第一章(Ⅱ)
夕方、家に戻ると、台所で母が忙しく立ち回っていた。部屋中に溢れる煮炊きの良い匂いを、鼻から胸一杯に吸い込む。母が作る料理の匂いが、ミランダは大好きだった。
「お母さん、ただいま」
「あら、お帰り、ミランダ」
母はぱっと振り返ると、左の頬にえくぼを浮かべた。どんなに手が離せなくても、母は必ず自分に顔を向けて話してくれる。
「お母さん、あのね…」
言いかけた矢先、火にかけた小鍋がしゅーっと音を立てて噴きこぼれた。母は慌てて火を弱め、小鍋の蓋を開けて中の様子を見ている。蓋を開けた瞬間、ふわっと懐かしい匂いが部屋に溢れた。
「お母さん、カリユのおかゆをつくっているの?」
「そうよ。よく分かったわね」
「まえにお母さんがつくってくれたから、おぼえてるの」
カリユの実は火を通すと甘みが出て、ほくほくとした食感になる。それを混ぜて煮た粥は、何とも素朴な優しい味わいで、風邪を引いた時などはいつも母が作ってくれるのだ。
「上に居る子がね、お昼頃に目を覚ましたの。これを食べて、早く元気になってもらおうと思って」
母が嬉しそうに報告する顔を見て、ミランダもつられて笑顔になった。
ソフィアは小鍋に向き直ると、粥をひと匙口に運んで味を見、満足げに一つ頷いた。
「先に手を洗っていらっしゃい。上に行ったら、お父さんも呼んでくるから、二人で先に夕餉を食べていてね」
てきぱきと粥を器に盛り、匙と水差しを添えて盆に載せると、ソフィアは二階へ上がっていった。
(わたしもおみまいに行きたいって、言えなかった…)
手洗い場へ向かいながら、ミランダは自分の手の中を覗き込んだ。手のひらには、花で出来た指輪があった。指に嵌める部分は花の細い茎で出来、本来宝石がある場所にはその花弁が付いている。細い茎を輪の形に結ぶのに苦労して、結局、上手くいったのはこの一つだけだったのだ。
(これを付けたら、きっと、いたいのも早くなおるよね)
三日前、父が子供を抱えて家に駆け込んできた日から、ミランダは二階に上がらないように言い付けられていた。
「二階で寝ている子は、ひどい怪我をしていて、しばらくは静かに寝ていないといけないんだ。だからびっくりさせないように、上に行ったり、大きい音を立てたりしたら駄目だぞ。約束出来るか?」
そう問いかける父の表情はいつになく真剣だった。
子供が家に運び込まれた時、ちらりと見えたのは、父の腕の中からだらりと垂れ下がった棒のような足だった。泥だらけで、傷がいくつもあって、木の枝のようにすら見えたそれが頭に焼き付いている。子供の怪我がどれほど重いのか、はっきりしたことは分からないが、もしあれが全身に広がっていたとしたら、父が口調を強めた理由も分かる気がした。
その場では父との約束に頷いたものの、ミランダはその後もずっと、お見舞いに行きたいと思っていた。自分が風邪を引いて寝込んでいる時も、一人で居るとどうしようもなく心細いが、父や母が傍に居てくれれば、不思議と辛い熱や苦い薬も我慢出来るのだ。お見舞いにはそういう力があると、ミランダは信じていた。
居間に戻ると、父が思案顔で、じっと夕餉に目を落としていた。額にはくっきりとしわが刻まれている。
「お父さん」
セドリックははっとして顔を上げた。娘の姿を認めると、あっという間に彼の顔から翳りが消えた。
「お父さん、どうしたの?おなか、いたい?」
「いや、ちょっと考え事をしていたんだ。心配させて悪かったな、ミランダ」
いつも通りにこやかに話す父を見て、ミランダはほっと安心した。さっきは知らない人のように見えたのだ。
向かい合って座り、二人で母の作った夕餉をつついている時、ミランダは思い切って父に頼んだ。
「お父さん、わたし、上にいるひとのおみまいに行きたい」
父は困ったように眉を八の字にした。
「まだ、それは出来ない。上の子が目を覚ましたことは、お母さんから聞いているかもしれないが、あの子の身体はまだ弱ってるんだ。今は静かに、休ませてあげてくれ」
言葉は優しいが、その奥には断固とした響きがあった。しょんぼりと肩を下げる娘の頭を、セドリックは食卓越しに手を伸ばしてぽんぽんと撫でた。
