秋
思わず身体が力んでしまうようなクラクションを鳴らされて、僕は公道の真ん中で尻もちをついた。
「おい、危ねえだろ!」
トラックの運転手が、窓から顔を出しながら僕に怒鳴った。
「す、すみません!」
僕は謝罪してすぐに歩道へと走った。歩行者信号を確認すると、赤色の光が点灯していた。額に掻いた冷や汗を拭っていると、背後から誰かに肩を叩かれた。
「災難だったな」
振り返ると、政道が神妙な顔で僕のことを見ていた。
「政道!」
僕は政道に握手した。
「ごめんな、奏」
政道が涙ぐみながら僕に謝った。
「どうして政道が泣くのさ」
苦笑しながら言うと、政道は「ごめん」とまた謝った。
「赤坂さんは?」
僕が訊くと、政道は力強く頷いた。
「優香から連絡があって、無事に会えたって。パニック状態ではあるみたいだけどな。無理もないよな」
政道からの報告に、僕は安堵からしゃがみ込んでしまった。
「良かったぁ」
「行こうぜ」
「うん」
僕と政道は今、地元の隣県にいる。電車に乗って、僕と政道は地元の駅まで向かった。優香からの連絡があってから一時間半ほどして、二人がいるという公園に到着した。
公園のベンチで、優香と赤坂さんが座っていた。この場にいる全員が制服を着ているため、旗から見れば学校をサボっているように見えるだろう。まぁ、実際にそうなんだけれど。
優香は僕の姿を見ると、勢いよく立ち上がって走って来た。目の前で立ち止まると、優香は顔を歪めながら僕の肩を揺らした。
「お帰り、奏!」
「ただいま」
僕は政道と優香を振り返り、頭を下げた。
「二人とも、本当にありがとう。あと、心配掛けてごめん」
二人は涙ぐみながら、気にする必要はないとでもいうように首を振った。
ベンチに座りながら俯く赤坂さんのもとに、僕は近づいて行った。赤坂さんは怯えるようにして、僕のことを見上げた。そして、震える唇を開いた。
「どうして、私は生きてるの?」
赤坂さんは、首元を押さえながらそう呟いた。
赤坂さんは二年前、高校のトイレで首を吊って自殺した。月島神社でのジンクスを知っていた僕たち三人は、二年後の今日、赤坂さんを生き返らせる計画を立てていた。
「赤坂さんにとっては迷惑なことかもしれないけど、今日から二週間、青春を謳歌しよう」
「……は?」
「僕は赤坂さんと一緒に色んなことをしたいんだ」
「……意味分かんない。私は死んだはず」
「僕たちが生き返らせたんだ」
「……そんなの、ありえない。仮にそれが本当だったとして、どうしてそんな勝手なことするの? それに、死にたくて死のうとした人間に、よくそんな呑気なこと言えるよね」
「赤坂さんを生き返らせられる時間には限りがあるからね。悠長に建前なんて使ってられないよ」
「ほんと、最悪。どうしてまだ意識があるの。やっと楽になれたと思ったのに」
「さっきも言った通り、僕たちが赤坂さんを生き返らせたんだよ」
「どうしてそんな勝手なことすんの!」
赤坂さんは怒気を含んだ声で叫んだ。政道と優香が、慌てた様子で顔を見合わせていた。
僕は赤坂さんの隣に座った。赤坂さんは警戒するように、僕の方を睨んだ。けれど、身体は僕から離れることはなかった。
僕は赤坂さんの目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「僕が、赤坂さんのことが好きだからだよ」
「……は?」
「好きな子がいなくなったら寂しくなるのは普通だと思うんだ。だから、僕は君のことを生き返らせることにした」
「ちょ、ちょっと待って。何言ってんの?」
「だから、僕は赤坂さんのことが好きなんだってば」
「わ、私のどこに好きになる要素なんてあんの」
赤坂さんは顔を赤らめながら、じりじりと後方に下がって行った。
「うーん、言葉にしろって言われたら難しいなぁ。でも、好きになったきっかけは、学校ではクールな赤坂さんが、下校中に野良猫と遊んでる姿を見かけたことかな。あと、筆箱の中に可愛らしい猫のシールが」
「も、もういい! 分かったから!」
赤坂さんは勘弁してほしそうに、僕の口を手で押さえた。
「……赤坂さんのそんな姿、初めて見た」
優香がぼそりと呟いた。赤坂さんが優香の方を振り向いた。優香は汗を飛ばしながら両手を振った。
「あ、えっと、変な意味じゃないからね!」
「俺も、赤坂さんがこんなに表情豊かに話すところなんて、初めて見た」
優香をフォローするように、政道がそう言った。優香は胸を撫でおろしていた。
二人の言葉にさらに顔を赤くした赤坂さんは、腹立たしそうにベンチから立ち上がった。
「ていうか、三人は学校に行かなくていいの?」
「俺と優香は明日からちゃんと学校に行くよ」
「南山くんは?」
「僕は赤坂さんとずっと一緒にいるよ」
露骨に嫌そうな顔をした赤坂さんに、僕は説明した。
「だって、赤坂さんが亡くなってから二年後の世界だよ? 僕が付き添わなくて赤坂さんはどうやって生活するのさ」
赤坂さんは、一体こいつは何を言っているんだとでも言いたげな顔をした。
「そんなの、また自殺すればいいじゃん」
「……その発想はなかった。ていうか、それは卑怯だよ。絶対ダメ」
「私の勝手でしょ」
「そうかもしれないけど、僕も勝手に赤坂さんが変なことしないか監視する」
「……南山くんって、思ってた以上に強引なんだね」
「本当の僕を知ってもらう前に、赤坂さんがいなくなったんだよ」
僕の言葉に、赤坂さんは目を見開いた。それから、何かを考えるような仕草をした。
「赤坂さんが生きていられる時間は、あと二週間しかない。どうせ死ぬなら、急いで死ぬこともないんじゃないかな。それに、この二週間は、学校に行かなくたっていいんだ」
僕はそう言って、赤坂さんの手を掴んだ。赤坂さんは驚いた顔をした。
