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《2》

 別々のベッドでお互いぐっすり快眠した。少なくとも私は。

 寝心地の好い、ほど良く身体が沈む適度な硬さの、素晴らしいとしか言いようのない最高のベッドだった。


 職場の空気と学生時代の部活の壮行会を足して二で割ったみたいな、独特の雰囲気に満ちたひと晩だった。


 男女が、それも曲がりなりにも夫婦が同じ一室に泊まったにもかかわらず、本当になにも起きなかったのがすごい。そんなことってあるんだな、と純粋に感動した。

 とはいえ相手は八坂先生だし、なにより私たちは、結婚しているといっても男女の関係には至らない関係だ。起こるはずがないといえばその通りなのかもしれない。


 我々の親睦は、果たして深まってくれただろうか。自信はあまりない。

 でも、八坂先生が本当にただ思ったことを率直に言う人だとは理解できた。お見合い前の相談での『さすが便利屋』発言にも、おそらく他意はない。


 先生は、ご自分の考えを、極力そのままの形で語弊なく相手に伝えることを良しとされているのだろう。

 世梨奈のような〝察してもらって当たり前〟というタイプの女性とは、確かに相性が悪そうではある。


 それに、想像していたよりもずっと優しい。


 握手したときの大きな手を思い出す。あの手が数多の患者さんの命を救ってきた手だと思うと、自分のような者が本当に触れて良かったのかな、と恐れ多くなる。


 なんにせよ、あの朝、私は覚悟を決めたのだ。

 彼を気遣い、支えるために、妻として不足なく精一杯頑張っていこうと。


 ――そして、あれよあれよと、お泊まり親睦会から十日あまりが過ぎた。


 このところの総務係は激務を極めていて、私自身の業務量や周囲からの便利屋扱いもじりじり増えている。

 誰もが忙しそうだ。私も例外ではなく、元々の癖であれもこれもとつい頑張りすぎている。

 かなりハードだ。ただ、通勤の負担はアパート暮らしをしていた頃よりも遥かに軽くなった。職場に近い場所に住むというのはこんなにも快適なんだな、と改めて感動を覚えている。


 一部の家事は外注にしてもらっている。

 とはいえ、生前の母はどれだけ忙しくてもきちんとしていた。父を支えるためにいつも頑張っていた。そういう印象や記憶ははっきりと残っている。

 だから私も、自分の役割を果たすためなら多少無理をしてでも、と自分自身のことは二の次で考えてしまう。


 結局、例の親睦会から十日以上が過ぎてなお、先生とは綺麗にすれ違い生活を送り続けている。

 ただでさえ多忙な先生のスケジュールには、ときおり当直も挟まる。私は私で、朝から晩まで事務室のフロアに缶詰状態、帰ってもすぐにコンビニご飯、お風呂、そして最低限のスキンケアののち就寝、と連日そんな感じだ。顔を合わせる機会自体がほぼない。


 残業、サービス残業、また残業。

 平日はぶっ通しでそんな状態だ。


 金曜の今日も例外ではなかった。

 むしろ今週中に終わらせるべきものを終わらせなければと励んだ結果、すでに時刻は午後九時半を回っている。


 先生は先にお帰りだろうか。食事はそれぞれ済ませると話がまとまった後とはいっても、妻として本当にこんな体たらくでいいのか、とずっと不安を抱えている。同居を始めてから、自炊もろくにできていない。


 多賀部さんから頼まれた医療安全委員会の議事録の調整、係長から頼まれた週明けの避難訓練の準備諸々――院内行事の段取りや動線確認も、基本的には総務の管轄だ。月曜からまたいっぱいいっぱいになる。


 頼まれごとを引き受けすぎている。

 その自覚はある。それもずっと前から。


 婚姻届の提出が急だったこともあり、現状、結婚の報告は梶係長にだけしてある。『しばらくは旧姓で仕事を続けたいのですが』と伝えたときにひどく驚かれたけれど、結局、係長からの頼まれごとの頻度は以前と大して変わっていない。それどころかむしろ増えている気すらする。


 仕事が好きだからという純粋な気持ちよりも、断ることで角が立ったら嫌だなとか、部署内でやりづらくなってしまわないようにとか、最近はそういう気持ちのほうが遥かに大きい。


