夏
梅雨が明けたとはいえ、皮膚に纏わりつくような湿気が鬱陶しいことには変わりない。目覚めは心地良いものとは決して言えなかった。
エアコンを起動し忘れたことに苛立ちを覚えながら、私はソファに腰掛けたまま時計を見た。すでに深夜0時を過ぎていた。定年退職をしてからというもの、私は気が付けば眠るようになってしまった。仕事一筋で生きてきた私は、常に忙殺されることに慣れきっていたが、いざ職を手放してしまえば、いかに自分が無趣味で怠惰な人間なのかを思い知ることになった。外部からタスクを課され、それに応えるということは得意としていたが、自発的に何かを行うという創造性は私にはまるでない。
一先ず便所に行って用を足し、二階に向かった。しかし、電気は点いておらず、鈴音は家を空けているようだった。私が眠っている間にコンビニにでも出かけたのだろうか。
私は一服しようとベランダに出たが、いつも胸ポケットに入れているはずの煙草がないことに気付いた。思わず溜息を洩らしながら、一階のリビングへと向かった。リビングで煙草の所在を確認したが、一向に見つからない。いつも煙草のストックを収納しているテレビ用のラックの引き出しにも見当たらなかった。引き出しを開けた時に漂う煙草の香りも鼻腔に届いてこなかった。もしかすると、私が煙草を吸う度に咎めてくる鈴音の仕業かもしれない。
この時間から外出する気力もなかったため煙草は諦めて、夜風に当たるために再び二階のベランダに向かった。それほど広くないスペースのベランダで、鉄格子に腕を預けて夜空を見上げた。夜でも良い天気だと分かるほど空は澄んでいて、十分に満ちた月が誇らしげに浮かんでいる。
「満月、か……」
ふと、鈴音の顔が思い浮かんだ。
鈴音は元々、婚約者と同棲していた。私は娘の婚約者と顔を合わせることなど到底できず、鈴音が私と婚約者を会わせようと躍起になっていたのが煩わしかった。自分の人生なのだから自由に結婚してもらって構わなかった。しかし、鈴音は形式にこだわっていたのか、しきりに婚約者との対談を持ち掛けてきた。結局、鈴音の押し切りからなんとか逃れ、ついに顔を合わせることはなかった。
鈴音の婚約者が亡くなったのは、三年前だった。彼の葬式に参列し、棺の中を覗いた時に初めて彼の顔を見た。鈴音は妻に似てしっかりしている。そんな鈴音が選んだ相手だったのだから、それは理知的で聡明で気前の良さそうな男だった。
ある日、体調があまり良くなさそうな婚約者の外出を引き留めきれなかった鈴音は、彼が忘れていった弁当を持って追いかけた。同棲していた家の近くの交差点で、鈴音は婚約者が車に跳ねられる瞬間を目撃した。頭から流血した状態で、即死だったそうだ。
その一件があってから、精神的に不安定になった鈴音は実家に戻ることに決めた。いや、半ば強引に私がこちらに戻ってくるように促したのだ。それでも、最終的に首を縦に振った鈴音は、今の自分の精神状態で一人で生活をしていくことに幾ばくかの不安があったことを自覚していたのだろう。鈴音と住み始めてもう三年が経った。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。
ふと室外機に目をやると、いつも上に置いていた灰皿がなくなっていた。昨日までそこに置いていたはずだった。いよいよ、鈴音の仕業としか考えられなくなった。おそらく鈴音にとって、自分の身近な人間がいなくなることが敏感なものになってしまったのだろう。散々禁煙を説いてきた鈴音も、ついに強硬手段を取るようになってしまったらしい。
私は再び、満月に視線を向けた。鈴音は先日、私にこんなことを訊ねてきた。
「お父さんは、月島神社のジンクス知ってる?」
「……ジンクス?」
「そう。満月の夜がもしも想い人の命日だったら、月島神社の井戸に想い人のことを思い浮かべたら、その人が生き返るっていう」
「……まぁ、耳にしたことはあるが」
素朴な質問の一つとして鈴音は私に質問しているように思えたが、その質問の意図としては間違いなく故人である婚約者のことが関係しているだろう。私は自然を装った返答を努めたが、額に汗を掻いてしまった。それから、鈴音が再び私にその話を持ち掛けてくることはなかったが、そのことがずっと気掛かりだった。鈴音の婚約者の命日は、今日から約二週間後だ。
突然、玄関のドアがガチャガチャと音を立てた。どうやら、鈴音が帰って来たようだ。私は鈴音を出迎えるために一階に降りて玄関に向かった。ちょうどそのタイミングで、鈴音が勢いよくドアを開いた。
「たっだいまー」
軽快な声とともに、酒臭さが玄関を覆った。よく見ると、鈴音の顔が赤い。
「お前、こんな時間に酒をひっかけてきたのか」
「あー、パパだぁ」
「おい、私のことをそんな気色の悪い呼び方で呼ぶな。もう二十七だろう」
滅多に見せることのない素っ頓狂な鈴音の姿に困惑したが、そんなことはお構いなしで鈴音は私に抱き着いてきた。油断して身体に力を入れてなかった私は、鈴音に押し倒されてしまった。玄関に手をつきながら上体を起こすと、鈴音は虚ろな目をこちらに向けながら、私の鼻をつついた。
「会いたかったよぉ、パパぁ」
「……頼むから、その呼び方はよしてくれ」
「へへ、パパの匂いがするぅ。懐かしい」
「……そりゃあ、こうやってお前が抱き着いてくるなんて何十年ぶりだからな」
鈴音は心地良さそうに私の胸元に顔を擦り付けてきた。普段とは全く異なる鈴音の言動に戸惑いながら、私は鈴音の肩を掴んだ。
「お前が酒を飲むなんて早々ないことだ。何かあったのか?」
「えー、何もないよぉ」
「嘘だな」
「嘘じゃないもん! パパの意地悪!」
「……調子が狂う」
これ以上の会話を諦めた私は、鈴音の肩を担いで部屋まで運んだ。一人で歩けると宣う不服そうな鈴音を無視して、なんとか二階をのぼりきり、鈴音を部屋のベッドに横たえた。それからすぐに、鈴音は規則的な呼吸音で胸元を上下させ始めた。
