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レゾナンス・コード  作者: 橘 左近


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第7話 完璧じゃない場所へ

 終業を告げるチャイムが鳴り終わる頃、校舎の空気が少し緩んだ。

 廊下にいた学院生たちは、それぞれの速度で日常へ戻っていく。急ぐ者もいれば、まだ教室に残る者もいる。


 窓の外では、校内位相こうないいそうが夕方仕様へと切り替わり、ガラスに反射する光が柔らかく伸びていた。


 九条は、鞄を肩にかけたところで足を止めた。


「九条くん」

 少し後ろから、聞き慣れた声。


 振り返ると、桐生夏芽きりゅう なつめが立っていた。

 昼間より、ほんの少しだけ緊張が抜けた表情。


「これから、時間ある?」

「ああ」

 九条は即答した。


 桐生は、一拍だけ間を置く。

 言葉を選んでいる、というより、決心を整えているようだった。


「……しずくのお見舞い、行こうと思って」

 視線を外し、続ける。

「一人で行くより……九条くんもいた方がいいかなって」

 九条は、何も言わずに頷いた。


「検査入院だってな」

「うん。大したことないって、本人は言ってたけど……」


 桐生は歩き出す。

 九条も、並んで歩く。


「でもさ」

 桐生は前を見たまま言う。

「しずく、ずっと無理してたと思うんだよね」


 九条は否定しない。


「ちゃんとしてる子ほど、言わない」

 桐生は、苦笑する。

「大丈夫なフリ、上手いし」


「……ああ」

 九条の声は低い。


 階段を降りる。

 人の流れは、もうまばらだ。


「九条くんは、どう思う? しずくのこと」

 桐生がく。


 九条は、少しだけ考える。

「整いすぎている」

 それだけ言った。


 桐生は一瞬、足を止めかけてから、何も言わずに歩調を合わせた。


「病院、恒和総合こうわそうごうだよね?」

「そうだ」


 校門を出ると、空の色が変わっていた。

 昼でも夜でもない、境界の時間。

 九条は、その色を一瞬だけ見上げる。



 駅。

 ホームには、風がない。

 地下にありながら、空気はよどまず、一定の速度で循環している。天井に走る細い光のラインが、到着予定の車両に合わせて色を変えた。

 ホームに滑り込んできた電車は、ほとんど音を立てなかった。

 磁気制御じきせいぎょの振動が床を伝い、扉が開く。


 桐生と九条は、並んで乗り込んだ。

 車内は混んではいない。

 座席には、等間隔で人がいる。それぞれが端末か窓の外を見ていた。


 桐生は、空いている席を見つけて腰を下ろした。

 九条は、その隣に立つ。


 桐生は、バッグを膝に置いたまま、黙っている。

 先ほどまでの明るさは、もうない。


 九条は、何も訊かない。

 今、言葉を投げても返ってこないことが分かっていた。


 車窓の外、街の輪郭が後ろへ流れていく。

 広告は減り、建物の高さも低くなっていく。


 桐生の指先が、バッグの持ち手を軽く握り直す。

 強くはない。ただ、離さないように。


 桐生は、ゆっくりと話し始めた。

「私は競技の世界にいたから、休めないこと…… 弱音を吐けないことは、分かっているんだ……」


 少し間を置いて、

「壊れると、められる。私は、誰よりも知ってる」


 九条の視線が、窓に映る二人の影をとらえる。

 桐生は、背筋だけを伸ばしていた。


「しずくさ……」

 桐生は、前を見ている。

「自分が壊れるって、分かってたと思うんだ」


 九条は、否定しない。


「でも、止まれなかった……」

 桐生が言った。

「……ああ」


 それだけで、会話は終わる。


 桐生は立ち上り、バッグを肩にかけた。

 先ほどより、表情は整っている。

 しかし、覚悟が一つ、増えていた。



 恒和総合病院。

 病室は、静かだった。

 音がないわけではない。ただ、すべてが同じ距離にそろえられている。

 整えられた空間が、身体を守る。

 同時に、逃げ場を奪っていく。


 水無瀬みなせしずくは、ベッドの上で背中を起こしていた。

 点滴はない。管もない。

 入院患者らしさが、どこにもない。


「思ったより元気そう」

 桐生が言って、少し拍子抜けした顔をする。


「うん」

 水無瀬は笑った。

「こうしてる分には、普通なんだよね」


 九条は、部屋に入ってからほとんど動いていなかった。

 視線は、水無瀬ではなく、ベッド脇のモニターに向いている。


「検査は大変?」

 桐生がく。

「まあね」

 水無瀬は肩をすくめる。

「でも、全部、異常なし」


 水無瀬は少し間を空けてから言った。

「でも、原因は分かったって」


「怖い?」

 桐生が訊いた。


 水無瀬は少しだけ考えた。

「怖い、っていうか…… 変な感じ」


 水無瀬は天井を見る。

「治したくてさ。ずっと」

 桐生が首をかしげる。

「昔からって言ってたよね」


「小さい頃から、体調崩しやすくて」

 水無瀬は、淡々と続ける。

「でも、検査しても何も出ないから…… じゃあ、気のせいってことにしとこう、って」


