《1》
嫌なら嫌だと言ってもらって大丈夫、と言われて〝じゃあ嫌です〟と返せる性格だったらどれほど気楽だっただろう。
でも、どう足掻いても言えそうにない。それが私という人間だ。
ハードスケジュールが過ぎる。
結局、引越の翌日、お義母様が用意してくれたお食事会に出席することが決まってしまった。
八坂先生は学会後の懇親会にも出席する予定だったそうだけれど、急遽それを途中で抜け、お義母様との顔合わせに同席してくれることになった。
感謝しかない。初顔合わせのお義母様と、ふたりきりで乾杯する羽目にならなくて良かった。
『嫌なら嫌だと言ってもらって大丈夫なんですが』
少し申し訳なさそうだった昨日の先生の声が、ふと脳裏に蘇る。
昨日は、半端に開いていたドアを閉じようとしたタイミングで通話の声が聞こえてきて、良くないと分かっていながらも盗み聞きしてしまった。
電話中にも、先生はお義母様に直接『嫌だと言われたら連れていきません』と伝えてくれていた。
それでも、やはり私の我儘で断っていいことではないと考えた。
今、義両親は仙台にお住まいだという。お義母様の地元が仙台だそうだ。
ご両親が仙台に越したのは八坂先生が渡米した後で、先生自身は仙台には馴染みがないらしい。ちなみに、お父様は現在、医局長として市内の総合病院にお勤めだという。
なかなかお会いできない遠方の義両親を相手に、できるだけ角が立たないようにと考えた。
どう足掻いたところで私はこういう人間だ。
お義母様が特に私に会いたがっていると聞き、強烈な緊張が走った。
自分には初っ端から嫌われる要素がありすぎる、そんな気がしてならなかったからだ。
挨拶の前に婚姻届を提出し、同居まで始めている私たちの結婚は、明らかに順序がおかしい。〝息子に無茶を言って結婚を急がせた悪い嫁〟と思われていたらどうする、と不安がよぎったら最後、そうとしか思えなくなってしまった。
そんなこんなで、胃が軋むほどに緊張して迎えた食事会だった。
ところが、私の心配とは裏腹に、お義母様は終始にこにこと楽しそうだった。
優しく声をかけてくださったり、逆に私の話も興味津々で聞いてくださったりと、最初から最後まで拍子抜けするくらい穏やかなひとときだった。
失礼だと分かっていても、阿佐子お母さんと比べてしまって駄目だった。過去の境遇から、私は〝優しい母〟という存在にどうしても弱い。
ただ、お義母様は重要な点を曲解されていた。
我々夫妻を〝ラブラブ夫婦〟だと完全に誤解なさっている様子だったのだ。
『このホテル、わたしのお友達の旦那さんが経営してるの❤』
『今夜主人と泊まるんだけど、ふたりのお部屋も予約してあるから、ごゆっくり❤』
新婚さんへの気を利かせたプレゼントです、とばかりに告げられたときはさすがにぎょっとした。
提案された瞬間、八坂先生がお義母様を睨みつけたように見えた。けれど、もしお義母様が私たちの関係を偽装と勘づいた上でのカマかけだったら大変では、とつい便利屋の血が騒いだ。
『わぁ嬉しいです! ね、先生!』
角の立たない空気を無理やり組み立てて、『ありがとうございます』と笑ってお礼を告げ、食事会は無事に終わり――そして、今。
客室は、地上十四階から眼下の夜景を一望できる、大変ゴージャスな一室だった。
よりによってのラグジュアリー感である。ドアを開けて室内に足を踏み入れた途端、真正面のガラス張りの窓が目に飛び込んできて、膝から崩れ落ちそうになった。
「ふうん、いい部屋ですね」
後ろから声をかけられ、びく、と反射的に背が跳ねた。
気配を消したまま急にぬるっと話しかけてくるのはやめてほしい。不穏に高鳴る心臓を押さえ、「そうですね」と細い声で返事をした。
一方の八坂先生は、エントランスで固まる私を早々に追い抜き、さっさと室内へ足を進めていく。
はっと我に返って追いかけると、背を向けたままの先生が話しかけてきた。
「さっきはありがとうございました」
「な、なにがでしょう?」
「多分カマをかけてたので、母」
カマ、と鸚鵡返ししながら血の気が引いた。
やはり私たち夫妻は『本当にちゃんとした夫婦なの?』と疑われていたのか。それとも、私になにか不足があったのだろうか。不安しかない。
「そんな……私、なにか粗相でも」
「いや、疑われてるのは僕だけですよ。『生粋の医療オタクが急に結婚とはどういう了見だ、まさか相手のお嬢さんの弱みでも握ってるんじゃないのかお前?』みたいな意味だったんじゃないですかね」
「弱み……」