 結婚を機に、というわけでもなかった。

 キャリアを重ねるごとにうまく断れなくなって、私がうまく立ち回れば円滑に進むのだからと言い訳してばかり。完全にその繰り返しで今に至っている。


「……ふう」


 足早に、私の新しい住まいとなったマンションを目指す。

 疲れが溜まっているせいか、頭がぼうっとする。今から夕食を買うためにコンビニに寄るのも厳しい。

 ストックしてあるカップ麺でも食べようかなとか、それより早くシャワーを浴びて寝転がりたいなとか、取り留めもなく考えているうちマンションに到着した。


 エントランスに足を踏み入れ、エレベーターが上階から降りてくるのを待つ。


 仙台へ引っ越したご両親から、帰国後間もなく譲り受けた住まいだと聞いている。

 私の実家は持ち家だし、先日まで慎ましいアパートで暮らしていた手前、高級マンションのエレベーターを待つこの時間にはまだまだ慣れそうにない。この時間に住人と鉢合わせたら気まずいな、といつも緊張してしまう。


 幸い、今日は誰とも会わなかった。

 急いでドアに向かい、指紋認証の鍵を開ける。


 先生はもう帰ってきているかな、それならうるさくしないように、と念じながらそっとドアを開けた、その瞬間。


「えっ?」


 廊下のダウンライトが妙にしっかりとなにかの影を映し出している気がして、はっと顔を上げ、私はそのまま固まった。


 靴を履いた先生が、ちょうど玄関に立っていたのだ。

 眼鏡をかけていない彼とばっちり目が合い、息が止まる。


「あっ、え……と」

「遅い」


 抑揚のない声が耳を刺し、ひゅ、と喉が鳴った。

 今からお出かけですか、と尋ねかけた口が、開いたきりの形で動かなくなる。


「いくらなんでも遅くないですか、毎日毎日」

「あっ、あの、ええと」

「同居してるのにこんなに会わないことあります? びっくりなんですが」

「すっすみません、今週は残業続きで……」


 思わず後ずさる。

 明らかに怒っている。私のせいだろうか。べっとりと全身にこびりついた疲れも忘れ、彼の怒りの理由を必死に考える。


「夕飯は?」

「ま、まだです。カップ麺でも食べようかと」

「は?」


 分かりやすく眉をひそめられ、二の句が継げなくなる。


「身体を壊しますよ、その働き方」

「あ、で、でも」

「総務係ってずっとそんな感じなんですか? 上が無能なのでは? 毎日毎日おかしいでしょうこんな」


 語り口は淡々としているし、落ち着いているようにも見える。けれど間違いなく怒っている。


 ……いや、違う。私に対して怒っている感じはしない。

 もしかしてこれは、と甘えに似た仮説が脳裏をよぎる。でも。


「あの、今からお出かけになるところだったのでは?」

「君を迎えに行くつもりでした」

「え」

「電話、繋がらなかったので」


 玄関に立ち尽くしたきり、はっとして鞄の中のスマホに指を伸ばす。

 確かに着信が入っている。それも二度も。通知を切っていたから気づかなかった。


「す、すみません、通知音、消してて、全然気づかなくて」


 履きかけの靴を脱いで廊下を引き返していく先生を追いかけるように、私も、急いで靴を脱いで家の中に入る。

 強烈な焦りに焼かれつつ、なんとか口を動かす。


「あの、先生はご飯お済みですか、もしでしたら今からなにか用意……」

「自分はカップ麺を食べる気でいるのに?」

「すすすすすすみません、本当に申し訳」

「というか君、顔色悪すぎ」


 リビングへと続く廊下の、ドアの前で振り返られ、ぎくりとする。

 顔色。それは先生が怒っているからかも、とは言えない。でも結局、今も私の顔には感情のすべてが滲み出てしまっているのかもしれなかった。


「そう、ですか? 特に不調は感じませんが」


 平静を装って伝えたものの、返事はなかった。

 無言のままの先生の眉がさらに深く寄る。