すっかり疲れてしまった私は、リビングに戻った。しばらくは数学の専門書を読んでいたが、気付けば歳の制約により、座ったまま眠りに就いてしまった。
翌朝、私はゆりかごに揺られているような振動で目が覚めた。カーテンから差し込む陽光に思わず目を細めると、視界の先で気まずそうにしている鈴音がいることに気づいた。どうやら、鈴音が私の身体を揺さぶっていたようだ。
「ちゃんと布団で寝ないと身体痛めるよ」
「……昨日のことは、覚えてるか?」
私が訊くと、鈴音は途端に顔を蒸気させて俯いた。
「はい。すみませんでした」
「よろしい」
昨日、夜中に何処に行って誰と飲んできたのか些か疑問が残ってはいるが、普段から真面目に生活を送っている鈴音の姿を見ているため、一回限りの奇行には目を瞑ることにしよう。
私は欠伸をひとつしてから、ソファから起き上がった。このところ、ソファで寝てばかりいる気がする。
「そういえば、昨日から煙草が見当たらん。何処にやったんだ?」
私が何気なく訊ねると、鈴音は身体を硬直させた。それから、睨みつけるようにこちらを振り返って言った。
「ずっと嫌な咳ばっかりしてるのに、まだ吸うんですか。私がずっと忠告してるのに」
鈴音が凄むようにそう言ったため、私は気圧されて目を逸らした。が、今までの習慣を突然断たれてしまうことを易々と呑み込めるほど聞き分けはよくない。私は鈴音に反論した。
「私の生き甲斐は、もはや喫煙くらいなんだ。どうか、老いぼれの嗜みを奪わないでくれ」
「そういう時だけしおらしい言い方しても無駄だよ。絶対にダメだから」
「そこを、なんとか……」
「絶対にダメ。お財布事情もしばらくは私が握るから」
「……なんだと?」
私は慌てて和式部屋の箪笥の引き出しを確認した。私の財布はあるが、中はもぬけの殻だった。私は自分ができうる最大限の恨めしい顔をして鈴音の方を振り返った。
「それはもはや犯罪だぞ」
「犯罪で結構。何か買いたい時は、私に言って。そのお金で買った時は、必ずレシートを受け取ること。あ、それと、煙草を買える金額を超える場合は、私が同伴して買い物について行くから」
きっぱりとそう言いのけた鈴音に、私は肩を落とすしかなかった。
仕方がないので、私は趣味で続けている数学の参考書を書斎の机の上で開いた。私ができることといったら数学くらいしかなく、何もしていなければ手が煙草を探し続けてしまう。私は不純な動機で数学の参考書にくらいついた。
しばらくすると、鈴音が書斎のドアを叩いた。私が声を上げると、鈴音は控えめにドアを開けた。鈴音は机にコーヒーカップを置いた。
「相変わらず、好きだね」
「……私にはこれしかないからな」
「私だったら、退職した後まで仕事を思い出すようなことしないけどなぁ」
「もはや、塾の講師は私の人生だったからな」
「その参考書って、高校レベルだよね。お父さんが教えてたのって小中学生なんでしょ?」
「大は小を兼ねる。やっておいて損はない」
「そっか。適度に休憩は取ってね」
「あぁ」
鈴音は静かに書斎から立ち去った。
鈴音の言う通り、私は小中学部の生徒に授業していた。受験ではシビアな時間の中で、難易度の高い問題を複数解かされる。そのため、教師自身が生徒と同じレベルまでの単元知識しかなければ、他の受験生と差別化できる強みを教えることができない。私の場合、特に図形は小中学生に高校範囲の知識を伝える。その方が早く解けるからだ。卒業生が教場に顔を出してくれた時に、『高校範囲を教えてたんですね』と言われたことがあった。私は常に、自分自身の知識と技能をアップグレードすることを心掛けてきた。今となってはそうする必要などないはずだが、習慣が私を書斎に向かわせ、こうやって参考書を開かせる。無意識のうちに、今自分が解いた問題の板書計画を用紙に書きなぐっていた。誰に向けたものかも知れない数式を見て、私は苦笑した。
鈴音が給仕してくれたコーヒーを適宜飲みながら作業を続けていると、気づけば夕方になっていた。映画の映写機から延びる光みたいに、窓から淡いオレンジ色の揺らぎが埃を浮き彫りにしている。
私は書斎を後にして、リビングに向かった。
鈴音がソファに座って音楽番組を観ていた。世代別の音楽が流れているらしく、私ですら知らない時代の音楽が放送されていた。
「すごいよね。戦後すぐの歌だって」
リビングに入ってきた私に、鈴音が声をかけてきた。テレビ画面上で、戦後生まれの婆さんが街頭インタビューを受けていた。当時、その曲が世に広まった時の状況を聞かれているらしかった。
「お婆さんはいくつなんですか?」
インタビュアーが質問した。
「十九歳です」
婆さんの奇想天外な回答に、タレントたちがざわめいた。
「確かにお若いですけど、この曲が流れた当時に生まれてるということは、年齢が合わないように感じるのですが」
インタビュアーが困惑した様子で、婆さんに返答を求めてマイクを差し出した。
「私ね、閏年生まれなの」
「あ、なるほど! 何年生まれなんですか?」
「昭和二十三年生まれです」
「昭和二十三年……ということは、西暦で言うと」
インタビュアーが婆さんの答えを待っている間に、私が口を開いた。
「1948年」
鈴音が驚いたようにこちらを振り返った。
「1948年生まれということになります。御年七十六歳になります」
婆さんがそう答えると、鈴音が「さすが数学教師」と言った。
その後、婆さんが若い頃に聴いていた曲が流れ始めた。その後も番組は進行し続けたが、私は婆さんの発言に違和感を抱いていた。直観的に婆さんが口にした年齢が違うように感じられた。思わず口に出しながら計算し直した。
「鈴音、お前は何年生まれだったか」
「え? えっと、1996年だよ」
「誕生日は迎えていて今年は2023年だから二十七歳だったな。1948年生まれということは今年で七十五歳になり、閏年を考慮すると十八歳のはずだ。逆に鯖読みしていることになるな」
私が口上で計算する様子を見ていた鈴音が「うわぁ」と呟きながらこちらを目を細めながら見ていた。そんな目で見られても、事実なのだから仕方がない。
