第52話 下町の口を封じる者たち
王都の下町は、夜になると本音を隠さなくなる。
昼間は商人が笑い、役人が歩き、噂が噂の顔をして流れる。
だが夜は違う。
店の戸が半分閉まり、酒場の灯りが低くなり、路地の奥にいる人間の息遣いまで見えてくる。
そして今夜の下町には、はっきりと怯えがあった。
「また来るのかな」
《三つ足カラス亭》の裏手、小さな物置を片づけて作った仮の隠れ部屋で、若い荷運びのガルスがそう呟いた。
昼間、公爵派の口封じ役に狙われた男だ。
今は簡素な寝台に腰を下ろし、まだ落ち着かない目で戸の方を気にしている。
ノアがその前にしゃがみ、静かに言う。
「来るわ」
「……」
「でも、だからこそ先に動くの」
その声は優しい。
だが、優しいだけではない。現実をぼかさない強さがある。
「あなた一人の話じゃないの。今、王都の下町で“何か見た人”“何か知ってる人”は、みんな同じように狙われ始めてる」
「俺みたいなのが、そんな」
「あなたみたいなのが、よ」
ノアははっきり言った。
「上の連中は、自分の言葉で街を動かせない時、現場を知ってる人から口を潰すの」
「……」
ガルスは黙り込む。
怯えている。
だが、逃げたいだけの顔ではない。
昼間エレオノーラに言われた“あなたが黙れば、次も同じことが起こる”という言葉が、まだ胸に残っている顔だった。
ミアはその隣で、地図というほどでもない下町の走り書きを広げている。
「ここと、ここ、それからこっち」
「何?」
ノアが見る。
「獣人の子たちが最近急に姿を消したって言われてる辺り。あと、地下市場から助かった子が“前にも見た顔がいた”って言ってた路地」
「……近いわね」
「うん。全部、北裏通りの周辺」
北裏通り。
王都の下町の中でも、宿場と荷捌き場と安酒場が混ざる一角。
貧しさが濃く、だが人の出入りは多い。
つまり、“紛れやすく、消えやすい”場所だ。
エレオノーラが卓の前で腕を組む。
「公爵派が証言者を拾いに来るなら、あの辺りが起点になります」
「王都ギルドからも近い」
リリィが言う。
「雑務係とか伝票係の下っ端が脅されるのも、あのあたりだと自然です」
「だったら、先に拾う」
龍真が低く言う。
今夜の“一家”は二手に分かれていた。
ノアとミアは、獣人ネットワークと下町の口伝を頼りに、狙われそうな証言者や行方不明者の家を回る。
リリィはギルド側の末端で“次に切られそうな人間”を洗い出す。
エレオノーラは守備隊筋の動きと公的な巡回の穴を見る。
龍真は、その全部の間を繋ぎながら、実際に出てきた口封じ役を叩く。
王女セレスティアが表で牙を剥いた今、下町では裏が一気に濁り始めている。
なら、こちらもただ追うだけでは遅い。
先に拾い、守り、必要なら叩く。
それが今夜の方針だった。
「リリィ」
龍真が呼ぶ。
「はい」
「次に切られそうなのは」
「三人います」
彼女は帳面を開いた。
「一人は昼間のガルスさんみたいな、荷運び筋。もう一人は王都ギルドの夜間清掃係。地下市場の別処理案件の荷札を見てた可能性がある」
「あと一人は?」
「北裏通りの古道具屋の婆さんです」
「婆さん?」
ミアが目を丸くする。
リリィは頷いた。
「この人、前に地下市場へ流れる荷の中に“妙に高価な女物の飾り”が混ざってるって酒場で愚痴ってたらしいんです」
「それだけで?」
ノアが問う。
「王都の口封じって、そういう“酔って言ったこと”まで拾うんです。特に今は公爵派が焦ってるから」
「胸くそ悪ぃな」
龍真が言う。
「ええ。だから、放っておくと本当にやられます」
エレオノーラが地図を指す。
