第39話 逃げる帳簿係を追え
王都の夕方は、人を隠すのに都合がいい。
昼の喧騒がまだ少し残っている。
だが夜の帳も降り始め、通りを行く人間の顔は影に紛れやすくなる。
荷馬車が増え、宿へ急ぐ旅人が早足になり、役人は一日の終わりを理由に足を鈍らせる。
つまり、逃げるにはちょうどいい。
「クラウス・ベルディン、王都ギルド監査補佐官」
《三つ足カラス亭》の卓で、リリィが帳簿の束から一枚を引き抜いた。
「年齢四十六。王都ギルド本部で監査補佐を務めて十年近く。表向きは“規律に厳しい堅物”で通ってる人です」
「裏は」
龍真が短く問う。
「別処理案件の承認印、地下搬送の補助符号、あと慈善名目の資金洗浄っぽい流れにも印がある。つまり、かなり深い」
「本丸ではないが、根元に近いな」
エレオノーラが言う。
リリィは頷いた。
「しかもこの人、帳簿の触り方に癖があるんです」
「触り方?」
ミアが首を傾げる。
「はい。監査役って、本来は“帳簿を閉じる側”なんです。でもこの人は違う。処理を止めるんじゃなくて、“別帳簿へ流す”ための印をいくつも使ってる」
「証拠隠しの中継役か」
「そんな感じです。だから、逃げるならただ逃げるだけじゃない。持ってるか、知ってるか、その両方です」
ノアが腕を組む。
「王都の外へ出られたら厄介ね」
「ええ」
エレオノーラは机上へ簡単な王都周辺図を広げた。
「王都から西へ出れば公爵派の領地筋に入りやすい。南は商会街の流通網。北は地方視察の名目が立ちやすい」
「どれも嫌な逃げ道だな」
「だから絞ります」
リリィが口を挟んだ。
「クラウス・ベルディンは“地方視察”名目で動くそうですけど、本当に視察へ行く人はこんな荷のまとめ方しません」
「どう違う」
「衣類と帳面が別梱包になってる」
龍真が眉をひそめる。
「それが?」
「普通の役人や監査官なら、仕事道具はすぐ出せる形にまとめます。でもこの人は、衣類と私物の箱に紛れ込ませるように帳面を分散してる」
「持ち逃げ前提ってことか」
「はい。それに、護衛が“王都ギルド付”じゃなくて、外から雇った用心棒混じりなんです」
「ますます黒いわね」
カティアが言う。
王女セレスティアからもたらされた“逃亡準備”の報。
リリィの帳簿分析。
王城での勢力図。
それらを繋げると、クラウス・ベルディンがただの保身で逃げるのではなく、“何かを持って逃げる”ことはほぼ確実だった。
「じゃあ追うだけだな」
龍真が言う。
エレオノーラが頷く。
「正面から王都ギルドへ詰めても、向こうは今の段階では“地方視察のための移動です”で押し切るでしょう」
「だったら、外へ出る前に捕まえる」
「はい。できれば荷も押さえる」
カティアが少し考えてから言う。
「王都の役人が“正式視察”で出るなら、普通は東門か北門を使うわ」
「普通、はな」
龍真が言う。
「ええ。でも今は普通に見せたいはず。地下市場が崩れた直後に、監査補佐官が不自然な裏門を使えば逆に目立つ」
「なら北門寄りか」
エレオノーラが地図を指す。
「王都ギルド本部から北門までは、役人の移動として最も自然な導線です」
リリィがすぐに別の紙をめくった。
「それと、この人、昔から宿の取り方にも癖があるんです」
「宿?」
「王都内の視察前夜、必ず北二番街の《灰石亭》を使う。たぶん、王都ギルド本部から近くて、役人筋に顔が利くから」
「そんなことまで分かるのか」
ミアが目を丸くする。
リリィは少しだけ胸を張った。
「受付嬢なめないでください。面倒な人の癖は嫌でも覚えます」
「頼もしいな」
「そう言われるとちょっと嬉しいですけど、思い出したくない癖の情報ばっかりです」
作戦はすぐに決まった。
クラウス・ベルディンが本当に動くなら、今夜から明朝にかけて。
