第40話 白百合に迫る黒い脅し
王都の朝は、何事もなかったような顔をする。
地下市場が潰れようが、帳簿係が逃げかけようが、王女が闇の中から救い出されようが、石畳は朝になれば洗われ、役人は書類を抱え、貴族の馬車はいつも通りの速度で進む。
だが、静かな朝ほど嫌な気配はよく通る。
《三つ足カラス亭》の二階で、龍真は窓際に立っていた。
下町の通りには、普段より少しだけ人が多い。
正確には、人の数より“目”が多い。
監視。
野次馬。
噂好き。
それから、王城へ出入りした一団を見張るための、あからさまに王都らしい視線。
王都の中心へ足を踏み入れた以上、もうそうなるのは分かっていた。
だが、今日の空気はいつもより一段重い。
「……来るな」
龍真が低く言うと、机で帳簿を整理していたリリィが顔を上げた。
「何がですか」
「嫌な知らせだ」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ……」
そう言いながらも、彼女も同じ空気を感じ取ったらしい。手が少し止まる。
西区画の裏邸宅。
王都地下市場のさらに奥にある本丸。
昨夜、逃亡を図ったクラウス・ベルディンからその存在を聞き出した。
王女セレスティアへも、その件はすぐに渡している。
つまり、公爵家側ももう“こちらがどこまで知ったか”を測りに来る段階へ入っている。
その予感は、昼前に現実になった。
宿の表で馬が止まる音。
次いで、王城付きの侍女が息を乱し気味に入ってきた。
セレスティア付きの侍女だ。
前に私印を届けた女で、普段は感情を表へ出さない。
だが今は違う。顔色が明らかに硬い。
「龍真殿。皆さまも、今すぐ」
「何があった」
エレオノーラが立ち上がる。
侍女は部屋へ上がるなり、周囲を確認してから声を落とした。
「殿下のもとへ、脅しが届きました」
「脅し?」
ミアが思わず聞き返す。
「はい。差出人不明。ですが内容は明白です」
侍女が懐から封書を取り出す。
王家の正式な書状ではない。粗末でもないが、わざと特徴を消した紙。封蝋も一般的な黒。
だが、その中身は十分すぎるほど悪意に満ちていた。
エレオノーラが読み上げる。
「――“白百合は夜露に濡れれば、泥に染まる。これ以上、地下のことを掘るな。さもなくば次は、王家そのものの恥として咲かせる”……」
部屋が静かになる。
リリィが青ざめた。
「最悪……」
「露骨ね」
カティアが低く言う。
「でも、いかにも王都の上流らしい。直接名は出さない。けれど“次は王家の恥になる”とだけはっきり書く」
ノアが眉をひそめる。
「王女様本人への脅し、ってだけじゃないわね」
「ええ」
エレオノーラは紙を机へ置いた。
「これは“王家の体面を守りたければ、ここで引け”という圧力です」
「王女様にだけじゃなく、王城の中の事なかれ主義にも刺さる文面だな」
龍真が言う。
「その通りです」
侍女は悔しさを抑えた顔で続けた。
「殿下ご自身は引くおつもりはありません。ですが、この文面が問題なのです。王城内の“揉め事を嫌う者たち”へ見せれば、“やはりこれ以上掘るべきではない”という空気が生まれかねない」
「善意の静観ってやつか」
「はい」
龍真は小さく舌打ちした。
地下市場を掘るな。
さもなくば王家の恥になる。
言っていることは脅しだ。
だが、それを“王家のための忠告”として読ませる書き方になっている。
こういうのが王都の嫌らしさだ。脅す側が、時に守る側の顔をする。
「殿下は?」
「王城外宮にて、表向きは通常通りお過ごしです」
侍女が答える。
「ですが、側近の数人が明らかに動揺しています。侍女や家令筋の中にも、“ここで止めるべきでは”という声が出始めました」
「早えな」
「殿下が狙われている、と皆分かるからです」
ミアが拳を握る。
「でもそれって、おかしくない?」
「何が」
龍真が聞く。
「だって、悪いの向こうじゃん。王女様が脅されてるのに、“じゃあやめましょう”ってなるの、変だよ」
「変よ」
カティアが即答した。
「でも王城や貴族街では、その“変”が通ることがあるの。面子と安定を守るために、狙われた側が引く。そうやって表面だけ静かにする」
「最低」
「ええ。最低」
そこで侍女が、少しだけためらいながら口を開いた。
「もう一つあります」
「まだあるのか」
龍真が眉を寄せる。
「はい。今朝、殿下付きの侍女の一人が、王妃派の年長侍女へこの件を報告しようとしていました」
「それ自体は普通じゃないの?」
リリィが言う。
侍女は首を振る。
