冬
東京湾上空は夜空の代わりに爆撃による炎と煙で覆われていた。
少なくとも、零戦の窓からは広いはずの空の色がほとんど見えないと言って差し支えない。俺は瞬き一つしないよう、敵機の動向を観察し続けた。
硫黄島の攻略に先立ち、我々の航空戦力を潰そうとするアメリカ側からの攻撃に対応するために出撃命令が下った。しかし、零戦がアメリカに鹵獲されたことで零戦の弱点が把握され、快進撃を誇っていた零戦での戦闘は一気に不利になっていた。
仲間が乗る零戦が一機、また一機と撃墜されていく。次は、俺の番かもしれない。恐怖心はなかった。俺の命一つで一人でも多くの国民が救われるのであれば、それ以上に幸せなことはない。ただし、心残りは、一つだけあった。
上空に飛び立つ前に読んだ静子からの手紙の内容が脳裏を過った。
『来世では、東京駅で会いましょう』
たった一文、そう静子の字で書かれた内容に心当たりがなかった。
なぜ東京駅なのか。一晩考えてみたが、答えは出なかった。ただ一つ、確かなことは、俺がこの戦いで死ぬのだと、静子は確信しているということだ。
最後に静子と会った時、彼女は俺から抱き着いて離れようとしなかった。それだけが、唯一後ろ髪を引かれた出来事だった。
俺が放った一撃が、敵機を一機撃墜した。俺は雄叫びを上げながら、遠くから俺を狙う敵機の動きを察知して旋回した。
次の瞬間、先刻まで死角に飛行していた敵機が、こちらに向かって銃撃してきた。しまった、と思った瞬間、この世のもととは思えないほどの痛みと、熱さと、方向感覚の欠如が襲ってきた。
落ちる。
それが、俺が最期の瞬間に思ったことだった。
凍えるような寒さで、俺は目を覚ました。
感覚がなくなるほど身体は冷えているのに、何かに揺られているような感覚と、ざーざーという音が心地良い。夜空は綺麗な星々と、嘘みたいに形の整った月がこちらを見下ろしている。空を見上げて心に安寧が宿ったのはいつぶりだろうか。
そんな呑気なことを逡巡思考した後、急速に鼓動が速まり、慌てて上体を起こした。波打ち際で、俺は寝ていたらしい。慌てて周囲を確認してみたが、戦闘機が一機も確認できない。
「どういうことだ。なぜ、俺は生きているんだ」
思わず独り言を呟くと、口から白い息が出た。飛行服を着ているものの、冬の寒さに加えて海水で水浸しになっていることからかえって身体が冷える。
一体、何が起きている。俺は撃墜された時、間違いなく死んだはずだった。
自分の身体を見渡し、顔中を触れてみたが、外傷は全くなかった。奇跡的に身体損傷から免れ、海に落ちた機体から脱出し、ここまで流されたということか。いや、そんな都合の良い話があるはずがない。
俺は突然、知らない世界に一人取り残されたような錯覚を覚えた。もう一度、周囲をよく見渡してみた。すると、異様な光景が目に飛び込んできた。
「なんだ、あれは」
海の周辺が、見たことのない建造物で覆いつくされており、夜だというのに煌びやかに光っていた。巨大な橋が海の上に架かっており、俺の知る限りでは見たことのないような造りをしていた。
夢でも見ているのか。実は大日本帝国ではないどこか先進的な国まで流されてしまったのか。
考えていても埒が明かなかったため、俺は浜辺から遠ざかり、馴染みのない建造物が建ち並ぶ都市へと向かった。
アスファルトで整備された巨大な道路を、自分の知らない自動車が秩序立って大量に行き交っていた。物凄い速度だ。
「一体これは、なんだというんだ」
目の前に広がる光景が未だ受け入れられないでいると、ひそひそと誰かが話す声が聞こえて振り返った。俺の方を見て、見たことのない恰好をした若い女たちが何やら声を潜めながら話していた。別の方からも同じように潜めた声が聞こえてきた。人によっては、俺を見てくすくすと笑っているようだった。
どうやら、俺の飛行服が可笑しくて笑っているのだと遅れて気がついた。周りの人たちの恰好は、俺にとって奇妙なものであるが、彼らからすれば俺の方が異質な恰好をしているのだと言いたげだった。そして、驚いたのが、衣服にアルファベットが書かれていることだった。天皇陛下からそのような命が下ったという事実はないはずだが、民間人の間では敵対国であるアメリカが使用するアルファベットが刻印された服装をしたり、物を所有したりすることは禁忌扱いされているはずだった。
奇妙な音が、見たことのない信号機と思われる機械から発せられた。人型の模様が映し出されており、それが緑色に点灯している。
大量の人々が、空襲を恐れる様子も見せずに道路へと歩み始めた。その様子に唖然としながら立ち止まっていると、背後から人の波に押されてしまい、仕方なく俺も周りに合わせて歩き始めた。
行く当てもないまま進んでいると、やがて開けた空間にたどり着いた。どうやら公園らしく、並木道に沿って歩きながら広場になっている草原を眺めていた。
ずぶ濡れになった飛行服の重量に耐えながら、行く当てもなくただ歩いていた。その時、ふとあの手紙のことを思い出した。
『来世では、東京駅で会いましょう』
そうか。ここは、あの世なのか。妙に腑に落ちて、俺は思わず頷いた。想像していた世界とは随分と違ったが、自分が知っている日本とはまるで違う世界が広がっているため、ここがあの世だと判断するのが合理的な気がした。
「東京駅に行ったら、何か分かるのだろうか。そもそも、あの世にも東京駅はあるのか」
長椅子で寝転ぶ白髪の老人が目に入った。俺は彼の身体を揺らした。彼は不機嫌そうにこちらを睨んできた。
