不安よりも期待が大きいから
大西が人知れず公の活動を休止して以降、楽曲制作面での変化こそあれど、果実は変わらず……、否、以前よりも多忙な日々を過ごしていた。オリジナルソングの公開にて爆発的な注目を浴び、その後に有名企業「チョメプロ」に入社。彗星の如く現れた期待の新人をメディアが放っておく筈もなく、情報番組の取材や音楽番組への出演、雑誌の撮影など仕事のオファーが急増したのである。無論、果実が企業所属となった事でコンタクトが取りやすくなったという要因も少なからず関係しているであろう。
それはさておき。そんなこんなで学業とアイドル業の両立に奮闘する果実であるが、
「……映画……ですか?」
新たなチャンスが舞い込んでいた。
「そう。これが先方から提出されている企画書ね」
戸田から手渡された用紙に目を落とす。必要最低限の事項が簡潔に記載されていて、ザっと目を通していく。映画は純愛の物語。果実の役は、愛を知らない主人公を懸命に支え続けて来たヒロイン役らしい。主演にチョメプロ所属の俳優が決定しており、折角なら最近話題の新人をヒロイン役に起用してはどうか、という事で果実に白羽の矢が立ったらしい。キャストはオファー中で未確定な部分も多いようだが、果実でさえ知っている様な豪華な顔ぶれの名前が連なっている。下へ下へと読み進めて行き——
「狐面匡監督……」
果実は無意識に呟いていた。
狐面匡。撮った作品はヒットを連発し、長年名監督として名を馳せている男だ。狐面の作品に出演した事をきっかけに演技力を評価され俳優・女優業で大成した者も多く、正にヒットないしスターメーカー。しかし、彼の作品に対する拘りは非常に強く、キャストの演技がそのお眼鏡に敵うものでなければ容赦のないダメ出しや酷評を下す激烈な人物であるとも言われている。撮影中に狐面からのダメ出しに耐えられなくなった女優が降板した、酷評された俳優が以降演技の仕事を貰えなくなってしまった……等々、噂やエピソードは絶える事がない。
その狐面の作品への出演オファー。ここで狐面が認める力を示せれば、更なる飛躍が期待できる。その反面見るに堪えない姿を晒せば、以降は最低でも演技の仕事は勿論のこととして、芸能界から干される可能性すら存在する。正にハイリスク・ハイリターン。少なからずこの選択が果実のアイドル人生の分岐点となることは明白であった。
「そう、狐面匡監督の作品。その様子だと狐面監督については知ってそうね」
戸田は密かに果実の様子を注意深く観察した。神妙な面持ちで企画書を見つめる姿。普段とは違い瞳の奥が微かに揺れて見えるのは、選択に迷いが生じている故か。まぁそれも無理はない、と戸田は思った。戸田からしても、この決断が果実の今後の芸能人生を左右するものであることは疑いようがない。その様な大きな決断を、齢十七歳の少女が求められているのだ。本人が望んで入ってきた世界だったとしても、重く負担である事は変わらないだろう。
(社長は何故か果実ちゃんなら間違いなく二つ返事で了承するって自信あり気だったけど。悩む時間くらい必要よね)
戸田は気づかれない様に小さく息を吐いた。そして、努めて優しい声色を出す。
「再三になるけど、ウチはタレントの意向を最大限尊重する方針の事務所だから、受けるかどうかは果実ちゃんの判断で構わないわ。蹴るにしても後に響かない様に私が最大限対応するから心配しないで。先方への返答もあるから遅くても――」
「やります」
戸田には自分の言葉を遮った声がやけに大きく聞こえた。その声を発したと思われる少女は未だ目の前で企画書を見つめている為、表情は分からない。戸田が何も言えずにいると果実はゆっくりと顔を上げた。
「やります。やらせてください」
先程まで揺れていた筈の瞳は、吸い込まれそうなほどに真っ直ぐで。覚悟を決めた者の顔つきをしていた。
「……もう少し悩んでもいいのよ? その決断に後悔はしない?」
言葉を選んで絞り出した戸田。頭を占めていたのは、こんなにも即断即決する必要はない、という彼女自身の意見だった。この仕事は訳が違う。失敗したらそこでゲームオーバー。コンティニューもニューゲームもきっと叶わない。正真正銘、果実の芸能人生を賭けた一か八かの大勝負。
そんな戸田の隠された困惑に気付いたのか、果実は静かに語り出した。
「私、昔は沢山オーディションを受けて軒並み撃沈してたんです。唯一残った所も『華が無い』って言われて最終審査で落ちて。例え自分からチャンスを掴みに動いたとしても、上手くいくことは少ないって知ってます」
果実の脳裏に浮かぶのは夢を追いかけ始めた頃の苦い記憶。受けても受けても不合格。僅かな希望を感じていたナイヨのオーディションでも『華が無い』と言われ涙を流した。自分は誰にも必要とされていないのではないか、と一瞬でも考えてしまう程に疲弊していく精神。果実とて辛いので普段は記憶の奥底に沈めて知らないフリをしているけれど。本当は全部、鮮明に覚えている。
「だからこそ。私に期待をしてくれる人には応えたい。チャンスが向こうから来るなら、是が非でも掴み取りたい。そう思うんです」
松基、千鶴、聡馬、大西。メンバー同士の衝突や辛い事、苦しい事もあったがアイドルの基礎を学んだ『夏の華』での活動。七橋、星川、戸田、蝶野に喧嘩別れの様になってしまった父・竹康。これまでのアイドル活動に関係する人達を思い出す。
そして。
ファンの存在。
メンバーカラーを纏ってサイリウムを振ってくれる。ファンサをしたら喜んでくれる。新しい仕事をしたら喜びを共感してくれる。果実の事を思って声を掛けてくれる、会いに来てくれる。今いるファンやまだ見ぬ未来のファン。全ての人に元気を届けたい。そのために果実はアイドルになったのだから。
「勿論不安はあります。でも、それ以上に期待が大きいんです。これを乗り越えられたら、私はもっと成長できる。ファンの皆が『小林果実のファンだ』って堂々と言える様になるかもしれない。今まで届かなかった人に元気や勇気を届けられるかもしれない。そう考えたら、挑戦せずにはいられません」
不安や期待、様々な感情が混ざってはにかむ果実。
その姿を見て戸田は純粋に強いな、と思った。不安よりも期待が大きいから。そう言って実際に挑戦できる人間がどれ程いようか。果実に演技の才能があるかは分からない。この選択が伸るか反るかも当然分からない。しかし、例え窮地に陥ることがあっても這い上がってくるのだろうな、と思わせる不思議な魅力を感じていた。
「分かった。先方へは受諾の連絡をしておくわね。今決まっているスケジュールとの調整もやっておくから。詳細が決定したら追って連絡する」
「はい! よろしくお願いします!!」
向日葵のような笑顔を浮かべる果実に、思わず戸田の気持ちも緩む。
(……結局、社長の想定通りになった訳ね)
戸田は無意識に眉を下げ、目を伏せて微笑む。その脳裏では蝶野が一人穏やかな笑みを浮かべていた。




