第一章(Ⅰ)
夜が明け始めた頃、俺はいつものように、水桶を手に、家の裏手にある小川へ向かっていた。
遥か北の山脈から太く帯状に横たわるロメルナ川は、王都に入る前に枝分かれし、片田舎のコルテー地方にまで流れ込む。山脈で何十年という時間をかけて湧き出た水は冷たく澄み、氾濫することも滅多にない。不便な田舎暮らしを営む人々にとって、この川は欠かせない存在だった。
小川にさしかかった時、鳥達がせわしなく鳴き交わす声を聞き、俺は眉をひそめた。
(今日はやけに騒がしいな)
仲間の鳴き声を聞きつけ、まだ薄暗い空を、新たに数匹の鳥影が横切っていく。その後を追うようにして、俺は川上の方へ足を向けた。
程なくして、鳥達が何か黒っぽい塊に群がっているのが目に入った。打ち上げられた魚のように、半分ほど川の水に浸ったままのそれは、ぴくりとも動かない。目を凝らしながらゆっくりと距離を詰めると、鳥達が俺の気配に驚き、ばたばたと飛び去っていく。今まで鳥達で隠れていた塊が露わになり、俺ははっと息を呑んだ。
(子供だ!)
水桶を放り出し、抱えるようにして小さな身体を川の中から引きずり上げた。服が水をたっぷりと吸っていて重いはずなのに、腕にかかる負荷はあまりに軽い。
平らな地面に子供を横たえ、素早く状況を見る。子供は、まだ十歳にもならないような少年だった。芯から冷え切ったせいで唇まで真っ青になり、まるで死人のように見える。だが少年の胸に耳を当てると、微かな呼吸音と、弱々しい鼓動が聞き取れた。
「生きてる…!」
思わず言葉が口をついて出た。
「おい、おい!しっかりしろ!」
呼びかけには応じないが、まだ息があると分かれば、悠長にしている間はない。すぐさま自分の着ていた上着を少年に着せかけ、赤子を包むようにして少年を腕の中に収めた。
「頑張れよ、もう少しの辛抱だからな」
少年に言い聞かせるようにしながら、俺は家に向かって一直線に駆けた。
***
耳の奥で、水がごうごうと唸りを上げる音が木霊している。激しい濁流にもみくちゃにされるうちに手足が痺れ始め、意識は既に途切れかけていた。
(誰か……)
必死に腕を伸ばし、声にならない叫びを上げる。
水底の大きな岩に身体が叩きつけられ、ぼきりと嫌な音が水中に響いた。痛みで反射的に開いた自分の口から、最後の空気がごぽっと吐き出され、肺が潰れるような感覚に襲われる。
(誰…か………)
その時、大きな手が、空を掻く自分の手をしっかりと捉えた。
「大丈夫だ、ここに居るぞ」
その声に、ふうっと身体の力が抜けた。
すっぽりと覆うようにして握られた手から、徐々に感覚が戻っていき、自分が激しい水流の中ではなく、何か暖かく柔らかいものに包まれていることに気が付いた。濁流の冷たさや激しい水音は、既に遠くに霞んでいる。
ぼんやりと瞼を上げると、まず日の光の眩しさに目を瞬いた。焦点の合わない視線をゆるゆると巡らせると、見慣れない天井と、見知らぬ男の姿が目に映った。歳の頃は四十路といったところだろうか。深い茶の髪を後ろで無造作に結い、そこにちらほらと白いものが混じっている。しかしその身体は、服の上からでも分かるほど、しなやかな筋肉で無駄なく引き締まっていて、全く老いを感じさせない。少し大きな緑色の瞳が、彼を一層若々しく見せていた。
男は心配そうにこちらの顔を覗き込んでいたが、目を開けているのを認めて、心底ほっとしたように息を吐いた。
「気が付いたか」
低く落ち着いていて、耳に心地よく残る声は、夢の中で聞いた声だった。少し視線を下げると、男のごつごつした手が、しっかりと自分の右手を握ってくれているのが見えた。
「顔色もだいぶ良くなったな。気分はどうだ?」
返事をしようと上体を起こしかけた時、体重のかかった左腕に、ぴりっと引きつったような痛みが走った。思わず喉の奥からうめき声が漏れ、目に涙が滲む。
「おいおい、怪我人がそう無理に動くもんじゃないぞ」
男はさっと背中に腕を差し入れると、半身を起こすのを手伝ってくれた。