「本当に嫌なら、振り解いていいよ。でも、少しでも僕の言葉を信じてくれるなら、一緒に来てほしい」
赤坂さんは何か言おうとする素振りをしたけれど、何か言葉に詰まったみたいに口を閉じた。
僕たちは赤坂さんの手を引いて公園を出た。次に僕たちが向かったのは、僕の家だ。僕は家のドアの前にある観葉植物の生えた植木鉢から土を除いた。
「おい、何やってんだよ」
政道が不安そうに僕に訊ねた。
「見れば分かるよ」
僕は植木鉢をひっくり返した。底から、封筒の入ったビニール袋が出てきた。僕はビニール袋から封筒を取り出した。みんなの奇妙そうな視線が封筒に集まった。
僕は封筒の中から札束を取り出した。優香が驚いた声を上げた。
「そのお金は、なに?」
赤坂さんが気味悪そうに僕に訊いた。
「僕がバイトして貯めたお金だよ。三十万円ある」
「……どうしてそんなところに」
「もしもの時のためだよ」
「……なにそれ」
納得がいかない様子で、赤坂さんはお札を見つめていた。
「とにかく、このお金を使って赤坂さんの寿命がくるまでに青春を謳歌したいんだ」
「どうして、そこまでするの」
赤坂さんが不思議そうに質問した。
「ずっと、赤坂さんと仲良くしたいと思ってたから」
僕の答えをどう受け取ったのか、赤坂さんは表情を変えることなく、前髪を指で遊ばせた。
「というわけで、今からカラオケに行こう」
僕の提案に、優香が素っ頓狂な声を上げた。
「え、今から?」
「うん。今から」
「だって、まだお昼だよ?」
「夕方とかに行っても、知り合いと鉢合わせるかもしれない。そうなったら、生き返った赤坂さんを見てみんなひっくり返っちゃうと思うよ」
「……それは、そうだけど」
「でも、どうしてカラオケなんだ?」
政道が疑問に思うのは、もっともなことだった。
「赤坂さんの歌声を聴いてみたいんだ」
二人の視線が、赤坂さんに注がれた。突然スポットライトが当たった赤坂さんは狼狽えながら首を横に振った。
「無理無理。私、誰かとカラオケに行ったことないし」
「え、そうなの? 楽しいのに」
優香が意外そうに言った。
「一度は経験した方がいいかもしれないな」
政道は外堀を埋めるかのように、腕を組んで頷いた。
「ほら、坊主頭で筋肉質な政道ですら経験してることなんだから」
「おい、それは関係ないだろ」
僕と政道のやり取りに、優香が笑った。優香は赤坂さんに訊ねた。
「もしかして、歌に自信ない?」
「……自分の歌唱力は、分からない。人の前で歌った経験がないから、恥ずかしいというか」
「大丈夫だ。俺は音痴だが、カラオケは好きだぞ」
「そうそう。政道の歌はひどいから大丈夫だよ」
「……人に言われると腹が立つな」
「……ふっ」
赤坂さんが、口元に手を押さえた。三人の視線が一斉に赤坂さんに集中した。
「今、笑った?」
「おう、笑ったよな」
政道と優香が嬉しそうに赤坂さんの顔を覗き込んだ。赤坂さんは誤魔化そうとして、そっぽを向いた。それから僕を横目で見ると、憎らしそうに言った。
「なに、その顔むかつく」
「あー、奏だけ達観してるみたいな微笑みしてる!」
「自分だけ恰好つけるなんて、ずるいやつだな」
散々な言われようだった。
僕たちは、公園から近いカラオケ屋に向かった。料金は全て僕持ちにするつもりだ。このお金は、赤坂さんがいなくなるまでの間に使い切るつもりだった。カラオケの受付まで来て自分が財布を持っていないことに気づいた赤坂さんに、僕はその旨を伝えた。
「いや、それは悪いよ」
「でも、多分赤坂さんの所有物は今はもうないと思うよ」
「……そっか。私が死んでから、二年経ってるって言ってたもんね」
「うん。だから、気にしないで。僕は赤坂さんとこうやって遊ぶためにお金を貯めていたから」
「……ありがと」
赤坂さんを説得して、僕は店員さんにフリータイムを希望した。二階の部屋に指定された。部屋に向かう前にドリンクバーでジュースを注いだ。
部屋の中は、想像以上に広かった。壁に沿ってソファが敷かれており、靴を脱ぐタイプの部屋だった。
「うわー、こんなに広い部屋初めて!」
「空いてる時間帯だから優遇されたのかもな。かなりグレードの高そうな部屋だ」
優香ははしゃぎ、政道は感心したように部屋を見渡した。
僕はマイクと選曲用の機械をテレビ下からテーブルに持ってきた。それぞれ二つずつ用意されていた。それから、ドリンクを飲んでいると、赤坂さんがまだ立ったままでいるのに気づいた。
「どうしたの、赤坂さん。座りなよ」
「あ、うん……」
赤坂さんはぎこちなくソファに座った。僕たち三人から随分と遠いところだった。
「んじゃ、さっそく歌っていくか!」
最初に曲を入れたのは、政道だった。
演歌が流れ始めた。若いはずなのに、政道は古風なものが好きだった。マイクで「あ、あ」と音量を確かめると、深呼吸して歌い始めた。
「懐かしきあなたのー」
ビブラートを利かせながら、感情を込めるように目を閉じた。握りこぶしをつくったり、手を伸ばしたりしながら、歌手さながらのパフォーマンスを披露していた。
優香はお腹を抱えながら携帯で政道を撮影している。僕も思わず笑ってしまったけれど、政道の声量が凄まじくて、笑い声が邪魔になることはなかった。
曲が終わると、僕たちは賞賛の拍手を送った。
「サイコー! さすが坂道!」
優香が楽しそうに囃し立てた。政道は照れ臭そうに手で頭を押さえた。
思い出したみたいに赤坂さんの方を見ると、涙を拭っていた。その様子に視線を外せないでいる僕に気づいた二人が同じく赤坂さんの方を見ると、ぎょっとした。
「だ、大丈夫? 赤坂さん、具合悪い?」
「俺の歌が障ったか?」
心配する二人をよそに、赤坂さんは肩を震わせながらお腹を抱えだした。
「死ぬっ……」
