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第16話 二人の約束


 夜が明ける少し前。

 雨上がりの森はまだ眠っていた。

 雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れた木々の葉を静かに照らしている。


 地面には無数の水滴が残っていた。

 風が吹くたびに、葉から落ちた雫が土へ吸い込まれていく。


 アティシアは、小屋の外に立っていた。

 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。

 昨日の夜から、ほとんど眠っていない。

 けれど、不思議と頭の中は昨日より静かだった。


 帰還命令、父のこと。王女としての生活。

 リゼを引き渡すという条件。

 何度考えても、胸の中に迷いは残っている。

 それでも、一つだけはっきりしたことがあった。

 リゼは絶対に置いていくことはできない。


 それが正しいのかは分からない。

 王女として正しい選択なのかも分からない。

 それでも、自分自身がそうしたくなかった。

 アティシアは腰に下げた剣へ手を添えた。

 幼い頃、父から教わった剣。

 王女として国を守るために握った剣。

 けれど今は誰かに決められた道を歩くためではなく、自分自身で道を選ぶためにこの剣を握っている。


「……アティシア様」


 後ろから声がして、振り返ると小屋の入口にリゼが立っていた。

 髪はまだ少し乱れていて、眠そうな顔をしていた。


「起きてたの?」

「はい」


 リゼはアティシアの隣まで歩いてくる。

 二人並んで森を見ると、朝の光が少しずつ強くなっていた。


「今日、兵士達が来ますね」

「うん」

「アティシア様は、決めましたか?」


 アティシアはすぐには答えなかった。

 遠くの木々を見つめる。

 その向こうにはアルヴィリア王国がある。

 王城も、父も、自分が生まれ育った場所も。

 全部、あの先にある。


「……うん、決めた。私は戻らない」


 その言葉を口にした瞬間。

 胸の奥にあった何かが、すっとほどけた気がした。怖くないわけではない。

 むしろ怖い。王国を敵に回すことになる。

 父とも、もう簡単には会えなくなる。

 これから先、どこへ行けばいいのかも分からない。安全な場所なんてない。それでも戻らない。


「……分かりました」

「リゼは?」

「私は……」


 リゼは言葉を止めた。

 以前なら、すぐにアティシア様に従いますと答えていただろう。けれど、今は違う。

 しばらく考えてから、リゼは自分の胸元へ手を置いた。


「私は、アティシア様と一緒にいたいです」

「……今、自分で決めた?」

「はい。誰かに命令されたわけではありません」


 その言葉を聞いて、アティシアの胸が温かくなる。

 初めてだった。リゼが、自分自身のために選んだ。


「そっか、ありがとう」

「どうして、お礼を言うのですか?」

「……嬉しかったから」


 リゼは少し考えるように黙った。

 そして、ほんの少しだけ笑った。


✴︎


 朝日が森を照らし始める。

 アティシアは荷物をまとめた。リゼも隣で準備をする。

 食料、水、毛布、火打(ひう)ち石。

 必要最低限のものだけを袋へ詰める。

 これらは王国へ戻るための荷物ではない。

 これから先も旅を続けるための荷物だった。


 アティシアは小屋の中を振り返った。

 ほんの一晩過ごしただけの場所。

 それでも、ここには昨日の迷いが残っているような気がした。


 戻るか、逃げるか。

 自分だけなら、きっと戻っていた。

 父に会いたい気持ちはまだ消えていない。

 城へ帰りたい気持ちもある。


 王女として生きてきた年月を、簡単に捨てられるはずもない。

 けれど、そのすべてを抱えたままでも、進むことはできる。そう思えるようになった。


「行こう。リゼ」

「はい」


 二人は小屋を出て、森の中を歩き始めた。


✴︎


 街道(かいどう)へ戻る。

 朝の光が、昨日までの雨で濡れた道を照らしていた。遠くから、馬の音が聞こえてくる。

 アティシアは立ち止まるとリゼも止まる。

 街道(かいどう)の向こうに、王国兵の姿が見えた。数人の騎兵だ。


 その後ろには、王国の旗がある。

 風に揺れる赤い旗。それはアティシアが生まれ育った国の象徴だった。