 桐生が眉を寄せる。

「それ、しんどくない?」

「慣れるよ」

 水無瀬は笑った。

「みんな忙しいし。心配かけるのも、嫌だし」


 九条は、何も言わない。


「だからさ」

 水無瀬は続ける。

「レゾナ、すごいって思った。やっと、ちゃんと治せるかもしれないって」


 桐生は、少しだけ視線を逸らした。


「ちゃんと、って何だ?」

 九条が訊く。

 水無瀬は、一瞬言葉に詰まる。

「……普通に戻る…… こと?」


「普通?」

「揺れないで、ちゃんと動ける身体かな……」


 九条の視線が、水無瀬に向く。

 責める色はない。ただ、逃がさない。

「揺れないって、楽か?」


 水無瀬は、すぐには答えなかった。

「……楽だと思ってた」

 小さな声。

「ズレなきゃ、迷惑かけないし」


 桐生が、思わず言う。

「誰に?」

 水無瀬は、言葉を探す。

「……みんな」


 沈黙。


「実技の時さ……」

 水無瀬は、ぽつりと続ける。

「完璧って言われたでしょ」


「うん」

 桐生が頷く。

「嬉しかった。やっと、うまくできたって」

 水無瀬はうつむき、涙を浮かべている。


 九条は、静かに言う。

「うまく、やり過ぎだ……」


 水無瀬の肩が、わずかに揺れる。


「ねえ、九条くん」

 水無瀬は、九条を見る。

「私、間違ってた?」


 九条は、すぐに答えない。

 その沈黙が、水無瀬に考える時間を与える。


「ただ、選び続けただけだ」

 九条が言った。

「何を……?」

「揺れない方を」


 水無瀬は、目を伏せた。

「だって、揺れたら……」

「壊れると思ったか?」

 九条が、重ねる。

 水無瀬は、ゆっくり頷いた。

「うん……」


 水無瀬は顔を上げる。

「でも…… 壊れなかった」

 水無瀬が言う。

「ここまで、来ちゃった……」

 声が、震えている。


「だから……」

 水無瀬は、息を吸う。

「治るなら…… 治療を受けてみたい」


 九条は、はっきりと水無瀬を見る。

「揺れるぞ」

 水無瀬は、少し笑った。

「……それでも受けてみたい」

 水無瀬は、しばらく黙っていた。


「俺が…… 一緒に向き合ってやる」

 九条が言った。

 水無瀬は小さく頷いた。

 その目は、少し潤んでいた。


 水無瀬の呼吸が、ほんのわずかに乱れている。

 桐生は、水無瀬の横顔を見ていた。


 さっきまでの水無瀬は、ちゃんと笑っていた。

 相手に合わせた、角度の決まった笑顔。

 大丈夫、と言うための顔。

 けれど今は、違う。


 九条が何か特別なことをしたわけじゃない。

 ただ、そこにいるだけだ。


 水無瀬の肩の力が、ほんの少し抜けた。

 呼吸が、深くなった。


 二人を見ていた桐生が、立ち上がった。

 水無瀬は、ほどけていく途中の顔をしている。


 水無瀬は、九条を見ていない。

 しかし、九条の存在から視線を外していない。

 その距離感が、妙に静かで、近い。


「……飲み物、買ってくるね」

 桐生は、そう言うと、病室から出ていった。

 病室には、九条と水無瀬だけが残った。


 少しの沈黙があり、水無瀬が話し始める。

「今日は…… 来てくれて、ありがとう」

 小さく言った。

「ああ」

 九条は、いつもと変わらない声で答えた。


 ベッドの脇に立っていた九条が、椅子に腰を下ろした。

 視線の高さが揃った。

 水無瀬は、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。


「ねえ……」

 水無瀬が言う。

「私、ずっと、ちゃんとしてなきゃ、って思ってた」

 九条は、黙って聞いている。


「弱いと、迷惑かけるから…… 揺れると、足を引っ張るから……」

 水無瀬は、九条の目を見る。

「だから…… 身体まで、ちゃんとしようとしたのかも」


 九条は、視線をらさなかった。

 否定もしない。

 正解も言わない。


「それで、壊れそうになった?」

 九条は、少しだけ間を置いて言った。

 水無瀬は九条を見つめている。

 

「まだ戻れる」

 九条が言う。

「戻れる?」

「完璧じゃない場所にだ」


 水無瀬の胸が、わずかに上下する。

 視線が揺れ、九条の指先に落ちる。


 触れない距離。

 でも、逃げない距離。


「九条くんは……」

 声が、少しだけ弱くなる。

「私の病気が治らなくても……」

「変わらない」

 九条は、被せるように言った。


「治るかどうかとは、別だ」

「揺れるかどうかも、関係ない」


 水無瀬は、目を見開く。

 そのまま、しばらく動けなかった。


 やがて、息を吐く。

 肩の力が、少しだけ抜ける。


「……ずるいね」

 水無瀬は、困ったように笑った。

「そういう言い方」


 九条は何も返さない。

 ただ、そこにいる。


 水無瀬は、ゆっくりと目を閉じた。

 しばらくして、ゆっくり目を開けた。

 その表情は、整えた笑顔ではなかった。

 守ろうとしていた顔でもない。


 誰かに、委ねることを選んだ人の顔だった。

 

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