父の書斎
公爵家の廊下は、朝の柔らかな陽光に包まれていた。窓から差し込む光が赤い絨毯を照らし、静かな屋敷に小鳥のさえずりだけが響いている。
私は執事エドガーの案内で、お父様の書斎へ向かっていた。昨日までなら、この扉の向こうへ呼ばれることなど滅多になかった。
けれど今日はお父様が、私を呼んでいる。
重厚な木製の扉の前でエドガーが立ち止まる。
「旦那様、リリアーナ様をお連れいたしました。」
「入ってくれ。」
落ち着いた父の声が返ってきた。
エドガーが静かに扉を開き、私は一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
壁一面を埋め尽くす本棚。
年代物の机。
窓際には手入れの行き届いた観葉植物が置かれ、部屋全体に落ち着いた木の香りが漂っている。机の前に立っていた父――レオナルド・ブルームフィールドは、私を見ると表情を柔らかくした。
「来てくれたか。」
「お父様、どういった用向きでしょうか?」
私は一礼する。
父は向かいのソファへ視線を向けた。
「まずは座りなさい。」
促されるまま腰を下ろすと、父も向かいへ座った。
しばらく無言だった。どちらも、何から話そうか迷っているようだった。
やがて父が静かに口を開く。
「……体調はどうだ。」
「だいぶ良くなりました。今も庭園を散歩していたんですよ」
そう答えると、父は少しだけ眉をひそめた。
「そうか・・・でも医者からは安静にと言われているのだ。あまり無理はするな。」
その声音は、公爵ではなく、一人の父親そのものだった。
私は自然と微笑む。
「はい」
父も小さく頷く。
その表情を見ていると、昨日見た苦しそうな顔が嘘のようだった。
・・・いや。
きっと、お父様は私を安心させようとしているのだ。
穏やかな沈黙が流れる。
やがて父は、小さく息をついた。
「昨日のことだが・・・」
私は思わず背筋を伸ばし尋ねる。
「国王陛下とのお話、ですよね」
父は少し驚いたように目を瞬かせ、それから苦笑した。
「やはり気付いていたか」
「・・・少しだけ」
本当は応接室の前まで行って聞き耳を立てていました、とは言えない。
父は私の表情を見つめると、静かに言った。
「お前が気になるのも無理はない」
「だが――」
その声は少しだけ重くなる。
「まだ話せないことがある」
私は黙って頷いた。きっと、そうだろうと思っていた。
建国以来の真実。
二柱の女神。
冥婚。
教皇。
どれも簡単に話せる内容ではない。
父は私の様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「隠したいからではない・・・お前たちを守るためだ」
その言葉に胸が温かくなる。
「だが、一つだけ覚えておきなさい」
父の青い瞳が真っ直ぐ私を見据える。
「教会を、決して無条件で信じてはいけない」
私は目を見開いた。
教会を・・・信じるな?
ゲームでは、教会は正義だった。聖女を支え、人々を導く存在。だからこそ、ブルームフィールド家は悪として裁かれた。
――そのはずだった。
その常識がまた一つ揺らぐ。
「もちろん、教会に善き者がいないと言っているわけではない」
父は静かに言葉を続ける。
「だが、権力を持つ組織である以上、そこには様々な思惑が渦巻く。誰かが『正しい』と言ったから正しいわけではない。」
「大切なのは、自分の目で見て、自分の頭で考えることだ」
その言葉に、胸がどきりと鳴る。
まるで、私が昨日ノートに書いた言葉を見透かされたようだった。
ゲームの知識は地図。でも、歩くのは私自身。
父は知らないはずだ、私がそんなことを書いたなんて。それでも、その言葉は不思議なほど重なって聞こえた。
父は話題を変えるように咳ばらいをし微笑む。
「学園についてだが、しばらくは休学とする」
「え・・・」
思わず声が漏れる。
「今のお前を無理に登校させるつもりはない。それに、王宮でも今回の件の調査が進んでいる。しばらくは屋敷で静養しなさい」
私は小さく頷いた。
確かに、今は頭を冷やす時間も必要だ。
父は立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
「だが」
その背中越しに、静かな声が響く。
「いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。いずれ、お前もローザリアも学園へ戻ることになる。」
その言葉に、私は息を呑む。
学園へ戻る。つまり、またアレクシス殿下や聖女たちと顔を合わせることになる。
不安がないと言えば嘘になる。
けれど、私はもう以前の私ではない。
父は振り返り、優しく微笑んだ。
「焦らなくていい、今は身体を治しなさい。」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様。」
書斎を出ようとした、その時。
「リリー」
久しぶりに呼ばれた愛称に、私は振り返る。父は穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「人は時に、思い込みで真実を見失う。だからこそ、お前はお前自身の目で見て、お前自身の心で決めなさい。」
私は静かに頷いた。
「・・・はい。」
その返事には、不思議と迷いはなかった。
ゲームの知識は、きっとこれからも私を助けてくれる。未来を知る手掛かりにもなるだろう。
でも、それだけでは足りない。
この世界は、ゲームではない。私はこの世界で生きる一人の人間として、自分の目で真実を見つけていく。
そう胸に誓いながら、私は静かに書斎の扉を閉めた。
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