思わぬワードが出てきて僕たち全員が固まっていると、赤坂さんが顔を上げた。驚いたことに、笑顔を浮かべていた。
「あ、もしかして……」
「俺の歌が面白くて笑ってた?」
息ができない様子でこくこくと赤坂さんが頷いた。二人は嬉しそうに、声も出さずに笑う赤坂さんを見ていた。僕はみんなにバレないように、濁る視界を制服の袖で必死に擦った。
政道の次は優香が、優香の次は僕が歌った。いよいよ赤坂さんの番になった時、気まずそうに曲を選んだ。部屋の中が暗転して画面に映し出された歌は、新しい曲ではないけれどみんなが知っている歌だった。
「うわ、懐かしい!」
「なんかのドラマの主題歌だったよな」
赤坂さんは前奏が流れると、緊張した面持ちでマイクを握った。画面に歌詞が表示される前にドリンクを飲み、咳払いをした後に息を吸った。
「一人になって思い出すのは」
赤坂さんの歌声が、室内に響き渡った。耳に届いた瞬間、全身の鳥肌が立った。
「わぁ……」
優香が聴き惚れたように息を吐いた。
「後悔なんてしていないと強がりながら」
間違いない。僕の赤坂さんへの贔屓目を度外視しても、とんでもない歌唱力だった。声の機微で、作詞者が伝えたかった切なさを体現していた。
サビに入ると、赤坂さんはそれまでの寄り添うような声から一変して、力強く自分の気持ちを届けようとする健気な人物像を想起させるような声音を披露した。優香は感極まったのか、目尻を指で拭っている。政道も、脱帽したように真剣な表情で赤坂さんの歌を聴いていた。
曲が終わって部屋が明転すると、僕たちは拍手した。
「赤坂さん、素敵! 別人みたいだった!」
「いやー、これは参った。赤坂さん、すごいな。こんな特技があったなんて」
赤坂さんはきょとんとしながら二人からの言葉を聞いていた。当の本人は、自分が歌の才能に恵まれていることに気づいていないのだろう。歌う前の不安とは裏腹に、とんでもないものを見せられてしまった。
赤坂さんが、僕の方を振り返った。目が合うと、赤坂さんはどこか不安そうな顔をしていた。
「綺麗な歌声だね」
僕の評価に、赤坂さんは口角を少し上げた、気がした。
それから数時間、僕たちは歌い続けた。最初はぎこちなかった空気感が、いつの間にか柔らかくなっていた。一旦歌を休憩して料理を頼んだ。食べている間、優しい二人が赤坂さんに絶え間なく質問を重ねた。ただし、不躾でいて独りよがりなペースではなく、それは赤坂さんの様子を常に窺われたうえでの他愛ないものだった。赤坂さんの顔には控えめながらも笑顔が見られた。
全員の喉が枯れた頃に、僕たちは部屋を出た。名残惜しい気持ちで会計を済ませた後、まるで僕を上司として敬うようにみんなが僕に頭を下げた。
「ごっつぁんです」
政道が野球部みたいに太い声で礼を言ったのを見て笑っていると、誰かに制服の袖を引っ張られた。振り返ると、赤坂さんが俯きがちに僕の袖を掴んでいた。
「ありがとう」
僕は頭を掻きながら「どういたしまして」と笑った。
「奏。これ、持っておけ」
政道が、僕にスマホと充電器を渡してきた。
「……これは?」
「お前、スマホ持ってないだろ。しばらくの間、預けておく。何かあったら優香に連絡してくれ」
優香が僕にピースしてきた。
「……何から何までありがとう」
僕は頭を下げた。
「なに辛気臭い雰囲気出してんだよ。俺らの仲だろ」
「うん、そうだね」
政道がサムズアップするのに呼応して、僕も親指を立てた。
カラオケ店の前で、僕たちは解散した。解散したと言っても、僕と赤坂さんは一緒に行動を共にすることになっている。
「寝床を探さないとね」
僕は政道のスマホを使って、近くの宿を探し始めた。
「私、漫画喫茶に行ってみたい」
「……なるほど、漫画喫茶か」
スマホで地図アプリを開き、近くの漫画喫茶を検索した。
「南山くん」
「どうしたの?」
「悪いんだけど、できたらこの街から出たい」
赤坂さんが申し訳なさそうに言った。
「……そうだね。赤坂さんの姿を見られるリスクを減らさないとね」
僕は赤坂さんの意見に同意したことを示すために首肯した。
僕たちは、電車で街が二つ分離れたところにある駅に向かった。ここなら、自分たちが通っていた高校の学区から外れているため、同級生に会うこともない。
目的の駅から降りて、僕は地図アプリで近くの漫画喫茶を探した。徒歩十分圏内に、有名なチェーン店の漫画喫茶が見つかった。道中でコンビニに寄って夜食を購入した後、僕と赤坂さんはヒットした漫画喫茶に入店し、会員手続きを済ませてから割り振られた部屋に向かった。もちろん、部屋は別々だった。
入口に足を踏み入れた時から、赤坂さんの目が輝いたのが分かっていた。赤坂さんは興味津々といった様子で本棚を見渡した。
「すごい、こんなにあるんだ」
「赤坂さんって、娯楽の経験があまりないんだね」
「私の家、携帯もないくらい貧乏だったから。お母さんと二人暮らしだったし。バイトで得たお金は生活費に回してた。南山くんも、私の親のことは知ってると思うけど」
「…………」
「さっき、みんなで行動してる時に実は私の家の前を通った時があったんだ。表札が知らない人の名前に変わってた」
何も言えない自分が、心底情けなかった。僕は申し訳程度の相槌を打って、赤坂さんから隠れるように別の本棚の方へ移動した。
しばらくして合流すると、赤坂さんは大量の漫画をかごの中に入れていた。
「あれ、南山くんはそんだけ?」
僕のかごには三冊だけ入っている。
「なんか、口数減ったね」
「そうかな」
「私が嫌な話したから?」
「いや、そうじゃないよ」
「嘘が下手」
赤坂さんは仕方なさそうに笑った。
「そんなんじゃないってば」
「覚えてるよ。私の顔に痣があった時もそうだった」
赤坂さんが、少し眉を下げながら言った。
「南山くんだけが、私のことを気に掛けてくれていたから、よく覚えてる」
