《3》
自覚している最初の異変は、学会の日の夜。
『偉いね』
別に深い意図はなかった。
いつもと同じで、ただ思ったことを口にしただけだ。
偉いな、と実際に感じたから言った。
父親が大手製薬会社の専務を務めているような家庭に育った女性が、自分から家を出て自立しているなんて、と。
それなのに。
『褒められたこと、あまりなくて』
『嬉しいです』
あのときの彼女の顔が、頭に焼きついたきり離れずにいる。
感情がよく顔に出るわりに、それまで決して気を抜くことのなかった彼女の、初めて見る、やっと気が抜けたような嬉しそうな微笑み。目が離せず、つい挙動不審になった記憶も一緒に蘇ってくる。
あれがなんだったのか、自分の中でいまだに結論を出せていない。
『三十六度、に届かないくらいかと』
たどたどしく平熱を答える彼女の顔は赤かった。
発熱を差し引いても赤すぎた気がする。下心があって触ったわけでは断じてなかったが、居た堪れなくなってすぐ手を引いた。
関節でわずかに触れただけの肌の感触が、なぜかいつまでも消えない。
異常だ。誰と話しても、誰に触れても、こんなことは今までただの一度だってなかったのに。
無心になって食事の用意をした。
なにかに集中していれば、その間は余計なことを考えずに済む。自分はいつもそうだ。だから今回もそうなるはずだった。
でも駄目だった。
触れた瞬間の真っ赤な顔も、指が触れた額の熱も、どれもこれも頭から離れない。
――なんだ、これ。
『もしかして、心配、してくれてます?』
心配というか、それは当たり前だろ。
だって君は、形式上とはいえ僕の、妻であって。
妻であって、だから。
『頼まれごと、少しずつ断る練習、してみますね』
洗い物の水を、しばらく出しっぱなしにしてしまっていたと思う。
分からない。
これがなんなのか、結論が出せない。
うまく辿り着けない。
貴重な優良物件だから気に入っていたのに、違う気がする。
そうではない気がしてならない。次の瞬間には、そもそも自分は彼女をそこまで気に入っていたのか、と呆然と思う。
僕だって、便利屋という二つ名を知った上で彼女へ契約結婚を持ちかけたくせに、そのポジションを彼女に押しつけている彼女の上司や同僚に対して、ここまで苛立ってしまうのはなぜなのか。
ぎりぎり偽装ではないだけの契約結婚のせいで――いや、由良心春のせいで、自分は今までに感じたことのない感情を覚えている。
あり得ない。
水に冷えた指で額を押さえながら、心底そう思った。