私は鈴音の隣に腰を下ろした。テーブルの上に閉じたガラパゴス携帯がある。退職してからこの携帯が役目を果たすための通知が来ることもなくなった。もうしばらく、携帯類に触れていない。自分が社会の流れから断絶された気持ちになるが、それが不快であることもない。自分があくまで社会の一員であることを自覚できているのは、ひとえに鈴音と一緒に暮らしているからだろう。私は鈴音の横顔を眺めた。
似ている。鈴音が小学二年生の時に、妻は亡くなった。妻が亡くなった時、鈴音は号泣していた。元々身体が弱かった妻は、ある時を境に日に日に衰弱していった。当時の私は、妻がいなくなることが受け入れられず、鈴音を一人で育てていく自信もなかった。
鈴音は妻がいなくなってから、急激に大人びた。父親である私を頼ろうとする姿勢は全く見せず、夜遅くに仕事から帰宅する私の分まで料理を作ってくれていた。鈴音が炊事洗濯の全てをこなしてくれる一方で、私は鈴音に父親らしいことを何一つしてやれていない。大人の特権であるお金を使って、休日に外食したり遊園地に出かけたりするくらいしか、鈴音に対して愛情を示すことができなかった。それなのに、鈴音はこんなにも立派に育ってくれた。鈴音のこの性格は、間違いなく妻のものを引き継いだ。そんな鈴音に、何かしてやりたいと思い続けてきた。
だから、鈴音が月島神社のジンクスについて言及してきた時、私は狼狽した。妻が亡くなった数年後に、偶然妻の命日と満月の日が重なった時があった。私は満月の日の夜、眠い目をこする鈴音を連れて月島神社に連れて行ったことがある。鈴音の隣で、私は月島神社の井戸を覗き込んで妻の顔を思い浮かべた。そして、妻が生き返るように願った。だが、妻が生き返ることはなかった。鈴音がこの時のことを覚えているのかどうかは分からないが、ただの与太話だったこのジンクスを心の支えとしているのなら、どうやって鈴音を心変わりさせるべきか。
鈴音が私に月島神社の話を持ち出した時、婚約者の命日を口にしていた。確か、七月三日だったか。その日までに、私は鈴音にどんな言葉を掛ければ良いのだろうか。あるいは、鈴音が自分の気持ちに踏ん切りがつけられるように、あえてジンクスの遂行を見守るのも一つの手といえるだろうか。
番組が終わると、鈴音が伸びをしながらソファから立ち上がった。
「もうこんな時間かぁ」
「そういえば私は曜日感覚をすっかり失ってしまっているが、今日は何曜日だ?」
「日曜日だよ」
「じゃあ、明日仕事か」
「何回か説明したことあるけど、シフト制だから実質曜日は関係ないよ。ちなみに、ここ二週間くらいは休みもらってる」
「二週間?」
「そう。ちょっと大きな休みが欲しくてね。休みが終わったらあらゆる人の欠勤に対応するなんでも屋になるのでお休みくださいって交渉したの」
「ふーん、そういうのがあるのか」
「お父さんの常識からするとありえない制度だろうね」
鈴音の言っている内容はあまり理解できなかったが、とにかくこの時間まで起きていても明日の仕事に差し支えがないのだろうということは分かった。私と鈴音はその後すぐに就寝した。
翌日、目を覚ましてリビングに向かうと、鈴音がトーストにかじりついていた。鈴音は自分の席からテーブルを挟んだ反対側にトーストをもう一皿用意していた。どうやら、私の分も用意してくれたようだ。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
椅子を引いてトーストの前に座った。トーストを手に取ってかじりながら、私は鈴音に言った。
「今日、久々に外食でもするか」
私の提案に、鈴音は驚いた様子でこちらを振り返った。
「どうしたの、急に」
「……せっかく長期休暇を取ったんなら、二人の時間でもつくろうかと思ってな」
鈴音は困惑の表情を浮かべた。
「もちろん、無理強いはしないが」
「えっと、嫌ってわけじゃないんだけど……」
鈴音はその後の言葉を呑み込むような仕草をした後、意を決したようにこちらを振り返った。
「うん、行こっか」
「……予定があるんじゃないのか? 今の間からするに」
「ううん、違うよ。私も、久しぶりにお父さんとゆっくり過ごしたい」
鈴音はそう言って微笑むと、トーストの欠片を口の中に放り込んだ。それから、自分の皿を台所に運んだ。私はトーストを咀嚼しながら、鈴音の様子を目で追った。けれど、特に変わったところはないように思えた。先ほどの間は一体なんだったのだろうか。
昼前になって、私と鈴音は家を出た。大きな最寄り駅まで徒歩で十分ほど掛かる。今日が月曜日であるため、道中の人通りは比較的少なかった。
鈴音がおすすめしてくれたパスタ屋に入って、食事をとった。店内の客層が鈴音と同じように若い子たちが多く、少しばかり居心地が悪かったが、味は文句なしだった。食事をしながら月島神社の件に触れようとしたが、頃合いを見出すことができず、結局他愛ない話だけをして店を出た。
駅構内を散策した後、私の体力が底をついた頃合いで帰宅することになった。帰りは、行きとは違う道を通った。退職してから、私がよく散歩に利用するコースだった。途中で雰囲気の良い公園があり、よくそこのベンチに腰掛けて公園に面した川を眺めている。
いつも通る道だからこそ、私は驚いた。自分がいつも利用している公園の隣に、いつの間にか商業施設が建ってあった。数日前にこの公園を通り過ぎた時には、こんな建物はなかったはずだ。工事をしている様子さえ見受けられなかった。
その旨を鈴音に伝えると、「ついにボケたか」と哀れみの感情を込めた目で見られてしまった。そのことを不愉快に思った私は、鈴音とこの不可解な一件について真面目に議論することを放棄した。全くもって、気分が悪い。
家に着くまで不機嫌を露わにしていた私に悪いと思ったのか、帰宅してからマッサージをしてくれた。久しく仕事から遠ざかっていたにもかかわらず、身体の根源には痛みが残っていたようで、鈴音がしこりのような痛みを取り除いてくれたことで身軽になった。私が機嫌をなおしたことに、鈴音は安堵した様子だった。