「何の用だ」
「寝ているところすまない。東京駅はどこにある?」
「東京駅だぁ? なんだ、酒をくれるわけじゃねえのか。だったら今すぐ消えな」
突っぱねるようにして、老人は再び眠り始めてしまった。
俺は自分のことを神格化しているわけではないが、特攻隊の人間に対して今のような態度を取れば、近隣住民から白い目で見られるはずだ。彼は定住する家を持たない浮浪者であるため、このような言動をしたのだろうか。
そこまで考えて、自分が鳥頭だったと恥じた。ここはあの世であり、俺が知る常識が通用しない世界なのだということを忘れていた。となれば、あの老人は前世で何をしていたのだろうか。そもそも、あの世にはあらゆる時代で命を落とした人間がいてもおかしくないはずだ。しかし、それにしてはここに来るまでにすれ違った人々は、ある程度統制の取れた身なりをしていたように思える。
暗い並木道をさらに進んでいると、前方から来た若い男女が俺の方へと長方形の板を向けた。それから、短い音がその機械から発せられると、一瞬眩い光が周囲に走った。俺は新種の武器かと身構えた。
「もしかして、ユーチューバーの人ですか?」
聞きなれない単語に思わず眉間に皺を寄せると、二人は俺が聞き取れなかったのだと勘違いしてもう一度同じ言葉を口にした。
「ユーチューバーの人ですか?」
「その、ユーチューバーというのはなんだ?」
俺がそう訊き返すと、二人は何が楽しいのかはしゃぐように顔を見合わせた。
「すごい、役になりきってる!」
二人は俺の質問に答えることなく、どこかへ去って行ってしまった。
俺は先行きが不安になった。死んだら閻魔大王が俺に烙印を押し、極楽浄土に向かわせるか地獄に向かわせるか、そうした厳格な手続きがあるのだとばかり思っていたが、言葉は通じるがまるで文化の違う人たちが蔓延る状況に戸惑うばかりだった。
腹が鳴った。思わず腹部を手で押さえた。死んでも腹は減るものなのか。死んでもなお、苦しまなければならないのか。
俺はこの世界の構造に失望しながら、公園を後にした。
信じがたいほどの高度を誇る建造物の間を縫ってしばらく歩いていると、高笑いする中年の女が突然俺に絡んできた。
「やだ、あんた男前ねぇ」
俺の腕を叩きながら、何がそんなにも愉快なのかけらけらと笑っている。酒の臭いがふわりと漂ってきて、酔っ払っているのだとすぐに気がついた。
「おい、やめないか」
頭の薄い中年の男が、世話を焼くように女の手を引いた。
「なによ、稼ぎも少ないくせに!」
女が男にそう言った。俺は心底驚いた。こんなふうに女が男に食ってかかるなんて、信じられなかった。しかし、男の方は慣れた様子で「そんなこと言うなよぉ」と力なく笑った。これが、あの世では普通なことなのか。それとも、この二人がおかしいだけなのか。
「ねぇ、私たちこれから二件目に行くんだけど、よかったらあんたもどう?」
「すまない。俺はこれから東京駅に向かわなければならない」
「え、東京駅? 随分遠いのね。それにあんた、よく見たらずぶ濡れじゃない。風邪引くわよ」
「身体は強い方だから平気だ」
「最近は原点回帰のコスプレが流行っているのか」
男が感心した様子で腕を組みながら俺をじろじろと見てきた。また、聞きなれない単語が出てきた。
「で、東京駅にはどうやって行くのよ」
「歩いて行くつもりだが、如何せん方角が分からない。途方に暮れていたところだ」
俺がそう言うと、信じられないといった様子で二人揃って目を丸くした。
「歩いてって……」
「体力には自信がある」
「……そういう問題なのかしら」
女が首を傾げながら困惑した。
「ねぇ、なんだかこの子心配だわ。あんた、私の足だからお酒飲んでないでしょ。送ってあげれば? 東京駅まで」
「どうして俺が」
「なんだか分からないけど、この子、冗談を言ってるようには見えないのよ」
「タクシーを使ったらいいだろう」
「あなた、お金は持ってるの?」
俺が首を横に振ると、二人は呆れたように溜息を吐いた。
「人助けだと思って、送ってあげて。また今度可愛い子を紹介してあげるから」
「……その言葉に嘘はないな」
「女に二言はないわ」
「よし、乗った。おい、俺について来い」
男は上機嫌になって俺に言った。どうやら、俺は案内してもらえることになったらしい。
「すまない。礼を言う」
俺は二人に頭を下げた。
「いいのよ。身体に気をつけてね」
「心遣い、感謝する」
俺は女に敬礼した。女は可笑しそうに笑うと、俺に倣って敬礼した。
しばらく男について行くと、巨大な建物の中に入った。見たこともないような鉄の扉の前で立っていると、扉が開いた。棺を縦にしたような箱型の空間に、男が足を踏み入れた。少し警戒したが、俺は男の後に続いた。いくつか数字が書かれてある板のうち一つに男が触れると、扉が閉まった。それから、足元が覚束ないような感じたことのない不安定さが身体を襲った。男は慣れているのか、微動だにしなかった。
扉が開くと、道路で散々目にした自動車がいくつも並んでいた。黒い自動車の前で男が立ち止まると、男が「乗れ」と俺に指示した。
自動車の中に乗り込むと、操縦桿とは違った見慣れない舵やスイッチがある。それらを思わず凝視していると、男が気味悪そうに俺のことを見ていた。俺が咳払いをして姿勢を正すと、男が「シートベルトしろ」と言った。何を言われたのかが分からず困惑したまま固まっていると、男は溜息を吐いて俺に覆い被さった。思わず身構えると、俺の横にあった平らな布のようなものをのばして金属部分に固定した。それにより、俺の身体は固定された。