先生の言葉を繰り返しながら、不意に、いつかの父の声が蘇る。
『先方になにか弱みでも握られているのか?』
真剣に尋ねてきた父の記憶を、私は急いで掻き消した。
無駄に重なってしまった〝弱み〟という言葉を苦々しく反芻する私の傍で、八坂先生はさらに続ける。
「まぁ君のおかげで僕らがラブラブ夫婦だという偽装の信憑性がかなり高まったと思います、ありがとう」
「ラブ……はい……先生のお力になれたなら幸いです……」
お礼を告げられ、大いに調子が狂う。
どうして先生は、私がなにかを伝える前から、私が考えていることを悟れるのだろう。まさか知らないうちに声に出てしまっているのか。いやそんなわけは、と無理やり考えを掻き消し、私は慌てて口を開く。
「で、ですが本当にいいんでしょうか。偽装夫婦である我々がこんな高級なお部屋に、しゅっ、宿泊などと」
窓へ歩み寄っていく先生を追いかけながら問いかける途中、派手に噛んだ。
貞操には影響のない、割り切った契約結婚。私たちの結婚はそういう話でまとまっている。
同じ客室に泊まるだなんて困惑しかない。それでいて、私の口からは蚊の鳴くような弱々しい声しか出てくれない。
「やっぱり、今夜は先生だけお泊まりになっていただいて、私は帰ったほうが」
「駄目です」
懸命に絞り出した提案を遮られ、なんで、と心の中で叫ぶ。
声は留めたけれど、顔にはきっと思いきり出た。眉尻が大幅に下がった自覚はあった。そんな私を横目に、窓際に立った先生は諭すような声で続ける。
「両親もこのホテルに泊まるそうですし、万が一帰るところを見られでもしたら面倒です。母はここの支配人の夫人とも親しいようなので……というか」
そこで言葉を切った先生は、ふっと口元を緩ませた。
わりとよく見る、これから君をからかいますよ、と宣言しているみたいなあの笑い方だ。細められた双眸に急にまっすぐ見つめられ、ぐ、と堪らず喉が鳴る。
「別に我々、偽装夫婦ではなくないですか?」
「は?」
そんなわけないでしょう、と反論しかけたものの、言えないままぴしりと固まる。
確かに偽装ではない。婚姻届も出したし、夫婦として同居も開始した。
形式上、我々は完全に普通の夫婦だ。
「いや、まぁそう、ですね、はい」
「ですよね。ならせっかくの機会ですし、新婚の夫婦らしく親睦でも深めませんか」
今度こそ、言葉を失ってしまう。
「親……睦を?」
「はい。親睦を」
なにを言っているんだこの人は、という困惑がもろに顔に出た。
どうしよう。仕事中は全然そんなことはない気がするのに、先生といるとやたらと気持ちが顔に出る。
しかも、先生は私のそれを絶対に面白がっている。
現にさっきからずっと口に手を当てて半笑い気味だ。
「どうしましょうね、トランプでもします?」
「トランプ!? すみません、あいにく持ち合わせがなく……」
「フフッ」
真面目に返事をしたところで、とうとう声に出されて笑われた。
「冗談ですよ、いくら君が便利屋だからって日頃からトランプを持ち歩いてるとは思ってな……あぁ〝便利屋〟って良くないな、呼ばれて嬉しいあだ名なわけないですよね、すみません今後はやめます」
今日聞いた中で、一番軽やかな口ぶりに聞こえた。
なにより〝ちゃんと謝れるんだ〟という感動があった。先生が人に頭を下げているところを見たことがなかった分、なおさら新鮮な気分になる。
「構いませんよ、気にしないでください。単純に仕事が好きなだけですので」
つい笑って返すと、先生はわずかに表情を曇らせた。
少し複雑そうな顔に見えたから、もしやまた地雷を踏み抜いてしまったのでは、と密かに焦りが募る。けれどそれは本当に一瞬で、先生はすぐに唇を緩めてみせた。
「まぁ座って話しましょうか、立ち話もなんですし」
「は、はい」
窓際を離れ、備えつけのワインクーラーをふたりで物色する。
甘めのワインを選ばせてもらい、それから窓際のソファ席に戻って乾杯した。
ソファの沈み込み方がすごくて少し焦った。
改めてすごいお部屋だ。こんなに大きな窓から景色を望むなんて、なかなか機会がない。
ビルの明かり、車道を走る車のライト、遠くに見えるブリッジのライトアップ。夜の帳が降りた街にキラキラと光が瞬くさまを、グラスを片手にぼうっと見つめながら、あ、先生、夜景が綺麗に見えるほうの席に私を座らせてくれたのかも、とようやく思い至った。
特になにか言われるでもなく自然に誘導された。随分とスマートな対応をされてしまったな、と改めて気づかされる。
窓を見るふりをして、対面に座る先生をちらりと盗み見る。