それから数日間、鈴音はどこかに出かけることもなく、最低限の食糧調達などを除けば家を出ることはなかった。旅行に出かけるわけでもないのに、どうして長期の休みを取ったのだろうかと不思議に思った私は、余暇が残り僅かになった鈴音に質問した。
「結局、いつまで休みなんだ?」
「七月六日」
「そうか。どこか旅行に出かけたりもしないのか?」
「え、一緒に行く?」
「……いや、友人と一緒に行ったりしないのか?」
「うん、行かない。お父さんとなら行くけど」
「この歳の父親と一緒に旅行に行って楽しいものでもないだろう」
「そんなことないよ。温泉行こうよ」
「私は構わないが、時間の使い方がもったいなくないか?」
「私が言ってるんだから、いいんだよ」
「そうなのか」
「そうだよ。行くならネット予約するよ」
鈴音が宿の予約ページを開いた携帯画面をちらつかせながら、煽るようにして言った。鈴音が構わないと言うのであれば、願ってもないことだった。私は素直に頷くことにした。
朝の早い段階から、私と鈴音は電車に乗った。鈴音が駅からのアクセスが良いホテルを予約してくれたため、体力を余らせた状態で部屋にたどり着くことができた。旅行鞄を置いてからホテル近辺にある観光スポットをいくつか巡り、年季の入った定食屋で魚を食べた。正直、観光スポットには興味がなかったが、定食屋の魚は絶品だったため満足した。
私も鈴音も入浴が好きだったため、部屋で荷物から着替えを取り出すとすぐに温泉に向かった。思っていた以上に立派で、複数種類あるお湯を順番に堪能した。最後は露天風呂に浸かり、夜空に浮かぶ半月を見上げた。こうやって鈴音と長い時間を共にするのはいつぶりだろうか。鈴音が幼かった頃は、休日も職場の付き合いで家を空けることが多かった。そのことにずっと後ろめたさを感じていたが、まさかこうやって時間を取ることが難しい成人した娘と二人で旅行に来ることができるとは夢にも思わなかった。
不思議な気持ちのまま部屋に戻ると、鈴音の姿がなかった。
私は無意識のうちに胸ポケットをまさぐった。すぐに鈴音の言葉を思い出して、項垂れた。この歳になって、娘に財布を握られているという事実になんとも言えない情けなさを感じてしまった。今まで当たり前に続けてきたことがお預けになるとこうも苦しいものか。
悶々とした思いを誤魔化すためにテレビを観ていると、鈴音が部屋に戻って来た。よく見ると、コンビニ袋を腕から提げていた。
「酒か?」
「そう。でも、お父さんは飲んじゃダメだよ。私の分しか買ってきてないから」
「なんでだよ」
「健康に気を使ってほしいんです」
「……まぁ、そもそも酒は飲まない質だが」
一方的に制限ばかり掛けられていることが腑に落ちなかったが、ここはおとなしく鈴音の言葉に従っておくことにした。
「ただ、程々にな。この前みたいな酔い方は勘弁してくれよ」
「わ、分かってるってば」
鈴音は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
鈴音は宣言通り、ペースを保ちながらアルコールを摂取していた。私は鈴音が買ってきた酒のあてをちまちまと食べながらテレビを観続けた。飲酒しているにもかかわらず、鈴音はこの前みたいにハイテンションになることもなく静かだった。その静けさが、やけに不気味だった。
アルコールが回ったのか、いずれ鈴音が眠そうにし始めた。私も良い塩梅で眠気が襲ってきたため、就寝の準備を始めた。
シングルベッドが二つ並んでおり、鈴音が窓側のベッドに寝転んだ。カーテンの隙間から、月明りが差し込んでくる。ただし、人工的なブルーライトとは違って、睡眠の導入を補助してくれるような心地の良いものだった。
非常に静かだった。それだけに、突然口を開いた鈴音の言葉がやけに耳に纏わりついてきた。
「昔、満月の夜に、お父さんが私を月島神社に連れて行ったことがあったよね」
自分の心臓が跳ねるのが分かった。思わず鈴音の方を振り返ると、鈴音が静かに天井を見上げていた。部屋が暗くて、鈴音の表情を窺うことはできない。
「昔、お母さんに聞いたことがあるんだ。そういえば、一度死者を蘇らせたら、もう二度と他の死者を蘇らせることはできないらしいよ」
妻が鈴音にそんな話をしていたことを初めて知った。
「お父さんは、あの夜、お母さんを生き返らせようとしていたの?」
鈴音がこちらを振り返るのが、布団が擦れる音で分かった。
「……どうだろうな」
「どうして隠すの?」
「別に隠してるわけじゃない」
「お母さんが生き返ることはなかったから、私が颯太のことを生き返らせられなかった時のことを考えて、遠慮してる?」
「…………」
「ふふ、分かりやすい」
鈴音は再び天井を見上げてから、敷布団のシーツを掴んで言った。
「もう、颯太を生き返らせようとは思ってないんだ」
鈴音の告白に、私は思わず上体を起こした。鈴音を見下ろすと、目が合った。鈴音は無表情を貫いていた。
「私ね、お父さんのおかげで前を向いて生きられるようになった。颯太を失って、どうしようもなく苦しくて悲しくて不安だったけど、側に私を置いてくれて、静かに見守ってくれたから、私はこうやって生きることができてるの。本当に、感謝してる」
「……鈴音」
「だから、お父さんにはもう少し健康に気を使ってほしいなって思ってる。お父さんまでいなくなったら私、すっごいきついんだろうなってびくびくしてるんだ。お父さんは知らなかったと思うけど。実は私、すごく臆病なんだよ」
鈴音はそう言うと、徐に立ち上がり、私のベッドに潜り込んできた。
「お、おい……」
「いいじゃん、たまには。親子なんだし」
「それはそうだが、この年齢の親子がシングルベッドで並んで寝るっていうのは……」
「嫌なの?」
「…………」
「ふん、お父さんが嫌がっても、私はひっつき虫ですから」
困ったことに、鈴音が私に抱き着いてきた。まるで私のことをぬいぐるみか何かだと思っているみたいだった。