 どうしよう。どう答えるのが正解なんだ。必死に頭を回そうとしたそのとき、ふ、と頭上が翳った。

 先生の指が伸びてくる。長い指がどこを目指しているのか察しがつかず、私はぴくりとも動けなくなる。


「あ」


 思わず声が漏れた。

 触れられたのは額だった。中指――長い指をくの字に曲げた、その第二関節が、ほんのわずかだけ額に触れる。


 先生は私の目を見ていた。

 今の先生は、トレードマークのあの分厚い眼鏡をかけていない。前髪が目元を隠しているわけでもない。視線が合ってしまったせいで、どく、とひときわ強く心臓が高鳴る。


「平熱は?」

「えっ?」

「何度?」


 急な接触に息を詰まらせている暇もなく尋ねられ、「ええと」と慌てて口を開く。

 体温。直近でいつ計ったっけ、と懸命に頭を動かす。そうしながら、そうか、今の接触は診察のようなものなのか、とようやく気づいた。ひとりで勝手にドキドキして馬鹿みたいだ。


 触れられた瞬間から止まっていた呼吸を、ゆっくりと再開する。

 今触られたせいで、余計に身体が熱くなっている気がしてならなかった。


「さ、三十六度、に届かないくらいかと」

「なら少し熱が出てますよ、今」


 不機嫌そうに眉を寄せる先生の顔を、不躾なほど凝視する。

 私を迎えに行くために出かけようとしたり、私の残業を気にしたり、私の上司に苛ついたり……まさか、とどうしても考えてしまう。


「先生。あの、もしかしてなんですが」


 どうせ顔に出るなら訊いてしまおう、と意を決して口を開く。


「心配、とかしてくれてます?」

「は?」


 勇気を出して尋ねると、いつもの返事があった後、沈黙が舞い降りた。

 否定されるかと思いきや、先生はなかなか反応を示してくれない。それどころか視線を派手に泳がせ始めるものだから、ぎょっとする。


「……心配……?」


 自問自答じみた調子で零したきり、先生は再び黙り込んだ。

 これが〝心配〟だとたった今理解した、とでも言いたげな困惑を珍しく眉根に浮かべながら、彼ははっと我に返った様子で私に背を向け、シャッとリビングの引き戸を開いた。


「今のうちにシャワーでも浴びてきてください、適当になんか作ります」


 急な早口、しかも内容が内容だけに、私は「え」と露骨におろおろしてしまう。


「そ、そんな、お手を煩わせるわけには」

「いいからさっさと行ってください」


 先生はもう振り返ってくれない。有無を言わせない口ぶりだったせいか、なおさら「はい」以外に返す言葉が見つからなかった。

 指示に従ったほうがいい。まっすぐキッチンへ向かう先生を横目に、私は私室へ急ぐ。


 同居後初めてのおうちご飯が、よもや相手に用意させる形になるとは。

 不甲斐ない。私だってまだ先生にご飯とか作ったことないのに、としわしわの顔で手早く着替えを用意する。


 浴室へ移動する間、キッチンに立つ先生には極力視線を向けないよう気をつけた。

 目が合うとは思っていないけれど、万が一合ってしまったら、そのときどんな顔をすればいいのか分からなかったから。


『少し熱が出てますよ、今』


 脱衣所へ足を踏み入れた頃になってから、先生のさっきの言葉が蘇る。


 微熱気味、という意味か。触れただけで分かるなんてすごいな、と密かに感動するとともに、自分の鈍さに愕然とせざるを得ない。

 疲れが溜まったり無理をしたりした後に微熱が出ることは、昔からよくあった。

 休息を促す身体からのサインなのだろうけれど、最近は面倒くささが勝ってばかりで、多少疲れている程度ではわざわざ計ろうとも思えずにいた。


 確かに不摂生だ。

 医師の妻でありながら情けない。身内がこのざまとなれば、先生が不快に感じるのも当たり前なのかもしれない。


 業務に近い感覚でシャワーのコックをひねって、髪と身体を洗って、お湯を止めて、浴室を出て、タオルで身体を拭いて部屋着に着替えて――淡々と動いているうちはそれだけに集中していればいいから良かった。でも。