「……そんな顔、してた?」
「してたよ」
赤坂さんが微笑んだ。
僕と赤坂さんは、三階の部屋に向かった。隣同士の部屋だった。
首から提げたカードキーをドアにかざした。ドアのロックが外れる音がした。僕がドアを引くのと、赤坂さんがドアを引くタイミングがほとんど同じだった。
「あ、そういえば」
赤坂さんは部屋に入ろうとする直前、首だけを部屋から出して僕に訊いた。
「カラオケの時、どうして泣いてたの?」
「……泣いてないよ」
「え、いや、泣いてたでしょ」
「気のせいだよ。おやすみ」
僕が強引にこの話題を終わらせようとすると、赤坂さんは不満そうにしながらも「おやすみ」と返してくれた。
ドアを締め切って部屋で一人になると、僕はコンビニ袋を投げ出しながら倒れ込んだ。当たり前のように赤坂さんとやり取りをしてきたけれど、本当に亡くなった人が生き返るなんてことがあるのかと改めて驚いた。
部屋で食事をしてから、追加料金を払ってシャワーを利用した。念のため、赤坂さんにはお金をいくらか渡しているため、不便はないだろう。実際、赤坂さんにドアをノックされることもなかった。
疲労で、僕はいつもよりも早い時間に就寝した。
僕は、赤坂さんを救うことができなかった。
高校に入学して自分のクラスに馴染めたのが、政道と優香と話すようになった五月くらいからだった。その頃には、すっかり固定のグループみたいなものが決まっていて、休み時間中に話すメンバーが決まっていた。
そんな中、赤坂さんはクラスで浮いていた。
別に赤坂さんの嫌な噂があったとかではないけれど、なんとなく、話しかけにくい雰囲気があったんだと思う。むしろ、僕は早い段階から一匹狼みたいに誰も寄せつけない風貌の赤坂さんのことが気になっていた。
ある日の帰り道、部活に入っている政道と優香以外に友達のいない僕は一人で歩いていた。通学路の途中にファミレスがあり、僕はなんとなくそこを眺めつつ横切ろうとした。すると、ファミレスの駐車場で赤坂さんが猫じゃらしを使って車の下にいる猫をおびき出そうとしているのが目に入った。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がしたけれど、学校にいる時とは違って柔和な表情を浮かべる赤坂さんに見惚れてしまった。しばらくその光景を眺めていると、赤坂さんがこちらを振り返る素振りを見せた。僕は慌てて知らん顔をして、ファミレスから離れて行った。おそらく、僕はこの時から赤坂さんのことが好きになっていたのだろう。
一学期が終わり、夏休みが空けた頃になって初めて、僕は赤坂さんがいじめられていることに気づいた。放課後、僕は部活に入っていなかったけれど、図書委員として本棚の整理をしなければならず学校に残っていた時があった。
途中でトイレに行きたくなった僕は、図書室を出た。すると、女子トイレの方から全身がずぶ濡れになった赤坂さんが出てきた。驚いて声を掛けると、赤坂さんは目を赤くして「見ないで」と震える声で言った。
そこで、僕は悟った。赤坂さんは、いじめに遭っている。
赤坂さんの後ろ姿を見送るしかできなかった僕の背後にある女子トイレから、げらげらと笑い声を上げながらクラスメイトの女子たちが出てきた。僕のことなど気にも留めないで横切って行った。言いようのない怒りが身体中を駆け巡った。
それ以来、僕は積極的に赤坂さんに話しかけるようになった。そうすることで、赤坂さんへのいじめを妨げることができると考えた。ただし、政道や優香がいじめの標的とならないよう、単独で話しかけるようにした。
最初は突っぱねられていたけれど、しつこい僕に根負けしたのか、僕と会話してくれるようになった。そして、僕は有無を言わさない勢いで、お昼ご飯を一緒に食べた。具体的には、屋上でご飯を食べる赤坂さんを尾行するというものだった。これには赤坂さんも物申したがっていたけれど、僕は無理やり、隣に座った。
それを毎日繰り返していると、ついに諦めたのか、赤坂さんはその状況を受け入れるようになった。赤坂さんは一人になりたかったのだろうけど、またいじめられるのが怖かった。
ある日、赤坂さんが登校してくると、クラスに沈黙が走った。赤坂さんの頬に痣があった。心配になった僕は、休み時間に痣の正体を確認しようとした。けれど、赤坂さんは「なんでもない」の一点張りで教えてはくれなかった。
それから数日後、僕は図書委員の仕事で再び放課後の学校に残っていた。一通りの仕事を終えて廊下に出ると、前に赤坂さんをいじめていたと思われる女子たちが、今日はクラスのリーダー格の男子と一緒に歩いていた。
「女子トイレで赤坂ぼこすの楽しいな」
その言葉を聞いた時、僕の脳がフリーズした。あいつは一体、何を言っているんだ。
「次もちゃんとトイレ見張ってろよ。バレたらお前ら以上に俺が危ないんだからよ」
心臓が急速に冷えていくような感覚に襲われて、僕はそいつを睨んだ。遠目から見ていたこともあって、そいつらは僕に気づくこともなく通り過ぎて行った。
いてもたってもいられなくなって、僕は急いで前に赤坂さんが泣いていたトイレまで走った。女子トイレの前で一瞬、躊躇したけれど、それ以上に胸騒ぎが後押しして、僕は恐る恐るドアを開けた。すると、個室の一つから誰かがすすり泣くような声が聞こえてきた。
急いで駆けつけると、そこには胸元がはだけて顔に新しい痣をつくった赤坂さんの姿が腰を抜かした状態で泣いていた。
「赤坂さん!」
僕は思わず叫んで、赤坂さんを抱きしめた。赤坂さんの身体は濡れていて、ひどく冷たかった。
「いっつも、こんな目に遭ってるの?」
ぶるぶると震える赤坂さんの身体が、口を開かずとも答えを伝えてきた。自分の中で、何かが切れるのが分かった。
