第一章(Ⅳ)
セドリック達に迎え入れられてから数日、クロードはようやく一人で歩き回れるまでに回復していた。
「ずっと部屋の中で横になっていたら、気も滅入っちまうだろう。少し、外に出てみないか」
セドリックの提案は実にありがたいものだった。傷が完治していないとは言え、体力も戻りつつあり、正直なところ、ただ横になっているのが辛くなってきていたのだ。クロードは一も二もなくこれに賛同し、その日の昼下がりに出てみようと話はまとまった。
昼餉を終えてから、セドリックは大きな帽子を取ってきて、ぽんとクロードに手渡した。
「俺が畑仕事をする時に被っているもんだ。お前さんには大きすぎるかもしれないが、それを被って外に出てくれ。ここは村から離れちゃいるが、いつ誰の目に入るか分からない。あいつらはくだらない噂話が大好物だからな、お前さんが連中の話の種にならないようにしないと」
試しに帽子を頭に乗せてみると、やはりずり落ちてくるが、大きなつばが黒い髪や目を覆い、他人の目から守ってくれていた。
「本当はこんなことをさせずに、のびのびさせてやりたいんだが…」
「いえ、ありがとうございます。セドリックさん達にご迷惑がかからないように、よく気をつけます」
セドリックは何か言いたそうに口を動かしていたが、結局「おう」とだけ返し、不釣り合いに大きな帽子の上からクロードの頭をわしわしと撫でた。
「遅くても、夕餉までには戻って来てくれ。あまり遠くには行くなよ?」
「はい」
セドリックに見送られて外に出ると、心地よい風が頬を撫でた。真っ青に澄み切った空には一筋の雲もなく、まだ高い所にある太陽が汗ばむほどの日差しを注いでいる。肌がじりじりと焼ける感覚が懐かしかった。
帽子のつば越しに漏れる眩い光に目を細めながら辺りを見渡すと、やや離れた所に家々の屋根がぽつぽつと見えた。あれがおそらく、セドリックの言っていた村なのだろう。とてもこの距離で自分の姿が見られてしまうことはないと分かっていたが、自然と足は反対の方へ向き、村の方角に背を向けてクロードは歩き出した。
***
「あなた、クロードを一人で外に出して大丈夫だったの?」
ソフィアは気もそぞろで、窓の外を何度もちらちらと見やっている。
「怪我が完治していないからって、ずっと部屋に押し込めていたら可哀想じゃないか。それに、どこに行っても俺やお前がついて回ったら、あの子も息が詰まっちまう」
「それは、そうかもしれないけれど…」
「俺だって心配だが、子供には自由にさせてやりたいんだ。…ソフィア、よく見ていないと手を切っちまうぞ」
ソフィアははっとして手を止めた。庭でとれた野菜を刻んでいた包丁の刃が、反対の手の指先まで迫っていたのだ。
ソフィアは手早くきりの良いところまで支度を終え、机に向かっているセドリックの向かいに座った。彼は難しい顔をしながらペンを走らせ、白い便箋を埋めている。
「ここ数日、村で王都に出る奴が居ないか探してたんだが、運良く王都から行商人が来ていると聞いたんだ。明日の朝一番には王都に発つらしいから、何とかそれに間に合わせて、こいつを届けてもらおうと思ってな」
手元を覗く妻の視線を感じ、セドリックは手を止めずに言った。
「王都の知り合いって言っていたけれど、誰に送るの?」
「ウィルだ。あいつは王都の様子に詳しいし、何より騎士団にいた頃からの付き合いだからな。きっと力になってくれるだろう」
「ウィルって、あの背の高い無口な方?確かあなたより一つ年上で、同じ部隊に配属されていた…」
「そうだ。よく覚えてるな」
「あなたといつも一緒に居たからよ。あなたが医務室に担ぎ込まれて来る時は、大概彼が付き添っていたわ」
ソフィアはその光景を思い出し、くすりと笑みを漏らした。
「昔から色々と無茶をやって、よくあいつに怒られたもんだが、こんな手紙を送ったらいよいよ呆れられちまうかもな。子供を拾ったから親探しを手伝ってくれ、なんて」
