《2》
父も、父方の祖父も医師。
母は違うが、母方の祖父も母の兄弟も全員医師。
そうした家に生まれ育った以上、自分も物心がついたときには医学の道へ進むつもりだった。
そのためのレールが、周囲の大人たちから丁寧に周到に用意されていて、自分もそれを承知でその上を進もうと決めた。
自分にとって、医療とは自分の中心を通る柱であり、すべてでもある。
なにかを新しく知ることが好きだ。知識や技術の探求がそのまま活きる今の仕事は、敷かれたレールを歩いた結果とはいえ天職だとも感じている。だが。
勉学にしろ仕事にしろ、のめり込みやすい上に、ひとたびのめり込むと途端に時間という概念を忘れてしまう。そうなると他のすべてが疎かになる。食事も睡眠も人間関係も、全部。
中でも対人関係は厳しい。一度こじらせたら最後、自分の気持ちのみではまず元に戻せない。
特に女性だ。『大丈夫だよ』と朗らかに笑っていた人が、急に怒り出したり別れを切り出してきたりする。
溜め込む前に教えてくれないか、大丈夫だと言うから信じていたのに、と自分の行いを棚に上げて恨めしさを抱えたことも一度や二度ではない。
気持ちは、声に出してくれないと分からない。
だから僕は出している。できる限り言葉で伝えるようにしている。
なのに大丈夫大丈夫大丈夫、誰も彼も限界までそう言い続けてひとりで結論を出してしまうのはどうしてなのか。そこに到達する前にどうか溜め込まずに教えてくれないか、と心底思う。
――その点、由良心春はかなりいい。
口にはなかなか出さないが、代わりに顔に全部出る。
『結婚おめでとう崇大!!』
「あっ、はい」
出たくないな、と思いながら応じた通話の第一声が大声量のそれだった。
耳からスマホを離し、テーブルの上にそっと置いた。スピーカー対応にしたら音が割れた。すぐ音量を最小に引き下げた。
『んも~ねっ、この子はもう生涯独身だろうなってかれこれ二十年以上ずーっと諦めてたのにこんなにめでたいことはないわ~~~!』
「良かったですね」
『本っ当に青柳病院長には頭が上がらない~! 今度ご夫人にもご挨拶に伺わないとォ~~~ッ!』
「はぁ、はい」
随時適当な相槌を挟む。
どういう声量なのか、音量が最小にもかかわらずしっかり聞き取れる。
『会いたい~会いたいわ~、可愛いお嫁ちゃんにお会いしたい! 仲良くしたい、仲良くなりたいっ!』
まぁそうなるよな、とげんなりした。
分かっていたことだ。電話に応じる前から……いや、結婚の報告をしたときから。
『お母さん、ずーっと娘が欲しかったんだから! 性格がアレなあんたにお嫁さんなんて奇跡でしょもう!』
「はぁ、そうですね」
『ってことで!』
スゥッ、と電話越しに深々と息を吸い込む音が聞こえる。
『明日、わたしも一緒に東京行くから! お父さんの学会出席にかこつけて!』
両親は現在仙台市在住だ。
父は学会終了後の懇親会にも出席予定でそれが譲れず、母に託したらしい。『あの息子がベタ惚れしてやまないという嫁の顔を見ておいてほしい、あわよくば仲良くなっておいてほしい』と。
ベタ惚れ、とはもちろんそういう体にしておいたほうが面倒を避けやすいだろうと考えた僕の方便なのだが、それを逆手に取られるとは……舌打ちしそうになる。
『顔合わせがてらお食事会しましょ! 心春さんとあんたとわたし、三人でもう予約済みだから!』
学会の会場に近いホテルのレストランだそうだ。
溜息が零れた。
「予約の前にこちらの予定を確認する、とか考えないんですか」
『だぁって! なかなか行けないんだもん、東京!』
話の論点をずらされて癇に障る。
強引な結婚に引越、さらにその翌日にはいきなり遠方住まいの義両親と初顔合わせ。さすがに気の毒だ。由良心春が。
「それって彼女も連れてかないと駄目ですか」
『当たり前でしょうが! こっちはもはやあんたより心春さんに会いたいの!』
目を血走らせている母の顔が、電話越しなのにはっきりと浮かぶようだ。
