第43話 女騎士、ついに公爵家へ剣を向ける
夜の王都は、昼よりも音が少ない。
人がいなくなるわけではない。
酒場はまだ賑わっているし、商会街の裏では荷車も動く。
だが、昼の王都が“見せるための街”だとすれば、夜の王都は“隠すための街”だ。
その隠された静けさの中を、エレオノーラは一人で歩いていた。
王都西区画。
裏邸宅の偵察を終えた帰り道だ。
龍真たちは一度《三つ足カラス亭》へ戻り、リリィは帳簿と見取りを照合し、カティアは上流側の名簿を洗い、ミアとノアは下町へ降りて救出した獣人たちの証言を拾いに行った。
だがエレオノーラだけは、少しだけ足を止めたくなかった。
王都の石畳を、ひとりで歩きたかった。
理由は分かっている。
公爵家へ剣を向ける。
それを、ようやく心の底まで認める段階へ来たからだ。
これまで何度も、“秩序を守るためには何を切り捨てるべきか”という問いと向き合ってきた。
地方守備隊副長として働いていた頃もそうだった。
全員を救うことはできない。
法が追いつかない時もある。
それでも騎士は、秩序を支える側に立たなければならない。
そう信じてきた。
だが今、その秩序そのものが、弱い者を食って成り立っている。
地下市場。
王都ギルドの別処理。
慈善資金の洗浄。
西区画の裏邸宅。
どれもが、法や格式や貴族社会の“表向きの秩序”を被ったまま、内側では人を運び、人を売り、王族すら沈めようとしていた。
ここまで来ると、もう分かる。
守るべき秩序と、食い物にされている秩序は違うのだ。
「……遅かったな」
低い声がした。
振り向かなくても分かる。
龍真だった。
路地の影から現れた黒髪の男は、相変わらず王都の夜景とまるで馴染んでいない。
腰には村正。
背中には見えないが閻魔。
歩いているだけで“異物”と分かるのに、本人はそれを気にした様子もない。
「ついてきていたのですか」
「ちげえよ。戻るのが遅いから迎えに出ただけだ」
「それをついてきたと言うのでは」
「細けえな」
エレオノーラは少しだけ苦笑した。
王都へ来てから、この男とこういう他愛ないやり取りをする機会が増えた。
それは気の緩みかもしれないし、逆に今の自分を保つために必要なものかもしれない。
「考えごとか」
「ええ」
「難しい顔してた」
「いつもしているでしょう」
「今のは違う」
「……」
「“切るかどうか”じゃなく、“切るって決めた後の顔”だ」
鋭い。
こういう時の龍真は、本当に面倒なくらい鋭い。
エレオノーラは少しだけ目を伏せ、それから言った。
「分かりますか」
「分かる」
「どうして」
「同じ顔したことあるからだろ」
答えが簡単すぎて、一瞬言葉を失う。
だが、その簡単さが妙に腹へ落ちた。
騎士としての理想。
任侠としての筋。
育ちは違う。
守るものの形も違う。
それでも、“もうここで引けない”と腹を決めた時の顔は、案外同じなのかもしれなかった。
「私は」
エレオノーラはゆっくり口を開いた。
「今まで、秩序を守る側にいるつもりでした」
「そうだろうな」
「法が万能だとは思っていませんでした。貴族が腐ることも、役人が目を逸らすことも知っていた。ですが、それでも最終的には秩序へ戻すのが騎士の役目だと」
「それで間違いじゃねえだろ」
「ええ。けれど」
彼女は王都西区画の方角を見た。
静かな夜。
整った屋敷。
そのどこかに、裏邸宅がある。
綺麗な顔をして、人を地下へ沈める家。
「公爵家こそが秩序を食い物にしているなら、私は何を守っていたのだろうと思ったのです」
「……」
「地方で見た不正も、王都で見た地下市場も、全部“例外”だと思いたかった。でも違った。王都の秩序の内側に組み込まれていた」
「だったら簡単だ」
龍真が言う。
「何が」
「守る秩序を間違えなきゃいい」
「簡単に言いますね」
「簡単な話だろ」
龍真は本気でそう思っている顔だった。
「法や王城や貴族の体面を守るのが秩序じゃねえ。弱ぇもんが消えねえようにするのが秩序だ」
「……」
「そこを食い物にしてる公爵家なら、そりゃ切る側に回る」
真っ直ぐすぎる物言いだった。
王都の人間なら、もっと回りくどく言う。
だが、回りくどい言葉を何重にも重ねた結果、今の腐敗ができているのだと思えば、この真っ直ぐさはむしろ必要なのかもしれない。
「お前さんは騎士なんだろ」
龍真が続ける。
「ええ」
「だったら王都の秩序を守るために、公爵家へ剣を向けりゃいい」
「……そう、ですね」
「何を迷う」
「迷いは、もうありません」
エレオノーラははっきり言った。