手紙を受け取った時の親友の顔が目に浮かび、セドリックは思わず苦笑いを浮かべた。
***
家の周りには驚くほど沢山の草花が生い茂っていた。赤や桃色をした、小指の先ほどしかない小さな花を房のようにいくつもつけているものや、自分の腰の高さほどまで青々と伸びた針のような形の草、あるいは幾重にも重なった美しい花弁を見せびらかすようにして、天を向いて咲く花もある。姿形はまるで違うが、どれも一様に瑞々しさをたたえ、辺りは植物達の不思議な精気に満ち溢れていた。
そのまま歩を進めて家の裏手に回り込むと、小川が目の前に現れた。流れは緩やかで、自分の膝下ほどまで深さがある。子供でも何とか跳び越えられそうな川幅だった。クロードは、木漏れ日を受けてきらきらと反射する水面を、ぼんやりと見つめた。
悪夢に出てきた水流は、ここの流れとは比べものにならないほど速く、激しくうねり、荒々しかった。未だに時折夢に現れるが、その時は怖くてたまらず、冷や汗をびっしょりとかいて飛び起きることもしばしばだ。目の前をのんびりと流れる水が、人をも殺すことの出来る力を秘めていることが、クロードはにわかには信じられなかった。
(私は一体、どこで流されたんだろう)
川の流れを遡るようにして、首を上流の方へ向ける。遥か北に、大気に霞むようにして山脈の峰が見えた。
上流は家から離れる形に伸びているため、クロードは小川の下流へ向かい始めた。
しばらく行くと、先ほどとは草花の種類が変わっていることに気が付いた。川の両側に沿うようにして、黄色の小振りな花が群生している。水の匂いに混じって、甘い香りが漂っていた。
その香りに誘われるようにして川沿いを下って行くと、次第に足元の黄色は増え、香りもますます強くなってゆく。
ふっと目を上げた時、視界いっぱいに、黄色い絨毯が広がっていた。
(こんなに広かったんだ……)
花畑は、家から小さな丘を挟んだ所にあった。初めて目を覚ました時に寝室から見ていたのは、そのほんの一部だったのだ。
部屋に飾られていたのも、少女がくれた指輪の花も、足元のそれと同じものだ。花畑に座り込んで手元に熱中していた少女の後ろ姿を思い出し、クロードもそれを真似てその場に腰を下ろしてみた。そよそよと風にそよぐ黄色い花は、ゆったりとした波のようで、ぼんやりと眺めていると眠気を誘われる。花々が風になびく音はささやき声のようで耳に心地良く、クロードの目はだんだんと閉じようとしていた。
その時、今まで吹いていた穏やかな風が一変し、まるで槍のような鋭い風がびゅうっと身体の横を吹き抜けた。途端に頭が軽くなり、むき出しになった頭髪を風が弄んでゆく。はっとして空を見上げると、真っ青な空の中を、セドリックの帽子がゆらゆらと風に運ばれていた。
咄嗟にクロードは走り出していた。しかし帽子は手の届く所までなかなか落ちては来ず、風に遊ばれるようにしてどんどん遠くへ飛んでゆく。病み上がりのせいですぐに息が上がり、額に玉のような汗が滲んだが、クロードは帽子から目を逸らさなかった。やがて諦めたように帽子が地面に落ち始めたのが見え、クロードはようやく足を緩めた。気が付けば、花畑の端の方まで来ていて、村にもずい分近付いてしまっていた。家々の形も先ほどよりはっきりと見え、思わずクロードは身を屈めた。
(帽子を取って、早く家に戻らないと)
ところが、帽子を拾い上げた時、数人の子供達の騒ぐ声が聞こえた。走り回って遊んでいるのか、その楽しげな声は、だんだんとこちらにやって来ている。
このまま鉢合わせてしまったらどうなるか、クロードはすぐに直感した。しかし辺りには隠れられそうな場所もなく、そして逃げるために走り出せる余力も残っていなかった。帽子を追いかけるために夢中で走ったせいで、治りかけていた足の怪我が再び痛み出したのだ。
(どうしよう…)
帽子を握り締めて必死に辺りを見回していた時、思いがけないものが視界に飛び込んできた。




