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第19話 あなたの隣で

 

 夜が明ける頃。

 アティシアとリゼは、王都を見下ろせる丘の上に立っていた。

 眼下(がんか)には、巨大な城壁(じょうへき)が広がっている。灰色の石を積み上げて造られた城壁(じょうへき)。

 その向こうには、無数の建物と煙突(えんとつ)。さらに中心には、王国の象徴である王城がそびえている。

 白い尖塔(せんとう)が朝日を受けて輝いていた。


 幼い頃から、何度も見てきた景色だった。

 アティシアにとっては帰る場所だった。

 生まれた場所。育った場所。父王のいる場所。

 そして自分が捨てた場所。


「……近いですね」


 アティシアの隣でリゼが呟いた。


「うん」


 アティシアはそう反応したが、声が少しだけ震えていた。ここまで来れば、もう戻れない。

 王都へ入れば、父と向き合わなければならない。

 騎士団とも、王国軍とも。

 そして、王国が隠しているものとも。

 今までなら、そんなことを考えるだけで足が止まっていたかもしれない。



 けれど、アティシアは丘の下を見つめた。

 ここから先に進めば、すべてが変わる。

 もう逃げている王女ではいられない。

 自分が何を見たのか、何を知ったのか。

 何を守りたいのか。

 それを自分の言葉で伝えなければならない。


「アティシア様、怖いですか?」

「……うん。すごく怖い」

「私もです」

「リゼも?」

「はい」


 少し意外だった。

 リゼはいつも、恐怖を表に出さない。

 戦場でも。追手に囲まれたときも。

 自分の命が危険にさらされたときでさえ。

 けれど今は違った。

 リゼの指が、胸元の服をぎゅっと握っている。


「私は……自分が何なのか分からなくなってきました」

「……」

「私は兵器として作られました。それは分かっています」

「うん」

「でも……それだけではないのですよね? 