「ミランダ、お前はお母さんに似て、本当に優しい子だ。知らない人でもお見舞いしたいって思える子は、そう居ない。その気持ちは、これからも大事にするんだぞ」
父は空になった夕餉の器を下げると、再び二階に上がっていった。
父と入れ替わるように母が下りてきた。手元を見つめるその表情は悲しげに曇っている。盆の上の器には、まだ粥が半分以上残っていた。
「それしか、たべなかったの?」
上に居るのは、十歳くらいの男の子だと聞いていた。自分より大きい人が、自分でも食べ切れる量のものを残すことが驚きだった。
「身体が弱っていると、食べる力も弱くなっちゃうものなのよ。せめてもう少し、食べてくれればいいのだけれど…」
胸の前で手を祈りの形に結び、静かに目を伏せるソフィア。そんな母を見て、ミランダはあることを決意した。
***
隣で眠っていた母がごそごそと起き出す気配に、ミランダは重たい瞼をうっすらと持ち上げた。窓の外はまだ薄暗い。母は手早く着替えを済ませると、足音を立てないようにミランダの横を通って、部屋の外へ出て行った。廊下を歩く足音がだんだんと遠ざかっていく。玄関の扉が開き、また閉じられた音が聞こえたところで、ようやくミランダは身体を起こした。
(ねむい……)
眠気のせいで頭がゆらゆらと揺れる。近頃は暖かくなって、チャムの花も咲き始める時期になっていたが、まだまだ朝夕は冷え込む日が多かった。程よく人肌に暖まったふかふかの毛布を手離したくはなかったが、早く動き出さないと、このまま眠ってしまいそうで、ミランダは慌てて寝具から滑り出た。
(お母さんがもどってくるまえに、行かなきゃ)
いつもは父が、毎朝早くに家の近くを流れる小川まで水を汲みに行くのだが、二階に居る子供に付いていなければならず、ここ数日はその役目を母が代わっていた。納屋に置いてある水桶を手にしてから小川へ歩いて行き、重くなった水桶を持って帰ってくるには、それなりの時間が要る。ミランダはその隙を狙って、二階へ行こうとしていたのだ。
(びっくりさせたり、大きな音を出さなければいいんだもん)
言い訳をしても、父との約束を破ると思うとやはり心がちくりと痛んだ。それでも、苦しがっている人が居るなら何かしてあげたい。自分だけ遊んでいるのは、何だか嫌だったのだ。
寝台と床の隙間に腕を差し入れ、そこに隠してあった花の指輪をそっと取り出した。昨日作った時よりも色は少しくすんでしまったが、きれいな丸い形はそのままで、ほっとため息をつく。それを慎重に手の上に乗せて、ミランダは深呼吸をした。
(ちょっと上に行って、このお守りをわたすだけ。それだけ、それだけ…)
早まる鼓動を抑えて、ミランダは静かに部屋の外へ出た。ひんやりとした板張りの廊下を、ひたひたと足音を忍ばせて歩く。階段は目と鼻の先なのに、行き着くまでに何時間もかかっているような気分だった。
ようやく階段に辿り着き、一段一段、慎重に上り始める。中ほどで一度、きぃっと小さく階段が軋んだ時は、口から心臓が飛び出すかと思ったが、幸い、誰かが見に来る様子もなく、家の中は静かなままだった。
(お父さんも、ねてるよね)
昨日の夕餉を食べ終えてから、ずっとこの作戦を練っていたが、その上で一番肝心なのは、二階に居る父が眠っていることだった。部屋に入っても、父が起きていたらばれてしまう。こればかりはミランダにはどうしようもないことだ。父が深く眠り込んでいることを祈りながら、ミランダはやっと二階の部屋の前に辿り着いた。
そっと扉に耳を押し当てると、父の微かないびきが聞こえてきた。しばらくしても父が目覚める気配はない。ミランダは意を決して、扉をそろそろと開けた。
(おくすりのにおいがする…)
母は好きだが、母が扱っている薬や軟膏の匂いは少し苦手だ。きゅっと小さな鼻をしかめ、ミランダは一歩中へ踏み入った。
灯りは一切ないものの、大きな二つの窓から薄ぼんやりとした朝日が入り込み、部屋の様子はなんとなく分かった。左手の奥に寝台があり、人の形に小さく盛り上がっている。その横では、父が固い木の椅子に座って腕を組んだまま、ぐっすりと眠り込んでいた。座ったまま寝られることが信じられず、ミランダは一瞬目的を忘れ、好奇心に負けて思わずつんつん、と父の足をつついてみた。