「じゃあ、行くぞ」
男の合図に頷くと、突然車内が轟くと、車体が揺れ始めた。驚いて車内を見渡したが、異常はなさそうだった。
男はレバーを引くと、自動車を発信させた。少し進んだかと思うと、直角に曲がり、凄まじい手捌きで自動車が並ぶ間を通り抜けた。それからコンクリートでできた下り坂を下り、建物の外へと出た。道路に出た自動車は他の自動車の列に吸い込まれるようにして加わった。呆気に取られながら一連の様子を見ていた俺は、男に賞賛の言葉を送った。
「素晴らしい操作技術だな。ぜひ、参考にしたいものだ」
男は満更でもなさそうに「これくらい普通だ」と笑った。
窓の外に流れる景色は、鉄道から見えるものと遜色ない、あるいはそれ以上の速度で過ぎていく。まるで、地上を這う戦闘機みたいだ。ただし、戦闘機とは違って身体を押さえつける重力はほとんど感じられない。
「話しかけてもいいか」
俺が男に訊ねると、男は頷いた。
「さっきの女、あんたの妻か」
男はぎょっとしたような表情を浮かべて俺を見ると、大笑いし始めた。
「あいつが俺の女房か。そいつは傑作だ。あいつはそんなんじゃねえよ」
男は余程可笑しかったのか、目頭を拭った。妻ではないとしたら、愛人なのだろうか。
「お前さんは東京駅で何するんだ?」
男が俺に訊いた。
「分からない」
「あ? 分からないだって?」
「俺の幼馴染が、そこにいるかもしれない」
「なんだそりゃ。そんな不確定な逢瀬に付き合わされてんのか、俺は」
男はこめかみを押さえながら溜息を吐いた。
「ま、約束は約束だ。東京駅までは送り届けてやる」
「かたじけない」
「……若い癖に言葉が堅くて調子狂うぜ」
男は奇妙なものでも見たみたいに目を細めた。
男との会話は、それ以降行われることはなかった。代わりにラジオらしきものを流し始めた。俺が全く知らない曲がいくつも流れた。あまりにも速い曲調に慣れることはなかった。
気づけば、俺はすっかり眠ってしまっていた。目が覚めたのは、男が俺を呼びかけたからだった。
「もうすぐ着くぞ」
「すまない、眠ってしまっていた」
「それは構わないが……お前さん、大丈夫か?」
男の言葉の意味が分からず、俺は男の方を振り返った。
「ずっとうなされてたぞ。爆撃がどうのこうのとか、静子はどこだとか」
怪訝そうに俺を横目で見る男から、俺は思わず顔を逸らした。全く覚えていないが、俺は静子を夢に見たのか。俺は他人に静子の夢を見ていたところを見られたことが気恥ずかしくて、顔が火照るのを感じた。
程なくして、男が自動車を停めた。
「本当に助かった。この恩は、どこかで」
「いや、お返しなんて望んじゃいねえよ。人との出会いは一期一会って言うだろ?」
「……かたじけない」
俺は深々と男に頭を下げた。
「ま、頑張れよ」
男はそう言い残すと、どこかへと自動車を走らせて行った。自動車が見えなくなるまで、俺は敬礼を続けた。
東京駅は、俺が知っているものとは随分違っていた。近代的な赤レンガで構築されている様がひどく美しい。そもそも、直接見たことがなかったため白黒の写真でその存在を知ったこともあり、二人の助けがなければ絶対にたどり着くことができなかった。
おそらくは深夜だというのに、周辺では人々が平然と行き交っている。この世界が俺の知っているこの世とは別の世界だとは思っているが、いつ空襲警報が鳴ってもおかしくはないと身体が身構えている。
駅の入口は封鎖されてしまっているようだった。広大な駅の周りを一周し、静子の姿がないか隈なく確認したが、結局見つけることはできなかった。警報が鳴らない限り、こんな夜遅くに起きていることの方が不自然だったと思い至り、今日のところは休むことにした。
赤レンガの壁に背中を預けて座った。あまりの寒さに身体が震える。それに、ひどい空腹が襲ってくる。けれど、訓練している時のことを思い出せば、これくらいなんともないことだった。
今頃、俺が生きていた帝国の戦況はどうなっているのだろうかと思いを馳せてみた。出撃した仲間のうち、果たしてどれくらいが生き残っているのだろうか。戦況的には、アメリカ側が有利だろう。圧倒的な戦力差を感じていたが、それを口に出してしまえばどんな仕打ちを受けるか分かったものではなかった。
そんなことを考えていると、夢か現か分からなくなった。微睡みの波に身を委ねながら、俺は眠りに就いた。
目を覚ました時には爆撃のない青空が広がっていた。澄んだ空気が冷えた身体を刺してくる。背広を着た大勢の人が俺を物珍しげに一瞥をくれながら横切って行く。
俺は慌てて立ち上がり、駅の入口を確認した。入口は解放されていた。俺は飛び込むように入口の中へと入って行った。
駅の中は、外観以上に広大で、そして複雑だった。この中に突入する勇気は、俺にはなかった。もしも静子が本当にこの駅にいるのならば、双方にとって駅の外で待つことが賢明に思えた。
俺は駅の外周を何度も周った。途中、何度か不可思議な長方形の板を俺に向ける人々がいたが、昨日の時点でそれが攻撃性のあるものではないと把握できていたため、特に咎めることはしなかった。
しばらく静子の姿を探そうと歩き回ったが、一向に見つけることができなかった。いよいよ、静子が口にしていた「東京駅」という単語への信憑性が薄れてきた。
あえて、赤レンガの前で立ち止まることにした。そうすることで、静子の姿を探しやすくなるかもしれないと思ったのだ。同時に、静子の方も私の姿を探しやすくなるだろう。
