第8話 整えない治療
治療の日は、静かに始まった。
病室のドアがノックされ、佐伯遼一が入ってくる。
白衣のまま、表情はいつもより少し硬い。
「水無瀬さん」
佐伯は椅子に腰を下ろす。
「改めて、説明をします」
水無瀬は、背筋を伸ばした。
怖さはある。だが、もう逃げないと決めていた。
「診断名は、多重位相固定症候群」
佐伯は、淡々と続ける。
「経絡が、自分で最適化することをやめています」
「……やめている?」
「正確には、固定されている」
佐伯は、端末を操作する。
モニターに映る経絡図は、驚くほど滑らかだ。
「普通の身体は、日々わずかにズレます」
「そのズレが、回復や調整の余地になる」
水無瀬は、息を飲んだ。
「あなたの身体は、ズレない」
佐伯は、はっきり言った。
「完成形だと、誤認している」
「じゃあ……」
水無瀬の声が、かすれる。
「普通の治療では、触れた瞬間に、固定されます」
佐伯は、視線を逸らさない。
「一般的な経絡術師が介入すると、逆に悪化します」
一拍。
「ですから、特別治療室を使います」
水無瀬は、ゆっくり頷いた。
「特別治療室には、難病に対応できる優れた経絡術師がいます」
「……お願いします」
水無瀬は覚悟を決め、大きく頷いた。
特別治療室。
廊下の突き当たりに、ひとつだけ扉があった。
番号も、科名もない。
ここだけ空気が違う。
照明は同じはずなのに、明るさを測れない。
床に落ちる影が、ほんのわずかに遅れてついてくる。
水無瀬は、無意識に歩調を落としていた。
胸の奥が、静かにざわつく。
同行していた看護師の白石由梨が、半歩前に出る。
「零室です」
扉の前に立つと、皮膚の表面が微かに引かれる。
何かが、整えようとしている。
それを、水無瀬自身が拒否している。
水無瀬は、深く息を吸った。
胸の奥で、揺れが生まれる。
それを、初めて、怖いと思わなかった。
「では……」
白石が扉を開けた。
廊下の気配が遠ざかり、代わりに、空間そのものが静まる。
零室は白い。
ただの白ではない。
視線を置いた場所だけが、わずかに輪郭を持つ。
「広い……」
水無瀬が、思わず口にした。
「必要な分だけな」
返事が来る。
その声に、水無瀬は目を向けた。
そこに立っていたのは、九条だった。
見慣れた姿。
制服ではなく、白衣姿。
印象は変わらない。
「九条くん……?」
呼びかけてから、水無瀬は一瞬だけ言葉を探す。
「……来てくれて、ありがとう」
九条は、軽く首を振った。
「付き添いじゃない」
言い方は穏やかだった。
「俺が治療する」
「多重経絡位相保持者の九条先生です」
白石が静かに言った。
水無瀬は戸惑いを隠せない。
「ここでは、先生だ」
その後、付け加えるように言う。
「でも……中身は変わらない」
水無瀬は、少しだけ笑った。
「それ、ずるい言い方」
「よく言われる」
玲真も、わずかに口元を緩める。
その一瞬で、水無瀬は理解した。
安心できる人だ。
けれど、甘えられる立場ではない。
玲真は、歩み寄らない。
距離を詰めないまま、向き合う。
「佐伯先生から、話は聞いてる」
声は静かだ。
「君の身体は、ちゃんとし過ぎている」
水無瀬は、反論しなかった。
すでに、自分でも分かっていたからだ。
「治療はできる」
玲真は、はっきり言う。
「でも、楽にはならない」
そう付け加えた。
水無瀬は、指先を握る。
「……揺れる?」
「ああ」
玲真は頷いた。
「揺れるし、怖い。思ったより、自分が弱いって知るぞ」
水無瀬は、息を吸った。
少し時間をかけて、吐く。
「それでも……」
視線を上げる。
「受けたい」
玲真は、すぐには答えなかった。
水無瀬を見る。確かめるように。
「逃げないか?」
「逃げない」
「途中で、やめたくなるかもしれないぞ」
「……それでも、逃げない」
玲真は、静かに頷いた。
「じゃあ、引き受ける」
それは宣言ではなく、約束だ。
玲真が、少しだけ近づく。
「俺は、君を整えない」
「……うん」
「壊れないようにも、しない」
水無瀬の胸が、きゅっと縮む。
「戻れる場所を、残す」
玲真は、はっきりと言った。
水無瀬は、ゆっくりと頷いた。
目に浮かんだ涙を、隠そうとしない。
「九条くん……」
呼びかけてから、言い直す。
「玲真くん…」
玲真は顔を引き締め、小さく頷いた。
「始めよう」
それだけ言う。
零室の中央。
玲真が立つと、床の白が、わずかに深さを持った。
光ではない。
影でもない。
空間の密度だけが、静かに変わる。
「横になって」
玲真が言う。
水無瀬は、用意された治療台に身を預けた。
冷たさはない。硬さも感じない。
支えられている、という感覚だけがある。
玲真は、治療台の脇に立つ。
白石と一ノ瀬は、少し距離を取った位置で見守っていた。
「起動する」
玲真が告げる。
合図も、操作音もない。
玲真の胸元。
小さなペンダントが、静かに浮き上がった。
鎖から解き放たれるように、数センチ宙に浮く。