ふかふかした枕に背中を預けるようにして、自分の上半身を見下ろすと、怪我人と言われた意味がよく分かった。左腕は手首から肘にかけて添え木があてがわれ、その上から包帯でぐるぐると固定されている。むき出しの腹や肩にはさらしが巻かれ、塗り薬の独特な匂いが鼻をついた。
「腕が元通りに動くようになるまで、数ヶ月はかかることになるだろうな。他にも身体中に擦り傷が出来ちまってるし、打撲も山ほどある。とは言え、流されてその程度で済んだのは奇跡みたいなもんだ」
運が良かったな、と男は頬を緩めた。
(…流された…)
先ほどの夢は、ただの悪夢ではなかったのだ。水の中で響いた鈍い音が鮮明に蘇り、無意識に左腕がぞくりと震えた。
「起きたついでに、傷の具合を診てもらうといい。少し、待っていてくれ」
言うが早いか、男はさっと腰を上げ、部屋の外へ出てしまった。扉が閉まると同時に、部屋は静寂に包まれる。
(ここは……どこだろう)
ぐるりと室内を見る限り、質素ではあるが、少なくとも暮らしに不自由している様子は見られなかった。自分が乗っている寝具は染み一つなく、ふかふかと暖かい。部屋は清潔で手入れが行き届いており、隅に置かれた小さな円卓の上には、愛らしい黄色の花が数輪、花瓶に生けられてほのかに甘い香りを漂わせている。寝具の横と、向かって正面に大きな窓があり、そこから差し込むたっぷりの日差しが心地良く室内を照らしていた。窓の外に目を向けると、視線が存外高い位置にあることに驚く。そこで初めて、自分が建物の二階に居ることに気が付いた。
ふと窓の外に明るい色を捉え、首を伸ばすと、建物からほど近い所になだらかな丘があり、そこに黄色い花々が群生しているのが見えた。絨毯のように連なる花々は、丘の向こう側まで続いているようだ。
その花畑の中に、こちらに背を向けるようにして、一人の少女が座り込んでいた。後ろ姿からして、五、六歳だろうか。何やら手元に夢中になっている。少女の肩まで伸びた緩く波打つ明るい茶の髪は、風に揺れるたびに日の光を弾いて、つやつやと輝いていた。
ぼうっとその光景に見入っていたところへ、先ほどの男が、一人の女性を伴って部屋に戻ってきた。女性は起き上がっている自分を認めるとぱっと表情を明るくし、目に安堵の色を浮かべた。透き通った青い瞳と、笑うと左の頬に現れるえくぼが印象的だった。
寝具の脇の椅子に並んで腰かけながら、男は自分が窓の外を見ていたことに気付いたようで、同じ方へ目を向けた。
「またあそこで遊んでるのか」
男の顔から自然に笑みがこぼれる。
「娘のミランダだ。あの花畑が大好きでな、部屋の花もあの子が摘んできてくれたんだぞ」
そう言って隅の花瓶を指し示す男は、実に嬉しそうに目を細めていた。
「この間も、『花の妖精さんが守ってくれるんだよ』なんて言って、自分で作った花冠を俺にくれてな。まだ小さいのに、ちゃんと他人を思いやれる優しい子なんだよ。あんないい子をいつか嫁に出さないといけないと思うと、今から辛くて辛くて…」
「あなた、ミランダのお婿さんの心配よりも、今はこの子のことを考えないと」
既にうっすらと涙目になっている男を、隣の女性はやんわりとたしなめた。彼女はふっと優しい眼差しをこちらに向け、柔らかく微笑んだ。
「ごめんなさいね。この人、普段はしっかりしているんだけど、自分の娘のことになると、いつもこうなの」
男は心外だと言わんばかりに口を尖らせる。
「お前のことだって、何日でも語れるぞ」
そういうことじゃないでしょ、と呆れる女性の肩を、男はするりと自然に抱き寄せると、
「俺の嫁さんのソフィアだ。美人だろ?」
と、清々しいほど自慢げに妻を紹介した。ソフィアは夫を睨むようにしながらも、耳の先をほんのりと朱に染めている。
「ソフィアは医術の心得があるから、お前さんの手当ても全部やってくれたんだ。ちゃんと礼を言うんだぞ」
男は念を押すように人差し指を立てた。ソフィアは「それよりも」と真面目な顔で身を乗り出した。
「まずはきちんと治すことが何よりも大事よ。それにね、手当てをしたのは私だけれど…」
彼女はちらりと夫を見、穏やかな口調で続けた。
