第10話 揺らぎを記憶する身体
恒和総合病院の医局は、午後の光が斜めに差し込んでいた。
外来の喧騒から切り離された空間は、いつもより静かに感じられる。
モニターの前に、三人が並んで座っている。
佐伯遼一。
相澤澪。
そして、九条玲真。
画面には、特別治療室で行われた水無瀬しずくの治療映像が再生されていた。
特殊レゾナが起動し、空間の揺らぎが整えられていく。
数値、波形、色調。
すべてが理想的に推移している。
「……ここだ」
佐伯が言った。
映像が一時停止する。
水無瀬の胸部付近。呼吸と経絡波形が、完全に同期している瞬間。
「揃いすぎている」
佐伯は淡々と続けた。
「治療としては、満点だ。だが、人間としては不自然だ」
相澤が頷く。
「通常、回復期なら、微細な遅れか過剰反応が残ります。負荷の逃げ道です」
画面を指で示す。
「でも、彼女にはそれがない」
玲真は黙って見ている。
視線は、数値ではなく、水無瀬の表情に向いていた。
「九条くん」
佐伯が呼ぶ。
「君は、この時、どう感じた?」
「……違和感です」
玲真は即答しなかった。
だが、言葉は迷わなかった。
「整っている。でも、治療されている側じゃない」
「ほう」
「調整に、付き合っているように見えました」
相澤がわずかに眉を動かす。
「患者が、ですか?」
「はい」
玲真は画面を見る。
「本来、レゾナは一方的に流れを整えます。患者は受動的です」
一拍置く。
「でも、水無瀬は…… 合わせに来ている」
佐伯が、ふっと息を吐いた。
「同じことを考えていた」
映像が再び動く。
治療の終盤。
通常なら、レゾナの出力は自然に下がる。
だが、その時。
「……下がらない」
相澤が言った。
「ええ」
佐伯が応じる。
「終了条件を満たしていない」
玲真が、静かに言った。
「揺らぎが、残らなかったからです」
沈黙が落ちる。
医局の空気が、わずかに重くなる。
「人間は、完全には整いません」
相澤が言う。
「揺らぎがあるから、生きている」
「だが、彼女は……」
佐伯が言葉を継ぐ。
「揺らぎを、意図的に残さなかった可能性がある」
玲真は、画面を見たまま言った。
「……治療中、彼女は、自分の状態を分かっていました」
「分かっていた?」
相澤が聞き返す。
「どこが危険で、どこまで許容できるか」
玲真は言う。
「普通は、治療後にしか分からないことです」
佐伯は腕を組む。
「つまり……」
「はい」
玲真は頷く。
「彼女は、自分の揺らぎを記憶している」
相澤が、ゆっくりと息を吸った。
「……そんなことが、可能なんですか?」
「理論上は」
佐伯が答える。
「あり得ないとは言えない」
画面には、水無瀬の穏やかな寝顔が映っている。
「難病による長期の異常状態」
佐伯が言う。
「そこからの急激な回復」
一拍。
「身体が、揺らぎそのものを指標として学習した可能性がある」
相澤は、小さく首を振った。
「それは…… 治療者側の能力じゃない」
「そうだ」
佐伯は頷く。
「患者側の変化だ」
玲真は、少しだけ視線を落とした。
「……彼女は、まだ気づいていないかもしれません」
「だが」
佐伯が言う。
「いずれ、使い始める」
医局の時計が、小さく音を立てる。
「九条くん」
佐伯が静かに言った。
「君は、この件をどうしたい?」
玲真は、少し考えた。
そして、はっきりと答える。
「見守ります」
「管理しない?」
「しません」
玲真は言う。
「彼女の揺らぎは、彼女のものです」
相澤が、わずかに笑った。
「……九条先生らしい」
佐伯は、モニターの電源を落とした。
画面が暗くなる。
「記録は残す」
佐伯は言う。
「だが、報告書には書かない」
「了解しました」
相澤が答える。
玲真は立ち上がる。
「午後の授業がありますので」
「ああ」
佐伯は頷いた。
「行きなさい」
玲真が医局を出る。
扉が閉まった後、相澤がぽつりと言った。
「……あの子、何か引き寄せますね」
佐伯は、窓の外を見た。
「揺らぎだ」
静かに言う。
「世界が均されすぎた時代には、揺らぎを持つ者が、必ず必要になる」
佐伯は、しばらく何も言わなかった。
机の上のタブレットに、伏せられたままの画面。
そこに映っていたのは、理想的な治療結果だった。
佐伯は、それを裏返したままにする。
「……この件は、私が預かる」
相澤が顔を上げる。
「表に出せば、彼女は管理対象になります」
「分かっている」
佐伯は、低く言った。
「だからだ」
その声に、迷いはなかった。