「普通なら、まず殿下の側近だけで対応を協議します。ですがその者は、文面を見た直後に“王妃殿下へ上げるべきです、王家の恥に繋がる可能性があります”と」
「……早すぎるな」
エレオノーラが低く言う。
「ええ。まるで、そう言う理由を最初から用意していたかのように」
「内通か」
龍真が言った。
侍女ははっきり答えなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
王女を脅す手紙。
王家の恥という文面。
それを“やはり止めるべきだ”へ繋げようとする王城内部の動き。
敵は外から脅すだけではない。
その脅しを使って、内側から王女の動きを縛ろうとしてくる。
「王女様、危なくない?」
ミアが真っ直ぐ訊く。
侍女は一拍置いてから答えた。
「危険です」
「即答だな」
龍真が言う。
「はい。だから来ました」
その言葉に、部屋の空気が変わる。
この侍女は、単に報告に来たのではない。
助けを求めに来たのだ。
「殿下は、表向きの立場上、騒げません」
侍女は低く言う。
「今この時点で近衛を増やし、外宮を固めれば、それだけで“何かあった”と悟られる。かといって何もしなければ、向こうの思う壺です」
「つまり?」
「殿下の周囲で、誰がどちらを向いているかを先に見極める必要があります」
ノアが静かに言った。
「王城の中に、公爵家側へ話を流す人間がいるかもしれない」
「ええ」
カティアも目を細める。
「そして、その脅しは王女個人じゃなく“王女の周囲”へ向けた圧力でもある。侍女、家令、王妃派、近衛。その誰かが折れれば、殿下は動きにくくなる」
「王都らしい嫌がらせね」
「ほんとにな」
龍真は窓際から離れ、卓の前へ戻った。
「手紙そのものはもう殿下の手元にないんだな」
「写しは取ってあります」
侍女が答える。
「原本は、殿下のご指示でごく限られた者だけが確認しました」
「賢明です」
エレオノーラが頷く。
「無闇に広めれば、それだけで“王家の醜聞”として独り歩きする」
「その通りです」
龍真は脅迫文を見下ろした。
王家の恥。
白百合。
夜露。
ずいぶん気取った書き方をしている。
だが、言いたいことは単純だ。
掘るな。
黙れ。
さもなくば王家の体面を人質に取る。
「……上等だ」
龍真が低く言った。
「龍真殿?」
侍女が見る。
「向こうがここまで露骨なら、逆に話が早い」
「どういう意味でしょう」
「王女様がただ地下市場に巻き込まれただけじゃねえって、向こうも認めたってことだ」
「……」
エレオノーラが頷く。
「はい。殿下が“今なお危険”であると公爵家側が判断している証拠です」
「だったら、次は手紙で済まねえかもしれねえ」
「ええ」
「その前に、王城の中でどいつがどっち向いてるか洗う」
侍女の目が少しだけ見開く。
「……できますか」
「やるしかねえだろ」
龍真は短く返した。
その時だった。
王城外宮側へ置いていた小さな連絡札が、窓辺から音を立てて落ちた。
ミアが素早く拾う。
「これ……外宮の見張り役の合図だ」
「何て?」
ノアが覗き込む。
短く、急いで書かれた文字。
“殿下付き侍女一名、外宮裏手で不審なやり取りあり”
部屋の空気が、一気に鋭くなる。
「早いな」
龍真が言う。
「もう動いてる」
「ええ」
エレオノーラの声も低い。
「脅しを送っただけでは終わらない。王女殿下の周囲に揺さぶりをかけに来ている」
カティアが目を細めた。
「王女に迫る黒い脅し、ってわけね」
「洒落になってねえよ」
リリィが青ざめながら言う。
「うん、全然しゃれじゃない」
ミアも真顔だ。
龍真は村正へ手を置いた。
王都西区画の裏邸宅。
公爵家と繋がる流通の本丸。
そこへ踏み込む前に、向こうはまず王女の足を止めに来た。
脅し。
印象操作。
そして王城内部の揺さぶり。
王都の戦いは、地下だけでは終わらない。
むしろ表の顔をした分だけ、もっと厄介になっていく。
「行くぞ」
龍真が言う。
「どこへ?」
ミアが聞く。
「王女の周りだ。まずは内側から洗う」
「ええ」
エレオノーラが即答する。
「外の敵を斬る前に、内の穴を塞ぐ必要があります」
「やることがどんどん増えるな」
「王都ですから」
「ほんと嫌な街だな」
「何度目でしょうね、それ」
だが、そのやり取りの中にも、もう迷いはなかった。
白百合に迫る黒い脅し。
それは王女セレスティア個人への脅迫であると同時に、王家内部の事なかれ主義と中立派を揺さぶる毒でもあった。
そして、その毒は今、確実に王城の中へ流れ込み始めている。




