春
月島神社の話を聞いたのは、私がまだ六歳の時だった。
地元の古いその神社にある井戸には、満月の夜に必ず月が映り込む。
井戸に張られた水面には、表面の凹凸すら見えるくらいに綺麗な月が揺れているのだとお婆ちゃんが話してくれたのが懐かしい。
緊張で乾いた唇を舌で湿らせながら、私は石段をのぼっていく。普段なら夜の境内に一人で入ることを躊躇するはずなのに、今ばかりは微塵も恐怖を感じない。ただただ、祈るような気持ちしかなかった。
最上段から顔を覗かせると、赤い鳥居の向こうまで石畳が続いているのが見えた。人間が立ち入ることを拒否するような暗澹さを秘めた神楽殿が、その先に居を構えていた。
ようやく石段をのぼりきると、私は念のために神楽殿に向かって会釈した後、神楽殿の手前で左に曲がり、本道から逸れた雑木林を少し進んだ。やがて、木々を縁とした円形の拓けた空間に差し掛かった。その中央に、井戸があった。
私は気づかないうちに手汗を掻いていたようで、湿りを散らすために両手をすり合わせた。それから、意を決して井戸の方へと向かった。
古びた石造りの井戸の縁に手をかけて、恐る恐る中を覗き込んだ。
水面は音も立てず、風もないのに静かに波打っていた。ちょうど井戸の中央に、満月が映り込んでいる。背後に月明かりを浴びながら、私は目を瞑った。
月島神社の井戸に映る月に願えば、故人を生き返らせることができる。井戸に映る月に向かって、故人のことを想って溢れた涙を垂らせば、その瞬間に故人が蘇る。
こんな何番煎じとも分からないジンクスにあやかることが愚かだということは、私自身よく分かっている。まるで現実を直視することができていない。けれど、一人娘の愛美が死んでから、私と夫の時間は止まったままだった。ずっと、がらんどうになった心臓が目的を見失って、どうして伸縮を繰り返しているのかもはや分からない状態が続いていた。
私は、愛美との思い出を反芻した。瞼の裏に、あの頃の愛美がありありと蘇る。生きていれば、もうすぐ中学三年生になっている頃だ。制服姿の愛美と中学校の校門の前で、一緒に写真を撮りたかったなぁ……。
眼球と瞼の間が熱くなってくるのを感じた私は、ゆっくりと目を開けた。すると、目頭から一滴、涙がこぼれた。熱を帯びた涙の粒が頬を伝い、顎の先で不安定に留まったかと思うと、吸い込まれるように井戸の水面へと落ちた。その滴は、ちょうど水面に映る月の中心に落ちたように見えた。そこから波紋が周囲に伝播して何重にもなった波が周辺へとうなった。
直後、井戸に映る満月の輪郭がぼやけ始め、周辺の景色を映す水面との境界が曖昧になった。そして、井戸の水面が一面月光のような光沢を放ち始めた。
驚いた私は思わず仰け反り、数歩後退った。その後、さらに目を疑うような現象が起きた。
井戸から月光のような光の筒が上空へと延びていき、満月へと到達した。まるで井戸と月との架け橋に思えた。カーテンのように揺れるその光は、やがて満月へと吸い込まれていった。
視覚的な静寂さが戻ったことで、周辺が一気に暗くなったように感じられた。
しばらくの間茫然としていた私は、我に返って境内から走り去った。
縋る気持ちが私の身体能力を飛躍させているのか、境内から十分以上走り続けても息切れすることがなかった。私は、無我夢中で走り続けた。夫が待ってくれている。
……愛美と一緒に、待ってくれている。
故人の命日が偶然にも満月の日と重なっている場合、井戸の月に涙を落とせば、故人が亡くなった時間に亡くなった場所で蘇る。私たちは、二年も待った。愛美の命日が満月になる年を調べて、今日をどれほど待ち望んだことか。最初は私のことを馬鹿にした夫も、今では私と同じように縋る思いで今日を待ち望んだ。
深夜の人通りの少ない交差点にたどり着くと、麻酔が切れたみたいに身体が動かなくなった。気管がいつもの半分になったのかと思うほど呼吸が苦しく、私は膝に手をついて肩を揺らした。それから勢いよく顔を上げた。けれど、交差点には誰もいなかった。
「あなた……?」
赤信号になった交差点に向かって、私は力なく歩いていく。
「愛美……」
愛美はこの交差点で、トラックにはねられて亡くなった。愛美が生き返るとしたら、ここのはず。なのに、愛美はおろか、夫すらここにいない。私は身体だけでなく頭も動かなくなって交差点の真ん中で座り込んでしまった。止まらなくなった涙が無慈悲にアスファルトの闇に吸い込まれていく。
「どうして。どうしてよ、お婆ちゃん!」
行き場を失った感情をお婆ちゃんにぶつけて思わず叫んだ。
「綾子」
背後から、私の名前を呼ぶ夫の声がした。
涙でぼやけた視界の先に、夫が立っていた。夫は私の方へと近づいてきて、側にしゃがみ込んだ。
「こんなところで座り込んだら危ないだろ」
私の肩に手を回しながら、夫がそう言った。
「だって、愛美が……」
「愛美なら、そこにいるだろ」
夫の言葉に耳を疑った私は、思わず夫の方を振り返った。夫は、穏やかで優しい笑顔を浮かべていた。夫も、涙を流していた。
「ありがとう、綾子。君のおかげで、愛美が帰って来てくれた」
夫が指をさした方に視線を向けると、横断歩道の先に、綾子が不思議そうにこちらを見ながら立っているのが見えた。
「ま、なみ……?」
「どうして二人とも泣いてるの? 変なの」
耳に届いた愛美の声が、頭蓋骨をつたって何度も脳内で反響した。
二年の間、ずっと自分の記憶の中で繰り返していた愛美の声が、今こうして直接耳に届いた。現実に、愛美がいる。そんな奇跡が、本当にあるのか。あって、いいのだろうか。
夫に背中を軽く叩かれた。夫は目を赤くしながら微笑み、私に小さく頷いた。私も夫に頷き返すと、一目散に愛美の方へと駆けて行った。愛美のもとへとたどり着いた私は、思いきり愛美を抱きしめた。愛美は驚いたように目を丸くした。
