クランクイン
小林果実さん入られま~す、とスタッフの声が広いスタジオの中に響き渡り、
「おはようございます! よろしくお願いします!」
表情に若干の緊張を滲ませつつも果実は腹から声を出し、勢いよく頭を下げた。お願いしま~す、との声が帰って来た事に密かに胸を撫でおろし、誘導されるがままスタジオ内に足を踏み入れる。
狐面匡監督がメガホンを取る新作映画への出演オファーを受けてから日はあっという間に過ぎて行き、果実はクランクインを迎えていた。
出演を決めてからは合間を縫って直ぐに演技の稽古を開始。決して容易ではないレッスンや自主練習に毎日打ち込んでいるものの、レッスン初日には、「ワタシ、アナタガスキ」と盛大な棒読みをかましてしまい、先生に頭を抱えられた忌まわしき実績がある。鬼の様な指導を気合と根性で乗り越え、あの頃に比べれば大分マシにはなったと自他共に自信を持って言えるのだが、それでも緊張するものは緊張する。
他の方が揃うまではこちらの椅子に座ってお待ちください、との指示に一つ礼を返し着席。
(良かった。取り敢えず現場入り一番は死守できた)
誰にも見られない様に静かにホッ、と一息を吐く。
主演の俳優は若手(それでも若手No.1俳優)だが、周りを固める俳優・女優陣は超豪華メンバー。幾ら努力をしようとも演技で足を引っ張ってしまうことは明白だが、その分他のことではキチンとしておきたいと思い、またそれは最低限の礼儀であると果実は考えていた。
初めて経験する空間に果実はどこかソワソワとしながら、チラチラと周囲に視線を向ける。広いスタジオ、大きなセット、カメラや照明等の機材も多く立ち並び、忙しなく動き回るスタッフの数も段違い。本日はスタジオでの撮影であるが、撮影が進んで行けば屋外や建物を借りての撮影も予定されている。今まで経験してきたどんな機会よりも大規模なスケールの仕事である事を今一度肌で感じ、期待と不安が入り混じる。
(自分の可能性を自分で信じられないようじゃ人の心なんて動かせない。大丈夫、私は乗り越えられる
)
自己暗示を掛け、存在を主張する心臓を落ち着かせる。ギリギリまで出来ることをしようと、果実は鞄から台本を取り出し、意識を沈めていった。
~~さん入られます。スタッフの声が微かに耳に入り、果実は意識を浮上させた。共演者の方が来たなら挨拶をせねば、と台本を閉じ急いで立ち上がり、出入口の方向へ足を向ける。視線の先にはスタッフに先導され此方へ向かってくる男性。スラリとした高身長に身体の半分以上が脚なのでは、と錯覚する長い脚。小さい頭、綺麗な黒髪。女の果実ですら思わず美しいと感じてしまう程の端正な顔立ち。伏し目がちにシャツの袖ボタンを留めている、そんな何てことない動作が妙に様になっていた。
(すっご……)
芸能人としての格の違いを嫌でも感じてしまう。
(いやいやいや、今はそんな一般通過女子高生みたいな感想抱いてる場合じゃないから! しっかりするのよ私!)
オーラに圧倒され硬直していた体に喝を入れ、動き出した。
「初めまして! 夏目菜摘役を務めさせていただきます、蝶野環芸能プロダクション所属の小林果実です。ご迷惑をお掛けすることも多々あるかと思いますが、精一杯頑張りますのでどうぞよろしくお願いします!」
勢いそのままに、果実は九十度に腰を曲げる。
その様子を見た男性は足を止めた。
瞬間、フワッと鼻を掠める微かな匂い。
(この匂い——)
どこか記憶に懐かしいホワイトムスクの香り。そして
「どうも」
「えっ」
男性の声を聞いた瞬間、果実は無意識に声を漏らし咄嗟に上体を起こした。目を丸くしながら真正面から男性を見上げる。この声、この香り。まるで四月一日に偶然出会った——
「早春……さん……?」
果実の声は非常に小さいものであったが、目の前の男性の耳には届いたようで。男は僅かに口の端を上げた。腰を折り、身を屈めて果実の耳元に顔を寄せ
「それは本名。間違えて呼んでバラすんじゃねぇぞ」
甘美な低音が耳元を震わせた。
不可抗力で赤く染まる顔、耳元を隠すように伸びる手。
黒須はその反応を揶揄うようにクスリと笑みをこぼした。そして、今度は果実の肩に手をポンと置き、
「今回主演を務めます、黒須春です。こちらこそよろしく」
憎たらしい程にクールで爽やかな完璧な外面笑顔を添え、皆に聞こえるように言った。
「俺、演技には本気で取り組んでるので。同じ事務所だからといって贔屓や妥協は一切しないので、小林さんも本気で来てくださいね」
それだけを言い残し、一人さっさと待機場所まで歩き去って行く。
「な、な、な……!」
(私だって本気だし! 確かに本業はアイドルだけど、半端な気持ちでこの仕事受けてないしっ……! てか、早春さんってこんな感じだったっけ!?)
色々な気持ちが入り混じり、言葉を失い口をパクパクとさせながら黒須の背中を見送る果実。
その顔の赤みは暫く引くことがなかった。