今日、彼が眼鏡をかけているところは見ていない。もしかして外してもある程度見えるのかな、と思う。
顔を隠していなかったら確実にモテるだろうな、と改めてしみじみ感じる。もう何度も同じことを考えている。
けれど、それは先生には言うべきではない。
むしろ先生は外見を理由に女性にモテることに対し、心底うんざりしていらっしゃる。この綺麗な顔を、自身の弱点だとすら考えているのだ。褒め言葉のつもりで伝えたとして、絶対にそうは受け取ってもらえない。
口に含んだアルコールごと、ぐ、と言葉を呑み込む。
「君って飲めないわけじゃないんですか? 食事の席では飲んでませんでしたけど」
「ええと、はい。さっきは絶対に失敗できない場でしたので控えました」
「今は失敗できない場ではない?」
「……控えたほうがいいですか?」
「いいえ?」
おずおずと尋ねると、また笑われてしまった。
「気分がいいですね。僕にだけは気を許してもらえているようで」
微笑まれ、はは、と曖昧に笑い返しながらどくりと心臓が跳ねた。
ドキドキする。そんなふうに安易に笑いかけてこないでほしい。気を抜くと簡単に勘違いしてしまいそうで怖い。
上機嫌には見える。でも、どう答えるのが正解なのか分からない。
気を許す……〝そうなんです〟とも〝そんなことないです〟とも答えにくい。できれば話を逸らしたい。必死に頭を働かせ、会話の糸口を探す。
私は先生についてなにも知らなすぎる。
例えばどんな食べ物が好きかとか、休日にはなにをして過ごしているのかとか、眼鏡をかけていないときにどのくらい目が見えているのかとか、本当になにも知らない。
曲がりなりにもこの人の妻となった以上、そうも言っていられない。
せっかくの機会だ。先生について、先生が許してくれる限り、もっと知ろうとしよう。
この親睦会、必ずや有意義なものにしてみせる。
「そういえば先生、ご自分のことを〝僕〟ってお呼びになるんですね」
「え?」
「あの、前に研究室でお聞きしたとき、ちょっと新鮮で。お仕事中は〝私〟とおっしゃっていたと思うので」
グラスを傾けながら一生懸命喋る。
さっきの食事会ほど失敗できない場ではない、とは確かに思っている。けれど緊張がゼロになったわけでももちろんない。
お願いアルコール、私に力を貸して。
心の中で必死にそう祈る。
「ああ、仕事中以外はそうですね。日頃は友人の前でしか使わないんですが」
自分の言動を振り返るように、先生は首を傾げつつ返してくれる。
友人。ちゃんとお友達とかいるんだな先生、と絶対に口には出せない感想を抱く。ところが〝そうなんですね〟と相槌を挟もうとした矢先、先生がムッとした様子で眉を寄せた。
「いますよ、僕にだって友人くらい」
「んっふ」
危うくワインを噴き出すところだった。
どうしてだ。心の声が読まれている。いけない。今日の私は特別顔に出すぎなのかもしれない。気を引き締めなければ、と焦る。
「いえっ、別にその点を疑っているわけでは決して……」
「かなり顔に出ますよね、君。酔わせたらもっと分かりやすくなるのかな」
弁解はあっさり遮られてしまう。
あっ駄目だ、呑気にお酒なんか飲んでる場合じゃないかも、と固まる。
それなのに、先生は私のグラスに無言でとくとくとワインを注いでくる。
待って待って注ぎすぎですよ、という気持ちが多分また顔に出た。私が顔に出すさまを面白がっているだけなのかもしれないけれど、ここぞとばかりにさらに酔わせようとしないでほしい。
「まぁ君は奥さんだし、別にいいかなって。君の前では〝僕〟って言っても」
「は……」
「それに、顔に出してもらったほうが分かりやすくていい。これからもぜひ積極的に出し続けてください」
笑いかけられ、は、と零した口の形のまま動けなくなる。
さっきまでの意地悪な笑い方とは違う気がした。どこが違うかと訊かれても全然答えられないけれど、なにかが違う。
まじまじと相手の顔を見つめていたら、急に顔が熱くなった。
逆に眼鏡をかけてほしくなる。その綺麗な顔を、今こそ全力で隠してもらいたくて堪らなくなる。
「か、からかわないでください。トランプのこともそうですし、もう……」
「ふふ。すみません、つい」
先生の笑顔を、なんだかうまく直視できない。
お酒が回ったからだろうか。もう回った? こんなに早く? そんなわけがない気がして、ますます顔を上げられなくなる。
「良かったです。形だけの結婚とはいえ、君とは案外うまくやっていけそうで」
「は、はい。ありがとうございます?」