自分は由良心春にベタ惚れなのでとにかく口を挟むな、と親に告げたのは僕だ。彼女に不要なプレッシャーを与えるなどしたら今後の付き合いの一切を考える、と。
それが一番綺麗に面倒ごとを回避できる方法だと思ったのだ。
とはいえ、この親相手にひと筋縄ではいかない。
いくわけがない。仕方がない。あらかじめ予想できていた。
「これから本人に訊いて、嫌だと言われたら連れていきません」
淡々と返すと、それまで声高らかに叫んでいた母はしんと黙った。
ここで折れれば勢いに押し負かされる。だが、こちらもおとなしく押し負けている場合ではない。
「彼女には今日引越を済ませてもらったばかりです。明日こそはゆっくり過ごしてもらおうと考えてましたので」
当たり前だ。
由良心春は、僕の理想の条件を兼ね備えた貴重な優良物件。簡単には逃していられない。
たとえ身内であったとしても、余計な口は挟ませない。
『まぁそりゃそうね! 駄目だったらまた次の機会にって話ね、了解!』
剣呑な沈黙をあっさり撤回され、わずかに緊張がほぐれる。相変わらず母は空気を読むのがうまい。
僕に会うかどうかは二の次、というかその点は終始どうでも良さそうで笑いそうになる。帰国して以降、顔を合わせたのはたった一度きりで、明日が久々の再会になるのだが。
返事を聞いたらまた連絡します、と通話を終えた。
ふ、とひと息ついた途端に視線を感じ、はっと背後を振り返る。
「……あの」
案の定、割り振った私室から、ちょうど由良心春が出てきたところだった。
顔が露骨に怯えている気がした直後、原因に思い当たってぎくりとする。
スピーカー最小とはいえ、母の声はスマホを置いたテーブルが小刻みに揺れるほどの大声量だった。聞こえていた可能性は十分ある。
まずい。どこから聞いていたんだろう。
家の中に他人がいる状況に慣れなすぎて、初っ端から失敗してしまった。
「すみません、お電話の内容なんですが……少し……いや結構聞こえてしまい……お義母様ですよね……?」
おずおずと尋ねられ、思わず額を押さえた。
やはり聞かれていたらしい。『少し』を『結構』にわざわざ言い直された以上、相当聞かれてしまったのかもしれない。
心労ばかりかけている気がする。申し訳ない。
いくら性格の難を自覚しているとはいっても、僕だってそういう感情は持っている。
彼女はきっと、多少無理を押してでも母の提案を優先する。
断れないのか断りたくないのか、難儀な性格だ。契約結婚という、おそらく人生最大の心労をかけている僕に言えたことではないが、これまでの人生でだいぶ損をしてきたものと思われる。
今さら後悔がよぎった。
引越が終わった直後のタイミングで、聞こえるかもしれない場所で母からの通話に応じるべきではなかった。研究室への呼び出しから――いや、一年前に顔を見られたときから、この人には気を遣わせっぱなしだ。
「今の話ですが」
「は、はい」
「どこから聞いてましたか?」
尋ねながら、きゅ、と唇を噛み締める様子をじっと見つめる。
この子は本当に、驚くほどよく顔に出る。
「え、ええと、『青柳病院長には頭が上がらない~!』辺りから」
「最序盤じゃないですか」
真面目で実直、そして口が堅い。
なにより、なんとか言葉を呑み込んだとしても顔に出る。ここまで顔に出るなら嘘もまともにつけないだろう。自覚があるのかないのかは分からないが、それが本当に良い。
あの媚びまくりの妹とは大違いだ。
上目遣いの茶髪の女の、ほとんどうろ覚えの顔が、脳裏を胡乱によぎった。
由良心春と彼女の妹はまるで似ていない。顔もそうだが中身がまるで違う。本当に血が繋がっているのか、疑わしくなってくるほど。
「急ですみません。嫌なら嫌だと言ってもらって大丈夫なんですが、明日……」
嫌だなんて言わないだろうな、と予想しながら訊いている自分は狡い。
繰り返し無理を押しつけてばかりで、後ろめたい気分になった。




