第15話 帰還命令
その日の午後、雨が降り始めた。
森を抜けた先に広がる草原は、灰色の雲に覆われていた。
細かな雨粒が草の葉を濡らし、風が吹くたびに水滴がこぼれていく。
アティシアとリゼは、街道から少し離れた場所に建つ古い小屋へ逃げ込んでいた。
屋根には穴が空いており、壁もところどころ腐っていた。
それでも、外で雨に打たれ続けるよりはましだった。
アティシアは入口のそばに座り、濡れた髪を布で拭いていた。リゼは火を起こしている。
乾いた薪を集め、火打ち石を打つ。
小さな火花が散る。一度、二度、三度。
やがて薪の隙間から小さな炎が生まれた。
橙色の光が、暗い小屋の中を少しずつ照らしていく。
「……寒いね」
「はい」
「もう少し火を大きくできそう?」
「できます」
リゼは薪を足した。
炎が大きくなり、二人の顔を照らす。
アティシアは両手を火へかざした。
温かい。けれどその温かさとは反対に、胸の奥は妙に冷えていた。
ここ数日、ずっと考えていることがある。
父のこと、王国のこと、兵器人間のこと。
そして、自分がこれからどうするのか。
考えても考えても答えは出なかった。
そんなときだった。
――ヒヒンッ。
外から馬の嘶きが聞こえた。
アティシアが顔を上げる。
リゼも同時に振り向いた。
雨音に混じって、複数の蹄の音が近づいてくる。
一頭ではない。二頭、三頭。
さらに、その後ろにも何頭かいる。
アティシアの手が、自然と腰の剣へ伸びた。
リゼも立ち上がり、小屋の中から外を覗く。
雨の向こうに、鎧を着た兵士たちの姿が見えた。
その瞬間、アティシアには分かった。
王国軍だ。やがて、小屋の前で馬が止まり、兵士の一人が前へ出た。
「アティシア王女殿下!」
その声を聞いた瞬間、アティシアの身体が固まった。
城にいた頃は、毎日のように聞いていた呼び方だった。
今では、それが自分を過去へ引き戻す言葉に聞こえる。
「王国より、正式な帰還命令が下されました! 王女殿下が王都へお戻りになるのであれば、今回の逃亡について罪には問わないとのことです。王女としての身分も、そのまま保証されます!」
その言葉に、アティシアの胸が大きく揺れた。
王女としての身分に安全な生活。
すべてが戻ってくる。
けれど兵士は最後に、はっきりと告げた。
「ただし――兵器人間、No.017については、こちらへ引き渡していただきます」
アティシアの視線が、隣へ向いた。
リゼは黙って立っていた。
顔にはほとんど表情がない。
けれど、握りしめた手だけがわずかに震えている。
「……それだけ?」
「はい」
「私が戻ったら、リゼには何をするの?」
兵士は一瞬だけ沈黙した。
「王国の施設へ戻します」
「施設って……地下施設?」
「詳細については、私どもには知らされておりません」
「……そう」
アティシアは俯いた。
兵士は続ける。
「返答は明朝までにお願いします」
「どうして、そんなに待ってくれるの?」
「陛下からの命令です。王女殿下には、十分に考える時間を与えよ、と」
その言葉を聞かなくても、誰の命令なのか分かった。
兵士たちはそれ以上何も言わず、雨の中へ戻っていった。
馬の蹄が遠ざかっていく。
やがて走り去って行く馬の足音が消え、残ったのは雨の音だけだった。
✴︎
アティシアはしばらく動けなかった。
戻れる。その言葉だけが頭の中を何度も巡っている。
戻ればいい。王女として城へ戻ればいい。
暖かい部屋がある。食事も用意される。
服も、ベッドも、侍女も、護衛も。
もう追われる必要はない。
森の中で野宿する必要もない。
盗賊に襲われる心配もなければ、雨の中を歩く必要もない。
そして、父に会える。
幼い頃、自分の手を握ってくれた父。
剣を教えてくれた父。
転んだ自分を抱き起こしてくれた父。
あの人のところへ戻れる。
ただし、リゼを渡せば。
「…………」
アティシアは両手を膝の上で握った。
自分だけなら、戻ってもいいのかもしれない。むしろ、戻るべきなのかもしれない。
自分は王女だ。王国を捨てて逃げ続けることが、本当に正しいのか。
城へ戻って、父と話して。
王国の中から変えていく方法だってあるかもしれない。そう考える自分もいた。
けれど、リゼを渡す。
その瞬間、あの地下施設へ戻される。
番号で呼ばれて、命令される。
戦う、殺す。
そして、いつかまた処分されるかもしれない。アティシアは目を閉じた。
初めて出会った日のリゼを思い出す。
鉄格子の向こうにいた少女。
傷だらけの身体。
名前すら持っていなかった。
あの少女に、自分は名前を与えた。
リゼ。自分が初めて彼女に与えたものだった。