 リゼがアティシアを見る。


「名前をもらって」


 その瞳に、柔らかな光が宿った。


「パンを食べて」

「うん」

「海を見て」

「うん」

「村の子供たちと遊んで」

「……うん」

「そして、アティシア様と旅をして」


 リゼは一度、言葉を止めた。


「私は……たくさんのことを知りました」


 アティシアは何も言わずに聞いていた。


「兵器なら、こんなことを知る必要はなかったはずです」

「……そうだね」

「でも、私は知りたいと思いました。自分が何者なのか」


 風が吹き、二人の髪が揺れる。

 王都から吹いてくる風には、遠く街の匂いが混じっていた。


 アティシアはこれまでの旅を思い返した。

 最初に出会った地下施設。冷たい石の床。

 鉄格子(てつごうし)、傷だらけの少女。

 名前ではなく、番号で呼ばれていた。

 No.017。あのときのリゼは自分のことを兵器だと言った。


 痛みも、空腹も、恐怖も。

 必要がなければ、問題ではない。

 そう言っていた。


「……最初に会ったときのこと、覚えてる?」

「はい。アティシア様は私を見ていました」

「うん」

「他の人とは違いました」

「そうだった?」

「はい」


 リゼは小さく笑う。


「研究員は、私の性能を見ていました」


 リゼは指を一本立てる。


「身体能力、反射速度、戦闘能力。アティシア様はあの時、私の傷を見ました」


 アティシアは胸の奥が少し痛くなった。


「……あのときは、何もできなかった」

「でも、助けてくれました」

「うん」

「だから、私はここにいます」


 二人の間に、静かな時間が流れた。

 アティシアはふと笑う。


「そういえば、最初に一緒に食べたのってパンだったね」

「はい」

「すごく驚いてた」

「温かかったので」

「それだけ?」

「柔らかかったです」

「ふふっ」


 アティシアが笑うとリゼも笑った。

 リゼの柔らかい笑顔は地下施設にいた頃には決して見られなかった表情だった。


「海も見たね」

「はい」

「あのとき、リゼがなぜ見るのですかって聞いたよね」

「覚えています」

「私は見たいからって答えた」

「はい」


 リゼは王都の向こうを見る。

 海はここからでは見えない。

 けれど、二人にはその青さが思い浮かんだ。


「私も……見たいです」

「何を?」

「これから、まだ見たことのないものを」

「じゃあ、いっぱい見に行こう」

「はい」


 リゼが頷き返すと、アティシアはリゼの手をそっと取り優しく握った。リゼもアティシア手を握り返す。


「王都を出られたらね」

「……王都へ行くのに、王都を出る話をするのですか?」

「だって、戻ってこられないかもしれないし」

「それは困ります」

「え?」

「アティシア様とまだ行きたい場所があります」


 アティシアは一瞬、言葉を失った。


「……そっか」

「はい。だから帰ってきたいです」


 その言葉を聞いて、アティシアの胸が温かくなった。かつてリゼには、帰る場所などなかった。

 地下施設しか知らなかった。

 けれど今は違う。帰りたいと思える場所を、少しずつ自分達で作っている。


「初めて名前を呼んだときも、覚えてる?」

「はい」


 リゼは少しだけ頬を緩める。


「……リゼ」


 アティシアが名前を呼ぶ。

 それだけで、リゼの表情が柔らかくなる。


「はい」

「今も、名前を呼ばれるのは好き?」

「……好きです」

「よかった」


 アティシアは笑った。

 そして、もう一つの記憶を思い出す。

 初めて「一緒にいたい」と言った夜。

 帰還命令(きかんめいれい)を受けたあの日。

 リゼが王国へ戻ると言った。


 アティシアは、自分が何を望んでいるのか分からなくなった。王女として戻るのか。

 それとも、リゼと一緒に逃げるのか。

 最後に選んだのは――。


「……一緒に生きよう」


 あの日の言葉を、アティシアは小さく呟いた。


「はい。私はアティシア様と一緒に生きたいです」


 その瞬間、遠くから、低い音が響いた。

 馬の蹄(てい)、金属音。そして、兵士達の声。アティシアの表情が変わる。


「……来た」


 丘の下、街道(かいどう)を埋めるように、王国軍が進んでくる。

 その数は多い。

 昨日までとは比べものにならない。

 王都を守るための部隊まで動員されている。


「もう、ここまで来たんだ」


 アティシアは弓を背中から外した。

 矢筒(やづつ)を確認する。

 矢は十分に残っている。剣も腰にある。

 だが、手は震えていた。

 それでも、逃げようとは思わなかった。

 リゼが隣に立つ。


「アティシア様」

「うん」

「怖いです」

「私も」

「でも……」


 リゼは一歩、前へ出た。


「行きましょう」

「うん」


 二人は並んだ。

 かつては王女と兵器だった。

 一人は命令する側。

 一人は命令される側。

 守る者と、守られる者。

 けれど今は違う。アティシアは弓を構えた。


 リゼも拳を握る。

 どちらが命令するわけでもない。

 どちらか一人が犠牲になるわけでもない。

 互いに隣に立っている。自分の意思で。


「リゼ」

「はい」

「行こう」

「はい、アティシア様」


 二人は丘を下り始めた。

 目の前には、巨大な王都。

 背後には、これまで歩いてきた長い道。

 地下施設、街、焼けた村。

 海、小さな家、森。そして何度も追われた道。

 そのすべてが、二人の中に残っている。

 もう、あの頃には戻れない。

 戻る必要もない。アティシアは前を見た。

 王都の城門が、ゆっくりと近づいてくる。


 その向こうには、父がいる。

 王国の秘密がある。そして、リゼ自身が何者なのかを知るための答えもある。

 怖い。それでも隣にはリゼがいる。


「ねえ、リゼ」

「はい?」

「王都に着いたら……まず何をしたい?」


 リゼは少し考えた。


「……分かりません」

「そっか」

「でも、アティシア様の隣にいたいです」


 アティシアは少し驚いて、それから笑った。


「……私も」


 二人は歩く。王都へ。

 自分達の過去と向き合うために。

 王国が隠した真実を知るために。

 そして、これから先も一緒に生きるために。

 かつて『王女』と『兵器』だった二人はもう、その呼び方では自分達を縛らない。


 ただの二人の少女として互いの隣に立ち。

 自分達の意思で、未来へ進んでいく。

 王都の城門が目の前まで迫っていた。

 ここから先はもう逃げるだけではない。

 二人の旅は新しい段階へ入ろうとしていた。

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