セレス地方へ
婚約破棄騒動から数日経ち、私の傷は少しずつ癒えていた。日常生活に支障はない程度まで回復したものの、まだ激しい運動は控えるように言われている。お姉様も表向きはいつも通りに振る舞っていた。
けれど、ふとした瞬間に見せる表情には、以前にはなかった疲れが滲んでいる。
王都中に広がった噂
第一王子との婚約破棄
そして、聖女による告発
私たちを取り巻く環境は、あの日を境に大きく変わってしまった。そんなある日のことだった。
「リリアーナ、ローザリア。少し話がある」
お父様に呼ばれ、私たちは執務室へ向かった。部屋に入ると、お父様はいつものように厳しい表情をしていた。その瞳には隠しきれない心配が浮かんでいる。
「二人とも、少しの間セレス地方へ行きなさい」
「・・・セレス地方へ?」
お姉様が驚いたように聞き返す。
「ああ」
お父様は静かに頷いた。
「王都では、まだお前たちについて様々な噂が飛び交っている」
その言葉に、私は視線を落とす。分かっていたことだった。どれだけ真実を訴えても、人々は自分が信じたいものを信じる。
「だが、それ以上に・・・」
お父様は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「お前たちには休む時間が必要だ」
その一言に、胸が温かくなる。公爵としてではなく、父親としての言葉だった。
「セレス地方の別荘なら、人目を気にせず過ごせる」
「ですが、お父様は・・・」
お姉様が心配そうに尋ね、お父様は苦笑した。
「私は王都に残らなければならない」
王家との関係、教会への対応、まだ片付いていない問題は多い。
「だからこそ、お前たちには安心できる場所で過ごしてほしい」
お姉様はしばらく黙っっていたが、小さく微笑む。
「・・・ありがとうございます、お父様」
その横顔を見て、私は少し安心した。お姉様はずっと強くあろうとしているが、本当は誰よりも傷ついていたのだ。
◇◇◇
数日後。私たちは王都を離れ、セレス地方へ向かう馬車の中にいた。窓の外を流れる景色が、少しずつ変わっていく。高くそびえる王都の建物、整えられた街並み。それらが遠ざかり、代わりに緑豊かな景色が広がっていく。
「懐かしいわね」
向かいに座るお姉様が、窓の外を眺めながら呟いた。
「昔、お父様と何度か来たことがあるでしょう?」
「はい。覚えています」
幼い頃の思い出だ。広い庭を走り回ったり、湖の近くで花を集めたこと。王都では見ることのできない景色に、子供だった私は何度も胸を躍らせた。
「また来られるとは思わなかったわ」
お姉様の声には、少し寂しさが混じっていた。きっと、こんな形で訪れることになるとは思っていなかったのだろう。私はそっと手を伸ばし、お姉様の手を握った。
「お姉様」
「リリアーナ?」
「今は、ゆっくり休みましょう」
お姉様は一瞬目を丸くして、それから優しく笑った。
「そうね」
その笑顔を見て、私も笑みがこぼれた。
「そういえば……」
しばらくして、お姉様がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばセレス地方には、魔塔があったわね」
その言葉に、私は顔を上げる。
「魔塔・・・」
聞き覚えのある名前。王立魔法研究院が所有する重要研究施設だ。ゲームでも、何度か名前が出てきた場所だ。
「ええ、魔法研究院の研究施設よ。この地方は魔力が安定していて広い土地もあるから、大規模な魔法研究に向いているそうよ」
私は頷きながら、ある人物の名前を思い浮かべた。
―シリウス・アークライト。
魔塔・・・ もしかすると、彼もこの場所に来ることがあるのだろうか。
◇◇◇
馬車の窓を開けると、柔らかな風が頬を撫でる。王都とは違う空気だった。澄んだ空、広がる草原、遠くで揺れる木々。どこまでも続く自然の景色に、私は思わず息を呑んだ。
「綺麗ね……」
隣に座るお姉様が、小さく呟く。その横顔には、王都にいた時には見られなかった柔らかな表情が浮かんでいた。
「昔と変わらないわ」
「お姉様、覚えているのですか?」
「ええ。幼い頃、お父様に連れてきてもらったことがあるもの」
お姉様は窓の外を眺めながら、懐かしそうに微笑む。あの日から、お姉様はずっと気丈に振る舞っていた。けれど、本当は誰よりも傷ついていたはずだ。だからこそ、お父様はここへ私たちを送ったのだろう。王都から離れ、何も考えずに休める場所へ。
そして――。
私たちが安心して過ごせる人がいる場所へ。馬車がゆっくりと停まり、扉が開く。
目の前には、落ち着いた白い外壁の別荘が佇んでいた。
「お待ちしておりました。ローザリアお嬢様、リリアーナお嬢様」
出迎えてくれたのは、穏やかな笑顔を浮かべた一人の女性だった。
「エレナです。セレス地方の別邸を管理しております」
彼女は丁寧に頭を下げる。
エレナ─お父様が信頼するエドガーの妹。
王都でお父様の側に仕えるエドガーが、こちらへ来られない代わりに、私たちの側にいてくれる人。
それだけで、不思議と肩の力が抜けるような気がした。
「長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内いたします。温かいお茶も用意しておりますから」
優しい声、押しつけるような気遣いではなく、自然と安心できる温かさだ。
「ありがとう、エレナ」
お姉様が微笑む。その笑顔を見て、私は思った。
王都で起きたことを忘れることはできない。
けれど今だけは――
この穏やかな時間を、大切にしたいと思った。
読んで頂きありがとうございます。