「お母さん、どうしたの? やっぱり変だよ」
「愛美! 会いたかったよぉ、愛美!」
「い、痛いよ、お母さん」
愛美は困惑しながらも、仕方なさそうに私の頭を撫でてくれた。愛美は昔から、優しい子だった。愛美の匂いがする。懐かしい。嬉しい。愛おしい。もう絶対に、離したくない。
「ねぇ、さっきまでどこに行ってたの?」
「ちょっとトイレに行ってたの」
「ふーん、結構長かったね」
「大人の嗜みがあるから」
私は愛美を抱きしめたまま、そんなことを口にした。
「そっか」
愛美はそう言うと、私の頬に何かを押しつけた。じんわりと温かい。
「あげる」
愛美はそう言うと、私にそれを手渡した。おしるこの缶だった。
「三月だから、夜はまだ肌寒いよね。さっきお母さんを待ってる間にお父さんと買ってきたの。それで身体を温めてね。お母さん、好きだったでしょ?」
愛美が優しく私に微笑みかけた。その様子を見て、私はまたしても涙が止まらなくなった。愛美は不可解な私の様子を揶揄することなく、私の背中を摩り続けてくれた。
夫と愛美は、私が落ち着くのを待ってくれた。神社の近くの駐車場に停めていた車で、夫は私と愛美を乗せて家に向かった。車中では、何度も泣きそうになるのを堪えながら、愛美と自然に会話するよう努めた。信じられないほどに、幸せだった。
我が家に着くと、愛美が「ただいまー」とどこか嬉しそうに、高らかに言った。私がまた泣きそうになるのを察知した夫は、私の肩に手を添えてそっと自分の方へと抱き寄せてくれた。
愛美の部屋は、愛美が亡くなった二年前からずっとそのままにしていた。数日前に、埃っぽさをなくすためにちゃんと掃除してある。その甲斐あって、愛美は特に違和感を覚えることもなく自分の部屋で時間を過ごした。
リビングのソファで夫が腰掛けた。私が夫にお茶を出すと、夫が隣に座るように促してきた。それにしたがうと、夫が優しく私を抱きしめた。
「綾子。ありがとな」
「……ううん。こっちこそ、ありがとう。私を信じてくれて」
「それにしても、本当にこんなことが起きるんだな」
「うん。神様って、いるのかもね」
「ほんとだな」
夫の言葉に微笑むと、夫はお茶を口に含んだ。それからホッと息を吐くと、今度は神妙な面持ちになって、何かを切り出すように口を開いた。
「綾子が言っていたとおり、愛美はあの交差点に突然現れたんだ」
夫の様子にどこか深刻なものを感じて、不吉な予感がした私はただ頷いた。夫は私を気遣うように横目で見た後、静かに話し始めた。
「生き返った愛美はこう言ったんだ。『痛いよ! 死にたくないよ!』って。身体には何ら損傷は見当たらなかったから、事故のダメージは継承されていないようだったが」
夫の言葉に、私は心臓が凍てつくような感覚を覚えた。
「これってさ、愛美には自分が死ぬ直前までの記憶があるってことなんじゃないのか」
夫は組んだ手の親指を慌ただしく交互に組み替えた。これ以上の考察を口にするのを憚っているのが目に見えた。私は夫の言葉の続きを紡ごうと、喉がつっかえながらも口を開いた。
「じゃあ、愛美は自分が死んだことを認識している……」
「分からない。俺は必死で愛美を宥めた。ただの夢だ、死んじゃいないって。愛美は綾子に心配をかけないように、綾子が戻ってくるまでに平静を取り戻そうとしていた。だから、愛美がトラックに轢かれる瞬間のことをどう解釈しているのかは、俺にも分からないんだ」
夫は苦しそうに顔を歪めながら、頭を抱えた。
「……あなたが愛美に夢だと言ったのは、正しかったと思う。私も、愛美がその話を持ち出してきた時にはそう言うことにする」
私がそう言うと、夫はどこか救われたような表情を浮かべて頷いた。
「あぁ。たった二週間だからな。愛美とは、平凡な日々を送りたい。愛美が消える、最後まで」
夫の言葉に、私はゆっくりと頷いた。
今日は、三月二十五日、天秤座の満月。月が完全に欠ける新月になると、蘇った故人は再び消えてしまう。愛美が消えるのは、四月九日、おひつじ座の新月だ。
「そうね。ねぇ、今日は隣の和室で、久しぶりに三人で寝ない?」
「俺も同じこと考えてた」
夫と思わず笑い合うと、リビングのドアの方から物音がした。慌てて振り返ったけれど、愛美の姿はなかった。胸を撫でおろしながら、愛美の部屋へと向かった。
愛美はベッドの上にうつ伏せになって本を読んでいた。
「ねぇ、愛美。今日は三人で寝ない?」
愛美は私の提案に驚いた様子でこちらを振り返った。
「え、どうしたの、急に」
「たまにはこういうのもいいかなって」
「……うん、まぁ、いいけど」
愛美は腑に落ちていない様子で頷いた。
その後、夫に羨ましがられながら愛美とお風呂に入った。(夫も入りたいと懇願したけど、愛美が断固として拒否したため意気消沈していた)
入浴を済ませてから鼻歌をうたう愛美の髪をドライヤーで乾かしながら、必死に涙が出そうになるのを堪えた。
和室に敷布団を三枚並べて、真ん中に愛美を寝かせた。愛美にとっては今は春休み期間であるため多少夜更かしをしても問題はないという親らしからぬ私と夫の提案に呆れながらも、愛美はしばらく私たちとの会話に付き合ってくれた。
「四月から中学生だね。楽しみ?」
「うん、楽しみ」
「不安とかはない?」
「うーん、ほとんど友達も小学校と変わらないから、そんなにないかな」
「そっか」
眠そうにしながら答える愛美を見て、大人げないことをしてしまったなと反省しながら私は仰向けになった。すると、夫がしみじみと言った。
「入学式の時には、愛美は制服を着ているんだな」
入学式、という言葉で私は思わず息を呑んだ。愛美が消えてしまう四月九日はちょうど入学式の日だ。けれど、それはあくまで今年の話だ。二年前の入学式は四月七日に実施される予定だった。その日になれば、愛美に真実を打ち明けなければならない。
