ラブコール①
風薫る心地の良い季節、果実は久しぶりに都内へと赴いていた。といっても、通いなれた嘗ての事務所最寄り駅ではない。初めて降り立つ地、そして初めて目にする景色に、違った胸の高鳴りを感じていた。
世間は休日だというのに、皺一つ無いスーツやジャケットを着用した人々が往来している。この近辺に店があるのが、手には学校でも度々話題に上がる有名コーヒーチェーン店のカップを持っている人が多く見られた。
(うひょ~。あのお店高くて中々手が出せないんだよなぁ~。そして建物は高すぎでしょ! 高層ビル群ってこういう事なのか~。すご~)
言葉でしか知らなかった光景が実際に目の前に広がっており、思わずキョロキョロと辺りを見回してしまう。傍から見る人からは、お上りさん、と鼻で笑われてしまうかもしれないが、そんな些細な事には気が回らない程目を奪われていた。
ひとしきり堪能し終わると、果実は携帯で地図アプリを立ち上げる。人の手によって綺麗に整備された街並みである反面、何処彼処も似たような風景が立ち並んでいるため、自力で目的地に辿り着くのは不可能であると早々に判断したのだ。素早く指を動かし目的地を入力すると、現在位置からのルート案内が瞬時に表示された。AIによると、ここから徒歩八分程度らしい。画面左上をチラリと確認すると、現在は十時六分。約束の時間まで約二十分ある。
まず遅れることはないだろうと、安堵の溜息を一つ吐き。今しがた把握したばかりの道を歩き始めた。時折一段と強い風が突き抜ける。これが噂に聞くビル風なのだろうな、と思うと同時に、これから訪れる新たな出会いが新たなステージの幕開けとなる予感がした。
目を細めビルの合間から覗く空を見上げると、青く澄み渡る空が広がっていた。
目的地は案外こじんまりとした印象を抱く建物であった。周囲が縦横共に立派な建築物ばかりである為に、相対的にそのような印象を抱いてしまう可能性も無くはないが。しかし、落ち着いた雰囲気かつ綺麗さを感じる外装は周囲と比較して変わらない所か、一歩上を行くような感想を抱いた。どこか控えめながらも会社のプライドや自信を感じさせる。
それは中に足を踏み入れても変わることはなかった。管理が行き届き、一段とその場を明るく感じさせる床や壁紙。本来の役割を果たしながらも、緊張した心を解きほぐす絶妙な色味のシーリングライト。センスを感じさせる観葉植物の配置。見れば見る程に来訪者をもてなす為の配慮に気付き、気品を感じさせる。
(凄い!)
最早、好印象を抱くことは必然であった。
「こんにちは。こちらでご用件をお伺い致します」
受付から感じの良い微笑みを浮かべる美人に声を掛けられ、果実は見惚れて緩んでいた気持ちを引き締める。先方も此方も、今日は互いを見極めようとしている事に変わりはないのだ。ステージに上がる前の様に気合を入れ直すと、眉に力が入ると同時に自然とリュックサックの紐を強く握る。その時、普段通りリュックサックで来ちゃったけど場違いだったかな、そんな不安が急に湧き上がってきた。
「こんにちは。本日の十時半から所属契約についての話し合いの予約をしています、小林果実です」
「十時半のお約束の小林様でございますね。お待ちしておりました。只今担当者をお呼び致しますので、お先にこちらへ必要事項の記入をお願い致します」
ヌーディーカラーで丁寧に塗装している手から来客受付表を受け取り、必要事項を埋めて行く。普段よりもとめ、はね、はらいに気を付けて書いてしまうのはご愛嬌だろう。こういう時は誰だって少しでも自分を良く見せたいものだ。
「ありがとうございます。間もなく担当者が参りますので、そちらにお掛けになって少々お待ちください」
受付嬢は書類を受け取り、計算され尽くした完璧な笑みで応接椅子を指し示す。案内の為に伸ばされた腕は、細長い指が見事なまでに丁寧に揃えられていた。
「はい。よろしくお願いします」
ペコリと一つお辞儀をして椅子に腰かける。待つ間も受付嬢の様子を盗み見ていると、椅子に座りパソコン作業へ取り掛かっていたが、感嘆してしまう程に背筋が綺麗に伸び、キーを不必要に強く叩くこともなかった。
数分間受付嬢の美しき所作に目を奪われていると、ポン、という音に続いてエレベーターが開き、中からザ・キャリアウーマンといった風貌の美人が出て来た。女性は果実の姿を捉えるなり、キッチリと一つに結んだ髪をたなびかせながら真っ直ぐと向かって来て、
「小林様でございますね。お待たせ致しました。私、蝶野環芸能事務所社長秘書を務めております、戸田と申します」
滑らかな動作で懐から名刺を取り出し、果実に差し出す。
あわあわとしながらもなんとか受け取った名刺には、『戸田真希』という名が印字されていた。艶のあるダークブラウンでノーバングの髪。ナチュラルメイクでも十分に美しい端正な容姿。普段から運動をしているのであろう、程よく筋肉の付いたスラリとした体型。着用している衣服は新品同様の清潔さが感じられ、履いているパンプスにも当然の如く汚れ一つ見当たらない。『真希』という名から感じられる気品をそのまま体現する女性だな、と果実は一人納得した。
「早速ですが、ご案内させていただきます。本日小林様にお会いできるのを弊社一同楽しみにしておりました。さ、どうぞこちらへ」
戸田の流れるような案内に従い移動する。顔から受ける印象よりも朗らかに笑う女性だった。