僕は赤坂さんに学ランを羽織らせて、女子トイレから出た。保健室に向かわせようとすると、「誰にも言わないで」と懇願するように言ってきた。普段、冷静沈着なイメージのある赤坂さんの衰弱しきった姿に胸が痛んだ。
仕方がないので、僕は赤坂さんを自分の家まで連れて行った。親が帰って来るのが夜遅い時間であるため、同級生の女の子を家に上げても問題はないはずだった。
震える赤坂さんにシャワーを浴びさせた。その間、僕はドライヤーで赤坂さんの制服を乾かした。
シャワーを終えた赤坂さんは、脱衣所に用意しておいた僕の寝間着を着てリビングへやって来た。僕の方が身体が大きいためサイズが合わず、袖の端が余っていた。
「ごめんね。乾くまでの辛抱だから」
僕が謝ると、赤坂さんは首を横に振った。
「あの、ごめん。迷惑かけて」
赤坂さんのしおらしい姿を初めて見た。
「いや、迷惑だなんて思ってないよ。ただ、思った以上にひどいことをされてたみたいでびっくりした」
赤坂さんは、何も言わなかった。
男子が女子に手を上げるなんて、ありえないことだ。僕は、あいつのことがどうしても許せなかった。
赤坂さんを見送った後、僕はあいつと話をしようと決意した。
翌日、赤坂さんは学校に来なかった。けれど、いつ学校に来ても平穏な日常を送ることができるように、あいつを体育館裏に呼び出した。
「いい加減、赤坂さんに手を出すのはやめるんだ」
前置きもなく僕はそう言った。元々不機嫌そうにしていた顔が、さらに苛立ちを見せた。
「なんで知ってる」
「お前が女子トイレから出て来るのを見た。そして、その中で顔に痣をつけた赤坂さんがいた」
「ちっ、だからしっかり見張っとけって言ったのによ」
面倒そうに頭を掻きながら、悪びれる様子のないあいつに腹が立って、僕は言った。
「止めないようなら、このことを学校中の人たちにばらす」
「ほう、俺を脅すとは良い度胸じゃねえか」
「本気だからな」
僕がそう凄むと、苦虫を嚙み潰したような顔をして舌打ちをした。
「分かったよ。もう、赤坂に手は出さねえよ」
あいつはそう言い残し、立ち去って行った。
僕は深く息を吐きながら、ポケットに入れていたスマホを取り出し、撮影を止めた。念のために保存された動画を再生すると、はっきりと僕とあいつの会話が録音されていた。
それから、しばらく赤坂さんは登校して来なかった。その間も、僕はあいつの動きを観察し続けた。赤坂さんが登校しない限り、何か不穏な動きをすることもないだろうとは思っていたけれど、僕は常に警戒していた。
けれど、僕の考えは、甘かった。僕が思っていた以上に、あいつは最低な人間だった。
赤坂さんが登校して来ない日が続いたある日、信じられないニュースが教室内で共有された。赤坂さんの母親が逮捕されたというのだ。その話を聞いた時、僕は自分の耳を疑った。
ホームルームが始まる前に、あいつの周りを取り巻きが囲んでいた。まさにあいつの口からそのニュースを聞いたのだった。しかも、赤坂さんの母親を捕まえた張本人だと言い張った。
「実は、赤坂とは幼馴染でさ。コンビニでなんか怪しい動きしてるおばさんがいるなって思ったら、赤坂の母ちゃんだったんだよ。まさかとは思ったけど、挙動不審な状態で商品を鞄に入れる瞬間を見たんだ。で、そのままコンビニを出ようとしたんだ」
鼓動が速くなるのが感じた。あいつの取り巻きたちは、盛り上げるようにして声を上げた。あいつは気持ちよさそうに話を続けた。
「もちろん、幼馴染の親を捕まえるなんて心が痛んだけどな。でも、このまま見過ごすわけにはいかないって思ったんだ」
うおー、という歓声が取り巻きから上がった。僕は、これ以上この話を聞いてるのが我慢できなかった。気分が悪くなって、教室から飛び出した。トイレの個室に籠り、嗚咽した。震える手でニュースを調べると、確かに赤坂という苗字の女性がこの地域で捕まったという記事が取り上げられていた。
一体、何が起きているのか分からなかった。赤坂さんの母親の人となりは分からないけれど、赤坂さんの母親がそんなことをするとは思えなかった。そして、あいつが赤坂さんの幼馴染であることを初めて知った。幼馴染なのにもかかわらず、赤坂さんに暴力を働いたのはなぜなのか。もう、訳が分からなかった。
僕は、赤坂さんの身を案じた。
数日間、生きた心地がしなかった。迫る文化祭の準備は身に入らず、いざ文化祭に突入したものの、その時僕がどのように過ごしたのか全く記憶にない。そして、文化祭が空けて二日経った日に事件が起きた。
昇降口で上履きに履き替えようとした時、上履きに手紙が差し込まれているのに気づいた。中身を確認すると、赤坂さんが書いたものであることが分かった。手紙の内容を読んだ時の絶望感は、今でも忘れることができない。
南山くんへ
私は十月十七日を最後の登校日にしようと思っています。
色々と私のことを気に掛けてくれてありがとう。
南山くんが知っている通り、私はいじめられています。
名前も口にしたくないようなあいつは、実は私と幼馴染なんだ。
あいつが私をいじめる理由には、一つ心当たりがあります。
中学校を卒業する前に、あいつが私に告白してきたということ。
私は、あいつからの告白を断った。
失敗だったのは、あいつが私と同じ高校に進学することだった。
入学してから、最初のうちはあまり接触してこなかったけれど、一か月もするうちに私に嫌味を言ってくるようになった。
それから段々エスカレートしてきて、私の椅子に画鋲を置いたり、女子を使って私をトイレの個室に閉じ込めて水浸しにしたり、最終的に直接暴力を振るってきた。
それだけなら、私はまだ耐えられたと思う。
あいつは、私のお母さんにまで手を出してきた。