しばらくすると、鈴音は寝息を立て始めた。ほとほと困り果てた私は、気まずいまま鈴音とくっついた状態でいた。鈴音とこんなにも至近距離でいるのは、いつぶりだろうか。すっかり大人の顔立ちにはなっているが、やはり幼少期の頃の面影は残っている。
私は鈴音の頭を撫でてから、眠りに就いた。
翌朝、視界一面が眩くて私は目を覚ました。いつの間にか鈴音が起きていて、カーテンを全開にしていた。せっかくなので、チェックアウトの前にもう一風呂堪能することにした。私と鈴音は入浴セットを持って、浴場へと向かった。
入浴を終えてチェックアウトも済ませると、私たちは家に戻った。職場に現役で従事していた時には、こんなふうにゆっくりすることもなかった。案外、たまにはこうやって気分転換するのも悪くないと思った。
そこから数日が経ち、いよいよ七月三日を迎えた。鈴音は普段と変わらぬ様子でいるが、どうして今になって月島神社に赴くのをやめたのかが気掛かりだった。心残りがないのだろうか。仮にジンクスが嘘だったとして、せっかく彼の命日と満月の日が重なるのだから、ダメもとで願うくらいなら罰が当たることもないだろう。
一日中、鈴音の様子を見ていたが、いよいよ本当に鈴音はアクションを起こす素振りを見せなかった。私は困惑したまま、夜を迎えた。
「鈴音、ちょっと外に出かけないか」
私がそう提案すると、鈴音は不思議そうにしながら頷いた。
今日は雲一つない快晴だった。周囲は静かで暗く、心許ない街頭だけが夜の街に明かりをもたらしていた。特に行く当てもなかったが、鈴音の本心を探るために外に出た。鈴音に話を持ち出すきっかけを作ろうと考えてみたが、一向に良い切り出し文句が見つからなかった。
沈黙のまま鈴音と並んで歩いている時間が続いた。どうにも耐えられなくなって、私は視界に入ってきたコンビニに用があると鈴音に伝えた。
「じゃあ、お父さんが何を買うのか監視する」
鈴音に財布を握られているのを忘れていた。
本当は買いたいものなどなかったため、私は適当に缶コーヒーを手に取った。鈴音も私が選んだのと同じ缶コーヒーを選び、私の分とまとめて支払ってくれた。五千円札を出し、お釣りを受け取った鈴音の手元に、信じられないものがあった。
コンビニを後にし、鈴音は缶コーヒーを開けて飲みだした。鈴音が私に缶コーヒーを手渡してきたが、飲む気にはならなかった。
「なぁ、鈴音」
「ん? なに?」
「財布の中身、見せてくれないか?」
「え、どうし……」
鈴音は言い終える前に息を呑むのが分かった。
やっぱり、そういうことだったのか。鈴音がなぜ、彼を生き返らせることをやめたのか、これではっきりとした。いや、正確には、彼を生き返らせることができない理由が分かったと言うべきか。
鈴音は迷う素振りを見せたが、やがて諦めたように、力なく私に財布を手渡した。財布の中から、先ほどお釣りでもらった千円札を抜き出した。
「千円札の肖像画が、北里柴三郎になっている。私の認識では、野口英世が写っていなければならない」
「…………」
「新札の発行は、2024年。確か、ちょうど七月三日だったか」
私は空を見上げた。ほとんど月が欠けている。鈴音の話では、七月三日は彼の命日であり、満月であるはずだった。考えてみれば、約二週間前、鈴音がひどく酔っ払いながら深夜に帰宅した日が満月だった。そして、それから一週間ほど経って温泉に行ったとき、露天風呂から眺めた夜空は半月だった。そこからさらに月が欠けていき、今に至るのだろう。満月から新月までの期間はおよそ二週間であるため、今はほとんど新月に当たる日だ。
私が抱いていた違和感が、全て繋がった。
私が生きている世界は、2023年だ。しかし、今私の目の前に広がる世界は2024年になっている。
「いつも散歩で通る公園の隣にあった施設も、私の認識している時代とのズレが一年分あったから突然現れたように思えたんだ。そして」
私は、自分の思考を整理するように、鈴音に語りかけた。
「鈴音が前に観ていた音楽番組で、婆さんの年齢が間違っていると指摘した時があったよな。あれは、今が2023年だと思い込んでいたから計算が合わなかったんだ。1948年生まれであれば、2023年時点では七十五歳、誕生日を迎えていなければ七十四歳である必要があり、七十六歳であることはありえない。そして、直近の閏年は四年間隔の偶数年で考えると2020年であるから、十八歳になるはずだ。だが、今年が2024年なのであれば、婆さんが口にした七十六歳という計算は辻褄が合う。2024年が閏年であるため、十九歳というのも頷けるわけだ」
私の考えに、鈴音はただ黙って耳を傾けていた。
「彼の命日である七月三日は、鈴音の発言から考えるに満月であるはずだ。しかし、現状空を見上げてみれば、天気が悪いわけでもないのに月はほとんど欠けている。七月三日が満月だというのは、去年である2023年の話だったんだろう。満月と新月の日にちの関係性は、一年経てばひっくり返る。去年の今日が満月であれば、今年の今日はほとんど新月になる」
私は立ち止まって俯く鈴音に向かい合った。鈴音は諦観めいた表情でこちらを見上げた。目が合った鈴音に、私は静かに言った。
「私は、すでに死んでいるんだな」
「…………」
「去年死んだ私を、鈴音が今年に蘇らせた。そうじゃないのか」
私の指摘に、鈴音は深く息を吐いた。それから鈴音はゆっくりと歩き出した。徐々に遠ざかる鈴音の後ろ姿を、私はただ見ていた。
「あーあ。バレちゃったか。私としたことが、ポカしちゃったなぁ」
鈴音は悔しそうに言った。
「できれば、最後までお父さんと平凡な日常を過ごせたらって思ってたんだけどなぁ」
鈴音はこちらを振り返り、眉尻を下げながら悲しそうに笑った。
「どうして、こんな馬鹿な真似をしたんだ」
「え?」
「このジンクスが本当だったことは結果として分かったことだとは思うが、なぜ彼と再会するために使わなかったんだ。ホテルで言っていたはずだ。一度故人を蘇らせたら、他の故人を生き返らせる能力を失うと」