「うん、楽しみだな」
愛美は素朴に答えた。
そう答える愛美の隣で狼狽えていると、夫がこちらに向き直って言った。
「明日から、家族旅行に行かないか」
「え、旅行?」
愛美は目を丸くした。
「あぁ。小学校の卒業祝いを兼ねてさ」
「いいね、行きたい!」
愛美は嬉しそうに言った。その言葉を受けて、私は思わず夫を見た。夫と目が合って、私は小さく頷いた。事前に、愛美が生き返った場合、近所の人たちの目に愛美の姿をうつしてはいけないから遠出する必要があると話し合っていた。それに、曜日のズレを訝しがられてしまえば、愛美に早い段階で真実を打ち明ける必要が出てきて、平穏な日常を送ることができなくなってしまう。だから、私は内心安堵していた。きっと、夫も同じ気持ちだろう。友達との約束があるからと断られる可能性もあったからだ。
あとは、入学式の日をどうやり過ごすかを考えておく必要がある。学校からの連絡で入学式が延期になったとか、適当な嘘を吐くしか今のところは思い浮かばない。良心が痛むまま、私たちは就寝した。
翌日、夫の運転で二つ県を跨いだアミューズメント施設に併設された宿泊ホテルに向かった。春季休暇で予約が埋まっているのではないかと心配したけれど、幸い良い部屋が空いていた。ひとまず二泊三日で予約した。
車中では、普段は助手席に座る私だけれど、愛美と一緒に後部座席に座ってべったりしていた。夫が時折バックミラーで羨望の眼差しを向けてくるのにウインクして返した。
到着したホテルは想像以上に立派で、愛美は嬉しそうにはしゃいでいた。遊園地が一望できる上層階を奮発して予約したため、部屋に入ると窓から見える景色が絶景だった。愛美は飛び跳ねながら窓に手をついて景色を眺めていた。
「ねぇ、見て見て! あそこに観覧車がある!」
愛美に手を引かれて満更でもなさそうな夫が、「立派なもんだなぁ」と感心したように言った。
「早速、行ってみるか」
夫がそう言うと、愛美は勢いよく頷いて部屋を飛び出した。
「こら、危ないよ」
私が咎めると、愛美は照れ臭そうに頭を掻いた。学校では委員会をしていて、普段同級生からは大人びていると言われているらしく、私の指摘を恥ずかしく思ったらしかった。確かに愛美には大人びた部分はあるけれど、それはあくまで愛美の一側面で、本来はこんなにも年相応な姿がある。
夫もそんな愛美の姿を愛おしく思ったのか、エレベーターでエントランスまで降りると、愛美が嫌がって久しくしていなかった肩車を強行した。愛美は最初戸惑っていたけれど、満更でもない様子で笑っていた。
「もう、身体痛めるよ。歳なんだから」
「おいおい、俺はまだまだだぞ」
そう言って、エントランスから駆けて行った。これは、明日後悔するパターンだ。
まず、最初に私たちが向かったのはジェットコースターだった。愛美の希望で列に並んでいると、ジェットコースターが苦手な夫は搭乗する前からげっそりしていた。私と愛美は夫のその姿を見て笑った。案の定、夫はジェットコースターから降りた後、ベンチの上でグロッキーになっていた。どうせしばらくは動けないからと、私と愛美だけでジェットコースターをおかわりした。
二回目のジェットコースターが終わったタイミングで夫のもとに向かうと、本調子とまではいかなくとも、ある程度体力が回復していた。その次に向かったのは、メリーゴーランドだった。
「白馬の王子様になってきてよ」
私が茶化して言うと、夫は力なく首を振った。
「そんな柄じゃないよ」
「本当は、また酔いそうで怖いだけなんでしょ」
「回るコーヒーカップじゃないだけまだマシだけどな」
「じゃあ、乗る?」
「遠慮しておく」
夫が手の平を差し出して丁重にお断りしていると、愛美が残念そうに言った。
「お父さん、乗らないの?」
「……お母さんが一緒に乗ってくれるってさ」
「お母さんと乗る。けど、お父さんとも乗りたい」
愛美が切実にそんなお願いをしたら、愛美に甘い夫は断れるはずもなかった。
「……分かった」
「やったぁ!」
無邪気に喜ぶ愛美の隣で、夫は肩を落とした。けれど、愛美は私の方に向かってピースサインをした。どうやら、夫を困らせるために一芝居打ったらしかった。愛美は昔から、優しい夫にいたずらするのが好きだった。
「お母さん、どうしたの?」
「……え?」
「涙が出てるよ」
「……あれ、おかしいな」
失われたはずの日常が自然とそこにあって、気づかないうちに私は泣いていた。私は愛美に不審がられないように背を向けて必死に涙を拭った。
「ごめん、目に埃が入っちゃったみたい」
「大丈夫?」
愛美が心配そうに私の顔を覗き込んできた。私の目に埃が入っていないか確認してくれているらしい。私は愛美の手を掴んだ。
「大丈夫。平気だよ。ありがと」
私は愛美の頭を撫でた。愛美は「ならいいけど」と腑に落ちていない様子で頷いた。
メリーゴーランドの白馬が曲に合わせて上下に跳ねながら、優雅に回転を始めた。愛美と夫は前後の白馬に乗った。愛美は楽しそうに白馬からのびるポールに掴まり、夫はジェットコースターでの酔いが白馬の動きによって再発したのか、顔を青くしながらポールに身体を預けていた。私は終始笑いながら、その光景をカメラで撮影した。その後、愛美と私が白馬に乗りながら、またもベンチに横たわる夫の姿に笑いながらメリーゴーランドを楽しんだ。
白馬から降りた私と愛美は、自動販売機で水を買ってからベンチに横たわる夫のもとに向かった。夫は愛美から水を受け取ると、それを力なく飲んだ。
「大丈夫?」
「あぁ、問題ないよ」
「じゃあ、もう一回乗る?」
「…………」
「うそうそ。ちょっと休憩しよう。私、アイスクリーム食べたいな」