「うーん……」
父は眠たげな声を上げただけで、再び眠り始めた。絶対に起きないとを確認したミランダは、そっと寝台の方に向き直った。うんと背伸びをして寝台を覗き込むと、子供のぼんやりとした横顔が見えた。胸は規則正しく上下している。子供は包帯だらけで、その周りは軟膏の匂いが一段ときつくなっているが、想像していたよりも穏やかな姿に、ミランダはほっと安心した。
(あとは、これをおいていって……)
花の指輪のお守りを子供の枕元に置こうとした時、登り始めた太陽の白い光が窓から差し込み、寝台の少年の姿をゆっくりと浮かび上がらせた。
目に眩しかったのか、少年は何度か瞬きをして、目を覚ました。天井を見つめていた少年の瞳が、ふとこちらを向く。
少年と目が合った瞬間、ミランダは花の指輪をぽとりと取り落とした。
***
娘の悲鳴を聞き、目を開けるよりも早く右手が横に伸びた。しかし咄嗟に伸びた手は、何かを掴み損ねてすかっと空を掻く。勢いを殺しきれずに身体が傾き、セドリックはがたんっ、と大きな音を立てて椅子から転げ落ちた。
「お父さんっ」
自分を呼ぶ声に、セドリックは打った頭の痛みも忘れてがばりと跳ね起きた。娘の姿を探すと、彼女は寝台の足元の方で、床にへたり込んで震えていた。
「ミランダ、どうしたんだ。何があった」
慌てて娘の傍へ行き、両肩に手を置いて揺さぶると、ミランダは絞り出すように声を出した。
「か…かみ……かみのけ………」
「髪の毛?髪がどうかしたのか」
娘の明るい茶色の髪はいつもと変わりがない。セドリックは、真っ青な顔をして震える娘の視線が寝台に釘付けになっているのを見て、嫌な予感がした。
(まさか…)
ゆっくりと寝台の上に目を向けると、傷を負った少年が半身を起こして、呆然とこの状況を見やっていた。何故目の前の少女が自分に怯えているのか、全く理解出来ずにいるようだ。少年の髪も、不安げに揺れる瞳も、朝日に照らし出されてすっかり露わになっていた。
二階の物音を聞きつけたのか、階段を駆け上がってくる音がして、ソフィアが部屋に姿を現した。室内を見渡した彼女の顔に動揺が走る。セドリックは、妻がちらりと少年の方を見、切なげに眉を下げたのを見逃さなかった。
「ミランダ、いらっしゃい。いい子だから…」
ソフィアは娘を優しく抱き抱えると、落ち着かせるようにその背をさすりながら「また後で来ますね」と夫に言い置いて部屋を出て行った。
窓から明るい陽光が溢れているというのに、部屋の中は気まずい沈黙が重く垂れ込めていた。セドリックは目を落としたまま、倒れた椅子を直し、深く腰かけた。
「…朝っぱらから、驚かせちまったな。許してやってくれ」
セドリックは先ほどの娘の表情を思い出していた。普段は活発で笑顔の絶えない子だが、少年を見る顔は恐怖で凍りつき、怯えきっていた。
娘が少年を見て驚くだろうことは既に予想していた。自分や妻も、初めは少年の姿に驚きを隠せなかったからだ。
(最初は泥だらけで気が付かなかったが、まさか、こんな…)
ミランダに二階に上がらないよう言い聞かせ、子供達が顔を合わせないように仕向けていたのも、不用意に彼らを混乱させるのを避けるためだ。ソフィアもこれに賛同し、二人で口裏を合わせていた。とにかく少年の容体が安定して、彼の事情を聞いた上で、娘も会わせるべきか否かを決めるつもりだった。
「…セドリックさん」
呼びかけられ、顔を上げると、少年と目が合った。少年はぽつりと、
「わたしは、何か…悪いことをしてしまったのですか」
と問うてきた。
「わたしを見て、とても、怖がっていました。でも、その理由が分かりません。わたしは、あの子に、どうあやまればいいのでしょうか」
理由が分からずとも、怯えていた娘に対して罪の意識を感じ、そして同時に、娘のことを心から案じている。その口振りも、眼差しも、とても十かそこらの子供とは思えないほどにしっかりとした芯があった。
俺ははっきりと首を横に振り、少年の肩に両手を置いてその目と向き合った。
「お前さんのせいじゃない。娘にもっと早く、お前さんのことを伝えなかった俺が悪いんだ」