そう。
迷いはもうない。
ただ、それを自分の口で言葉にするのに、少し時間がかかっただけだ。
「私は騎士です」
「知ってる」
「だからこそ、公爵家へ剣を向けます」
「……」
「王都の秩序を守るために、です」
龍真はそれを聞いて、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「それでいい」
「ええ」
「ようやく腹が決まった顔になったな」
「そんなに分かりやすいですか」
「おう」
少しだけ悔しい。
だが、嫌ではなかった。
しばらく二人で歩く。
路地を抜け、大通りへ戻る。
王都の夜は冷えているが、不思議と先ほどより息がしやすかった。
「龍真」
「何だ」
「あなたは、最初から公爵家を斬る気だったのでしょう」
「最初っから、ってわけじゃねえ」
「そうなのですか」
「王都に来た時点じゃ、まだ“根が深えな”ってくらいだ」
「今は?」
「根まで見えた」
「だから切る」
「そういうことだ」
そこでエレオノーラは、少しだけ笑った。
「やはり、あなたは分かりやすい」
「そりゃよかった」
「褒めてはいません」
「知ってる」
宿へ戻ると、部屋の空気はもう次の段階へ進んでいた。
リリィが帳簿と見取り図を机いっぱいに広げている。
カティアは西区画の上流名簿と、慈善晩餐会の出席者の重なりを洗っていた。
ミアとノアは、下町で拾ってきた証言を整理している。
全員の顔つきが違う。
偵察では終わらない。
次は動く番だ。
その覚悟が、部屋の空気そのものを変えていた。
「戻ったわ」
エレオノーラが言う。
リリィが顔を上げる。
「ちょうどよかったです! 西区画の裏邸宅、地下保管室だけじゃない可能性があります!」
「何ですって?」
「見てください。地下市場の帳簿で“会談後保留”って符号がついてる案件、全部この邸宅経由なんです」
「会談後保留?」
ミアが首を傾げる。
「売る前に、誰か上の人が相談してるってこと?」
「そう考えるのが自然です」
リリィが答える。
カティアもすぐに頷く。
「私も上流名簿を見直したけれど、あの邸宅に出入りしているのは、ただの商会主だけじゃない。役人との橋渡し役、教会寄進の代理、文化支援を装った名士。全部“公の場で裏を決めるための顔”が揃ってる」
「つまり、地下が保管室だけでは済まない」
エレオノーラが言う。
「ええ」
カティアは机を指先で軽く叩いた。
「私的会談室があるはずよ。名前を残さず、家名を出さず、それでも人の売買や資金洗浄の話を決める部屋が」
龍真が低く呟く。
「地下市場で捌く前に、ここで値段と行き先を決める」
「その可能性が高いです」
リリィが言う。
「だったら、次に入る時は帳簿だけじゃ足りません。会談記録、保管記録、出入りの顔、全部必要です」
「表からも動く」
エレオノーラがそこで、はっきりした声で言った。
全員の目が彼女へ向く。
「王女殿下側は、表向きの告発準備に入ります」
「……」
「地下市場の件を完全に伏せるのではなく、まずは王都ギルドの不正会計と、ロートベル商会の裏流通から表へ揺さぶる」
「殿下がそこまで?」
ノアが聞く。
エレオノーラは頷いた。
「ええ。まだ公爵家の名は出せません。ですが、周辺から崩すことはできる」
「その間に」
龍真が言う。
「こっちが裏邸宅へ入る」
「そうです」
カティアが目を細める。
「表が動けば、公爵家側も完全には黙っていられない」
「ええ。その分、裏邸宅側の警備や帳簿の動きも急ぐでしょう」
「つまり、逆に尻尾を出す」
「そういうことです」
ミアが拳を握った。
「やっと殴り込みっぽくなってきた」
「ミア」
ノアがたしなめる。
「いえ、気持ちは分かります」
リリィが珍しく同意した。
「ずっと嫌なもの見てきたので、そろそろちゃんと取り返したいです」
「取り返すぞ」
龍真が言う。
その短い一言に、部屋の空気がぴたりと定まる。
エレオノーラは龍真を見る。
「私はもう、迷いません」
「知ってる」
「王都の秩序を守るために、公爵家へ剣を向けます」
「ああ」
それだけでよかった。
女騎士はついに、公爵家を斬る側へ立った。
王都の体面や騎士の建前ではなく、守るべき秩序のために。
そして今夜、この部屋ではもう一つの決意が固まりつつあった。
表では王女が動き出す。
裏では龍真たちが動く。
王都西区画の裏邸宅――
貴族の仮面を被ったあの屋敷へ、次はただ見るだけでは終わらない形で足を踏み入れる。
王都の表と裏、その両方から崩す準備が、ようやく整い始めていた。




