第一章(Ⅲ)
「お父さんと、お母さんの名前も、どこで生まれたのかも、……自分の名前も、分かりません」
少年の言葉に、セドリックは耳を疑った。
「分からないっていうのは、つまり…覚えていないってことか?」
少年は、こくり、と頷いた。
「他のことはどうだ?どんな所でよく遊んだとか、家の中の様子とか、よく食べていたものとか、何でもいいんだ」
少年は考え込んでいたものの、やはり最後には首を振った。
「川でおぼれていたことは、何となく…。でもそれ以外は、何も思い出せません」
「そうか……」
両親に酷い目に遭わされていたとか、何か不遇な理由で家から逃げ出して、そこへ戻りたくない一心で嘘をついているという可能性もあったが、この子が嘘をついているようには見えなかった。子供というのは実に正直で、抱いている感情がそのまま顔に表れてしまう。少年の表情には本物の不安が滲んでいた。
(しかし、本当に記憶を失ってるとなるとなぁ…)
弱って頭を掻いた時、ある記憶がはっと脳裏に閃いた。
「俺のじいさんの話なんだが」
と前置いて、セドリックは語り出した。
「じいさんは、自分の子供、つまり俺の親父が生まれてから、火事のせいで早々に死んじまったらしい。ちょうど俺くらいの歳の頃だな。原因は火事の煙で肺が駄目になっちまったからなんだが、それでも火事の後、一週間はなんとか生きてたそうだ。だが…意識を取り戻したじいさんは、自分がどこの誰なのか、綺麗さっぱり忘れてたんだと。一応言っておくが、元々ぼけてた訳じゃないぞ」
これも人から聞いた話だが、と彼は続けた。
「人間ってのは、今までに経験したことがないような、怖いことや、嫌なことが起こると、それに耐え切れずに身体がおかしくなることがあるらしい。俺のじいさんは火事のせいで記憶を失くしたが、お前さんの場合、溺れたことがその原因になったのかもしれないな」
川に攫われ、たった一人、なす術もなく激流に呑まれてゆく恐怖は計り知れるものではない。大の大人でも耐えがたいその恐怖を、十歳にもならないような子供が受け止めきれなかったとしても、何ら不思議はなかった。
「人によっては、突然目が見えなくなったり、食い物の好みが真逆になったって話も聞いたことがある。髪や目の色が変わったってのも、あり得なくはない話だな」
セドリックが、ううむ、と顎に手をやった時、扉が控え目に叩かれ、再びソフィアが部屋に姿を現した。
「ミランダの様子はどうだ?」
「何とか落ち着いて、今は部屋で寝ているわ。あの子、今日はずい分早起きしたみたいだから」
何やら含みのある言い方に片眉を上げると、ソフィアは肩をすくめて見せた。
「私が水汲みに行く時には、もう目が覚めていたらしいわ。眠っているふりをしてたんですって」
セドリックは訳が分からず首を傾げていたが、まさか、というようにだんだんと目を見開いていく。ソフィアの呆れたような笑みが全てを物語っていた。
「…全く、ミリーのやつ、ついこの間まで赤ん坊だと思ってたのに、いつの間に変な知恵が回るようになっちまったな」
後で説教してやらないと、と言うセドリックの顔は、しかし笑っている。
「でも、何でまたわざわざ…」
「お見舞いしたかったんですって。お守りも作ったから自分で渡しに行きたかったって言ってたわ」
「お守り…?」
言われて初めて、セドリックは寝台の枕元に、小さな花があることに気が付いた。つまみ上げてみると、指輪のような形をしている。
『花の妖精さんが守ってくれるんだよ』
そんな娘の声を思い出し、自然と頬が緩んだ。
(誰にでも優しいのは、母親譲りだな)
だが、それはそれ、これはこれだ。
セドリックは花の指輪を、少年の動ける方の手にそっと乗せてやった。
「娘があんな態度を取って、お前さんに嫌な思いをさせちまったのは本当にすまなかった。だが、あの子もあの子なりに、一生懸命お前さんのことを心配していただけで、決して悪気があった訳じゃないんだと思う。そこは、分かってやってくれ」
少年は受け取った花の指輪を手の中でそっと転がすと、
「大切にします」
と、呟いた。
ソフィアも夫の隣に腰かけ、彼に倣った。
「ゆっくり休んでいないといけない時に、騒がせてしまってごめんなさいね。ミランダには、後で私からもよく言っておくわ」
「いいえ、娘さんが怖がったのは、わたしのせいです。娘さんは、なにも悪くありません。どうか、おこらないであげてください」
えっ、と目を見開くソフィアに、セドリックは静かに頷いた。
「さっきこの子に、髪や目のことを伝えたんだ。それから、この子のことなんだが……」
セドリックは、少年が記憶を失っていること…生まれはおろか、家族や自分の名前も覚えていないことや、それが溺れた時の恐怖のせいではないかということなどを、かいつまんで妻に語った。話が進むにつれてソフィアは悲痛に顔をしかめ、瞳にはうっすらと涙が浮かんだ。
「子供は、父や母に守られていてしかるべきだわ。それなのに、こんなに辛い思いをしなくちゃならないなんて…」
