第14話 父王
リゼと同じ兵器人間の少女と別れてから数日経った。
朝になりつつあるが、まだ薄暗い。
森の木々の間から差し込む光は弱く、夜露に濡れた葉が白く光っている。
焚き火はすっかり消えていた。
灰の中に残った炭を枝でつつくと、かすかな煙が立ち上る。
アティシアはその前にしゃがみ込み、昨夜のことを思い返していた。
眠っているリゼの横顔を見る。
昔のリゼなら、眠っているときでさえ隙がなかった。
小さな物音にも反応し、いつでも戦えるように身体を緊張させていた。
けれど今は違う。
毛布にくるまり、静かに眠っている。
それだけのことが、アティシアには不思議で仕方なかった。
兵器ではなく、人間として眠っている。
そんな当たり前の姿を見られるようになったことが、嬉しかった。
アティシアは立ち上がり、朝食の準備を始めた。火を起こし、水を汲む。
そして固くなったパンを切る。
以前なら誰かがやってくれたことを、今では自分の手で行う。
その途中でふと、小型のナイフを握る自分の手が目に入った。
傷の残る手。剣を握り続けて硬くなった掌。
その手を見つめていると、昔の記憶が突然蘇った。
✴︎
幼い頃。
まだ、アティシアが小さな子供だった頃のこと。王城の中庭には、朝露が残っていた。
白い石畳の上を裸足で歩くと、冷たい。
けれど、その日はそんなことを気にする余裕もなかった。両手で木剣を握っていたからだ。
木刀は重い。腕が震える。
何度構え直しても、剣先が下がってしまう。
「もう、無理……」
幼いアティシアは涙を堪えながら呟いた。
目の前にいる男は、そんな娘をじっと見つめていた。
アティシアを見ていた男はアルヴェリア王国の国王。そして、自分の父親。
父は、戦場では恐れられていた。
他国からは冷酷な王と呼ばれていたらしい。
けれど、幼いアティシアにとってはただの父親だった。
剣を持つ手が痛くなれば休ませてくれた。
転べば手を差し出してくれた。
上手くできない日には、何度でも同じ動きを見せてくれた。
その大きな手に、自分の小さな手を重ねると父親の手は温かかった。
「もう一度」
父親の優しい声にアティシアは唇を尖らせながら、木剣を構え直すと父が後ろから腕の位置を直してくれる。
肩の力を抜く、足を開く、視線を前へ。
ひとつひとつ、教えてくれた。
剣を振り、空を切る音が聞こえた。
今度は少しだけ綺麗に振れたような気がした。
父の顔を見ると父は穏やかな笑みを浮かべていた。そんな父親の笑顔が、幼いアティシアは好きだった。
「よくできたな」
その一言だけで、疲れが全部消えてしまう。
もっと頑張ろうと思えた。
父に褒めてもらいたかった。
父のようになりたかった。
そしてある日、稽古の終わりに、父はアティシアの頭へ手を置いた。大きな手のひらだった。
「お前が国を守るんだ」
その言葉を、アティシアは疑わなかった。
父が言うのなら、それが正しいのだと思った。
王族は国を守る。
王女である自分も、いつか国を守る。
だから剣を握り、弓を引き、強くなる。
それは、父から与えられた愛情なのだと思っていた。
剣を教えてくれたことも、戦う意味を教えてくれたことも、王女としての責任を教えてくれたことも。全部だ。
自分を大切に思ってくれているからこそ、父は教えてくれたのだと思っていた。
✴︎
薪が爆ぜる音で、アティシアは現実へ戻った。小さな炎が揺れている。
目の前にあるのは森だった。王城ではない。
父もいない。あるのは、簡素な荷物とまだ眠っているリゼだけ。
アティシアは無意識に自分の手を握った。
昔、父に握ってもらった手。
今では、その手で剣を握る。
その剣で、父が追っ手へと向かわせた兵士達と戦った。
王城から逃げた夜、追っ手の足元へ矢を放った。そして門を突破し、森へ逃げた。
その後も何度も追われた。
父は、まだ自分たちを探している。
王女を連れ戻すため。
そして、兵器であるリゼを取り戻すため。
それを知るたびに胸が痛んだ。
父は自分を殺そうとしているわけではない。