私が訊くと、鈴音は口元に人差し指を添えて空を見上げた。
「お父さんが死んじゃったのが、去年の六月二十二日。今年の六月二十二日がちょうど満月だった。お父さんが死ぬまでは、もちろん颯太のことを生き返らせるつもりだったよ。去年の七月三日は、お父さんの言う通り、紛れもない満月だったから」
鈴音の発言に、私は心が抉られるような罪悪感を抱いた。そうか。彼の命日に差し掛かる前に私が死んでしまったから、鈴音に生き返らせる対象を選ぶ余地ができてしまったのか。
「お父さんが死んだ日と満月の日が重なる日を調べてみたら、ちょうど一年後だった。だから、私はお父さんを生き返らせることを選んだ」
「……どうして、私を」
「ほんと、どうしてだろうね。煙草ばっかり吸って、仕事している時の無茶な生活習慣が重なって、老後に脳梗塞を発症して、自分が死んだことも気づかないくらいあっという間に自宅のソファで死んじゃったダメ親父なんかをどうして選んじゃったのか、私が一番不思議に思ってる」
鈴音は目を赤くしながら、悔しそうに私を睨みつけた。
鈴音が頑なに煙草から私を遠ざけようとしている理由が分かった。不摂生が原因で、私は死んでしまったからだ。
「……すまなかった」
「絶対に、許さない」
「……せっかくの彼に会う機会を奪ってしまって」
「許さないから。絶対に。どうして」
鈴音は見たこともないくらい目を吊り上げながら、私に近づいてきた。そして、私の胸元に額を打ちつけた。
「どうして死んじゃったの! どうして私の前からいなくなっちゃったの! お父さんまで、私を置いて行くなんてひどい! 絶対に、許さない! 一生、恨んでやるんだから!」
「……鈴音」
私はただただ、鈴音を抱きしめることしかできなかった。行き交う人々の視線など気にする余裕などないくらい、鈴音は子どもみたいに泣きじゃくった。それもそうだ。私の前では、鈴音はいくつになろうとも子どもなのだ。自分の拠り所になるのが、親のはずだ。私は、そんな鈴音の拠り所を、己の不手際のせいで奪ってしまったのだ。
「すまない、鈴音」
私は、声を上げて泣く鈴音の頭を撫で続けた。こんなことで罪滅ぼしができるとは到底思っていないが、それでも、不甲斐ない自分にできることは、これくらいしかなかった。
忘れもしない。六月二十二日。
いつも通りの日常が、そこにはあるはずだった。
「ただいま」
日付を跨いで帰ってきた私は、部屋に荷物を置いてからリビングに向かった。
お父さんが、倒れるようにしてソファで寝ていた。呆れながら、私はお父さんを起こそうとした。
「ほら、ちゃんと布団で寝ないと身体痛めるよ」
揺すってみたけれど、お父さんは起きなかった。いつもなら、二、三回身体を揺らせば目を覚ましてくれる。けれど、その日はなかなか起きてくれなかった。
私は苛立ちを覚えて、さらにお父さんの身体を揺らす力を大きくした。けれど、一向に目覚める気配がなかった。深酒でもしたのだろうかと思って口元に鼻を近づけたけれど、アルコールの臭いはしなかった。
途端に不安になった私は、お父さんの胸に耳を当てた。心臓の鼓動が、聞こえなかった。全身から、血の気が引くのが分かった。
慌てて救急車を呼んで、病院まで向かった。
病院で、お父さんが亡くなったことを告げられた。死因は、脳梗塞。突然死だった。
それからのことは、ほとんど覚えていない。親戚に手伝ってもらって、なんとかお葬式を挙げたけど、どういった準備をしたのか、お葬式でどんなことを誰と話したのか、火葬の時にどの部位の骨を拾ったのか、まるで覚えていない。まるで、お父さんが死んだと認識させるような出来事を脳が拒んでいるみたいだった。
数日間、食事もとらないまま部屋に籠った。外界との接触を断ちたくて、誰かからの着信に応じることもなかった。
ふと、颯太の命日が近づいていることに気づいた時があった。月島神社のジンクスにあやかろうと思っていたことを思い出した。
これだ、と思った。このジンクスで、お父さんを蘇らせようと思った。
けれど、同時にお母さんが昔教えてくれたこのジンクスの欠点を思い出した。一度亡くなった人を生き返らせると、もう二度と、他に生き返らせたい人がいても、このジンクスの力が働くことはない。つまり、お父さんを蘇らせば、颯太と会うことは二度とできなくなる。
そもそも、このジンクスが本当だという保証はどこにもない。むしろ、ジンクスがでたらめである可能性の方が高かった。昔、夜中にお父さんが私を連れて月島神社に行ったことがあった。その時、お父さんは井戸に向かって手を合わせた。何かを懇願するような、悲痛な顔だったことを覚えている。お父さんがしていることは、昔お母さんが教えてくれたこの街にある月島神社の伝説と関係があるのだと直感的に思った。でも、結局お母さんが帰って来ることはなかった。でも、お母さんは昔、井戸に願って亡くなった人と会ったことがあると言っていた。お母さんは、嘘を吐くような人じゃなかった。そのことが、私の心の均衡を保つ救いだった。
満月である七月三日。私は月島神社には向かわなかった。
それからの日々は、一年後にお父さんと再会するためだけに過ごした。きっと、月島神社のジンクスを知らなければ、今みたいな生活を送ることはできていなかっただろう。
お父さんの命日が近づく度に、私は自分の身体が強張るのを感じた。
そうして、一年が過ぎた。
仕事を終えた私は、月島神社に向かう前に居酒屋に向かった。もしもお父さんが本当に生き返ったら、正気を保ったままでいられないと思ったからだ。お父さんとは、今まで通り平凡な日常を送っていたかった。ぎこちない姿を見せてしまえば、お父さんに気遣わせてしまう。
私はアルコールの力を借りることにした。普段はほとんどお酒は飲まない。おつまみをほとんど頼むことなく、空腹のお腹にアルコールを流し続けた。アルコール耐性のない私にはたった二杯で酔うには十分事足りるけれど、期待なのか緊張なのか分からない落ち着かない心を麻痺させるために、経験したことのない量を飲んだ。