ソフィアが、まるで自分のことのように身を震わせることに、少年は少なからずうろたえた。しかも身内ならともかく、赤の他人の自分のためにである。おろおろと視線を泳がせる少年を見かねて、セドリックは妻の肩にぽんと手を置いた。
「まぁ落ち着け、ソフィア。お前が悔しがっても仕方のないことだ。…少し早いが、朝餉の支度をしてくれるか。朝から色々話し込んでたら、腹が減っちまった。この子も、何か食べた方がいいだろうしな」
俺も手伝うから、とセドリックも一緒に腰を上げた。
「お前さんは、ゆっくり寝直すといい。朝餉が出来たら、また起こしてやるから」
そう言って微笑んで、少年に寝具をかけ直してやり、セドリックは妻と連れ立って部屋を出て行った。
しんとした廊下で、セドリックは部屋の中に聞こえないよう、小声で妻に呼びかけた。
「あの子のことで、相談がある」
夫の言葉にただならぬものを感じて、ソフィアもまた、しっかりと頷き返した。
***
身体にだるさはあったものの、とろとろと浅い眠りを繰り返すだけで、深く寝入ることは出来なかった。
頭の中に、鏡に映った不気味な自分の姿が焼き付いて離れない。目を閉じると、瞼の裏にあの黒がありありと思い出され、それが悪夢のようにぐるぐると巡り続けて眠りを妨げていた。
(あの子も、あんなものをみたら、怖がるに決まっている)
身体を起こして、試しに前髪を一本抜いてみた。陽光にかざして目の前でそれをまじまじと見ると、根元から毛先まで、一分の隙もない黒さで、思わずため息が口をついて出た。もしかしたら、根元の方に本来の色が残ってはしないかと、半ば期待していたのだ。
(…私は、これからどうなるのだろう)
自分を見た者は、あの少女と同じように自分を怖がって、やがて誰一人として自分に寄りつかなくなるのではないか。優しく接してくれるセドリックやソフィアも、本当は自分を薄気味悪いと思っていて、早く厄介払いしたいのではないか。
行くあてもないまま放り出されれば、自分一人ではとても生きていけない。記憶はなくともそれは確信していた。
考え出すときりがなく、漠然とした不安だけが膨れ上がってゆく。
(せめて、自分が誰なのかくらい分かれば、セドリックさん達にも迷惑がかからずにすむかもしれないのに……)
まるで本の頁が破り取られてしまったように、ぽっかりと記憶が抜け落ちている。自分の髪の色さえ思い出せないことが歯痒く、少年はきゅっと寝具を握り締めた。
***
翌日の夕暮れ、セドリックとソフィアが揃って部屋にやってきて、こう切り出した。
「話があるんだ。少し長くなっちまうが、体調は問題ないか?」
「はい、大丈夫です」
彼らの看病のおかげで傷はずい分と癒え、身体の芯にあっただるさのようなものも消えていた。折れた左腕は相変わらず使えないが、右腕だけで自力で器用に寝起きすることにも慣れ始めてきたところだ。
寝台の横の椅子に並んで腰掛けた彼らの顔は、どことなく緊張しているように見えた。何か大事な話に違いないと直感し、少年は背筋を伸ばす。
「まず、確認したいんだが…」
始めに口を開いたのはセドリックだった。
「この数日で、何か思い出したことはあったか?」
「…いいえ」
その返事は予想通りだったようで、セドリック達も明らさまに落胆する様子はない。セドリックはゆっくりと言葉を選んで話し出した。
「お前さんのことを、ソフィアと色々話し合ったんだ」
やはり、追い出されるのだろうか。そんな思いがふっと頭をよぎって、少年は自分の手元に目を落とした。
しかし、セドリックの口から出たのは、思いがけない一言だった。
「お前さんさえ良ければ、親御さんが見つかるまで、ここで、暮らさないか」
「え……」
言葉に詰まる少年に、セドリックは「まぁ、急なことで驚くよな」とほろ苦く笑った。
「早く親御さんの所に返してやりたいのは山々なんだが、何しろ情報が少ないからな。まずは、王都の知り合いに手紙を書いて、男の子が行方知れずになった家がないか調べてもらおうと思ってる。時間はかかるが、少しずつでも手がかりは掴んでおきたいし、もしかしたらその間にお前さんの記憶が戻って、あっさり問題が解決する可能性もあるしな。…とにかく今は辛抱してもらうことになっちまうが、他のことで不自由はさせないつもりだ。お前さんにとっても悪い話じゃないだろう?」
悪い話どころか、願ってもない申し入れだった。自分が暮らす場所が約束される上、身元を調べてくれる手助けがある。追い出されることも覚悟していた少年にとって、これ以上ないほどの待遇だった。
「ただ、一つだけ条件を付けたい」
セドリックの言葉に、少年は急に不安になった。
「…セドリックさん」
「どうした?」
「私は、その……お金を、持っていません」
セドリックはぽかんと呆気に取られてしばし固まっていたが、次の瞬間、弾けたように笑い出した。