王都ギルド本部を出るところを狙うより、宿か移動路で押さえた方が騒ぎは少ない。
リリィが顔を知っている。
エレオノーラが導線を読む。
龍真が止める。
ミアとノアは周辺で見張りと伝達役。
カティアは上流側から、もし代理人筋が別口で動いていないかを探る。
「行くぞ」
龍真が立つ。
王都の夕暮れは、少しだけ冷えていた。
北二番街の《灰石亭》は、王都の中級役人が好みそうな宿だった。
豪華すぎず、貧しすぎず。
清潔で、表向きの格式も最低限ある。
そのくせ、夜の出入りが多少多くても不思議に見えない。
龍真たちは少し距離を取って、その周囲へ散った。
ミアは屋台の陰。
ノアは向かいの布屋の軒先。
リリィは宿の裏手へ回り、搬出口を見張る。
エレオノーラは通りの端、近衛でも役人でもない“ただの通行人”の顔をして立つ。
龍真は一番見えにくい位置で、じっと宿の正面を見ていた。
王都の空は完全に夜へ落ちる。
人通りはまだある。
だが、役人が宿を出るなら、これ以上遅くなる前だろう。
しばらくして、宿の扉が開いた。
最初に出てきたのは二人の用心棒。
揃いではない。だが身のこなしで分かる。雇われだ。
次に小柄な男が出る。灰色の外套、役人らしい地味な帽子、手には書類箱。
その後ろに、もう一人荷持ち。
リリィが物陰から小さく息を呑んだ。
「……クラウス・ベルディンです」
顔を知っている声だった。
男は周囲を細かく見回している。
役人というより、もう逃亡者の目だ。
落ち着いたふりをしているが、視線の泳ぎ方があからさまに不自然だった。
「荷は三つ」
ノアが小声で伝える。
「書類箱が一。衣類に見せた木箱が二」
「護衛は四」
エレオノーラが続ける。
「正面二、後ろ二。訓練は浅いけど、斬り合い慣れはしてる」
クラウスは宿を出ると、北門方面へ真っ直ぐ向かい始めた。
やはり王都を出るつもりだ。
「今か?」
ミアが囁く。
「まだだ」
龍真が返す。
「門前じゃ兵も多い。一本ずらす」
王都の北側へ向かう役人道は、途中で倉庫街の外縁を通る。
石壁が続き、人通りが少し途切れる場所がある。
そこで止める。
それが一番自然で、一番速い。
倉庫街外縁に入った瞬間、龍真は前へ出た。
石畳の真ん中へ、堂々と。
「っ、誰だ!」
護衛が即座に剣へ手をかける。
だがクラウス・ベルディンの顔は、すぐに別の意味で凍った。
黒髪。
異様な太刀。
王都で今一番噂になっている危険人物。
「み、水戸龍真……!」
「知ってる顔で助かる」
龍真が低く言う。
「荷を置け」
「な、何の権限で! 私は王都ギルド監査補佐官だぞ! 正式な地方視察任務の――」
「その荷が“正式”なら、中見せりゃ済む話だ」
「ふざけるな! 誰が見せるか!」
「だろうな」
龍真が一歩踏み込んだ、その瞬間。
護衛が動いた。
前の二人が同時に来る。
王都の雇われらしく、まず時間を稼ぐ動きだ。
その隙に後ろの二人がクラウスを逃がすつもりだろう。
だが、読めていれば崩せる。
村正が抜かれる。
地下市場の時ほどではない。
だが夜の倉庫街でも、その刃筋は十分に速い。
最初の剣を流し、返しで手首を打つ。
二人目の踏み込みには半歩で入って喉元へ柄頭。
後ろへ回った護衛の足を、エレオノーラが横から払った。
「逃がしません!」
女騎士の剣が、三人目の短剣を弾く。
四人目はノアが投げた木片に一瞬目を取られ、その隙にミアが膝裏へ飛び込んだ。
「わっ!?」
「獣人なめんな!」
転んだところへリリィが荷箱へ飛びつく。
「帳簿はこっちです! たぶん!」
「たぶんかよ!」
「箱三つの中で一番抱え方が丁寧だったからです!」
だがその読みは当たりだった。