しかし、待てど暮らせど静子が現れることはなかった。静子の口にした「東京駅」というのはあくまで俺が前にいた世界の東京駅であって、俺が今いるこの世界の東京駅のことを指してはいないのではないかと勘繰る始末だった。
途方に暮れながら静子の姿を探していると、隣から声を掛けられた。
「あのう」
細々とした声に振り返ると、何やら貧弱そうな青年が遠慮がちに俺の様子を窺っていた。
「誰だ、あんたは」
青年は俺の問いかけには答えず、この世界に来てから何度も浴びた好奇な視線を向けてきた。
「マジでいた」
青年はそう呟くと、俺に長方形の板を突き付けてきた。
「これ、あなたですよね」
それには、俺の姿写っていた。
「なんだ、これは……」
「写真ですよ。SNSにアップされてました」
「写真? いや、なぜ色が褪せていない」
「だって今、令和ですもん」
「令和……?」
「あ、そっか。ごめんごめん、忘れて」
「通行人たちのほとんどがその板を持っている。一体それはなんだというんだ」
「スマホですよ」
「スマホ……?」
「ま、昭和人には分からないですよね」
「……さっきから何を言っているんだ?」
先ほどからこの青年とは会話が嚙み合わない。ここで時間を浪費している場合ではなかった。
「すまない。人を探しているんだ。手短に用件を頼む」
「僕について来てください」
「……聞こえていなかったのか。俺は人を探しているんだ」
少々苛立ちを込めながら青年に言うと、青年は面倒くさそうに溜息を吐いた。
「あなたが探している静子さんから頼まれてるんですよ」
「……なんだと?」
俺たちとは無関係なはずの青年の口から静子の名前が挙がったことに、俺は心底驚いた。
「あんた、なぜ静子を知っている?」
「ついて来れば分かりますよ」
「…………」
青年は困ったように頭を掻きながら、諭すように言った。
「警戒する気持ちは分かりますけど、俺について来なかったとして他に行く当てでもあるんですか?」
「……それは」
「なら、大人しくついて来てください」
青年の言う通り、俺には静子と出会う手掛かりがなかった。上手く言いくるめられた気がして悔しいが、俺は青年の後を追うことにした。
難解な機械や自動的に作動する階段など、目にするだけで頭が痛くなりそうだが、青年はなんの躊躇いもなく人混みの中をぶつかることもなく歩き続けた。
やがて駅のホームに着くと、おびただしいほどの人が列を成して立っていた。どこを見ても、自分が知る駅よりもはるかに高度で先進的だった。
上空から列車が到着する警告が流れた。程なくしてやって来たのは、俺が知る鉄道とは程遠いものだった。全く見たことのない車種に見惚れていると、青年が「乗るよ」と声を掛けてきた。我に返って後に続くと、列車の中は人で溢れかえっていた。
列車の窓から見える街並みは、人の姿など見えないほどに建造物で溢れかえっていて、現代技術では到底組み立てられないような高度なものばかりだった。そして、車内に色のついたテレビのようなものが流れた。ブラウン管ではなく壁に設置されている不可解なそれには、驚くほど上手い絵が軽快に動いている様子が映し出されていた。車内でも、周囲の人から好奇な目線が送られ続けた。
圧倒されながら列車に揺られているうちに、青年に促されて駅へと降りた。それから、青年を見失わないように青年の背中を追った。
駅から降りて、青年とともに三十分ほど歩いた。そこには、家々が並んでいるが、そのどれもが見るからに屈強な造りをしていた。
そのうち、ある家にたどり着いた。
「ここだよ」
青年が俺の方を振り返った。
「ここが、あんたの家か」
「いや、俺ん家ではない。近くに住んではいるけど」
「それなら、一体ここは……」
「ま、とにかく上がって」
青年が扉を開けると、中には綺麗な板の廊下が続いていた。
「はい、ここで靴脱いで」
「靴を脱ぐのは当然だろう」
「……これは失礼しました」
青年はなぜか気まずそうに頭を掻いた。
靴を脱いで廊下に上がると、俺が知っている家とは比べ物にならないほど清潔感の溢れた壁が目についた。思わず触ると、ざらついた感触がした。
さらに奥に進むと、四人掛けの卓子があった。さらに部屋を見渡すと、目にしたことのない機器が部屋中にあった。
青年は襖を開けると、中にいる誰かに声を掛けた。
「お婆ちゃん、連れて来たよ」
青年はその部屋に入ったかと思えばすぐに出て来た。手にはお札が握られていた。
「あなたのおかげでお駄賃がもらえた。感謝するよ」
青年は機嫌良さそうにそう言って、卓子の前にある椅子の一つに腰掛けた。
するとすぐに、開いた襖から白髪の婆さんが腰を曲げながら出て来た。婆さんは俺の姿を見ると同時に、優しく微笑みかけてきた。
「いらっしゃい。まあ、やっぱりずぶ濡れじゃない。お勤めご苦労様でした」
あまりに自然に迎え入れられたことに面食らい、言葉を返すことができなかった。
「お湯は沸いてあるから、浸かってらっしゃい。服は私が用意しておきますから。海斗。お風呂まで案内してあげてちょうだい」
「えー」
青年は億劫そうに椅子に背中を預けてから、勢いよく立ち上がった。
「こっちだよ」
青年が廊下に出たため、俺も部屋から出ようとした。けれど、俺は婆さんが気掛かりで、思わず振り返った。婆さんは仏みたいな笑顔を浮かべながら、俺のことを見ていた。俺はただで厚意に甘えることに後ろめたさを感じて会釈した。
浴槽は、未知の素材を使って造られているようで、温泉ほどではないが家庭用の浴槽としては人生で一番大きく感じた。奇妙な機械が壁に設置されており、数字が表示されていた。青年からの説明で、それは湯舟の温度を示しているということが分かった。