愛美がそう言うと、夫は安堵の表情を浮かべた。
「でも、不思議だよね。お父さん、車に乗ってても酔ったりしないのに」
「運転してたら酔わないもんだよ」
「ふーん、そういうものなんだ」
「愛美も大人になったら分かるよ」
「大人かぁ」
愛美はどこか神妙な面持ちでそう呟いた。その様子を見て、夫ははっとした表情を浮かべて私の方を見た。
愛美が大人になることは、もうない。私たちは、愛美の将来を見ることが二度とできない。その現実が突然胸に押し寄せてきて、私は無意識のうちに胸元を押さえていた。
「行こうか」
夫の言葉でふっと意識が戻った。私は気を取り直すように「何のアイスにしようかな」とわざとらしく声に出してみた。
「そうだねぇ、何にしよう」
愛美は明るい表情を浮かべながら、頭の中でメニューを浮かべているようだった。上手く笑えているか自信がなくて、私は夫と愛美が並んで歩く数歩後ろを歩いた。
その日は、ホテルに到着したのが遅かったこともあって、アイスを食べた後はグッズが売っているお店を細々と見るに留めてホテルに戻った。部屋の窓から見える遊園地は、夜間用にライトアップされていて、とても綺麗だった。
翌日、案の定無理をした夫の身体は悲鳴を上げていた。昨日の肩車が腰にきたらしかった。夫は自分の体力の低下にショックを受けていた。愛美の気遣いもあって、その日は身体を労わったメニューで遊園地を巡った。
特に感動したのが噴水ショーで、曲に合わせて噴水が控えめに噴射されたり、ダイナミックな曲調の時には観客席に届くくらいの水飛沫があがったりと、時間があっという間に過ぎた。 目立ったアトラクションに並ばずとも、遊園地を探索していると気づけば夕方になっていた。
私たちは愛美の希望でホテルに戻る前に観覧車に乗ることにした。観覧車なんて、いつぶりだろう。迫ってくる観覧車に乗り込むのに少し緊張した。
地上にいるときよりもずっと近い空の色は黒とオレンジがせめぎ合っていて、閉園の時間が近づいてきていることを感じさせた。観覧車が一番下までたどり着いてしまったら、今の幸せが消えてなくなってしまうような気がして、どうしようもない不安が襲ってくる。けれど、私の不安な気持ちが悟られてしまえば、愛美は心から楽しむことができなくなってしまう。私は必死に平静を装った。
「すごくきれいだね」
愛美は立ち上がって観覧車の窓に手を添えて言った。
「なんかね、観覧車って、私にとっては切ないものに感じるんだ」
愛美は神妙な声音でそんなことを言った。
「観覧車に乗ると、外の世界が遮断されて、ゆったりとした時間が流れる。すごく心地良いもののはずなのに、何故か何度も乗ろうって気持ちにはならない。ジェットコースターは何回も乗りたくなるのに、不思議だなっていつも思ってた」
私も夫も、愛美の異様な雰囲気にのまれて、ただただ愛美の言葉に耳を傾け続けていた。
「でもね、今気づいたんだ。観覧車に乗っている時は、自分が知らないうちに充実しているから、終わる時の寂しさも大きい。充実感を味わう時間がたくさんあるからこそ、終わりを迎える時のことを強く意識するんだと思う。ジェットコースターは一時の楽しさだから、あんまり終わりを意識することがない。そこに違いがあるんだと思うの」
愛美はどこか儚い笑顔を浮かべながら、私と夫の間に座った。
「私ね、いつまでも平穏な時間が続くと思ってた。全然、そのことを疑ってなかったの。もしかしたら、二人も同じだったのかもね。観覧車がそのうち終わっちゃうみたいに、自分の時間にも限りがある。だから今が大切なんだって、すごく感じてる」
「愛美、さっきから一体何を……」
夫が狼狽えながら愛美に訊いた。訊いたものの、答えを返してほしくはなさそうだった。
愛美は、今まで私たちに見せたことのないような表情をしていた。限りなく無表情だけれど、その裏に何かしらの感情が秘められている。そんな印象を抱くような表情だった。
「私、本当はもう、死んでるんだよね」
愛美は何かを諦めたような声で、私と夫の顔を交互に見回した。
いきなり真空に放り込まれたみたいに、静寂が耳を劈いた。
私は思わず夫の方を振り返った。夫も、私と同じようにこちらを見ていた。動揺で身体の輪郭が周囲に溶け出して、なんだか夢を見ているような気分だった。
「一昨日、聞いたんだ。二人がリビングで話してるのを」
一昨日のリビングでの光景がフラッシュバックした。そういえばあの時、夫と愛美が生き返ったことについて話していた時、ドアの方から物音がしたことを思い出した。やっぱりあれは、愛美が立てた音だったんだ。どこまで聞いたのだろうと思ったけれど、少なくとも自分が生き返った身であることを知ったのなら、もう誤魔化すこともできない。
「俺たちの話、信じたのか?」
夫がこわごわと愛美に訊いた。愛美は夫の言葉に、躊躇いもなく頷いた。
「うん、信じたよ。だって、私が死んだことは、私が一番自覚してるから」
「……自覚してるって、どうして」
「一昨日、私がパニックを起こしてた時、お父さんが必死に宥めてくれたよね。どうして私があんな状態になっていたのか、お父さんになら分かるでしょ?」
「……それは」
「あれは、夢なんかじゃない。トラックに衝突して、地面に打ちつけられて、段々と視界が狭くなっていくの。あの感覚は、絶対に、つくりものなんかじゃなかった。私はあの時、死んだはずだった」
愛美は今にでも自分の輪郭が崩壊してしまうんじゃないかと恐れているみたいに、右手で自分の左腕を摩った。
「友達と別れてから一人で帰ってたのに、気がついたら目の前にお父さんがいて、てっきり死後の世界に来ちゃったんだって思った。ずっと、怖かった。でも、お父さんも、息を切らしながらやって来たお母さんも、私が知っている優しい二人だった。私の部屋も、いつもと変わらなかった。少しだけ、埃っぽい臭いがしたけど」