ニュースになっているから知っているとは思うけど、お母さんが万引きで捕まった。
あいつが、コンビニでお母さんが盗みを働いていると証言した。
私は、刑務所でお母さんと面会した。
お母さんは泣きながら、私に何度も謝ってきた。
でも、その謝罪は自分の罪に対するものではなくて、私の居場所がなくなってしまうことへのものだった。
お母さんは、神様に誓って万引きなんてしていないと言っていた。
あいつが突然、コンビニの入口付近に向かったお母さんを押し倒して、お母さんの買い物鞄の中に商品を滑り込ませた。そして、お母さんのことを万引き呼ばわりした。
お母さんは必死に警察に弁明したけど、取り合ってくれなかったんだって。
そして、これはまだニュースになっていないと思うんだけど。
お母さんが自殺した。
刑務所の中で舌をかみちぎったらしい。
ほんと、どうして私たちがこんな目に遭わないといけないんだろうね。
私は、あいつのことが憎い。殺してやりたい。でも、私にはその勇気がない。
だから、私は別の人を殺すことにした。
臆病な疫病神を、殺すことにした。
こんなこと、南山くんに言っても仕方ないと思うけど、どうしても、誰かにこのことを知っておいてほしかった。
南山くんが話しかけてくれた時だけは、少しだけ、青春を感じることができました。
私にとってちょっぴり特別だったあなたには、どうしても伝えたかった。
感謝しています。
赤坂杏子
手紙を読み終えた僕は、怒りで手が震えた。
冒頭に書いていた十月十七日というのは、まさしく今日だった。僕は一気に階段を駆け上がり、自分の教室へと向かった。
勢いよく教室の扉を開け放った。数人がすでに登校していて、扉の音に驚いてこちらを見ていた。教室の中に赤坂さんの姿はなかった。
息を切らしながら赤坂さんの所在を考えていると、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。僕は悲鳴が聞こえた方へと走った。女子トイレの前で、女子生徒が腰を抜かしてわなわなと震えていた。
「何があったの?」
問いかけても声を出すことができないらしく、ただ女子トイレの中を指さした。
僕はゆっくりと、女子トイレの中に入って行った。一瞬、誰もいないように思えたけれど、個室の一つから、誰かの身体が見切れるのが確認できた。近づいて行くと、そこには惨状が広がっていた。僕はあまりの衝撃で嘔吐した。
制服を着た赤坂さんが、首を吊って自殺していた。
それから、先生がトイレに駆けつけて来て通報し、第一発見者である女子生徒とほとんど同時に死体を発見した僕が警察から取り調べを受けた。ということを、後から周りの証言で知った。僕は赤坂さんの死体を発見してからの記憶が、一切なかった。ただ、僕は手紙の存在を警察には言わなかったようだ。そう言い切れるのは、僕が未だに手紙を持っているからだ。
学年が変わっても、あいつとは同じクラスになった。僕はすっかり塞ぎ込んでしまい、クラ
スが別々になった政道や優香と関わることもなくなっていた。
僕はずっと、生きる意味を見失っていた。でも、ある時月島神社のことをふと思い出した。
小学生の時に、図書館で読んだ本に月島神社のことが書かれてあった。内容は、その神社の境
内にある井戸に死者を蘇らせる力があるというものだった。
死者を蘇らせるには、死者の命日が満月の日である必要がある。僕は縋る気持ちで発表されている二年後までの満月日を調べた。すると、一年後に赤坂さんの命日がちょうどスーパームーンと重なっていた。
僕の中で、希望が湧いた。まだ、生きる意味があった。
偶然にも、今年の十月十七日は、ホームルームで配られた年間予定表によると修学旅行に行く日だった。僕はこの機会を利用することにした。
僕はずっと、修学旅行の日がやって来るのを待ち侘びていた。修学旅行の前に、僕は久しぶりに政道と優香に声を掛けた。二人は僕が話しかけてきたことをすごく喜んでくれた。
「ずっと、心配してたんだぞ」
「でも、話しかけてもいいのか分からなくて」
二人は相変わらず優しかった。そんな二人にこんなお願いをするのは忍びなかった。けれど、僕は月島神社についての伝説を二人に話した。二人は、どうして僕がこんな話をするのか分からないといった様子だった。二人の反応は全くもって自然だった。
「僕にもしものことがあったら、来年の十月十七日の満月に月島神社で願ってほしいんだ。政道は僕のことを思い浮かべて、優香は赤坂さんのことを思い浮かべてほしい」
僕がそう説明すると、二人は怪訝な表情を浮かべた。
優香が不安そうに僕に言った。
「ねぇ、どうしてそんなどこか行っちゃうみたいな寂しい言い方をするの?」
「あくまで、もしもの話だよ」
優香は僕の言葉に納得していない様子だった。
「奏、変なこと考えてないだろうな」
普段は穏やかな顔をしている政道が、僕の本心を見抜こうと険しい表情を浮かべていた。
「変なことってなにさ。大丈夫。ただ、僕にとって信用できる二人には、月島神社のことを知っておいてほしかったんだ」
それっきり、僕は二人とは話していない。
修学旅行当日、学校からクラスごとに手配されたバスに乗って目的地に向かうことになっていた。バスに乗り込む直前、僕は隣のクラスのバスの入口に立ち、バスに乗り込む直前の優香に赤坂さんの手紙を託した。政道は優香と同じクラスだ。二人とも、バスの中で真実を知ることになるだろう。何も言わずに渡したため、優香は不思議そうに首を傾げた。
乗り込んだバスは、しばらくして学校を出発した。僕はボストン鞄の中に手を入れ、忍ばせた包丁に触れた。僕はこのバスの中で、体育館裏で録音したあいつとのやり取りを流しながら、あいつを殺すつもりだった。そして、その後に自分の首を切るつもりだった。
