第6話 揺らぎを拒否する身体
校舎に囲まれた中庭は、風の通り道になっていた。
石畳の隙間には細いライン状の光が走り、歩く学生の足取りに合わせて、淡く色を変えている。模様ではない。流れだ。人が集まるほど、揃っていく。
中央には、低い円形のベンチ。5人が集まっていた。
「いや、でもさ」
三上が言う。
「昨日の実技、水無瀬だけ別格だったよな」
「完璧すぎて逆に怖い」
桐生が肩をすくめる。
「レゾナ、ほとんど呼吸みたいだったし」
神原が頷く。
「揺れがなかったな。教科書どころか、模範映像だ」
水無瀬は苦笑した。
「そんな大したことじゃ……」
九条は、少しだけ視線を落としていた。
「でもさ」
三上が続ける。
「あれだけ安定してたら、もう実戦レベルじゃね?」
苦笑いを浮かべ、立ち上がろうとした水無瀬が、一瞬、わずかにフラついた。
ほんの一拍。
だが、桐生は見逃さなかった。
「しずく、大丈夫?」
水無瀬は自分の足元を見て、笑おうとする。
だが、頬の血色が戻らない。
「顔、ちょっと白いよ」
「そう…… かな?」
九条は視線を上げない。
だが、水無瀬の呼吸が、一瞬だけ乱れたのを感じ取っていた。
少し間を置いて、水無瀬が言う。
「……最近ね」
言葉を選ぶように、視線を落とす。
「ちょっと、疲れが抜けなくて……」
一瞬、空気が止まる。
「大丈夫なの?」
桐生が水無瀬の顔を見つめる。
「うん…… だから、病院行ってみようかなって」
水無瀬は軽く言った。
「前から、体調あんまり良くなかったし」
「前から?」
神原が聞き返す。
「昔から」
水無瀬は目を伏せる。
「治したいとは思ってたけど…… まあ、諦めてた」
三上が言葉に詰まる。
「それ、もっと早く言えよ」
「大丈夫だって」
水無瀬は笑う。
「ただの確認だから」
九条は何も言わなかった。
だが、その笑顔を、少しだけ長く見ていた。
恒和総合病院・診察室
壁は淡い灰色に近い白で、角がすべて丸められている。照明は天井に埋め込まれているが、光源の位置が分からない。
影が出ない。空間そのものが発光しているかのようだった。
正面の壁には、大型の透明モニターが浮かんでいる。映っているのは、人の輪郭をなぞる、柔らかな線の集合体。経絡位相のリアルタイム投影だ。
線は常に揺れている。止まらない。
生きている限り、完全に静止することはない。
「水無瀬さん」
佐伯遼一がカルテから視線を上げた瞬間、診察室の空気がわずかに締まった。
「自覚症状は、疲労感が中心ですね」
「……はい」
水無瀬は即答したが、その声は少し遅れていた。
「具体的には?」
「朝、起きた時から重い感じがします。寝ても…… 抜けなくて」
佐伯は頷きながら、もう一度モニターを見る。
経絡位相の投影は、穏やかだ。乱れはない。むしろ整っている。
整いすぎている?
「痛みは?」
「ありません」
「息切れ、動悸は?」
「……ない、と思います」
一拍の間。
相澤澪は、その沈黙に引っかかった。
ないではなく、ないと思う。
患者が、自分の感覚を信用しきれていない時の言い方だ。
「過去の検査履歴を見ても……」
佐伯は淡々と続ける。
「血液、画像、経絡スキャン。はっきりした異常は出ていません」
水無瀬の表情が、ほんの少し緩む。
だが、佐伯はそこで言葉を切らなかった。
「ただし……」
指先が、モニター上の一点をなぞる。
「違和感は、ずっと残っている」
水無瀬が息を呑むのが、相澤には分かった。
「異常がない、という結果と……」
佐伯は言葉を選ぶ。
「問題がない、という判断は、同じではありません」
「……どういう、意味ですか?」
「身体が、うまく誤魔化している可能性があります」
水無瀬の喉が、小さく鳴った。
相澤は視線を落とし、カルテの余白に短く書き込む。
〈主観症状と位相データの乖離〉
「疲労感が続いているのに、数値が崩れない」
佐伯は穏やかだが、声の芯は硬い。
「これは、楽観できるパターンではありません」
「……重いんですか?」
水無瀬は、思わず聞いていた。
佐伯は、すぐには答えなかった。
代わりに、椅子に深く腰掛け直す。
「現時点では、判断できません」
正直な答えだった。
「だからこそ、もう少し詳しく調べたい」
相澤が、静かに言葉を添える。
「外来で追うより、入院で経過を見た方が安全です」
「入院……」
水無瀬は、自分の手を見る。
震えてはいない。力も入る。
なのに、身体の奥が、どこか空洞のように感じられた。
「数日で済みます」
相澤は柔らかく言う。
「生活リズムも、こちらで管理できますから」
それは安心させる言葉のはずだった。
だが、水無瀬には、逃げ場を塞がれたようにも聞こえた。
「……分かりました」
少し遅れて、頷く。
「お願いします」
佐伯は短く息を吐いた。
「では、検査入院の手続きを進めます」
相澤は立ち上がりながら、水無瀬の横顔を見る。
表情は落ち着いている。受け入れているように見える。
けれど……
経絡投影の揺らぎが、相変わらず少なすぎる。
整っているのに、安心できない。
数値に出ない違和感が、胸の奥に残る。
(……これ、軽くない)
相澤は、その感覚を否定しなかった。
夜。
高層の壁面に埋め込まれた誘導灯だけが、呼吸をするように点滅している。
自動扉は開閉の機会を失ったまま、待機状態の光を薄く帯びていた。
廊下の足音は吸い取られたように消え、人の気配だけを遠ざけている。
佐伯は、医局の扉を閉めてから端末を起動した。
通信先に映った玲真の表情は、学校で見せるものとは違う。
「……確定した」
「病名は?」
間を置かずに、玲真は聞いた。
「多重位相固定症候群」
佐伯は即答した。
「経絡が、自己最適化をやめている」
玲真は、わずかに視線を伏せる。
「患者に進化型レゾナ使用歴は?」
玲真が訊く。
「ある。しかも、極めて高精度だ」
一瞬の沈黙。
「本人の意思とは無関係に、身体が最適を選び続けている」
佐伯は続ける。
「揺らぎを拒否する身体だ」
玲真の目が、静かに細くなる。
「……終了条件を、満たさない?」
「ああ」
佐伯は頷いた。
「普通の鍼灸術師じゃ無理だ」
佐伯は一度、言葉を切った。
「触れた瞬間に、身体が完成形だと誤認して固定される。
ズレも、逃げ道も、全部閉じる」
少し間が空く。
「だから…… 多重位相を保持できる君じゃないと、触る資格がない」
「正式依頼ですか?」
「正式だ」
佐伯は言い切る。
「零室に頼みたい」
玲真は、ゆっくりと息を吐いた。
「治療成功率は?」
「不明。下手をすれば、今より悪化する」
玲真は、端末越しに佐伯を見た。
その視線には、迷いがない。
「引き受けます」
玲真が続ける。
「患者は…… 水無瀬しずくですね」
「そうだ」
「知っているのか?」
佐伯が訊く。
「学校の同級生です」
一瞬、空気が張る。
「それでも、やるか?」
玲真は、わずかに口角を上げた。
「だから、やります」
通信が切れる。
玲真は端末を置き、暗い窓に映る自分を見る。
「……間に合う。まだ、間に合う」