 ドライヤーを片手に、洗面所の鏡をじっと見つめる。

 先生の前ですっぴんを晒すのか、と葛藤せざるを得ない。けれど今さらだ。同居しておいていつまでも隠し通せるとも思えない。事実、今から化粧をし直すのも奇妙な話だ。


 よし、と覚悟を決め、心持ち俯き気味に脱衣所を後にする。

 その瞬間、ふわ、と美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。


「あ」


 つい声が漏れた。

 本当に私のためにご飯を用意してくれたんだ、という感激と、先生も食事の用意とかするんだな、というやや失礼な感想がほとんど同時に浮かぶ。


「いや別にできますよ僕だって、食事の用意くらい」


 不躾な感想が浮かんだ途端に口を挟まれ、うう、と両手で顔を覆う。

 きっとまた顔に出ちゃったんだな、と思う。それにしても先生は人の表情から感情を読み取る才に恵まれすぎでは、とも思う。


「また顔に出てました?」

「ええ。今は『顔に出ちゃってすみません』って顔」

「すみません本当……」


 顔を覆った指の隙間から、ダイニングテーブルに並ぶご飯を盗み見る。

 ほっくりしたかぼちゃの甘い香りがどんぶりから漂っている。雑炊と、あとはスープだろうか。ほのかに生姜の匂いもする。カップ麺で強引に埋めようとしていたお腹が、素直に小さな音を立てて鳴った。


 早く食べろとばかりに先生から視線を向けられ、私は慌てて席に着き、ぱっと手を合わせた。


「い、いただきます」

「どうぞ」


 かぼちゃの雑炊にはとろとろの玉子が絡んでいて美味しそうだ。やわらかな湯気を軽く吸い込んだだけで気持ちが安らぐ。

 スープはオニオンスープだ。ほのかに生姜の香りがして、ああ、私が体調を崩していることをきちんと考慮して作ってくれたんだな、と胸が熱くなった。

 ハーフカットのかぼちゃも玉ねぎも、自炊するつもりで買っておいたものだ。でも、今週は本当に自炊なんてしている余裕がなかった。


 なんにしても、先生は私に優しすぎる。

 雑炊とスープ、それぞれから立ち上る湯気をじっと見つめていたら、ぽつりと声が零れた。


「……私」


 疲れきって帰宅したところに、私以外の誰かが私のために用意してくれたご飯を差し出される。

 その優しさは、今の私には効きすぎた。


「全然駄目ですみません。忙しい旦那様に食事の用意をさせるなんて、……あり得ないです、母はちゃんとやってたのに……」


 くん、と痛んだ喉の奥に、スープをひと口流し込む。

 生姜の風味が喉を滑り落ちていき、疲弊にかすみつつあった頭が少しだけ冴えた。そのせいで、ますます先生の配慮が身にしみて、ともすれば簡単に涙腺が緩みそうになる。


「君のお母さんって働いてましたっけ」

「い、いえ。ええと、今の母ではなく、実母が、というか」


 しどろもどろに返事をするさなか、余計なことを言ってしまったな、と苦々しく思う。

 阿佐子お母さんは継母で、私の実母はすでに他界している。少し複雑な我が家の家庭の事情を、私はいまだに先生に伝えていない。


「……まぁいいです、早く食べてください」

「あっはい、すみません」

「食べられそうな分だけで構いません、食べ終わったら薬を飲んで早急に寝てほしい」


 淡々と告げられ、「はい」と急いでスプーンを動かす。

 木製のスプーンに、雑炊をひと口分だけそっと乗せ、息を吹きかけてからゆっくりと口に運ぶ。やわらかく煮込んだお米にかぼちゃの優しい甘さが溶け込んでいて、私までほろほろにされてしまいそうだ。


 ご飯と一緒に甘いかぼちゃを噛み締めながら、気が抜けそうになる。

 それを私はなんとか堪えた。気が抜けたら途端に涙が零れそうで、でもこれ以上先生に心労をかけるような真似はしたくなかった。


「さっきの話ですけど」

「は、はい?」

「あり得ない、なんて考えるのはやめてください。今のペースで働きながら全部やるのは絶対に無理です」


 スプーンを口に運ぶや否や、対面に腰かける先生から切り出され、息が詰まった。

 母の話は掘り下げられなかった。わざと避けてくれたのかも、と考えたくなる程度には、今の私にはこのご飯の温かさが堪らなくしみている。


 誰かに作ってもらうご飯がこんなにも温かく、嬉しく、お腹も心も満たしてくれるなんて――そんな感激を覚えると同時に、気をつけなければならないという気も確かにしていた。