青年が浴槽からはけたのを見計らい、飛行服を脱いだ。浴室に入った瞬間、すっかり冷え切った身体を湯気が覆い、張り詰めていた神経が緩むのを感じた。
恐る恐る湯舟に足先をつけた瞬間、熱いのと心地良いのとで涙が出そうになった。一気に身体を湯舟に浸からせると、思わず声を上げた。
「極楽だ……」
しみじみとそう呟いた。こうやって一人でゆっくりと湯舟に浸かるなんていつ以来だろうか。毛穴から入ってきたお湯が固まった血液をほぐすように、体内が温かくなった。俺は、こんなふうに国民が幸せに生きられるように戦ってきた。
「静子。無事でいてくれ」
優しく温めてくれる湯舟に丸腰にされたように、心の奥底に秘めていた恐怖感が浮上してきた。ずっと、静子のことが気掛かりだった。もう一度、抱きしめたかった。
湯舟に混じってしまえばバレないと自分に言い聞かせて、俺は涙を流した。一度出てきた涙は、しばらくの間止むことがなかった。
心身ともに清々しい状態で浴槽から出ると、肌触りの良い湯上げと奇妙な着替えがいつの間にか用意されていた。湯上げで身体に付着したお湯を拭い、用意された衣服に着替えた。
部屋に戻ると、卓上には白米とみそ汁、秋刀魚が三人分用意されていた。鼻腔をくすぐる良い匂いだった。自分の意思に反して、腹が情けない音を鳴らした。
「おや、上がったんだね」
俺の姿に気づいた婆さんが台所でお茶を淹れていた。
「あぁ。二人のご厚意に感謝する」
「そんな畏まらなくても大丈夫よ。さ、座って」
卓子には、すでに青年が座っていた。長方形の板を眺めながら、指を動かしている。婆さんが椅子に座るのを手伝った後、俺も椅子に座った。
「海斗。それを一旦置きなさい」
「……はーい」
青年は長方形の板を卓上に置いた。
「それでは、手を合わせましょうか。いただきます」
「「いただきます」」
婆さんの掛け声に続いた青年は、かきこむように米を頬張った。
「ほら、あなたもお食べ」
婆さんの言葉に頷き、俺は米を口に運んだ。あまりの美味しさに、青年に引けを取らない速さで米を口に頬張った。
「美味しいかい?」
「……美味しい」
「そう、それは良かった。お腹空いてただろう。たくさんお食べね」
「ありがとう」
婆さんの言葉に礼を述べた後、みそ汁を口に含んだ。
「……これは」
……似ている。食堂で働いていた静子の顔が思い浮かんだ。
「おやおや、どうしたんだい」
「なんで泣いてるの?」
「……え?」
二人に指摘されて、俺は自分の目元を拭った。生温かい滴が、指についた。これは、涙なのか。浴槽で散々泣いたというのに、まだ涙が出てくるのか。涙が止まらなかった。
「すまない。自分でもなぜだか分からないが、懐かしく感じてしまって。つい……」
二人には、恥ずかしい姿を見せてしまった。そんな俺を二人は咎めることもなく見守りながら食事を続けた。涙を流しながら、私は食事を完食した。
「何から何まですまなかった。恩に着る」
俺が頭を下げると、二人は顔を合わせて笑った。
「もう帰っちゃうの?」
青年がどこか悪戯っぽく笑った。
「これ以上世話になるわけにはいかない」
「行く当てもないのに?」
「……それは」
「そんなに生き急ぐこともないんじゃない? それに、あなたにはしばらくお婆ちゃんの手伝いをしてもらう必要があるし。これでようやく僕もお役御免ってわけだ」
青年の言っている意味が分からずに、俺は首を傾げた。
「これが、あなたの大切な静子さんが望んでいることなんだよ」
また、青年の口から静子の名前を聞くことになった。
「やはり、静子のことを知っているんだな」
「ま、いずれ分かるよ。じゃあ、そろそろ帰るよ」
青年はそう言うと、家を出て行ってしまった。
婆さんと二人きりになった部屋で気まずい思いでいると、婆さんが俺の方を振り返った。
「ここは今日からあなたの家だから、好きにくつろぎなさい」
婆さんはそう言うと、襖の向こうにある居間に向かった。
なぜ俺に対してこうも良くしてくれるのかが分からず怪訝に思っていたが、青年の言っていた通り静子を探しに行こうにも、どこを探せば良いのか皆目見当もつかない。そもそも俺が知っている東京とは全く異なっているため、目印となるものもない。そして、青年の言葉を信じるのであれば、静子のことについていずれ分かることがあるのだろう。完全に信用していいものかは判断しかねるが、信じる以外にできることは、今の俺にはないように思えた。
廊下から立派な階段をのぼると、部屋が二つあった。そのうちの一つは物置きに使われているらしく、もう一つの部屋は綺麗に整頓されていた。
部屋の中にはふかふかの寝台があった。俺は喉を鳴らしてから、それに横たわった。なんともいえない心地良さに、俺は深く息を吐いた。
気づかないうちに疲弊していたらしく、全身に重力の負荷がかかったみたいな疲労感が乗っかってきた。抗いようのない眠気にも襲われ、瞼が自然と落ちてきた。
学徒出陣による特攻命令が出たことを家族に報告した時、全員の表情が強張ったことを覚えている。けれど、心の内に本心は秘め、全員が大げさに喜んだ。今夜はご馳走だとはしゃぎ、近所の人たちにも俺が名誉ある特攻隊員に命じられたことを誇った。
唯一、静子だけは俺の報告を受けた時の表情と行動が一致していた。静子は目に涙を溜め、俺に抱き着いてきた。
「嫌です! どうして正人さんが行かなければならないんですか!」