愛美は全て気づいていた。愛美は自分が『一番』自覚していると言った。もしかすると、私と夫が一番愛美が生きていた時間に囚われていて、それはある意味では愛美が死んだことを他人事だと思い込みたくてのことで、だから私と夫は、愛美が死んでしまった事実を、愛美よりも自覚していなかったのかもしれない。
「だから、納得したんだ。二人が、私のことを生き返らせてくれたんだって。もちろん、自分がいずれ消えちゃうことは怖いし、寂しい。でも、二人とこうやって、少しでも長く一緒にいられるのが、嬉しい」
「愛美……」
視界が濁って、愛美の表情が判別できない。愛美はこの瞬間まで、私たちに気づかれないように自分なりに今の状況を咀嚼して、勇気を出して私たちに告白してくれた。
自分が情けなかった。自分のことで精一杯で、自分の娘の気持ちに全然気づいてあげられなかった。私がもしも愛美と同じ年齢だったら、いや、今の自分でも、愛美みたいな振る舞いはできないだろう。
「愛美、ごめんね」
私は、愛美を抱きしめた。愛美は何も言わず、私の頭を撫でてくれた。もはや、どちらが母親で、どちらが娘なのか分からないや。
夫は私の目の前で、愛美の頭を撫でた。相変わらず視界が涙に邪魔されて、夫の表情は見えない。ただ、なんとなく、自分が泣いてしまわないように愛美に触れたんじゃないかと思った。
「お父さん、お母さん。ありがと。泣かなくていいんだよ。こうやって三人で旅行できてすごく楽しいよ。それに、まだ時間はあるんでしょ? 大丈夫。ずっとこうやって旅行してなくても、私、家から出ないから。いつもみたいな時間を過ごしながら、最後まで二人と一緒にいたい。私、今すっごく幸せ」
愛美の顔を見なくとも、笑顔で言ってみせているのは明白だった。なんて、強い子なんだろう。なんて、優しい子なんだろう。なんて、気遣いのできる子なんだろう。
なんで、そんな良い子が死んでしまったのだろう。
胸中で黒い感情が湧き起こったのに気づいて、私は思わずかぶりを振った。愛美はこんなにも前向きな姿勢なのに、母親である私がこんなのでどうする。そう、自分を叱責した。愛美の言う通り、まだ時間はある。もちろん、愛美は強がってこんなことを言ってるのだと分かってる。けれど、愛美のその意思を無碍にするのはあまりにもお門違いだ。愛美が消える最後の時まで、私は愛美の母親であり続けなければならない。愛美を生き返らせたのは、他でもない私なのだから。
私は、さらに強く愛美を抱きしめた。
「愛美、私も今すごく幸せ。ありがとう。私たちの前に戻って来てくれて。でも、私、愛美に大人げないことしようとしてた。愛美のこと、独り占めしようとしてた。愛美には、私たち以外に会いたい人がいるでしょ?」
「それは……」
愛美が、ようやく年相応な表情をした。さっきの告白は、よほど気持ちを整えて用意したものだったのだろう。こうやって不意な質問を投げかけると、途端にしおらしくなった。
「秋乃ちゃん?」
「……うん」
愛美が控えめに頷いた。
「秋乃ちゃんなら、信頼できるね。秋乃ちゃんなら、愛美と会っても受け入れてくれそう?」
今度は、力強く頷いた。
「なら、秋乃ちゃんとも遊んでいいよ」
「……ほんと?」
「秋乃ちゃんなら、愛美の秘密、ばらしたりしないでしょ?」
「うん」
「だったら、旅行から帰ったら秋乃ちゃんに連絡してみよう」
「……ありがとう、お母さん」
愛美の声が、今日初めて震えた。愛美は赤くなった目をこすって、満面の笑みを浮かべた。まるでこの瞬間から弱みを見せるつもりはないと決意したみたいに感じられた。私はそんな愛美の様子に思わず口を開いた。
「愛美。これからは、したいこととかしてほしいことがあったら、気兼ねなく言ってね」
「うん、分かった。ありがとう」
「もちろん、怖い時は怖いって言っていいし、悲しい時は悲しいって言ってもいい。ただ、最後の瞬間まで、幸せでいてほしい」
「……ありがとう」
愛美は俯きながら小さくこぼした。
夫は愛美の隣で鼻を啜ると、愛美の方を柔らかい表情で見つめながら言った。
「昨日と今日でバイキングのメニューが違うらしい。なんと今日はローストビーフが出てくるらしい。楽しみだな」
「それ美味しそう。でも、夕食の時間が始まってすぐに確保しないとなくなっちゃいそうだね」
「観覧車から降りたら、ホテルに戻ろうか」
「うん! 次の楽しみができた!」
愛美は屈託のない笑顔を私たちに見せた。
夫は、愛美の気持ちを汲んで、愛美に日常を与えることに徹する覚悟を持ったのだろう。私は夫の計らいに感謝した。
観覧車から降りても、次の楽しみがある。愛美が言った観覧車みたいな日常が終わったとしても、その先にはまだ希望があることを意味していたらいいな、と密かに思った。
ホテルに戻って少し休憩した後、私たちはバイキングに向かった。案の定、ローストビーフは人気で他の料理に比べて減るのが速かった。本当はよくないのだろうけれど、私たちは最初の時点でローストビーフをごっそり確保した。どうか、ご愛嬌ということで見逃してほしい。
食事を終えて部屋に戻ってから、なんでもないような日常会話をして、私たちは眠りに就いた。私と夫は愛美の体温を覚えなすように、必死に肌を寄せ合った。
寝息を立てる愛美の顔を見ながら、どうしてあの日、秋乃ちゃんの家に泊まるはずだった愛美は一人で深夜に外出したのかと考えた。ずっと、気掛かりだった。例えばコンビニに行くのなら、秋乃ちゃんと二人で行くはずだろう。でも、二人は真面目な性格だから、深夜に外出して秋乃ちゃんの親を困らせるようなことはしない。だからこそ、どうしてあの時間のあの場所に愛美がいたのか、私にはどうしても理解できなかった。