「順に回ります。古道具屋、清掃係の長屋、そして北裏通りの荷運び溜まり」
「一晩で全部?」
ミアが言う。
「やるしかありません」
「ですよね」
王都の夜は、考える時間をくれない。
最初に向かった古道具屋は、北裏通りの入口近くにあった。
小さく、薄暗く、表の店先には壊れた燭台や欠けた皿が並んでいる。
店主の老婆は最初、戸を開けなかった。
「知らないよ、あたしゃ何も」
中からしゃがれた声がする。
だが、ノアが静かに言った。
「昼のうちに二人、店の前を見に来たでしょ」
「……」
「一人は商会の下働きみたいな服。もう一人は役人崩れの歩き方」
「……」
沈黙のあと、戸が少しだけ開いた。
顔を出した老婆は、思ったより目が生きていた。
ただ怯えているだけではない。“やっぱり来たか”という顔だった。
「若いのに、よく見てるね」
「見てないと生き残れないから」
ノアが答える。
「ふん……いい答えだよ」
老婆は中へ入れた。
話は早かった。
数日前から、店の前に知らない顔が立つ。
夜になると、古道具の山を誰かが勝手に漁る。
しかも昨日からは、“余計なことを思い出すな”という置き手紙まで来た。
「思い出すな、って何を」
ミアが聞く。
老婆は鼻を鳴らした。
「昔からあるんだよ。高価なもんが、表の店じゃなく、妙に地味な荷に紛れて流れることがね」
「飾り物?」
リリィが聞く。
「そうさ。女の首飾り、貴族の紋章の入った化粧箱、香油瓶、そういうの」
「地下市場の“商品”についてた可能性がある」
エレオノーラが低く言う。
老婆はリリィをじっと見た。
「お嬢ちゃん、顔に出るね」
「えっ」
「今、“やっぱり”って顔したよ」
「う……」
「当たりだろ」
老婆は吐き捨てるように言う。
「でなきゃ、わざわざあたしみたいな婆ぁに口止めなんざしない」
古道具屋の老婆も、保護対象に加わった。
次に向かった長屋では、もっと露骨だった。
清掃係の青年は、すでに部屋が荒らされていた。
窓は割れ、寝床は引き裂かれ、本人はいない。
「遅かった……?」
ミアが言う。
だがノアは床を見た。
「違う。血がない」
「攫われた?」
「いや」
エレオノーラが外へ飛び出し、路地の泥と足跡を一目で追った。
「逃げています。自分で」
「どっちだ」
龍真が聞く。
「東。市場裏の細道です」
「追うぞ」
そこからは速かった。
王都の夜の細路地を、龍真たちは駆ける。
市場裏、洗濯場、井戸脇、木箱の積み場。
逃げる青年の気配は弱い。
だが、それを追う別の足音もはっきりしていた。
「先にいる!」
ミアが耳を立てて叫ぶ。
次の角を曲がった瞬間、見えた。
痩せた青年が壁際に追い込まれている。
前に二人。
後ろに一人。
口封じ役だ。
「言ったよな」
男の一人が低く言う。
「見たことを忘れろって」
「お、俺は何も見てない!」
「だったら逃げるなよ」
「……っ」
青年の顔は青ざめていた。
だが完全に折れてはいない。
それが逆に危ない。
「おい」
龍真が言った。
男たちが一斉に振り向く。
「またお前か」
「お前らも好きだな、夜の下町が」
「……この件にこれ以上首を突っ込むな、水戸龍真」
「断る」
即答だった。
今度の連中は、昼間より最初から殺気が強い。
もう“脅して帰す”段階ではない。
最初の反撃で様子を見て、次からは本気。
公爵派のやり方が、一段上がったのだ。
男の一人が短剣を抜く。
もう一人は細い棍棒。
最後の一人は投げ具持ち。
「下町で暴れて、ますます王都の敵になる気か」
男が言う。
「最初からてめえらが暴れてんだろうが」
龍真の声が低く沈む。