静子は食堂屋の前で人目も気にせず、駄々をこねるように俺の胸元に額を擦りつけながら泣いた。俺は慌てて人気のないところへと静子を連れて行った。
「静子。これは命令でもあるが、俺の本望でもあるんだ。俺が出撃することで、救われる命があるんだ」
諭すつもりで静子の肩を掴んだ。
「分かっています。正人さんがお国のためを思っていることは。ですが、私はどうなるんですか」
「……静子」
「私の気持ちは、どうなるんですか。独りよがりなことを口にしているのは分かっています! でも、あなたのいない世界を生きる意味が、私には分かりません」
静子の思想は、俺のものとは相反していた。しかし、それはあくまで今が世界大戦になっているからであって、今が平和な世の中だったとしたら、俺も静子と同じ気持ちになっていたのかもしれない。
「俺は、静子に生きていてほしい」
幼い頃から食堂に入り浸っては、毎回腕を上げる静子の料理を食べるのが楽しみだった。今ではすっかり、食堂の看板娘になっている。俺が大学に入るために勉強していた時には、俺の家に来ては差し入れをくれた。たまに、食堂の奥にある静子の部屋で勉強させてもらったこともあった。なんというか、静子といると落ち着くのだ。夜中、いつの間にか眠っていた時には静かに毛布を被せてくれたり、俺の好きなみそ汁をわざわざ作ってくれて勉強のお供として差し出してくれたり、静子には随分と恩がある。
だからこそ、俺は静子が平和に暮らせる国にするために、敵国との戦いに参加するのだ。
「正人さんは、もう私と会えなくなっても平気なのですか」
泣きはらした目で、静子は俺を見上げた。
「……平気と言えば嘘になるな」
「私、正人さんを困らせること言ってもいいですか?」
「困らせること?」
俺が訊き返すと、静子は俺の唇に接吻した。俺は思わず仰け反った。
「私、あなたのことが好きです。幼少期からずっと、あなたに憧れを抱いていました。恋心を持っていました。でも、鈍感なあなたはとうとう気づいてくれずに私のもとを離れようとしましたね」
今までにない程に饒舌な静子に気圧されて、返す言葉が見つからなかった。
「正人さんは、私のことをどう思っているんですか」
静子が一歩、こちらに身を乗り出した。普段はお淑やかな静子の迫力に狼狽えながら、俺はどう返答するのが正解なのか分からなかった。答えによっては、むしろ無責任なものになってしまうのではないかと危惧したのだ。
「俺は、静子のことをかけがえのない人だと思っている」
静子の頬が赤くなるのが分かった。俺は罪悪感に打ちひしがれながらも、その続きとなる言葉を紡いだ。
「だが、俺のことを待っていてくれとは言えない。だから、静子の気持ちに応えることはできない。どうか、戦争が終わった後、自分を幸せにしてくれる人を見つけてほしい」
俺が言い終えると同時に、静子の目が吊り上がっていった。こんな静子の顔を見るのは初めてだった。
「あなたはそんなことを言うんですね。分かりました。もういいです。お身体ご自愛下さい」
静子は他人行儀に頭を下げると、食堂屋の方へと戻って行った。その背中を見送る時、引き留めたい衝動に駆られた。自分の本心を、全てぶちまけてしまいたかった。けれど、必死に留まった。これでいい。この方が、未練のないまま別れることができる。これは、静子のためでもあり、自分の気持ちに整理をつけるためのことでもあった。
それから、家族と最後の談笑を終え、心残りのないよう感謝を伝えて過ごした。俺は静子のいる食堂屋に赴くことはなく、静子も俺を訪ねてくることはなかった。
大勢の人に見送られながら、俺は配属先へ向かった。自分が進む道の両脇が人々で埋め尽くされていた。その中に、静子の姿を見つけた。目が合うと、静子が口元に両手で輪をつくり、なにかを俺に叫んだ。けれど、歓声にかき消されてその声が届くことはなかった。静子は涙ぐみながら俺に手を振った。俺は静子に微笑みながら手を振った。記憶に残る静子の最後の瞬間は、ハンカチで顔を覆う姿だった。
辺りは暗くなっていた。こんなにも長い間眠ったのは随分と久しいことだった。
身体を起こして寝台から立ち上がった。身体は晴れ晴れとしていて、すこぶる体調が良い。やはり、睡眠は大事だ。
一階に下りると、婆さんが椅子に座ってテレビを観ていた。当たり前のように色のついた出演者たちが和気藹々と話を繰り広げている。もちろん、空襲を知らせるような臨時速報もない。
自分が一日何もしないまま過ごしていることが不思議でならなかった。俺が起きたことを知った婆さんは、俺に微笑みかけた。
「お茶でもどうですか」
「……あぁ。すまない。いただこう」
婆さんは腰を丸めたまま、ゆっくりとした動きで台所に向かった。
俺が望んでいたのは、まさにこんな日常だったのではないだろうか。誰も自分の命が失われる危機に晒されず、当たり前のように安寧な生活を送る。きっと、仲間たちも望んでいたことだ。
婆さんからお茶を受け取り、口に含んだ。心が安堵するような味だった。
「一つ訊いてもいいか」
「えぇ、どうぞ」
「夫は先立ったのか」
俺が訊くと、婆さんは俺の方を真っ直ぐ見つめてきた。不躾なことを訊いてしまったかと思ったが、婆さんは不快な表情を見せることもなく答えた。
「生涯、結婚したことがないねぇ」
「そう、だったのか。そしたら、子どももいないわけか」
「そうなりますね」
「良い相手が見つからなかったのか」
「生憎、私は異性からお声が掛かる人間ではありませんでしたから」
婆さんは可笑しそうに笑った。