私は愛美の髪を撫でながら、いつの間にか眠りに就いた。
「秋乃ちゃん、やっぱり私、帰るね」
私は立ち上がりながら秋乃ちゃんにそう言った。私の言葉を聞いて、隣で仰向けになっていた秋乃ちゃんが上半身を起こした。
「お母さんが心配だから?」
秋乃ちゃんは首を傾げながら私に訊いた。
「……うん。ごめんね」
秋乃ちゃんのお母さんが寝る前に、お母さんからの電話を受けていた。会話の内容から、お母さんがどうやら風邪をひいたらしいことを知ったのだ。お母さんのことが気掛かりで、私はずっとそわそわして寝付くことができなかった。
秋乃ちゃんは何故か可笑しそうにくすっと笑った。
「どうして謝るの? 私、愛美ちゃんのそういうところが好きだから友達になったんだよ」
秋乃ちゃんは微笑みながらそう言ってくれた。思わず、泣きそうになった。
「また今度、お泊り会しようね。秋乃ちゃんのお母さんにもよろしく言っておいて」
「ラジャー」
秋乃ちゃんは明るく右手を額に添えた。
部屋から出ようとしたところで、私は秋乃ちゃんの方を振り返って言った。
「お母さんには私が家に帰る理由言わないでね。責任を感じちゃうかもしれないから」
「イエッサー」
秋乃ちゃんはおどけた様子でそう言った。
私は秋乃ちゃんの優しさに背中を押されながら部屋を出た。急ぎ足で私の家と秋乃ちゃんの家のちょうど真ん中あたりにあるコンビニを目指した。
コンビニが二百メートルくらい離れた位置に見えるところにある交差点に差し掛かった時、夜の遅い時間だからかスピードを出したトラックが遠くの方から勢いよく交差点に向かってきているのが横目で見えた。歩行者信号が青だったから、私は横断歩道に足を踏み入れた。真横からトラックのライトが異様な速さで迫ってくるのを感じて、ようやく違和感を察知した。当然、信号を守って停止線の前で止まるだろうと思っていたトラックの方を振り返った時には、目と鼻の先に車体があった。その光景がスローモーションに見えたけれど、自分の身体も同じくゆっくりになって、避けることはできなかった。
感じたことのない痛みを伴って道路を転がった私は、暗転していく意識の中でお父さんとお母さんの顔が思い浮かんだ。そして、秋乃ちゃんが泣いている顔まで浮かんできた。秋乃ちゃんには、自分を責めてほしくないなぁ。
「あい、た……い」
呟いたのか、そう思ったのかすら分からないまま、私は意識を手放した。
「愛美! まなみっ!」
「……おかあ、さん?」
愛美が虚ろな表情で私に呼びかけた。
「……よかった。愛美、よかったぁ」
私は号泣しながら愛美を強く抱きしめた。
夜中に突然、愛美が苦しそうに呻きだした。驚いた私と夫は必死に愛美に呼びかけて肩を揺すったけれど、全然目を覚まさなくてどうにかなりそうだった。だから、愛美が意識を戻してくれて、心底ほっとした。
「大丈夫か、愛美」
夫が額に汗を掻きながら愛美に訊いた。
愛美は私と夫の顔を交互に見てから、ゆっくりと頷いた。
「私、なんか変だった?」
愛美は不安そうに私たちに確認した。
「ちょっとうなされてただけだよ。大丈夫なら、問題はないさ」
夫が取り繕うように笑った。愛美のうなされ方と寝言で、私だけでなく夫も確信したのだろう。愛美は、事故に遭ったときの夢を見たに違いない。私は、愛美の背中を摩り続けた。
「ごめんね、心配させちゃって」
「いや、愛美が謝ることじゃない」
夫は愛美の頭を優しく撫でた。
その後、私と夫は愛美を挟んで抱き合うようにして眠りに就いた。
翌日、私たちは我が家に戻った。それから、秋乃ちゃんに連絡して予定がないことを確認してから、私たちの家に来てもらうようにお願いした。秋乃ちゃんが来るまでの間、愛美は緊張している様子だった。
数十分後にインターホンが鳴って、愛美がドアを開けた。
目の前には、口元を手で押さえた秋乃ちゃんが立っていた。
「愛美、ちゃん……?」
秋乃ちゃんは信じられないといった様子で佇んでいる。
愛美はぎこちない素振りで秋乃ちゃんに手を振った。
「久しぶり、秋乃ちゃん」
愛美はドアの外に出ると、私と夫の方を振り返って「行ってきます」と笑顔を浮かべた。それからしばらくの間、玄関で待っていたけれど、愛美が戻ってくる様子がなかったため、私と夫は互いに顔を見合わせて頷いてからリビングに向かった。
テレビも点けないまま、私と夫はぼーっとソファに腰掛けていた。愛美が生き返ってからの数日間、ずっと現実味のないまま時間が進んできた。私も夫も、地に足がつかない感覚だった。
しばらくすると、夫は畳敷きの部屋に行き、押し入れから何かを持ってきた。それから私の隣に腰掛けると、おもむろにそれを開いた。そこにはたくさんの写真が載ってある。家族写真のアルバムだった。
「懐かしいな」
思わず笑みをこぼした夫が、生まれたての愛美の写真を愛おしそうに指さした。
「低出生体重児だったからすごい不安だったなぁ」
私がそう言うと、夫は頷いた。
「産声も上げなかったから、心配したな。ちゃんと育ってくれて、よかった」
夫はそう言いながらページをめくった。
「わぁ、懐かしい。これ、初めて乗ったジェットコースターで愛美が泣きじゃくった時のだ」
「ぎりぎり愛美が乗れる年齢だったんだっけ」
「そうそう。それにしても、愛美を抱きかかえるあなたの顔も真っ青ね」
私が笑うと、夫はバツが悪そうに頭を掻いた。
「こっちは寝ているあなたの顔に愛美が落書きしたときの写真ね」
「これ、翌朝寝坊したせいで顔に落書きされたのに気づかないまま出社した時のやつだよな。あれは本当に血の気が引いた」
「ごめんごめん。愛美のお世話に夢中で、落書きのことをすっかり忘れてたの」
優しい夫は、仕事から帰って来た時も怒らずに、愛美に仕返しをしていた。ちょうどクリスマスシーズンだったため、愛美の鼻の頭に赤色のマジックを塗って、頭に角のカチューシャを被せて小さなトナカイの写真を撮って笑っていたっけ。