 胸が痛む。懐かしさもあったが同時に、地下施設の鉄格子(てつごうし)が頭に浮かぶ。

 ミナの傷、焼けた村、泣いていた子供。

 そして、名前を持たなかったリゼ。

 アティシアは剣の柄を握った。

 けれど、抜かなかった。


「リゼ」

「はい」

「走ろう」

「はい」


  二人は街道を外れて、草原へ入る。

  朝露(あさつゆ)が靴を濡らす中、背後から声が聞こえた。


「王女殿下!」


 アティシアは振り返らない。

 走る。リゼも隣を走る。

 以前なら、アティシアはリゼの前を走っていた。リゼを守るために。危険から遠ざけるために。


 けれど今は違った。二人は並んでいた。

 どちらかが前ではなく、どちらかが後ろでもない。

 同じ速度で、同じ方向へ。

 ただ、それだけだった。


✴︎


 昼頃。

 二人は森の奥まで逃げ込んだ。

 木々の間に小さな泉を見つけ、そこで足を止めた。水面(すいめん)には青い空が映っている。

 アティシアは泉の水をすくって飲んだ。


「……おいしい」


 リゼも同じように水を飲む。


「冷たいです」

「昨日の雨のおかげかな」


 二人は泉のそばに座った。

 互いにしばらく何も言わなかった。

 鳥の鳴き声、葉の揺れる音、水の流れる音が聞こえる。アティシアは水面を見つめた。


「ねえ、リゼ」

「はい」

「これから、どうなると思う?」

「分かりません」

「私も」


 二人で小さく笑った。

 未来なんて分からない。

 どこへ行けば安全なのかも、いつまで逃げ続ければいいのかも。

 王国がいつまで追ってくるのかも何一つ分からない。


 それでも、アティシアは、昨日までとは違う感覚を覚えていた。

 自分一人で未来を背負っているような苦しさがない。隣にリゼがいる。

 リゼもまた、自分の意思でここにいる。

 それだけで、少しだけ心強かった。


「私ね最初は、リゼを守らなきゃって思ってた」


 アティシアは水面を見ながら言った。

 リゼがこちらを見る。


「王女だからとか、私が助けたからとか、そういう理由で」

「はい」

「でも、今は違うと思う」


 アティシアはリゼを見る。


「私がリゼを守るんじゃない。一緒に生きよう」


 リゼの瞳が揺れた。

 その言葉を、理解しようとしているようだった。


「……一緒に?」

「うん」

「私だけが決めるんじゃなくて。リゼだけが私に合わせるんでもなくて」


 泉の水面(すいめん)へ、風が吹き、細かな波紋(はもん)が広がった。


「二人で決めよう」


 リゼはしばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと頷いた。


「……はい。私は……アティシア様と一緒に生きたいです」


 アティシアの胸が、静かに震えた。

 何度も聞いた「はい」という返事とは違う。

 命令への返答でもない。役割でもない。

 誰かに決められた答えでもない。

 リゼ自身が選んだ言葉だった。


「うん、じゃあ、約束ね」


 アティシアは笑った。

 そんなアティシアを見て、リゼの緑色の瞳が揺れる。


「約束……」

「うん」


 二人は向かい合うとアティシアが手を差し出す。以前、リゼに名前を与えたときと同じように。リゼはその手を見つめた。

 そして、ゆっくりと自分の手を重ねる。

 温かかった。


「一緒に生きよう」

「はい」


 リゼが答える。

 握った手は、すぐには離れなかった。

 王女と兵器。そんな呼び方は、もう二人の間には必要なかった。


 国が二人をどう呼ぶのかは分からない。

 王国が二人をどう扱うのかも分からない。

 この先、何度追われるのか。何を失うのか。

 何を選ばなければならないのか、まだ何も分からない。 


 それでも二人は立ち上がった。

 泉の向こうへ続く森の道を見つめる。

 アティシアが一歩踏み出す。

 リゼもその後に続く。

 やがて、その歩幅(ほはば)は自然と重なった。

 どちらかが相手を引っ張るのではない。


 どちらかが相手についていくのでもない。

 二人で歩く。

 それが、今の二人にとっての答えだった。


 朝の雨に洗(あら)われた空はどこまでも青かった。

 その先に何が待っているのかはまだ、誰にも分からない。

 けれど、二人ならその先へ進んでいける気がした。

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