「いや、それはないだろう。顔は整っているし、料理も文句なしに美味だった。さぞ、若い頃は異性からの人気が高かったと推察される」
婆さんは俺の言葉に目を丸くすると、微笑んだ。
「そう言ってもらえると、嬉しいわね。私が生涯で好きになった人は、たった一人だけなのですが、その人はあなたみたいに素直に褒めてはくれませんでした」
「それは、良くないな」
「えぇ、本当に」
婆さんは愉快そうに笑った。
「そういうあなたこそ、恋仲になったお相手は?」
婆さんからの質問で、静子の顔が思い浮かんだ。自分の中で未だに未練があるのだと認めたくなくて、大きくかぶりを振った。
「いないな」
「そうですか」
「ただ」
そこで言葉を切ると、婆さんは神妙な顔をしてこちらを見た。
「意中の相手はいる」
「……ほう。その方とは、お付き合いなさらなかったんですか」
「……やむを得ない事情があってな。相手からの告白に、応えることができなかった」
「あらあら。それは切ないねぇ」
「今でも、自分の選択が間違っていたとは思わない。だが、そのせいで、俺はひどく苦しい思いをしている」
俺は、誰かに自分の気持ちを吐き出したかったようだ。婆さんの相槌が心地良かった。見ず知らずの婆さんになら話しても問題はないと踏んだ俺は、自分の本心を打ち明けることにした。
「俺はその相手と今生の別れをしたんだ。でも、最後に俺が彼女に言ったのは、俺ではない別の誰かを伴侶にしてほしい、というものだった。珍しいことだった。彼女が泣いたり、怒ったりすることは」
俺は両手を組んで、額に当てた。行き場のない感情が、爆発してしまいそうだった。
「でも、それで良いわけないだろ! 俺があいつをどれだけ好きか、あいつは知らない! 何度触れたいと思ったか。何度寝込みを襲いそうになったことか。こんな世の中じゃなければ、俺はあいつを妻に迎え入れていたはずだったんだ!」
つい、荒々しい声を上げてしまった。俺は慌てて婆さんに謝罪しようとした。けれど、婆さんの姿を見て、俺はものを考えられなくなった。
婆さんが、俺の方を見ながら涙を流していた。口を小さく開いたまま、次から次へと涙が皺のある頬を伝って零れていく。
「す、すまない」
若者の怒気を含んだ声で怯えさせてしまったかと肝を冷やした俺は、婆さんの背中を摩った。
「いや、いいんだよ。私の方こそ、困らせてしまってごめんねぇ」
婆さんは泣きながら笑顔を浮かべた。
それからしばらくは気まずい思いをしていたが、婆さんが気さくに話をしてくれたおかげで、幾分か罪悪感は消え去った。彼女は人柄が良く、話しているだけで心が穏やかになった。
それからしばらくの間、俺と婆さんの二人で生活を共にした。毎日が平穏だった。ただし、外出する時はあまりに道が複雑であることと、スーパーと呼ばれる八百屋めいた建物での作法に苦戦した。俺が外出する時は婆さんが青年を呼び出し、同行してもらった。
この世界に来て二週間が経った。婆さんから頼み事をされた。それは、自分をおぶってある場所まで送り届けてほしいというものだった。自動車の操縦ができる者がおらず、最も適正のありそうな彼女の又甥である青年も免許を所有していないとのことだった。
婆さんの道案内に従って、俺は人々からの視線を浴びながら目的地へと向かった。最初にこの世界に迷い込んだ時とは違って服装ではなく、お年寄りを背負う若者という組み合わせに周囲から興味を向けられているようだった。
今日は格別に冷え込む日であると婆さんが情報を仕入れていたため、分厚い衣服を着込ませた。婆さんからもらった首巻きをしながら、防寒対策は完璧だった。
訓練を行うこともなく身体がなまっていたため、ちょうど良い運動だった。夕方に出発してから列車にも乗り、到着した駅でこの世のものとは思えない程に美味な料理を堪能してから再び婆さんをおぶって目的地を目指した。気がつけば辺りはすっかり暗くなっていた。婆さんが目的地としていたのは、神社だった。石段をのぼり、本道から逸れた雑木林の中まで進んだ。
雑木林が開けた場所に、井戸があった。婆さんからの要望で地面に下ろすと、ゆっくりとした足取りで井戸の方へと向かった。
婆さんは井戸の中を覗くと、こちらを振り返った。それから、懐から色褪せた手紙のようなものを取り出した。それを震える手で開くと、見覚えのある字でこう書かれていた。
生まれ変わっても、君と一緒にいたい
彼女は、涙をぽろぽろと零していた。
紛れもない、俺が書いた字だった。最後に彼女に出した手紙の内容で、間違いなかった。
「静子、なのか……」
彼女は面影のある顔で、くしゃりと笑った。
「正人さん。ようやく、会えました」
喧嘩したまま、正人さんは行ってしまった。
ずっと、後悔していた。正人さんが、不用意に人を傷つけるようなことを言う人ではないと知っていたけれど、幼稚な私はつい感情的になってしまった。
数日経って、正人さんのお母様から手紙を預かった。正人さんが私宛に書いた手紙だった。そこには、たった一文だけ書かれていた。
生まれ変わっても、君と一緒にいたい
頭の良い正人さんが、勉強する時に開いていたノートに記していたのと同じ筆跡だった。
涙が止まらなかった。私は正人さんのことが、たまらなく好きだった。
それからあまり時間が経たないうちに、正人さんが戦死したことを伝えに、軍服を着た兵士が正人さんのご家族を来訪した。
正人さんのお母様からその旨を伝えられた時、頭では分かっていたことなのに、心が悲鳴を上げて、おそらく一生分の涙を流した。筆舌に尽くしがたいほどに苦しかった。