更にページをめくっていくと、小学校の校門前で愛美がランドセルを背負っている写真が目に飛び込んできた。私は思わず息を呑み込んだ。
「愛美、ずっと赤いランドセルを欲しがってたよな」
「……そうね」
「学生服姿も、当たり前のように撮れると思ってたんだけどな」
私は夫の方を振り返った。
学校の採寸に付き添ったため、私は愛美の制服姿を目にしたことがある。けれど、夫は中学校の入学式に愛美の制服姿を見るつもりだった。夫はずっと、そのことが心残りだった。
「制服姿、一目見たかったな……」
夫がしんみりした声で、そう呟いた。私は夫に身体を寄せて、腕を絡めた。
「ねぇ、愛美に制服着てもらおうよ」
「……え?」
「制服はまだとってあるから、校門の前で一緒に写真を撮るの」
「……知り合いに見られたらどうするんだ」
「もう、この際いいじゃない。周りの目を気にしてたら、もう二度と、制服姿の愛美と写真が撮れないよ」
私の言葉に、夫は難しい顔をしながらアルバムに視線を落とした。
私と夫は、それから、愛美の写真を懐かしみながら眺めた。アルバムを仕舞った後は、愛美が帰って来た時に違和感のない日常を感じてもらうために、いつも通りを心掛けた。夫は趣味の釣り用具を手入れし、私は愛美が帰って来るタイミングを見計らって夕食の準備をした。メニューは、愛美が好きなオムライスだ。
料理していると、インターホンが鳴った。私は急いで玄関に向かった。ドアを開けると、愛美と秋乃ちゃんが並んで立っていた。秋乃ちゃんは、目を赤くしながら頭を下げてきた。
「今日は、愛美ちゃんと会わせてくれて、ありがとうございました」
相変わらず礼儀正しい秋乃ちゃんの頭を撫でながら、私は言った。
「いつでも愛美と遊んでいいからね」
秋乃ちゃんは顔を上げると、涙を拭いながら「ありがとうございます」と笑った。
「愛美ちゃん、またね」
秋乃ちゃんは愛美を抱きしめた。愛美は、秋乃ちゃんの頭を撫でながら背中をぽんぽんと叩いた。
「ごめんね。ありがとう、愛美ちゃん」
「ううん。こちらこそ、ありがとう」
名残惜しそうにしている秋乃ちゃんに手を振りながら、愛美はドアを閉めた。それから、愛美は静かに玄関で靴を脱いだ。
「楽しかった?」
「うん、とっても」
「話したいこと、話せた?」
「うん、いろんなことを話したよ」
「そっか。良かった」
愛美は私に微笑むと、目を瞑って鼻をすんすんさせた。
「良い匂い。これってもしかして、オムライス?」
「そう。お腹空いている?」
「うん!」
「じゃあ、手を洗ってうがいしてきなさい」
「はーい」
愛美は自分の部屋に荷物を置いてから洗面所に向かった。
リビングに戻って夫に夕食の用意ができたことを伝えた。夫は素直に立ち上がってテーブルの前に座った。愛美もリビングに入って来てから、家族で食卓を囲みながら手を合わせた。
「いただきます」
愛美がスプーンでオムライスの欠片を口に含んだ。
「うーん、美味しい!」
愛美はいつも、必ず私の料理をこうやって美味しそうに食べてくれた。愛美は次々にオムライスを口に運ぶ。一緒に夕食を食べながら、学校であった出来事を聞くのが日課だった。
「今日は秋乃ちゃんと何したの?」
私が訊くと、愛美は何かを思い出そうと左上に視線を向けた。
「一緒にファミリーレストランに行ったよ。でも、ほとんどドリンクしか頼まなくて、話してばっかりだった」
無理もない。積もる話がお互いにあっただろう。愛美をこの家まで送り届けてくれた時の秋乃ちゃんの表情を思い出しながら、私はそう思った。
「実は、明日は秋乃ちゃんが用事があるから難しいけど、明後日にまた遊ぼうって約束したの。行ってもいい?」
遠慮がちに愛美が私と夫に訊いた。
「もちろんよ。言ったでしょ。遠慮はしないでって」
私が言うと、愛美は安心したように笑った。
「ありがとう」
愛美は潤んだ声で言って、再びオムライスを口に運び始めた。愛美から視線をずらすと、夫と目が合った。どこか緊張した面持ちで、夫は私に頷いた。
「なぁ、愛美」
「ん? なに?」
「お父さんから愛美にお願い事があるんだ」
「お願い事?」
愛美が不思議そうに首を傾げた。
「一緒に写真を撮ってほしんだ」
「え、写真?」
夫の言葉の意図が分からずに困惑する愛美を見て、私は思わず吹き出した。相変わらず、夫は不器用だ。私は夫をサポートするつもりで、愛美に説明した。
「お父さん、愛美の制服姿を見たいんだって。だから、校門の前で愛美と一緒に写真を撮りたいねってさっき話してたの」
「……そっか。採寸の時にお母さんは見たけど、お父さんは仕事だったから見てないもんね」
愛美は納得した様子で頷いた。
「もちろん、いいよ」
「ほ、本当か?」
夫が前のめりになって愛美に確認した。愛美は「大げさだなぁ」と笑った。夫は深く息を吐き出しながら、背もたれに背中を預けた。夫の目が潤んでいた。
数日後、桜が満開のタイミングで私たちは愛美が入学する予定だった学校の校門前に向かうことになった。愛美は自分の部屋で制服を着替えた。夫は愛美の部屋の前でそわそわしながら愛美を待った。
しばらくして、愛美が部屋から出て来た。セーラー服姿の愛美が視界に入った瞬間、その姿を見たことがあった私でさえ泣いてしまった。夫は呆気に取られた様子で立ち尽くしながら、愛美の全身を眺めていた。私と夫の視線に、愛美は少し恥ずかしそうにしていた。
「すごいな。そうか、中学……中学生だもんな」
夫は口元を手で押さえた。私が夫に寄りかかると、夫は私を抱きしめてくれた。
夫の車で学校付近の駐車場まで向かい、そこから徒歩で校門まで向かった。道中は桜の花びらで埋め尽くされており、濃淡のある淡いピンク色の絨毯が敷かれているみたいに見えた。