「おいおい、俺がお前さんから金を取ってここに置くと思ったのか?確かに使用人を雇えるような富豪じゃないが、それなりに蓄えはある。家族がもう一人増えたところで、明日の飯にも困るようなことにはならないから安心しろ。働けない分は家のことを手伝ってくれりゃあいい」
ひとしきり笑ってから、セドリックは穏やかな眼差しをこちらに向けた。
「子供がそんなに重く考えることはない。子供ってのは、めいっぱい人に甘えて、頼っていいんだ。あんまり早く大人になるな。お前さん、喋り方もそうだが、頭の中まで俺よりしっかりしてるぞ」
冗談めかして言うその言葉の一つ一つが温かい。セドリックの隣で、ソフィアも優しく微笑んでいた。
「でも、私は、こんな……セドリックさんやソフィアさんと違って、変なのに…」
まだ頭の中で、こちらを見て恐怖に凍りついた少女の顔がちらついていた。セドリックは少年の心の揺れを感じ取ったのか、やおら腕を伸ばし、その形を確かめるようにそっと少年の頭に大きな手を置いた。
「髪や目のことで人目が気になるかもしれないが、少なくとも俺やソフィアは気にしていない。それも大事なお前さんの一部だ。隠さずに、堂々と胸を張れ」
セドリックは白い歯を見せ、重ねて言った。
「ミランダのことなら心配するな。お前さんがここに住むかもしれないと話したら、意外にすんなり承諾してくれたよ。仲直りがしたいんだと。あの子は怖がりなところもあるが、目新しいものが好きで、何より、誰にでも優しい子だ。そうかからずに、お前さんとも打ち解けられるだろう」
言いながら少年の髪を手櫛で梳き、慈しむように撫でてくれる。彼らの真心に裏があるのではないかと、少しでも疑った自分が恥ずかしくて、少年は顔を上げられずにいた。
「俺が言う条件っていうのはな」
セドリックは再び話を元に戻した。
「お前さんの、名前のことなんだ」
「私の、名前…?」
吸い寄せられるように顔を上げると、セドリックは静かに頷いた。
「もしこれから一緒に暮らすことになったとして、名前も呼べないのはやりづらいだろう?だから、少なくともここに居る間は、俺達が付けた名前で暮らして欲しい。条件ってのはそれだけだ」
簡潔に伝える間にも、ずっとセドリックの真っ直ぐな視線がこちらを射抜いてくる。その目は、真面目な話をしているからという以上に、何か特別な熱を帯びている気がした。隣に座るソフィアは何も言わないが、彼女もまた瞳に同じ色を浮かべている。それが何を意味するのか少年には分からなかったし、心のどこかで、聞いてはいけないと何かがそっと自分を引き止めていた。
少年は右腕で器用に身体の向きを変えて、二人に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「セドリックさんや、ソフィアさんに付けてもらった名前なら、私はどんなものでもうれしいです。今は何も役に立てませんが、治ったら、どんなことでも精一杯やります。だからどうか、ここに置いて下さい」
セドリックとソフィアは顔を見合わせ、ほっとしたように互いに柔らかく微笑んだ。
「よし、決まりだな。それで、お前さんの名前だが……」
そこで、何故か妻の方をちらっと見、彼らは視線を交えたが、何事もなかったかのように、一瞬にしてそれはほどかれた。
「お前さんの名前は、『クロード』だ」
「クロード……」
口の中で呟いてみる。赤ん坊が初めて言葉を覚えた時は、きっとこんな感じがするんだろうと思った。
「親御さんが見つかるまで、俺達がお前さんの親代わりだ。ミランダのことも、妹だと思って、可愛がってやってくれ。これからよろしくな、クロード」
まだ馴染まない自分の名前を呼ばれるのは何となく気恥ずかしくもあったが、差し出された大きな手を、クロードはしっかり握り返した。ソフィアも立ち上がり、クロードの頭を胸に包むようにして彼を抱き締めた。
「辛いでしょうけれど、今は私達がいるわ。何でも相談してちょうだいね」
「はい。…本当に、ありがとうございます」
そう言ってからクロードは、結んだ口の端をほんの少し横に伸ばすような仕草をした。その意味を悟り、セドリックは思わずくっくっと喉を鳴らした。
(歳の割に頭も回るし、礼儀や言葉遣いも大したもんだが、笑い方だけはへったくそだな)
胸にぽっかりと空いていた穴に、じんと温かいものが染み渡り、甘く満たされてゆく。しかし、その底には冷たい現実が見え隠れしていた。
(この子は他人の子供だ。いつか、本当の親御さんの元へ帰って行っちまう)
見知らぬ誰かに手を引かれ、この家を去って行く少年の後ろ姿が目に浮かび、鳩尾の辺りをきゅっと掴まれたような、何とも言えない息苦しさに襲われる。
(少なくともそれまでは、この子に精一杯の愛情を注ごう。例えいつ別れが来ても、惜しむことがないように)
---息子と、暮らせる。
二度と叶うはずのなかった夢が、不意に手元に舞い込んできて、再び形づくられようとしている。それは彼にとっても、その妻にとっても、あまりに手離しがたいものだった。