目を合わせられないまま、なんとか絞り出した返事は図らずも疑問形になる。
案外うまくやっていけそう――認められたみたいで嬉しいかもしれない。
グラスに唇をつける。中身を飲むためにそうしたのに、気恥ずかしさが過ぎてうまく口の中に流し込めなくなる。
「ところで、君のご両親はどうですか?」
浮ついた気分を持て余していると、今度は先生が質問を投げかけてきた。
「……え?」
「縁談、お父さんのために引き受けたんでしょう? 喜んでおいででしたか?」
浮かれかけていた頭が、ふ、と冷える感覚があった。
「ええと、どう、でしょう」
曖昧な返事を口に乗せてから、私は、唇に触れさせるしかできずにいたグラスをぐっと傾けた。
甘口のワインが、途端に口の中いっぱいに広がったにもかかわらず、どうしてか思ったよりも甘く感じられなくてぎくりとする。
「……君って」
いけない。またなにか顔に出ただろうか。
せっかく先生が笑いかけてくれているのに、余計な気を遣わせたくない。
「親元、離れて長いんですか?」
「ええ、まぁ……そうですね。岩永製薬には妹が勤めてますし、私は自由にやらせてもらってまして」
はは、と無理に声に出して笑う。
我ながら嘘っぽい、乾いた笑いだった。
どうしよう。これは親睦会だ。
確かに、私が一方的に先生のことを知るだけで済むはずがない。私だって、先生から質問されたらきちんと答えなければならない。でも。
「ひとりでしっかり生きてきたんだね。偉いね」
意外な言葉が続いたせいで、え、と咄嗟に顔を上げてしまった。
聞き間違いかもしれない、と困惑しつつ視線を向けた先で、からかうときの笑い方ではない笑みを浮かべた先生と目が合った。
「あ……」
直前まで感じていた鬱屈とした気分が、一気に晴れていく。
実家でも職場でも、誰かに面と向かって『偉いね』と褒められることなんて今までなかったからかもしれない。
いつだって迷いながらひとりで選んできた自分のやり方が、初めて報われた気がして、胸の奥がふわふわと温かなもので満たされていく。
先生、だいぶ優しくないか。
それも別に今日だけじゃなくないか。
先日の『こんなセキュリティの緩そうなアパートに』のくだりも、もしかしたらオブラートに包まないデリカシー欠如の発言などではなく、彼なりの心配だったのでは――そんなふうに思ってしまいたくなる。
「ありがとうございます。褒められたこと、あまりなくて……嬉しいです」
へへ、と声に出して笑う。
今日初めて、素の顔で笑えている気がした。
それからいろいろと、お互いの経歴からなにから、平たく言えば契約夫婦関係を維持していく上で共有しておいたほうがいい情報を伝え合った。
阿佐子お母さんと世梨奈とは血の繋がりがない、という話は伏せた。
別に今、この段階でそこまで知らせなくてもいい気がしたからだ。急いで挨拶を、などとせっつかれているわけでもないし追々でいいかな、と。
ひとたびその話題になれば、母の死にも触れざるを得なくなる。そのせいで、せっかくの今の空気が重くなるのも嫌だった。
終盤、家事についても触れた。
掃除は主に外注、食事はそれぞれ自分の分を自分で、と話がまとまった。同居とはいうものの、寮生活、あるいはルームシェアに近い形態なのかなと思う。
「それでは、末永くよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ何卒」
最後に握手をして、トーク中心の親睦会はお開きとなった。
大きなベッドがふたつ並ぶさまを眺める。
レストランを出てお義母様と別れてから、先生がフロントでやり取りしていたことを思い返す。あのとき、ベッドがふたつあるお部屋に変更してくれたのかもしれない。
それぞれ順にシャワーを浴び、歯を磨き、私はその後にスキンケアも済ませ、別々のベッドに寝転がった。
「次はトランプ、用意しておきますね。神経衰弱なら負けませんので」
お酒のパワーで無駄にテンションが上がったまま、心地好く睡魔に誘われながら告げる。
余計なことをわざわざ口走った自覚はあったけれど、先生はまた軽やかに笑う。
「ふふ、『次』ですか。それは楽しみですね」
じゃあおやすみ、と囁かれ、ライトを絞られてから、ふと違和感を抱いた。
先生、確か前に『人の気配があると寝つけません』と言っていなかっただろうか。眠りに落ちる寸前でそう気づき、でも朝からずっと緊張に凝り固まっていた私の心身はあっさりと睡魔に襲われてしまう。
それ以上なにも考えられないまま、私は、眠気に身を委ねて瞼を閉じた。