校門まで真っ直ぐに続く道の両脇で桜の木々が桃色の花びらを散らせている。その間を誰の目もなく歩く私たちは幸運だった。
念のために周囲を確認しながら夫が三脚をセッティングしてくれた。夫がカメラの位置を確認してくれている間に、私と愛美は自分の髪や服の乱れを整えた。
夫がカメラを起動させ、急いで私たちの方へと走って来た。愛美を間に挟んで、私たちはレンズに笑顔を向けた。そして、シャッター音が鳴った。
タイムリミットである四月九日は、波打ち際の細波が気づかないうちに足の指先に触れるくらい無意識のうちにやって来た。
愛美の要望で、その日は制服を着ていた。
私も夫も、気丈に振舞うように心掛けてきたけれど、今日ばかりは取り繕うこともできなかった。この場で一番大人なのは愛美で、終始笑顔に徹してくれていた。私と夫はリビングのソファに座って、心ここにあらずといった状態だった。
愛美が最後に食べたいと申し出てくれたオムライスを言葉を交わすこともなく黙々と私たちは食べ続けた。本当に、自分が情けなかった。
夜になり、あと数分で日付が変わるタイミングになった頃、愛美が「外に出よう」と提案した。私と夫は頷いて、玄関に向かった。
外に出て空を見上げると、星々が光り輝いていた。それなのにいつも以上に暗いのは、今日が新月だからだろう。満月に蘇る故人は、新月になると消える。これが、月島神社のジンクスにおけるルールだった。
愛美はしばらく夜空を見上げた後、ゆっくりと私と夫の方を振り返った。
「神様っているんだね」
「……え?」
「こうやって、またお父さんとお母さんと会わせてくれたんだもん」
「…………そうだね」
愛美の声は、ひどく落ち着いていた。
「トラックに轢かれて、意識が遠のいていく時、私願ったんだ。お父さんとお母さん、そして秋乃ちゃんに会いたいって。それが全部叶っちゃったんだもん。世界って、不思議だね」
最後くらい笑顔でお別れをしたかった私は、両手で顔を覆った。
「二人の日頃の行いが良いから、神様がチャンスをくれたんだと思うの。でもね、私は図々しいから、生き返らせてもらったうえに、もう一つ、お願いしようと思ってるの」
愛美は首を少し傾げて微笑んだ。
「また、二人の子どもに生まれる。生まれ変わっても、また二人と家族になる。お父さんとお母さんの子どもに、私はなりたい」
限界だった。私は、愛美を勢いよく抱きしめた。愛美も、私を強く抱きしめ返した。それから夫が、私と愛美を覆うように抱きしめてくれた。
「あーあ、私、やっぱりダメな子だなぁ」
愛美の声が震えていた。
「ねぇ、神様。お願い。良い子にするから。ちゃんと、世の中のためになることをするから。だから、お父さんとお母さんと一緒にいさせてほしいよ。思い出が全部消えちゃうのは、嫌だよ!」
愛美はそう叫んで、年相応の女の子みたいに涙を流した。今まで自分の胸の内に秘めていた悲鳴を全て吐き出すように、愛美は泣きじゃくった。私も夫も、いよいよ我慢の余地なく声を上げながら泣いた。あと数分で愛美がいなくなるという事実に、耐えられるはずがない。ずっと、自分が親なのだからと言い聞かせてきたけれど、そんなの、無理だ。私には、もうすぐいなくなってしまう我が子を前にして大人を演じるなんて、到底無理だった。でも、愛美の悲痛な言葉と同じ言葉を愛美にぶつけてお別れすることの方が、もっと嫌だった。
私は愛美の頭を撫でながら、言った。
「ねぇ、愛美」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、愛美をこちらを見上げた。
「愛してる。世界中の誰よりも、愛美のことを」
「……お母さん」
「俺も、愛美のことが世界で一番大切だ」
「……私も、二人のことが一番好きだよ」
「さっき、愛美が言ってくれたよね。私とお父さんの日頃の行いが良いから、神様は愛美を生き返らせてくれたんだって」
愛美は私の言葉に頷いた。
「だから、愛美のお願いを叶えてもらえるように、神様にお願いしておく。愛美が、また私とお父さんと、家族になれますようにって。今の愛美との思い出は、私とお父さんがちゃんと覚えておくから。生まれ変わった愛美に、ちゃんと伝えるから。生まれ変わった愛美とは、また新しい思い出をつくることができる。これって、愛美との思い出が二倍になるってことでしょ? こんなに素敵なことはないと思うの」
「……お母さん」
「また、オムライスを食べにおいで」
愛美は大粒の涙を頬につたわせながら、大きく頷いた。満面の笑顔だった。
「お父さん、お母さん。大好き」
愛美の声が耳に届いた瞬間、風がそよいだ気がした。温かい愛美の体温が、私と夫を撫でるようにして、どこかへ飛んで行った。
悲しみに打ちひしがれながら、私は自分の身体を抱きしめるようにして泣いた。夫が私の背中に手を添えて、優しく撫でてくれた。
「大きくなったな、愛美」
夫がぽつりと呟いた。
私の人生で、一番印象深い二週間だった。この二週間での出来事を糧に、私は残りの人生を生きていこうと決意した。
一年後、私と夫の間に子どもができた。女の子だった。名前は春美だ。
私の夢は、制服姿の春美と写真を撮って、一緒にお酒を飲んで、そして、ウエディングドレス姿の春美を見ることだ。夫は今から春美とバージンロードを歩くことを意識して、ゆりかごの中ですやすやと眠る春美の隣で結婚式の雑誌を開いている。気が早いなんて思われるかもしれないけれど、一瞬だったあの二週間のことを思えば、夫の行動はあながち大げさなものでもないと思う。私は夫に呼びかけながら、リビングのテーブルにオムライスを並べた。春美がゆりかごの中で鼻をひくひくさせながら目を覚ますのを見て、私は思わず微笑んだ。