私は、ふらつく足に必死に力を入れながら、月島神社を目指した。
夜空には満月が浮かんでいる。私は朧気になりながら、なんとか月島神社に到着した。
本道から逸れた雑木林の中にある井戸を覗くと、満月が水面に映り込んでいた。私は、生前のお父さんの顔を思い浮かべた。私が幼かった時の頃から、亡くなる直前までのお父さんの姿がフラッシュバックした。脳内での思い出の再生が、アルコールによって制御が利かなくなったのか止まらなくなった。涙が、とめどなく溢れてきた。
お母さんは、蘇らなかった。でも、どうしても、今回だけは、成功させなければならない。
私は、祈るように両手を合わせた。涙が、井戸の水面に映る満月に吸い込まれた。月の表面が揺れて、私の涙が月の一部になっていく。
直後、信じられない光景が目の前に広がった。
井戸の水が一面、黄金色に輝き始めた。そして、その光が夜空に浮かぶ月まで延びていった。一瞬の出来事だった。かなり酔っ払っていたけれど、この瞬間のことだけははっきりと覚えている。
私は、急いで家に向かった。途中、何度も転びそうになりながら走り続けた。胃が刺激されて、何度もえづいた。それでも、私の足は走ることをやめなかった。
家の前にたどり着いた。私は上昇した心拍数を抑えるために、胸に手を置いた。アルコールの力を借りていなければ、今頃逃げ出していたことだろう。
「よし」
私は、ぶれる手を懸命に制御しながら、鍵を開けた。
ドアを開けた瞬間、視界が涙で滲んだ。
目の前に、お父さんが立っていた。なんの疑問も持たず、そこにいるのが当たり前であるかのように、お父さんが私を出迎えてくれた。
私は思わず、お父さんに抱き着いた。それから、色々と恥ずかしいことをしたような、言ったような、そんな曖昧な記憶だけがある。最終的に、お父さんが私の部屋まで連れて行ってくれたのは覚えている。
部屋で一人になった私は、泣いた。ただひたすらに、泣いた。声が漏れないように、枕に顔を押し付けながら泣いた。
「本当に、帰って来てくれた。嘘じゃ、なかった。お母さんの言っていたことは、本当だったんだ」
きっと、お父さんがお母さんを生き返らせることができなかったのは、私の前で泣かないようにしていたからだろう。私が井戸に涙を落としたことで、井戸から神秘的な光が発生した。亡くなった人のことを思い浮かべるだけでは不十分だったのだろう。
翌日からのお父さんとの生活は、幸せそのものだった。
ずっと、この幸せが続けばいいのに、と思っていた。
お父さんは、新月になる七月六日に消えてしまう。
それまでの間、私はお父さんにこのことを打ち明けるつもりはなかった。
だから、お父さんが自分が生き返らされたことに気づいた時、私は自分の感情をぶつけることにした。小さい子がするように、自分の悲痛な叫びを浴びせてやることにした。
お父さんは、そんな私を静かに見守っていた。
真実を知った私は、鈴音と家に戻った。
鈴音は自分の部屋に、私はリビングでソファに腰掛けた。
鈴音から聞いた話では、私はこのソファで苦しむこともなく息絶えていたそうだ。だから、私は自分が死んだことを自覚していなかった。私は呑気に生き返り、鈴音の苦悩も知らないまま今日まで生きてきた。なんとも情けなくて滑稽な話だ。
私は、三日後に消えゆく定めらしい。帰り道で、鈴音が泣きながら教えてくれた。その日は、お互いに口を開くことのないまま眠りに就いた。
翌朝、リビングに向かうと鈴音がコーヒーを飲んでいた。目が合うと、気まずそうに「おはよう」と口を開いた。私も、鈴音に挨拶を返した。
無言のまま、私と鈴音はテーブルを挟んで向かい合いながらコーヒーを飲んだ。鈴音は、私と過ごすために仕事の出勤日を調整したのだろう。せっかくの計らいを無碍にしてしまうのは、心が痛む。私は、残り短い時間で鈴音と話すべきことを必死に考えた。
そして、閃いた。鈴音は、私と婚約者を会わせたがっていた。鈴音にとって、私と婚約者が面識のないままいなくなってしまったことが心残りとなっているのではないだろうか。
私はコーヒーを飲み干してから、鈴音に訊いた。
「婚約者は、どんな人だったんだ?」
鈴音は目を丸くしながら顔を上げた。
「鈴音が選んだ相手が気になってはいたが、会うとなるとどうにも気持ちの整理がつかなくてな。彼の葬式の時に顔を拝んだだけだったから、せっかくなら彼の人となりを知っておこうかと思ったんだ」
私は、なぜか言い訳がましくそう述べた。
鈴音は特に不快な顔をすることもなく、口を開いた。
「彼は、学校の先生だったの」
「……そうだったのか」
「中学校の先生だったんだけど、数学を担当していたんだ。だから、お父さんと話が合うかもってずっと思ってた」
「そう、だったのか」
「もう少し早く颯太に興味を持ってくれていたら、二人が話してるところを見れたのかな。そう思うと、ちょっと悔しいな」
鈴音は残念そうに笑った。
「颯太、お父さんが中々会ってくれなかったから自分のことを認めてくれてないんじゃないかってずっと悩んでたんだよ」
「認めないもなにも、会ったこともないだろう」
「会うことすら拒絶されるほどだって思ってたの」
「……それは、悪いことをしたな」
「ま、お父さんは不器用なだけで、颯太のことを認めてないわけじゃないよって伝えたけど」
鈴音はテーブルに肘をついて、仕方なさそうに笑った。
「鈴音が選んだ相手なら、誠実な人だろうとは思っていた。だから、私の許可など取る必要はないと思っていた」
「それとこれとは別だよ。自分の大切な人同士に面識を持ってもらいたいって思うことは、そんなに変なことかな?」
鈴音の切実な表情に、私は返す言葉を失ってしまった。
鈴音は私の様子を見てくすりと笑い、気を取り直すように言った。
「もう気にしてないけど」
「……すまない。良かったら、颯太くんの話を聞かせてもらってもいいか」
私がそう言うと、鈴音は心底驚いた表情を浮かべた。
「颯太の名前、初めて呼んでくれた」
