を教えてくれた声。
転んだアティシアを起こしてくれた声。
初めて弓を引いた日に、「よくやった」と笑ってくれた声。
その記憶が今になって胸を締めつける。
「……陛下」
それだけを口にするのが精一杯だった。
ラルドはしばらく娘を見つめていた。
やがて、その視線がリゼへ移る。
「No.017」
リゼの身体がわずかに強張った。
アティシアは一歩前へと出て、真っ直ぐにラルドを見据えた。
「……リゼです」
国王の眉が、ほんの少し動いた。
「名前を与えたのか?」
「はい」
「そうか」
それ以上、国王は何も言わなかった。怒鳴りもしない。剣を抜けとも命じない。
兵士達に捕らえろと命令することもしなかった。それが、かえってアティシアには怖かった。
「お父様は……私をどうするつもりですか?」
「何もしない」
「……え?」
「お前を殺すつもりはない」
「なら、どうして……」
「戻ってこい」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「お前はまだ、この国の王女だ」
アティシアの胸が痛む。
戻ることを何度も夢見た。
自分の部屋。柔らかなベッド。
温かな食事。侍女達。戻れば、何もかも以前のように戻れるのかもしれない。
けれど、アティシアは隣を見る。
そこにはリゼがいる。自分で名前を選び、自分で生きたいと言った少女。
海を見たいと言った。
村へ帰りたいと言った。
そして、そんな彼女はアティシアと一緒に生きたいと言った。
「……リゼも?」
「その少女については別だ」
「王国に返してもらう」
「嫌です」
アティシアは即座に答えた。
ラルドの眉が動く。
「なぜだ」
「リゼは、兵器じゃないからです」
「兵器だ。王国のために作られた。戦場で敵を倒すために生み出された存在だ」
「違います」
「何が違う?」
ラルドは玉座から立ち上がった。
ゆっくりと階段を降りてくる。
「アティシア、お前は何も知らない」
ラルドのその言葉にアティシアの胸がざわついた。
「国境では、毎日のように兵士が死んでいる」
ラルドの声には怒りではなく、疲労が混じっていた。
「周辺諸国との戦争は終わらない。土地も、鉱山も、食料も足りない。国境を守るための兵力も不足している。一つの戦争が終われば、次の国が攻めてくる。こちらが弱れば奪われる。奪われれば民が飢えるのだ。何もしなければこの国は滅びる」
その言葉には、国王としての確信があった。
自分が間違っているとは思っていない。
国を守るために必要だった。
そう信じている。
「だから、兵器人間を作った」
「……知っています」
「人間の兵士なら恐怖する。疲れる。傷つく。逃げることもある。だが、兵器なら違う」
リゼの緑色の瞳が、静かに国王を見返す。
「命令に従い、戦場へ行き、敵を殺し、帰ってくる。それによって何人もの兵士が死なずに済む」
「……それで、正しいと思っているんですか?」
「少なくとも、何もしないよりはな」
アティシアは唇を噛んだ。
昔の自分なら、きっと、何も言えなかった。
父の言葉はいつも正しかった。
王である父が国のことを考え、王女である自分がそれを支える。それが当たり前だった。
けれど今のアティシアには、知っていることがある。
「……お父様。私、旅をしました」
「知っている」
「王都の外を自分の足で歩きました。道中、焼けた村も見て、戦争で家族を失った人に会いました。王国軍に家を焼かれた人にも会いました」
ラルドの表情が、わずかに変わる。
「そして……兵器として生きることを強制された少女にも会いました」
リゼの指が、わずかに動いた。
「その少女は、最初、自分の名前すら知りませんでした。自分が何を食べたいのかも、どこへ行きたいのかも。何を見たいのかも分からなかった。でも……旅をしているうちに、変わったんです」
海を思い出す。
初めて海を見たときのリゼの顔。
パンを食べたときの小さな驚き。
村で子どもたちと過ごした時間。
リゼの名前を呼んだときに返ってきた声。
「笑うこともできる。悲しむこともできる。怖がることもできる。そして、生きたいと言える」