「わたしが家の中にいることを、あの子は知らなかったのですか?」
「いや、そうじゃない。ここにお前さんがここにいることを知ってはいたんだが、その………」
口ごもって言葉を探すが、少年に何と説明すればいいのか全く分からなかった。しかしいかに少年を傷付けないように言葉を選んだところで、結局、受け止める事実は変わらない。俺は腹を決め、部屋の隅の戸棚へ向かった。
やおら動き出した男を、少年はじっと目で追った。彼は戸棚をごそごそと漁ると、何かを手にして元の椅子に戻った。
「自分の目で見た方がいい」
そう言って差し出されたのは、簡素な手鏡だった。それをおずおずと受け取り、ちらりと男を見上げる。彼は一つ頷いた。
そっと鏡に自分の顔を映すと、鏡の中の少年は、はっと息を呑んだ。
自分の髪や瞳、眉やまつ毛に至るまでが、まるで影を溶かしたように真っ黒だったのだ。真っ白な包帯が一緒に映り込んでいる分、その黒は一層際立っている。中でも不気味なのが目だった。茶色を帯びているとか、青みがかっているとか、そういう混じり気の一切ない完全な黒で、まるでそこだけぽっかりと穴が開いているように妙な存在感を放っている。鏡の中の、木のうろのような瞳をじっと覗き込んでいると、そのまま暗闇の奥底へ吸い込まれてしまいそうで、少年は身を引くようにしながらさっと手鏡を伏せた。
(生まれつきこの姿って訳じゃ、なさそうだな)
自分の外観を知っていれば、例え子供でも人からどう見られるかを多少は分かっているはずだ。言葉をなくす少年を、セドリックは改めて哀れに思った。
「それなりに長いこと生きてきたが、黒い髪に、黒い目なんて、俺は見たことも聞いたこともない。まだ小さいミランダが怖がっても無理のない話だ。それが何かの病気なのか、悪いものでも食ったのか、理由は俺にもさっぱりだが…」
王都で医術を学んでいたソフィアでさえ、黒髪になる原因については首を傾げるばかりだった。
セドリックやソフィア、そして娘のミランダがそうであるように、中流階級かそれ以下の人々は、微妙な色艶に違いはあれど、茶色の髪をしている。そして上流階級以上の家の者、そして王家の人間は、皆一様に金の髪である。つまり髪を見れば、だいたいの出自が分かるのだ。そういった家柄に関係なく婚姻し、庶民の家に金髪の子が生まれたり、あるいはその反対もあり得るのだが、それはごくまれな事例だ。特に上流階級の人間は体面を重んじるため、人は皆それぞれの身分に合った者と添い遂げ、結果、髪色による階級区分は保たれるのである。
逆を言えば、この国で茶と金以外の髪色は存在しないのだ。白髪の者も居るが、それは老いれば誰にでも起こり得ることであり、決して赤ん坊の頃からそうという訳ではない。ましてやこの少年のように黒い髪など、どこからも生まれ出るはずのない髪色なのだ。
同様に瞳の色も、ほとんどの人間は青や緑、あるいは薄茶や鳶色など、色素の薄いものばかりである。そういうものを見慣れてきた人間には、濁った色というのはひどく珍妙なものに映った。
(この子の親御さんはさぞ驚くだろうな。息子がこんな姿になっちまったんだから…)
セドリックは少年の手から手鏡を静かに抜き取った。
「お前さん、生まれは王都だろう?親御さんもきっと心配しているはずだ、親御さんの名前と…、お、そうだそうだ、お前さんの名前も教えてくれ。王都の方に知り合いがいるから、多少は力になれると思うぞ」
少年が着ていた衣は、王都の子供がよく着ている型だった。そこまで上等ではなかったが、しっかりした生地で、おそらく食事に困るような暮らしはしていなかったはずだ。
すぐに返事があるかと思ったが、少年ははたと動きを止め、じっと考え込むようにどこか一点を見つめた。少年の表情がだんだんと硬くなり、目は何かを探すように不安げに宙を彷徨っている。
「どうした?」
少年はゆっくりとこちらを見た。何にも染まらない黒い瞳には、しかしはっきりと不安と動揺の色が見える。少年の口が微かに動いた。
「…分かりません」
「え?」
「お父さんと、お母さんの名前も、どこで生まれたのかも、……自分の名前も、分かりません」