「あなたを見つけて、急いでここまで運んでくれたのは主人なの。あと少し、あなたを見つけるのが遅れていたら、私にはきっとどうすることも出来なかったわ」
彼女はほろ苦く笑った。
よく見ると、その目の下に隈が浮かんでいることに気が付いた。はっとして視線を転じると、隣の男も同じように疲れを滲ませている。それでも、自分を見つめる彼らの表情はどこまでも優しい。助けた見返りだとか、自分達を偉く見せようだとか、そういうくすんだ感情が一切見えなかった。見ず知らずの自分を純粋に思い、その命を救うために心を尽くしてくれたのだ。
陽だまりのような温かさが、胸の内に溢れた。
右腕で身体を支え、ぎこちなく彼らの方に向き直る。足も痛めているらしく、上手く動かないが、我慢して出来る限り姿勢を正した。
「…助けてくれて、ありがとうございます、ソフィアさん」
彼女はびっくりしたようにちょっと目を瞬いたが、すぐににっこりと微笑んで頷いてくれた。
「それから………」
男の方へ顔を向けて、はたと動きを止めてしまった自分を見て、男は怪訝そうな顔をしていたが、やがて「あぁ!」と声を上げて額を叩いた。
「俺としたことが、名乗るのを忘れてたぜ。セドリックだ。よろしくな」
差し出された右手をおずおずと握り返すと、心が落ち着く不思議な温かさがじんわりと指先から広がった。
「…ありがとうございます、セドリックさん」
セドリックは白い歯をにかっと見せた。
「ほら、無理な姿勢でいると、治りが遅くなっちまうぞ。まだ安静にしてなきゃいけないんだから、もう横になれ。ソフィア、怪我の具合を診てやってくれるか」
再び横になると、まだ昼間だというのに、じわじわと眠気が襲ってきた。瞼がだんだんと下りていき、左腕の包帯を巻き直しているソフィアの姿がぼんやりと朧げになってくる。
「後で、何か身体に優しいものを作ってくるわね。まだ普通の食事は身体が受け付けないでしょうし」
「カリユの実をいれた粥なんかどうだ?前にミランダが熱を出した時も、あれなら食べられただろう」
「いい考えだわ。後で納屋から取ってこないと」
セドリックは何かに気が付いたようで、声を弾ませたソフィアに向けて、唇にそっと人差し指を当てて見せた。首を傾げると、声に出さずに「見てみろ」と口を動かし、そっと一点を指し示している。その先を辿ると、寝具に横たわる少年が、穏やかに目を閉じて、すうすうと規則正しい寝息を立てていた。あまりに安らかな寝顔に、思わず口元が緩む。
「今は大丈夫そうだが、さっきは、ひどくうなされていて辛そうだった。俺はまだここで様子を見るから、食事の方は任せていいか」
「もちろんよ。でも、夕餉には下りてきてね。昨夜もこの子に付きっきりで、ちゃんと食べていないでしょう?」
「あぁ、分かった」
小声でそう交わした後、ソフィアは、あ、と声を漏らした。
「そう言えば、この子の名前を聞きそびれてしまったわね」
「後で目を覚ました時にでも聞けるだろう。とにかく今は、休ませてやらないとな。また聞き忘れないといいが」
セドリックは苦笑いで頭を掻いていたが、やがてふっと神妙な面持ちになると、少年に目を落とした。
「もう少し元気になったら…この子の髪や、目のことも、色々聞かないとな」
セドリックは黙ったまま、その存在を確かめるように、そっと少年の頭を撫でている。その目は、少年を見ているようで、何か別の姿を見つめている気がした。
「………あの子が」
セドリックは手を止めずに呟いた。
「あの子が…生きていたら、この子と、同じぐらいの歳だろうな」
何でもない風に言ったつもりでも、その声は掠れ、震えていた。彼が言った意味を理解した瞬間、冷水を浴びたような感覚に襲われる。
「あなた…」
「悪い、お前にも辛いことなのに、思い出させちまったな。許してくれ」
セドリックはもう一度詫びると、ソフィアを強く抱き締めた。夫が何を思っているのか、ソフィアには痛いほど分かった。分かるからこそ、何の慰めも口にすることが出来ない。ただ夫の心に寄り添いたくて、ソフィアは夫の背中に回した腕に力を込めた。