時が来るのを待ちながら、僕はずっと緊張していた。みんなに迷惑を掛けてしまうのは申し訳なかったけど、そんな配慮なんてしていられないほどあいつのことが憎かった。
携帯が鳴った。確認すると、政道からだった。緊張のあまり気づいていなかったけれど、何件も着信履歴が残っていた。僕は着信を取る代わりに、ただ一言「ごめん。後は頼んだ」とメッセージを送ろうとした。その瞬間、バスの窓の外からダンプカーが迫って来るのが見えた。直後に感じたことのない地響きが鳴り、バスの車体が振動した。バスはまだ、隣県までしかたどり着いていなかった。僕は、あいつを殺せないまま死んでしまうのだと、耐え難い衝撃に揉まれながら思った。バスの車体は横転し、僕の身体は道路に投げ飛ばされた。目の前に、頭から血を流しながら泡を吹くあいつの身体が倒れていた。
「ざまあみろ」
最後の力を振り絞って、僕はそう呟いた。
気がつくと、僕は道路の真ん中に横たわっていた。急いで立ち上がると、トラックがクラクションを鳴らしながら急ブレーキをかけて僕の目の前で立ち止まった。せっかく立ち上がったのに、思わず尻もちをついた。
なんとか歩道まで避難して、政道が僕に声を掛けてくれて状況を判断することができた。政道が、僕を生き返らせてくれた。そして、後から優香が赤坂さんを生き返らせてくれたことも分かった。二人には、頭が上がらなかった。無茶なことを押しつけたにもかかわらず、僕を責めるような言葉も吐かないで協力してくれた。
僕は、赤坂さんに謝りたかった。赤坂さんの母親が万引き犯人に仕立て上げられたのは、僕があいつにコンタクトしたせいかもしれないことを。そして、僕は赤坂さんが経験することのできなかった青春を、この二週間で雀の涙くらいでも構わないから取り戻したかった。
優香は、学校のトイレで苦しむ赤坂さんと合流できたらしく、今は公園にいるとの連絡が入った。僕は政道と一緒に、二人のもとへと向かった。
目が覚めた。携帯のアラームが鳴っていた。狭い部屋の中を反響する音が煩わしいのと、壁が薄いために隣にまで音が漏れてしまうことを恐れて慌ててアラームを止めた。
僕は政道の携帯で近くの学校を調べた。そして、ちょうど今日文化祭が開かれることを知った。僕は伸びをしてから部屋を出ようとした。すると、目の前に赤坂さんが立っていた。
「うわっ」
「おはよう」
「お、おはよう。もう起きてたんだね」
「うん。アラームうるさかったよ」
「あ、ごめん」
僕が謝ると、赤坂さんは小さく笑った。
「あのさ、今日の予定なんだけど、この街にある学校に行かない?」
「……なんで? 不法侵入するの?」
「文化祭があるんだって。良かったら行かない?」
赤坂さんは難しい顔をして黙り込んだ。
「ごめん、乗り気じゃないならやめておこう」
「……行く」
「……え、本当?」
「うん。南山くんとなら、行ってみたいかも」
赤坂さんの不意をつくような言葉に、僕は顔が熱くなるのを感じた。
準備を終えてから、僕たちは受付で会計を済ませた。学校に向かう前に、洋服屋でそれぞれが服を買った。ずっと制服を着ていると不衛生だし、知らない学校に別の学区の制服で入る勇気がなかった。
僕と赤坂さんは、新しい服を着て学校に向かった。すでに開催されているらしく、平日だというのにたくさんの人が校門に入って行く。
「何から回ろうか」
僕が訊くと、赤坂さんは「縁日」と答えた。クラスTシャツらしきものを着ている高校生に縁日が行われているフロアを訊き、そこへ向かった。
「わ、金魚すくいだ。懐かしい」
教室を覗いてすぐに、赤坂さんが珍しくはしゃいだ様子で指さした。教室の奥に、赤い金魚が大量に泳いでいる水槽があった。
赤坂さんは受付をする生徒からポイを受け取り、意気揚々と水槽の水面に浸けた。金魚の軌道を注視しながら、勢いよくすくい上げた。もう片方の手に持っていた金属の容器に金魚が数匹入った。それから、順調に金魚をすくい上げていき、最終的に十七匹も捕獲した。
「赤坂さん、すごいね」
「昔、お母さんとよくお祭りに行って一緒に金魚すくいしたんだ」
「なるほど、それで得意なのか」
「南山くんもやってみたら?」
「うーん、僕は苦手なんだよな」
尻込みしていると、赤坂さんに背中を押された。受付のところまでよろめくと、生徒からポイを手渡された。仕方なく水槽の側でしゃがんだ。そして、ポイを慎重に水面に突入させて、金魚が密集しているところにあてがった。それから、さっきの赤坂さんを思い出しながら、勢いよくすくい上げた。それを容器に入れようとしたけれど、金魚が一匹も捕れていなかった。再挑戦しようとポイを水槽に入れようとしたところで、赤坂さんが可笑しそうに笑っているのが視界の端で見えた。振り返ると、赤坂さんは「ポイを見て」と言った。
ポイの網の部分が、いつの間にか溶けてなくなっていた。自分でも滑稽に思える光景に失笑した。
記念写真を撮れるとのことで、僕は政道のスマホを受付の人に渡した。透明なビニール袋に自分が捕った金魚を入れて結んで手首から提げた。赤坂さんの方は絵になる量の金魚が泳いでいるけれど、僕のビニール袋にはただ水が詰められているだけで金魚は一匹も泳いでいない。撮ってもらった写真を二人で見返すと、赤坂さんがお腹を抱えながら笑った。
その後、体育館に行って劇を鑑賞したり、りんご飴や焼きそばを買って食べたりした。自分たちの学校では堪能することのなかったイベントに参加した。赤坂さんは、学校では見たことのない笑顔を浮かべていた。その様子を見て心がジーンとした。
翌日からの生活は、相変わらず地元から離れた空間で活動した。寝泊まりは安いビジネスホテルにして、周辺にある施設でゲームセンターで遊んだり、映画を観たりした。こうやって遊ぶのは本当に久しぶりだと、赤坂さんは言った。