鈴音の指摘に、私はどう反応すればよいか分からず頭を掻いた。
その後、二人が大学の講義で席が隣り合ったことがきっかけで話すようになったことを知った。鈴音は法学部に在籍しており、彼は教育学部の学生だった。一年の時は学部が交差して同じ教養の講義を受けるのだそうだ。鈴音が課題に困っているところを面倒見の良い彼が手伝ってくれたことが恋仲になるきっかけとなったようだ。
「私が文系で、颯太が理系だから、まるで思考回路が違うんだ」
「そうか」
「やっぱりお父さんと考え方が似てた気がする。理系の人特有の考えというか……」
「自分では気にしたことがないな」
「ほら、数学の証明とかって、前置きとか必要じゃん。あれがどうして必要なのか私にはさっぱり分からないし」
「それは明白だろう。そもそも、証明を始める前に議題の定義を」
「あー、お父さん、コーヒーのおかわりいる?」
「……いただこう」
耳が痛いと言わんばかりの苦い顔をしながら、鈴音は私のカップにコーヒーを注いだ。確かに、本題から外れそうになったのは事実であるため、コーヒーを飲んで口を噤むことにした。
それから、どちらからいつ告白したのか、どこに旅行したのか、どんな話をしたのか、色々な話を聞いた。正直、娘のそういった話を傾聴するのはなんともむず痒かった。ただし、鈴音が懐かしそうに話をしているのを見られたため、それはなんてことないことだった。
「じゃあ、今度はお父さんの番ね」
鈴音がニヤニヤしながら私の顔を覗き込むように見てきた。
「……なにがだ」
「お父さんとお母さんの馴れ初めというか、恋バナというか」
「そんな話、できるわけがないだろう」
「えー、なんでよ。今日を含めてあと三日しか一緒にいれないんだよ。土産話聞かせてよ」
「……日本語の使い方が間違っているように思えるが」
「もう、そんなのどうでもいいから」
いや、良くはないだろうと思ったが、口には出さないようにした。これ以上言葉を紡いでも、この話から逃れることはできないと思い、労力の無駄だと判断したからだ。
「私と母さんは、元々教師と生徒という立場だったんだ」
「えーっ! お母さんからそんな話聞いたことなかった!」
鈴音は意外そうに口元を手で押さえながら声を上げた。
「誓って、教師である私が生徒である母さんに手を出したわけじゃない。私が新卒の時に担当したクラスの生徒の一人が、母さんだった。当時、母さんは中学一年生で、私が二十三だった。最初の三年間は、仕事に慣れるのに必死だったから覚えていないが、後から母さんに聞いた話では、私の面倒見が良かったのだそうだ。よく、母さんのことを気に掛けていたらしい。結局、母さんが受験を終えるまで私はそのクラスの数学担当をしていた」
「ほうほう、それでそれで」
鈴音はなぜか楽しそうに私が話すのを促した。
「母さんが塾を卒業してから七年後、新卒で私が働く職場に入社してきた」
「うわー、エモい展開だ!」
「えも……?」
「あー、ごめんごめん。続けて」
「……教場が全国的に展開しているものの、偶然母さんが私が当時働いていた教場に配属されたんだ。その時は驚いたよ。会社に就職した理由が、私に会うためだと言うからさらにたまげた」
「へー、お母さん、お淑やかな人だったけど、そんなにも行動力があったんだ」
「あぁ。私も、母さんが学生の頃はそういった性格だとばかり思っていただけに、驚いたな。そういえば、卒業してからも度々教場に顔を出しては、近況報告をしてくれていたな」
「え、完全に脈ありじゃん。バレンタインはもらった?」
「……言われて思い出したが、もらったな」
「うわ、忘れてたんだ。まさか、クリスマスに会いに来たりとかしてない?」
「マフラーをもらった記憶がある」
「それは完全に恋だわ」
「意中の相手に渡すクリスマスプレゼントの相場はマフラーなのか?」
「……そのさ、絶対的な法則みたいなのはないの。やっぱり、颯太に似てるなぁ、お父さん。そうやって物事に公式を見出そうとするところ」
鈴音は呆れたように、でもどこか嬉しそうに溜息を吐いた。
「そのマフラーはちゃんと使った?」
「今でも使っている」
「えっ……」
鈴音は一瞬固まった後、顔を綻ばせながら私の肩をバシバシと叩いた。一体、なんだというのだ。
「お母さんのこと、すごく好きなんだね」
「……そうでなければ、結婚などしない」
私がそう言うと、鈴音は「ふーん」と何か含みのある笑みを浮かべた。
妻がよく、「あなたといられて幸せです」と微笑みながら歯痒い言葉を掛けてくれていたことを思い出した。私はいつも、その言葉に対して口籠るばかりだった。私は妻と再会しようと試みたが、失敗してしまった。だが、今度は私が妻のもとへ向かう番だ。こうやって蘇るまでの一年間、覚えていないだけで、私は妻と会っていたのかもしれない。
七月六日は、思っていたよりも早くやってきた。
私と鈴音は、夜の街を散歩していた。雲一つない快晴の夜空には、いくつかの小さな星が見えるだけで、月の姿はない。
隣で静かに私に歩を合わせていた鈴音が、不意にこんなことを言った。
「私、お父さんと一緒にいられて幸せだった」
鈴音の声が、震えていた。
私は、今度こそ後悔がないように、鈴音の方を振り返って返答した。
「私も、幸せだ」
鈴音は一筋の涙を頬に流しながら、満面の笑みを浮かべた。
「私、頑張るから。これから、一生懸命生きていくから。だから……」
鈴音は何かを堰き止めるように口を結い、握りこぶしをつくった。
それから、勢いよく顔を上げた。一切の迷いがない晴れ晴れとした顔だった。
「見守っていてね。お父さん」
「……もちろんだ」
「そっちの世界で、お母さんと、できれば颯太とも、仲良くしてね」
「母さんがいれば、なんとかなるだろう」
「あとは、あとは……」
鈴音は言い淀むと、私を強く抱きしめた。私も、鈴音を抱きしめ返した。
「大好きだからね、お父さん」
「ありがとう。私も、鈴音のことを愛している」
私がそう言った時の鈴音の笑顔が、ひどく印象的だった。




