35話 ローズマリーの香り
寮の三年生の住まう階からは、綺羅びやかな服を身に纏った男女が、卒業パーティの会場に向かっていた。
一年生の特待生からは、イーサンだけがお呼ばれしたようだ。
久しぶりにエレノアは第二談話室に足を運ぶことにした。
イーサンを避けるためにも、第二談話室にはあまり近づかないようにしていたのだ。
パトリシア達は、エレノアとイーサンの不審な様子に気づいていたが、それにわざわざ触れることはしなかった。
適度な距離を保ち、喧嘩もしたわけではない。
一週間ほど経った頃、パトリシアからエレノアに話しかけてきたことがあった。
「イーサンと何かあったの?」
「何もないよ。多分、卒業パーティ後には元に戻ると思うから」
繕うように、手をひらひらと動かすエレノアをパトリシアは不審そうに見つめた。
だが、卒業パーティ後と聞いて、パトリシアも疑問を浮かべていたが、喧嘩でもしたわけではないと知ると、それ以上突っかかりもしなかった。
卒業パーティの日は休みということもあり、エレノアは第二談話室でパトリシア達と喋ったり、本を読んだりしていた。
ただ、午後にもなってくると、少し卒業パーティのことが気になってきた。
卒業パーティは、昼間は交流会のような感じで、夜になるとダンスパーティを催すようだ。
エレノアは卒業パーティの会場の方角にある窓の外を見つめた。
建物に遮られて会場自体は見えなかった。
星空が広がり始めると部屋を出て、食事を取った。
あまりにぼーっとしているものだから、リュカに指摘されてしまった。
「大丈夫ですか?」
心配そうに見つめるリュカに、エレノアはつい零してしまった。
「あと少しなのにね」
あと少し。
そう後少しだけなのだ。
イーサンは卒業パーティ後なら話しかけていいと言っていた。
明日になれば、また元通りに。
なるだろうか。
また黙り込んだエレノアを見て、リュカが寂しそうに声をかけた。
「卒業パーティは午後9時に終わるようです。卒業パーティ後なのでしょう?なら、今行っても問題ないと思いますが」
後押しするように言うリュカ。
エレノアの目は光に包まれたように潤む。
「ちょっと姑息すぎない?」
「そうでしょうか」
ついエレノアの口から笑いが溢れてしまう。
悪い顔をして、エレノアがお盆を持って立ち上がった。
「行ってくるよ」
「はい」
「おう」
「行ってらっしゃい」
三人に後押しされたエレノアは、食堂から走って出ていった。
曲がりくねった廊下を走り、卒業パーティの会場へ向かっていく。
段々と音楽が聞こえてくる。
時間はまだ八時半。
会場に近づきすぎたら、三年生の邪魔になってしまうとエレノアはその場で止まった。
その瞬間、音楽が止まった。
すると、ローズマリーの香りがエレノアの鼻をくすぐった。
前に嗅いだことのある匂い。
コツコツと聞こえる足音。
横に振り向くと、そこには黒の燕尾服を着て、白のネクタイを付け、右耳に紫色のピアスをしているイーサンの姿があった。
いつものラフな格好ではなく、びしっと決め、髪をヘアオイルで整えているからかいつもと少し雰囲気が違う。
面を食らったようにしばらくイーサンは黙り込んでいた。
イーサンに何を話しかければいいのか分からず、エレノアはその場から立ち去ろうとした。
だが、そんなエレノアの手をイーサンが掴んだ。
「行くな」
切実なその思いの込められた言葉に、エレノアは振り返ることはせず、半分上げていた足を地面へとおさめる。
振り払おうと思えば、振り払えるほどの力だ。
だが、エレノアは振り払わなかった。
「踊らないか?」
イーサンの一声は、エレノアには予想できないものだった。
だから、つい振り向いてしまったのだ。
イーサンの顔が目に映る。
エレノアはつい、イーサンから顔を逸らした。
いつもと服装が違うだけだというのに、なぜこんなにも緊張するのだろう。
「踊らない」
不機嫌そうにイーサンがこちらを何も言わず見る。
そんなイーサンの説得を試みようとエレノアは振り絞った声を出す。
「‥‥こ、こんな服、だし」
エレノアの服は休日ともあり、ラフなワンピース姿である。
エレノアと違い、イーサンは格式のある舞踏会用の服だ。
あまりに、釣り合わなすぎる。
「別にいいだろう」
何がいいのだろうかとむすっとするエレノア。
「誰が来るか分からないのに、こんなところで踊るなんて――」
悪いことをしている気分だ。
そんな時、不意に音楽が流れ始めた。
まるで、二人が踊るのを待っていたように、優雅な音楽が壁を隔てた会場から聞こえてくる。
「踊ってくれるか?」
懇願するイーサンがエレノアへと手を差し出した。
エレノアは何も言わず、ゆっくりとその手を取った。
イーサンの顔がふっと緩んだ。
そして、そのままイーサンがエレノアの腰へと手をやる。
ダンスに慣れていないエレノアはつい情けない声を出してしまう。
恥ずかしさで今すぐ顔を埋めたい気分だ。
そんな気持ちを取り払い、慣れていないダンスで、イーサンの足を踏まないように注視する。
「俺がリードするから大丈夫だ」
剣を振るってばかりで、こんなダンスなど出来ないのではないかと心配していたが、あまりに完璧なリードにエレノアも自分が上手くなったのではないかと勘違いしてしまうほど。
薄暗い証明に照らされて、イーサンの顔がほんの少し赤らんでいるように見える。
密着していることによって、イーサンの香りがエレノアの鼻をくすぐる。
そして、イーサンがエレノアの腰を両手で持って、抱き上げた。
ふわっとスカートが揺れ、エレノアが宙に浮く。
その瞬間、エレノアの顔にも笑顔が浮かんだ。
そんなエレノアを見て、イーサンも見たことのない笑顔を浮かべている。
「いい匂い。ローズマリーの香りだよね。私、この匂い好きだよ」
褒めたつもりだったのだが、その言葉を聞いたイーサンの顔が曇った。
丁度、音楽も終わったので、それで止まったのかと思ったが、それよりも少し早い終わりだったように思える。
すると、苦しそうにイーサンが眉をひそめた。
「イーサン‥‥?」
エレノアが声をかけるとイーサンは、はっとしたようにエレノアへと視線を移した。
「すまない。少し、体調が良くないようだ。先に帰らせてもらう」
イーサンはそう言って、エレノアの横を通り過ぎた。
エレノアは何かまずいことを言ってしまったのだと、言われなくても分かった。
追いかけようとしたその時、会場の入口の方角から、イーサンと同様のローズマリーの匂いがエレノアを襲った。
そちらへと目をやると、ジルベールによく似た亜麻色と紫の瞳を持つ御仁がそこにはいた。
小説でその表記をよく見ていたからか、エレノアはその人物がすぐにサンドリーヌだと理解した。
目が合ったと思うと、すぐにその目はエレノアから離れ、静かにサンドリーヌは卒業パーティの会場を後にしていた。
その時、エレノアは理解した。
イーサンがたまに漂わせていたあのローズマリーの香りは、サンドリーヌの香水の匂いが移ったものだったと。
わざとではないにしても、指摘して返ってきた反応を見ればすぐに分かった。
イーサンは、サンドリーヌと好き好んで一緒にいたわけではないと
ただ、彼はそれを分かっていないかもしれない。
一ヶ月前の小さな叫びを分かっていなかったぐらいだ。
本当は踊りたくなかったの?
だからあの日、エレノアにサンドリーヌと踊ることを告白したのだろうか。