それを今、アティシアは自分の手で彼女から奪い、王国に返そうとしている。
「……嫌だ」
小さな声が漏れた。自分でも驚いた。
何が嫌なのか、考えるより先に言葉が出ていた。
「私は……リゼを置いて帰るのは……嫌」
✴︎
夜になり、雨は弱くなっていた。
小屋の外から、時々水滴が落ちる音が聞こえる。
リゼは壁にもたれて座っていた。
アティシアは向かい側で膝を抱えている。
火は小さくなってきていた。
「アティシア様」
「……なに?」
「明日、王国へ戻りますか?」
アティシアは答えられなかった。
「……分からない」
「そうですか」
リゼはそれ以上何も言わなかった。
少しして、リゼは静かに口を開いた。
「アティシア様が帰りたいなら、私は戻ります」
リゼのその言葉にアティシアが顔を上げる。
「……え?」
「アティシア様が王国へ戻るのであれば、私も戻ります」
「駄目だよ」
アティシアは思わず強い声を出していた。
そんなアティシアにリゼが目を瞬かせる。
「どうして?」
「だって……リゼは……」
言葉が続かない。戻ったら、どうなるのか。
分からない。でも、良いことにはならない。
「私は兵器です。王国へ戻ることが、私の役目です」
「違う!」
アティシアは立ち上がった。
「もう、そんな言い方しないで!」
小屋の中にアティシアの声が響き、リゼが黙る。
アティシアは自分でも驚いていた。
怒っている。悲しい。怖い。
いろんな感情が一緒になって、胸の奥から溢れてくる。
「リゼは兵器じゃない」
「……」
「私はそう思ってる」
「ですが、私は――」
「違う!」
また声が大きくなり、アティシアは唇を噛んだ。そして、ゆっくり座り直した。
「……ごめん」
そんなアティシアにリゼは首を横に振った。
「謝らなくていいです」
「でも……」
「私は、王女様が帰りたいなら、それでいいと思っています」
「リゼは、それでいいの?」
「分かりません」
「以前なら、何も考えませんでした。命令されたら従うだけでしたから」
焚き火を挟んだ向かい側で、リゼの瞳はゆらゆら揺れている炎を映していた。
「でも、今は少し違います」
「……どう違うの?」
「分かりません」
また同じ答えだった。
けれど、その分からないは、以前のものとは違っていた。
分からないからこそ、自分で考えようとしている。
「海を見たとき、私はもっと見たいと思いました」
「……うん」
「村にいたときは、またあそこへ戻りたいと思いました」
「うん」
「アティシア様と一緒にいる時間も……嫌ではありません」
「それ、嫌じゃないって言い方なの?」
アティシアは少しだけ笑ってそう返すと、リゼは眉間に眉を寄せて少し考え込んだ後、首を横に振った。
「まだ、上手く言えません」
「そっか」
アティシアは火を見つめた。
焚き火の炎の向こうで、リゼの姿が揺れている。
名前を持たなかった少女。
今は自分で分からないと言えるようになった少女。
そんなリゼを見ながらアティシアもまた、自分自身へ問いかけた。
私は何がしたい? 王女へ戻りたいのか。
父のところへ帰りたいのか。
それとも、この少女と一緒にいたいのか。
「……リゼ」
「はい」
「私は、あなたをどうしたいんだろう」
リゼは答えなかった。
ただ、静かにアティシアを見つめている。
「助けたいだけなのかな」
自分に問いかけるように、アティシアは続けた。
「最初はそうだったと思う。処分されるって聞いて……死んでほしくなくて。それだけだった」
けれど、いつからか朝、隣で目を覚ますことが嬉しくなった。
食事を一緒にすることが当たり前になった。
海を見たとき、隣にリゼがいてほしいと思った。
村を離れるときも、旅の途中で笑ったときも、苦しいときも。ずっと隣にいてほしかった。
「……私、リゼと一緒にいたい」
ようやく出てきた言葉だった。
リゼの目が少しだけ見開かれる。
「王女としてじゃなくて私自身が、そう思ってる」
リゼは何も言わなかった。
けれど、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。
「……はい」
それだけだった。
それだけなのにアティシアの胸は、不思議なくらい温かくなった。
気付かない内に雨はいつの間にか止んでおり、小屋の隙間から夜の冷たい空気が流れ込んでくる。
明日の朝。
王国からの兵士達が、答えを聞きに来る。
王女として戻るのか。
それともリゼと共にに、もう一度逃げるのか。まだ、決められない。
けれど一つだけ。
アティシアの中で、確かなものが生まれていた。
——リゼを、置いていきたくない。
その気持ちだけはもう、誤魔化せなかった。