クラウス・ベルディンは、護衛が崩れた瞬間に書類箱へ飛びつこうとした。
つまりそこが本命。
「待て! それは――」
「やっぱりそうか」
龍真は男の襟首を掴み、そのまま壁へ叩きつけた。
ぐ、と男の喉が詰まる。
「お前、何持って逃げる気だった」
「し、知らん……!」
「知らねえ奴が、あの箱だけ死ぬ気で取り返そうとするか」
「私は、ただ……」
「ただ何だ」
「生き延びたかっただけだ!」
その叫びは、思ったより生々しかった。
龍真もエレオノーラも、一瞬だけ黙る。
クラウスの顔は、汗と恐怖でぐしゃぐしゃだった。
地下市場を回していた側の人間にしては、あまりにも情けない顔。
だが、だからこそ本物かもしれない。
「公爵家は切る……! 地下市場が崩れた今、王都ギルドの責任に押しつけて終わらせる気だ!」
「……」
「私が持ってる帳簿が見つかれば、私は最初に消される! だから逃げるしかなかったんだ!」
リリィが抱えた書類箱を開ける。
中には細かく綴じられた帳簿、封緘された書簡束、それから王都西区画の見取り図らしき紙が入っていた。
「これ……」
リリィの目が鋭くなる。
「地下市場より新しい流通記録がある。しかも、王都ギルド本部の印じゃなくて、私邸経由の認証印」
「私邸?」
ノアが聞く。
クラウスが、観念したように力なく言った。
「西区画の……交流屋敷だ」
「交流屋敷?」
エレオノーラが眉をひそめる。
「表向きは、文化人や商会主の会合に使う、貴族筋の寄り合い屋敷……」
「そうだ……だが実際には、公爵家側の裏流通責任者が使ってる」
「地下市場の次がそこか」
龍真が低く言う。
クラウスは首を振る。
「次じゃない……本丸だ」
「何?」
「地下市場はあくまで“捌く場”だ。だが、流通の決裁、役人との口合わせ、商会への配分、地方への指示、全部は西区画の邸宅で決まる」
「……」
部屋がない路地なのに、空気だけが一段重くなった。
カティアが低く呟く。
「王都西区画……」
「知ってるのか」
「そのあたりは、表向き高級邸宅街よ。文化人の会合、慈善の後援、商会主の食事会。上流が“裏を見せずに会う”にはちょうどいい」
つまり、いかにも王都らしい隠れ蓑だ。
地下市場を崩しても、まだ心臓は残っている。
しかも、今度はもっと表に近い場所に。
「それと……」
クラウスが、もう一つ吐き出す。
「ギルドの帳簿を洗い直せば、公爵家の黒帳簿に繋がるはずだ。だが、それを持ってるのは邸宅側の保管庫だけだ」
「邸宅の地下か」
「おそらく……」
エレオノーラが龍真を見る。
「これで線が繋がりました」
「ああ」
「地下市場、王都ギルド、慈善資金、そして西区画の裏邸宅」
「ようやく本命の顔が見えてきたな」
龍真はそう言って、クラウスの襟首から手を離した。
男は壁に寄りかかったまま、息を荒げる。
「私は……話したぞ……! だから」
「だから?」
「……助けてくれ」
その言葉に、ミアが複雑な顔をした。
「自分は助かりたいんだ」
「最低だけど、正直ではあるわね」
ノアが静かに言う。
エレオノーラは少しだけ考えたあと、言った。
「王女殿下側へ引き渡します。少なくとも公爵家に先に取らせるわけにはいきません」
「そうだな」
龍真も頷く。
クラウス・ベルディン。
情けない。
だが、情けないからこそ口を割った。
そしてその口から、王都の次の闇が吐き出された。
王都西区画。
公爵家と繋がる裏邸宅。
表向きは文化と慈善の家。
だが裏では、地下市場すら従える流通の本丸。
「……胸くそ悪ぃ街だな」
龍真が低く呟く。
だが、その呟きの中には、もう次へ向かう熱があった。
逃げる帳簿係は押さえた。
帳簿も奪った。
そして、王都の闇の本丸は、ついに“場所”を持って姿を見せ始めた。