そして、新月の日がやって来た。
ビジネスホテルから出てから、僕は赤坂さんに伝えた。今日が赤坂さんが蘇ったままでいられる最後の日であることを。赤坂さんは無表情のまま、僕の言葉に耳を傾けていた。
電車に揺られながら、政道のスマホでまだ学校にいる優香に連絡をした。放課後、部活が終わったら月島神社に来てほしいという旨だ。
僕と赤坂さんは無言のまま地元に戻り、一足先に月島神社に向かった。神社に着いてから、僕と赤坂さんは神楽殿の階段に腰を下ろして二人が来るのを待っていた。
夕方頃になって、二人が神社に現れた。息を切らしながら、政道と優香はこちらに近づいてきた。二人とも、何やら緊張している面持ちだった。
僕は二人に手を振った。それから、僕は礼を言って政道にスマホを返した。政道は気にするなと笑った。それから、真剣な表情をして僕に訊いた。
「今日なのか」
「うん」
「……そうか」
政道は唸りながら俯いた。
「奏、赤坂さんには言ったの?」
優香が不安そうに訊ねた。
「いや、まだ言ってないよ」
僕がそう答えるのを、赤坂さんは怪訝そうに見ていた。
僕は赤坂さんの方を振り返った。赤坂さんは、僕が真面目な話をするのだと察したのか、神楽殿から立ち上がり、階段を下りた。僕と赤坂さんが向き合う形になった時に、僕は言った。
「僕は、赤坂さんと同じ日に死んでいるんだ」
赤坂さんは、目を見開いた。
「同じ日と言っても、一年ズレてるけどね」
僕は赤坂さんに、事の顛末を話した。赤坂さんが学校に来ていない間にあいつを脅したこと、そのせいでターゲットを赤坂さんから母親に変えさせてしまったかもしれないこと、そして、あいつが死んだこと。
赤坂さんは、徐々に表情から感情が失われていくように無表情になっていった。
僕は、赤坂さんの目の前で膝をついた。そして、地面に額を擦りつけながら謝った。
「ごめん! 僕のせいで、赤坂さんの母親を死なせてしまったかもしれない。許されることではないと分かっているけど、僕には謝る以外の方法が思いつかない。本当に、ごめん!」
もっと早く言うべきだったのかもしれない。けれど、僕には自分が消える直前まで言う勇気がなかった。生き返ってまで、僕は卑怯だった。僕を見下ろす赤坂さんは、どんな表情をしているのだろう。
「南山くん。顔を上げて」
赤坂さんの静かな声に、僕は従った。赤坂さんは、泣いていた。表情一つ変えず、泣いていた。心が、ズタズタに切り裂かれたような気分だった。
「少し、一人にさせてほしい」
赤坂さんはそう言うと、僕に背を向けて神楽殿の反対側へと向かおうとした。
「赤坂さん、俺もごめん!」
「私もごめんなさい!」
赤坂さんは振り返らずに立ち止まった。
「いじめられていることに気づいていたけど、自分の身が可愛くて見ないふりしてた! 本当にごめんなさい!」
優香が涙を流しながら土下座した。
「俺も、何のために身体鍛えてんだよって、何回も自分を責めた。赤坂さん、本当にすまなかった!」
政道は額が擦り切れるほど、深く土下座した。
赤坂さんはしばらく立ち止まった後、僅かにこちらに顔を向けて言った。
「みんなのせいじゃない。謝らなくていいよ」
赤坂さんはそう言い残すと、今度こそ神楽殿の裏側へと歩いて行った。
謝罪できれば思い残すことはないと思っていたのに、自分勝手な僕は赤坂さんに許されたいと心のどこかで思ってしまっていた。一体、どれだけ惨めになれば気が済むのだろうか。
「「奏、ごめん!」」
自虐的な思考に浸っていると、突然二人が僕に頭を下げてきた。
「力になってあげられなくてごめん。私、どこかで自分がいじめの標的にされるんじゃないかって怖くて、傍観者になってた。本当にごめんなさい。友達、失格だな……」
「ゆ、優香。そんなことないって。僕は優香に感謝してる。突然、あの手紙だけ押しつけたのに、協力してくれただろ? すごく感謝してる」
優香は目に溜めていた涙を一気に解放するように声を上げて泣き出した。後ろから政道が僕の肩を掴んだ。振り返ると、覚悟を決めたような顔をして政道が言った。
「一発殴れ」
「……はい?」
「俺も、優香と同じく奏に手を差し伸べることができなかった。こんな不甲斐ない俺を、どうか殴ってほしい。頼む」
「……分かった」
僕は政道が歯を食いしばるのを確認して、思い切り殴った。恨みなんて一切なかったけど、こうしないと政道が未練を残してしまうのではないかと思った。政道は清々しい表情をすると、頬を摩った。
「利いたよ」
口を切って血を流す政道と、僕は握手した。
「また、会えてよかった」
「俺もだ」
政道の声が、震えたように聞こえた。政道の手が、僕の手を強く握りしめ返した。
二人が帰るのを見届けた後、僕は神楽殿の階段で座っていた。二人がいなくなってから夕日が勢いよく沈んだように感じられた。それからの数時間、ずっと赤坂さんが現れることはなかった。辺りはすっかり暗くなっていて、体感ではあと三十分程で日付が変わるのではないかと思われた。
これで、良かったのだろうか。これが、ベストだったのだろうか。そんな意味のない疑問を心の中で転がしていると、背後で足音がした。振り返ろうとする前に、背中が突然温かくなった。
「奏、ありがとう」
耳元で、赤坂さんの声が聞こえた。
「あれ、私のことは名前で呼んでくれないの?」
僕は振り返ることもできないまましばらく固まったままでいた。けれど、勇気を振り絞って僕は彼女の名前を口にした。
「こちらこそ、ありがとう、杏子」
ふふふ、という笑い声が聞こえたかと思うと、頬に柔らかい感触がした。
「……今のって」
振り返ろうとすると、背中の感覚が突然軽くなった。どうやら、僕たちの時間はここで終わりのようだった。どうか、お幸せにね、杏子。