「弱ぇやつ脅して、攫って、黙らせて。それで“王都のため”って顔してんじゃねえよ」
「綺麗事だ」
「綺麗事で結構」
次の瞬間、龍真が踏み込んだ。
狭い路地。
村正を抜くには十分。
大振りはいらない。
短剣持ちの手首を打ち、棍棒持ちの顎を跳ね上げ、投げ具持ちが二発目を投げる前に壁へ叩きつける。
三人とも、強くはない。
だが“こういう仕事”に慣れているのが分かる。
だから余計に腹が立つ。
エレオノーラも横から入り、逃げ道を切る。
ミアとノアは青年を引き寄せた。
「怪我は!?」
「だ、大丈夫……!」
「本当に?」
「ひ、肘だけ……!」
「じゃあ走れるね」
「えっ」
「走れるなら走る。ここで止まらない」
ノアの声には無駄がなかった。
男の一人が、倒れながらなお言った。
「……お前ら、下町の口を全部守れると思うなよ」
「守るさ」
龍真が低く返す。
「全部は無理でも、てめえらが好き勝手できるほど甘くはしねえ」
その言葉を聞いた青年が、震えながら龍真を見る。
下町の人間は、こういう言葉に弱い。
大きな理想や正義ではない。
“全部は無理でも、好き勝手はさせない”という現実的な強さ。
それが一番、信じやすいのだ。
《三つ足カラス亭》へ戻る頃には、もう夜は深かった。
古道具屋の老婆。
清掃係の青年。
昼間狙われた荷運びのガルス。
さらに、ミアたちが別働きで拾ってきた獣人の姉弟。
裏の小部屋はもう保護した人間でいっぱいになりかけていた。
「……すごいね」
ミアが小さく言う。
「何が」
龍真が聞く。
「なんかもう、“ただの宿”じゃなくなってきた」
「ええ」
ノアも静かに笑う。
「避難所に近い」
「王都で初めて、私たちが守る側の拠点を持った感じですね」
リリィも言う。
エレオノーラは部屋の隅で、保護対象の配置と見張りの順を考えていた。
騎士として。
そして今は、それだけでなく“一家の現場の柱”として。
「ここから先、もっと増えます」
彼女が言う。
「証言できる者、狙われる者、行き場を失う者」
「だろうな」
龍真が答える。
カティアは窓から外を見ながら小さく息を吐く。
「下町でここまで堂々と“守る側”に回ったら、もう王都はあなたたちをただの危険人物では見られなくなるわ」
「いい方にか?」
ノアが問う。
「両方よ」
カティアは振り返った。
「公爵派や上流から見れば、ますます危険。だけど下町から見れば、“あの連中のところへ行けば消されずに済むかもしれない”って思われ始める」
「……それ、重いね」
ミアが呟く。
「ええ。すごく重いわ」
「でも、嫌じゃない」
ミアは小さく言った。
龍真はそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「そうか」
「うん。だって、やっと王都でも“守る側”になれた気がする」
「最初からそうだろ」
「そうなんだけど、なんか今日はちゃんと実感した」
確かにそうだった。
地下市場を壊した。
裏邸宅から黒帳簿を奪った。
王女の側に立った。
それは全部大きな戦いだったが、どこか“敵を追う”側の物語でもあった。
だが今は違う。
下町の一角に、守る場所ができ始めている。
脅された者が逃げ込める場所。
証言者が息をつける場所。
獣人も人間も、とりあえず今夜を越えられる場所。
それはまだ小さい。
だが確かに、“一家”が王都で持った最初の拠点だった。
そして、公爵派にとってもそれは十分に脅威になる。
龍真たちはもう、ただ裏を嗅ぎ回る流れ者ではない。
王都の下町で、守る側として根を張り始めている。
それは、いずれ王都そのものを揺らす力へ変わっていく最初の芽だった。