きっと、父にとっては連れ戻すだけなのだ。
王女を王城へ。兵器を軍事施設へ。
それが正しいことだと思っている。
だからこそ、苦しかった。
もし父が最初から冷たい人間だったなら、もし幼い頃から自分を道具のように扱っていたなら、こんなに迷うことはなかったのかもしれない。
優しかった。大切にしてくれた。
剣を教えてくれた。
転んだ自分を抱き起こしてくれた。
そんな記憶があるから、今の父を簡単に嫌いになることができない。
✴︎
朝食を終え、二人は森を抜ける道を歩いていた。
アティシアがふと空は見上げる薄い灰色だった。雨が降るかもしれない。
アティシアは空を歩く速度を少し落とした。
隣を歩くリゼが、それに合わせる。
以前なら、そんなことはなかった。
リゼは命令された速度で歩いていた。
今は違う。アティシアの歩幅を見て、自分の歩幅を変えている。
それだけの変化が、アティシアには嬉しかった。
しばらく歩いていると、リゼがこちらを見た。何かを考えている顔だった。
「……アティシア様は、お父様のことが嫌いですか?」
「えっ……? いきなりどうしたの?」
「いや、少し気になったので……」
唐突だった。
けれど、アティシアはすぐに答えられなかった。
森の中を風が抜けていく。
木々の葉が擦れ合い、遠くで鳥が鳴いた。
アティシアは前を向いたまま歩き続ける。
父の顔が浮かぶ。
幼い自分の手を握る大きな手。
木剣を構える自分を見守る目。
転んだ自分を起こしてくれた腕。
そして、地下施設で見た兵器人間達。
追ってくる兵士達。
自分を連れ戻そうとしている父。
いくつもの記憶が重なって、胸の中で絡まっていく。
「……分からない」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
リゼは何も言わなかった。
ただ、アティシアの隣を歩いている。
その沈黙が今のアティシアにとってはありがたかった。
「昔は、好きだったと思う。優しい父親だったから」
声に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。
嫌いだと言えたら、どれほど楽だっただろう。
最初から自分も兵器人間も道具として見ていたのだとそう思えれば、迷う必要なんてない。
けれど、幼い日の記憶まで嘘にはできなかった。
あの日の温かさは本物だった。
父が笑ってくれたことも、剣を教えてくれたことも、自分を抱き上げてくれたことも、全部、本当にあったことだった。
だからアティシアは、父を嫌いになりきれない。
そして同時に、今の父をそのまま受け入れることもできなかった。
「……私が知っている父と、今の父が、同じ人なのか分からなくなるの」
リゼは静かにアティシアを見た。
アティシアは笑おうとしたが上手く笑えなかった。
「私のことを大切にしてくれていた人が、今は私たちを追ってる」
言葉にすると、その事実は思っていた以上に重かった。
アティシアが視線を落とすと道の上に、小さな花が咲いているのが目に入った。
誰にも踏まれず、森の隙間から伸びていた。
その花を避けて歩く。
昔の自分なら、そんなことを考えもしなかっただろう。
与えられた道を歩いて、命じられた通りに剣を振る。それが正しいと思っていた。
けれど、今は違う。
自分で考えなければならない。
何を守るのか。誰を守るのか。
そして父とどう向き合うのか。
答えはまだ出ていない。
ただ一つだけ分かっていることがある。
もう、昔の自分には戻れない。
リゼと出会って、外の世界を知って。
王国が残した傷を見て、兵器人間達の存在を知ってしまった。
それでも父を愛しているのか、それともいつか憎むのか。アティシア自身にも分からない。
ただ、幼い頃に握ってもらった父の手の温かさだけは今もはっきり覚えていた。
だからこそ、いつか父と向き合う日が来たとき、自分は王女としてではなく一人の娘として父の目を見るのだろう。
その日が近い未来に来ることを、このときのアティシアはまだ知らなかった。