 誰かに、ではなく、この人に、と思ってしまわないように。


「っ、けど私は……」

「行儀が悪い。食事中は喋らないで」


 自分から話しかけておいてどういう言い分なんだ、と唇を尖らせてしまう。

 なんか狡くないですかそれ、と眉を寄せつつも、口に入れた雑炊をもぐもぐと懸命に噛み締める。


「君に無理をしてほしいなんてこれっぽっちも思ってない。僕らの結婚は君にも利があってしかるべき契約なんだ、君もうまく利用しなさい」


 言い返す隙が許されていない中、急な命令口調に背筋が伸びる。

 食事を進める喉が、詰まるように痛んだ。


「仕事を引き受けすぎるのも良くないと思う。言いにくいなら〝夫が嫌がるから〟と僕を言い訳に使ってもらっても構わない」

「い、言い訳、って、そんな」

「どんなに仕事が好きだとしても、それとこれとは分けて考えたほうがいい。周りも君に頼ることに慣れちゃってるでしょ、もう」

「う……」


 圧倒的な正しさを前に、つい唸ってしまう。

 食事中は喋らないで、という先生の理不尽な物言いを律儀に守っている自分を滑稽だと思う。でも。


「……食べ終わったら返事をしますので……」

「本当に馬鹿正直な人だな……いいですよ、よく噛んで食べてください」


 言われてみれば、先生も、私が便利屋呼ばわりされていると知っている。

 結婚の利として挙げられたのが〝妹の便利屋卒業〟だったから、そちらは関係ないとばかり、すっかり二の次になっていた。


 先生のほうが遥かにハードな働き方をしているだろうに、こうして心配をかけてしまっている。

 良くない。このままでいたくない。妻としてとか、先生をしっかり支えるとか、そういう大仰な理想よりも、余計な心配をかけたくないという気持ちのほうが遥かにリアルに私の胸を締めつける。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせてから、食事中に考えていたことを、私はいよいよ言葉に置き換える。


「確かに、仕事についてはそうかもしれません。すみませんでした」


 今の職場環境を極力変えたくない。

 そう思うあまり、私は今まで以上に無理をしていたのかもしれなかった。


 冷静に考えればすぐ分かる。自分の仕事も家事も先生のサポートも、と全部をやるのは物理的に不可能だ。私はフルタイムで働いている身で、しかもかなりの激務を担っている。


 母は病に倒れる前、週に何日かパートの仕事をしていた。それは、母が家事と育児を両立させるための、当時の母にとってベストな働き方だったのだろう。

 フルタイムで働いている今の私とは、前提からして違う。


「気を張りすぎてたみたいです。頼まれごと、少しずつ断る練習、してみますね」


 気が抜けたら、ふ、と唇が緩んだ。


『心配、とかしてくれてます?』


 おずおずと尋ねた質問に、結局、先生からはまだ返事をもらっていない。

 でも。


「期待してます。今日はもう寝てください」

「あっ、でも後片づけは……」

「熱がある人がなにを言ってるんですか、さっさと歯を磨いて寝なさい」


 目はもう合わなかった。

 また早口気味だ。それに私が使った食器を片づける手元も、慌てているみたいに雑な感じになっている。

 どうしたんだろう急に、と不思議に感じながらも、私は改めて深々と頭を下げる。


「ありがとうございました。ご飯、とっても美味しかったです、おやすみなさい」

「どういたしまして。おやすみ」


 シンクの前で、私に向き直らないまま、先生はひらひらと片手を振ってみせた。


 今夜は最初から最後まで本当に甘えっぱなしだ。

 さっき触れられた額がまた熱くなる。それ以上は先生の後ろ姿すら視界に収めていられなくなり、私は私室を目指して踵を返した。


「ふ……」


 キッチンから微かに水音が聞こえてくる。

 ドアに背を預け、もう一度、ふう、と今度は少し深く深呼吸した。


 触れられた額へ指を伸ばす。

 熱い気がした。今日帰宅した直後よりも、疲れのせいで微熱を出していた今までのどの夜よりも、ずっと。


 あんな触れ方、先生にとってはただの診察感覚だっただろうに。

 そう思ったら、ろくに制御できない自分の身体の反応が、急に恥ずかしくなった。

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