光は弱い。
だが、中心に定点を持たない。
ペンダントは分解するでもなく、展開するでもなく、
その周囲の空間だけが多重に折り重なる。
円ではない。
環でもない。
いくつもの位相が、重なったまま存在している。
それが、玲真専用の特殊レゾナだった。
進化型レゾナのような安定回転はない。
中心は固定されず、常に微細にズレ続けている。
玲真は、触れない。
それでも、レゾナが応える。
ズレが、ズレを呼ぶ。
整えない。固定しない。
水無瀬の胸の奥で、何かが動いた。
「うっ……」
思わず、声が漏れる。
「痛いか?」
玲真が訊く。
「違うの……」
水無瀬は、目を開いたまま答える。
「なんか…… 怖い」
レゾナが、水無瀬の経絡に触れたわけではない。
触れたのは、揺れだった。
これまで、感じたことのない感覚。
ズレているのに、引き裂かれない。
崩れているのに、壊れない。
「逃げるな」
玲真の声は低い。
「揺れを、選べ」
水無瀬は、シーツを握る。
呼吸が乱れる。
胸が、ざわつく。
今までなら、ここで整っていた。
身体が、勝手に最適を選んでいた。
だが…… 今回は、違う。
レゾナは、整えに来ない。
水無瀬が、どこかに戻るのを待っている。
「……分かんない!」
水無瀬の声が震える。
「どれが、私なの!」
「分からなくていい」
玲真は、即答した。
「選ばなくていい」
玲真が、一歩、近づく。
そっと、水無瀬の手首に触れた。
脈を測るわけでも、押さえるわけでもない。
ただ、揺れが逃げないように、そこに留める。
「今は、揺れていろ」
レゾナの位相が、一段、深くなる。
水無瀬の経絡に、微細な乱流が走る。
涙が、頬を伝った。
理由はない。
ただ、溜め込んでいた何かが、動かされている。
「……怖い」
水無瀬が言う。
「壊れそう!」
「壊れない」
玲真は、はっきり言った。
「俺が、揺れを持ってるから」
触れている手首から、微かな鼓動が伝わる。
速い。乱れている。
だが、離れない。
玲真の言葉で、水無瀬の呼吸が、少し落ち着いた。
初めて……
本当に初めて。
身体が、自分に戻ってくる感覚。
整っていない。完璧でもない。
でも…… 逃げ道がある。
レゾナの揺れが、ゆっくりと緩む。
固定しないまま、止まる。
玲真が、静かに言う。
「今日は、ここまでだ」
水無瀬は、天井を見たまま、涙を拭った。
口元が、少しだけ緩む。
「……変なの」
小さく笑う。
「全然、ちゃんとしてないのに……」
息を吸う。吐く。
「……生きてる、って感じがする」
玲真は、それを聞いて、何も言わなかった。
ただ、レゾナを静かに解除する。
揺れは消えない。
だが、拒否もしない。
治療は、まだ続く。
零室の装置音が完全に消えた後も、空間はしばらく静止していた。
何かが終わったというより、ほどけていく途中のような沈黙。
水無瀬は椅子に腰掛けたまま、両手を膝の上に置いている。
指先が、わずかに温かい。
玲真は、彼女の正面ではなく、少し斜めの位置に立っていた。
「……気分は?」
声は、いつもより柔らかい。
水無瀬は、すぐに答えなかった。
目を閉じ、一度だけ深く息を吸う。
「……身体の中が、静かになった……」
目を開ける。
「ずっと、騒がしかったんだなって…… 今、分かった」
玲真は、小さく頷く。
「それが、正常だ」
水無瀬は、視線を落としたまま言う。
「さっきまで…… 怖いと思ってたのに」
「今は、思わない?」
「うん」
水無瀬は、少し困ったように笑う。
「玲真くんだったから、かもしれない」
玲真の眉が、わずかに動く。
一瞬の沈黙。
「嫌なら、戻します」
水無瀬は慌てて言う。
「いいよ」
玲真は、即答だった。
「そのままで」
水無瀬は、笑みを浮かべる。
「……じゃあ」
小さな声で。
「玲真くん……」
水無瀬が言った。
「治療、向き合ってくれて、ありがとう」
「当然だ」
「……私にも……」
玲真は、ゆっくりと彼女を見る。
「当然だ」
水無瀬の胸が、少しだけ上下する。
「それが…… 一番、嬉しい……」
沈黙。
水無瀬は、立ち上がる。
ふらつきはない。
玲真は、一歩、近づき肩を抱き寄せた。
水無瀬は、玲真の胸に顔を埋める。
「無理は、するな」
「……うん」
「揺れたら」
「揺れたら?」
「また、来い」
水無瀬は、その言葉を受け取り、ゆっくり頷く。
「逃げ場、だね」
「逃げ場だ」
「じゃあ、行くね」
水無瀬は、扉に向かう。
「今日……」
水無瀬が振り返った。
「玲真くんじゃなかったら、私……」
言葉が止まった。
玲真は、短く言う。
「俺でよかったな」
水無瀬の頬に、ほんのりと熱が乗る。
それを隠すように、視線を落とす。
「……ずるい……」
「何が」
「そういう言い方」
玲真は、返さない。
ただ、微かに口角を上げる。
水無瀬は、ドアノブに手をかける。
そして、また振り返る。
整えた笑顔ではない。
守るための顔でもない。
愛しい人を見る時の表情だった。