ただ、私には一つ、希望があった。正人さんに、もしも特攻命令が出てしまった時のために、事前に手紙を渡していた。それを、出撃の前に読むようにお願いしていた。正人さんがそれを読んでくれているのだとしたら、もう一度正人さんに会える可能性があった。
東京にある月島神社と呼ばれる神社には、死者を蘇らせる井戸がある。そして、満月の日が死者の命日と一致している場合、その人のことを想いながら涙を井戸に落とせば蘇り、新月までの二週間を共に過ごすことができる。
特攻隊員に選ばれたら、東京湾の上空で戦闘することになるだろうという正人さんの言葉を信じて、手紙には「東京駅」という言葉を残しておいた。
正人さんが亡くなってから半年以上経って、戦争は終わった。
私は毎年、天文に詳しい知人に満月の日を訊ねては正人さんの命日と照らし合わせた。そのうち、テレビの普及に伴って満月日和を事前に知らせてくれるようになり、私は毎年欠かさず満月の日にちを確認し続けた。そのうち、インターネットの普及によって甥や姪がパソコンを使いこなし、頼めばすぐに教えてくれるようになった。
そして、九十六歳を迎えた去年。ついに正人さんの命日が満月の日と重なる日が存在することを知った。あまりの嬉しさに、そのことを知った日には眠ることができなかった。無理もない。私は、ずっと待ったんだ。正人さんと会える日を。歳を取る度に、正人さんと会えないまま寿命を迎えてしまうのではないかという虚しさに襲われて生きてきたんだ。
そして、二週間前。甥に頼んで夜中に月島神社まで送ってもらい、井戸に向かって正人さんのことを想った。涙には困らなかった。むしろ、涙が止まらなくて仕方がなかった。しばらくの間、井戸から離れることができなかった。
翌日、又甥である海斗に、お小遣いをあげる代わりに東京駅に向かってもらった。そこに、飛行服を着た男性がいるかもしれないと伝えた。事前に正人さんの写真は海斗に見せていた。もちろん、海斗は半信半疑だった。私ですら、正人さんが本当に生き返ってくれているのか心の底からは信じることができていなかった。けれど、昨日井戸で涙を落とした時に一面が光り輝いたあの景色は、奇跡という言葉以外では説明のしようがなかった。
だから、海斗が本当に正人さんを連れて帰って来てくれた時には、都合の良い夢を見ているんじゃないかと思った。正人さんに飛びつきたくなる衝動を抑えて、私は正人さんをお風呂に入らせた。そして、居間に戻って一人で泣いた。ずっと会いたかった。正人さんの声が耳に届いた。正人さんの匂いがした。正人さんの瞳をもう一度、見ることができた。
感極まった私は、その後平静を装って正人さんに接するのに精一杯だった。正人さんに何十年かぶりの料理を振舞い、正人さんが味を褒めてくれたことが嬉しくて嬉しくて、仕方がなかった。表情筋が衰えて感情が表に見えにくいことが救いだった。
そして、一番嬉しかったのは、正人さんが私を他の誰にも渡したくないと言ってくれたことだった。ずっと、心残りだった最後の会話で、私は正人さんにとってはさほど重要な人物ではないのだと落ち込んでいた。それだけに、正人さんが私に対してそんな感情を抱いていたことを知って、嬉しかった。歳不相応にも、ときめいてしまった。
正人さんと過ごしたこの二週間は、信じられない程に幸せな時間だった。海斗には、この後迎えに来てもらうよう予め連絡してある。
私は最後の瞬間まで、この目で正人さんの姿を収めていたい。
静子の話を信じるのであれば、あの世だとばかり思っていたこの世界は、未来の大日本帝国ということになる。理想的だと感じていたこの国は、戦争が終わった後の世界で、アメリカに降伏した領土ということになる。敗戦したはずなのに、想像していたような過酷な環境には成り果ててはいなかった。
鼻頭に突然冷たい感覚が走った。雪が降り始めたようだ。空を見上げると、確かに月の姿はなかった。今日が、俺が二度目に死ぬ日ということらしい。
静子から真実を聞くまでは、今まで戦争が勃発した悪い夢でも見ていたのか、あるいは平和な日常という良い夢を見ているのか判断しかねていた。こんなにも美しい時代がやって来ることを知れたのは、静子が私を大切に想ってくれていたからに他ならない。
「静子。ありがとう」
俺が礼を述べると、静子は目を潤わせた。
「正人さん」
静子は俺の名前を呼ぶと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
それから、俺の目の前までやって来ると、何かを迷うように一度口を閉じた。しかし、直後に意を決したように口を開いた。
「抱きしめても、いいですか」
どこか恥ずかしそうに、静子は言った。
俺は答える代わりに、静子の身体を抱きしめた。首元から、静子の匂いがした。懐かしい匂いだった。何もかもが愛おしかった。
「愛していますよ、正人さん」
震える声で、静子は言った。
「俺も、愛している。世界中の誰よりも、静子のことが好きだ」
静子が俺を抱きしめる力を強めた。
「行かないで」
耳元で静子が呟いた。
静子は自分が口にしたことに驚いた様子で、手で口を押えた。
俺は静子の頭を撫でた。静子は目を閉じながら俯いた。
「生まれ変わったら、君に会いに行くよ」
静子は目を開けてこちらを見上げた。
「だから、今度も俺のことを待っていてほしい。君じゃなきゃ、ダメなんだ」
静子は、嬉しそうに笑った。
俺は、君のその笑顔に惚れたんだ。