王の目がリゼへ向く。リゼは黙っていた。
けれど、その目はもう俯いていなかった。
「それでも……お父様はあの子を兵器だと言うんですか?」
「……」
「人間として生きたいと言っている子を」
アティシアの目に涙が浮かぶ。
それでも、逸らさなかった。
「国を守るためなら仕方ないって。私は昔、お父様に言われました」
アティシアは剣を握っていた。
幼い頃、父から渡された剣。
そのとき言われた言葉を思い出す。
「王族は国を守る盾でなければならないって」
「ああ」
「私、ずっと信じてました」
父のために剣を振った。
この国のために弓を引いた。
それが正しいと思っていた。
「でも……今は分かりません。国を守るって――誰を守ることなのですか?」
謁見の間が静まり返った。
誰も動かない。誰も口を挟めない。
国王の表情から、わずかに余裕が消えた。
「王国を守れば、民が生きられる。じゃあ、その民を兵器にしていいんですか?」
「……」
「家族を失った人たちは?」
「……」
「焼かれた村にいた人たちは?」
アティシアの声が震える。
「その人たちも、国を守るための犠牲だったんですか?」
ラルドは答えなかった。
その沈黙こそが、答えのように思えた。
「民を守るために、民を兵器にする。それを私は国を守ることだとは思いません」
ラルドは目を閉じた。
長い沈黙のあと、低い声が響く。
「……お前は、変わったな」
「はい」
「昔は、私の言うことを疑わなかった」
「昔の私は、何も知らなかったからです」
アティシアの言葉にラルドが目を開いて、アティシアを見つめる。
そこには怒りよりも、深い悲しみがあった。
「お前にこんなものを見せるつもりはなかった」
「でも、私は見ました」
「見なくてもよかった」
「いいえ、見てよかったです。リゼに会えたから」
リゼが小さく息を呑んだ。
ラルドは二人をしばらく見つめていた。
やがて、静かに問いかける。
「お前は王女であることを捨てるのか?」
アティシアはすぐには答えなかった。
王女。その言葉には父との思い出も国への責任もこれまでの人生も詰まっている。
簡単に捨てられるものではない。
だからこそ、アティシアは剣を抜いた
けれど、父へ向けることはしなかった。
自分の足元へ、ゆっくりと置く。
「私は、王女を捨てたいわけじゃありません。王女だからこそ、変えたいんです」
アティシアはまっすぐラルドを見た。
「誰かを兵器にしなければ守れない国なら……私は、そんな国を変えたい」
アティシアのその言葉に王は初めて目を伏せた。
「……そうか。ならばお前はもう……私の知っている娘ではないのだな」
ラルドの言葉にアティシアの胸が痛んだ。
それでも、逃げなかった。
「……私はもう、お父様が知っている私のままではいられません」
リゼがそっとアティシアの隣に立つ。
二人の影が、赤い絨毯の上に並んだ。王はその姿を見つめていた。
父と娘。王と王女。守る者と守られる者。
その関係は、もう以前と同じではない。
「……下がれ」
ラルドがそう言うと兵士達が動き出す。
アティシアは一瞬、身構えた。
だが王は続けた。
「今すぐに答えを出す必要はない」
「お父様……?」
「私にも、考える時間が必要だ」
ラルドは玉座へ戻っていく。
その背中は、以前よりずっと小さく見えた。
「だが、アティシア」
最後に一度だけ、父は振り返った。
「国を変えるというのなら……お前自身の答えを最後まで貫け」
アティシアは黙って頷いた。
そしてリゼと共に玉座の間を後にした。
玉座の間から出るとアティシアはようやく息を吐いた。
「……終わった」
「はい」
「怖かったですか?」
「……うん。すごく怖かった」
「私もです」
「リゼも?」
「はい」
リゼは優しくアティシアの手を握って、優しく笑った。
「でも、隣にいました」
「……うん」
二人は、閉じられた扉を振り返った。
まだ終わってはいない。
これからどうなるのかなんて、まだわからないけれど、何があってもリゼは守るとそう強くアティシアは心に誓った。




